魂を貪るもの
其のニ 禍々しき雷光
4.交戦
神社の歴史を感じさせる巨大な朱色の神明鳥居を、ちとせが弾丸の速さで駆け抜ける。
実力のわからない相手へ直情的に真正面から当たる愚は承知している。
しかし、姉を痛めつけられているのを目の当たりにして沸き上がってきた抑えがたい激情が、理性を突き破って身体を突き動かしてしまった。
怒りに任せて、弾丸のように突っ込むことしかできない。
身の危険を顧みず、姉を救うために駆ける。
その行為が愚であろうとなかろうと、ちとせにとっては取ることのできる唯一つの選択肢だった。
シルビア・スカジィルが、駆けてくる少女の真っ直ぐな怒りに燃える猫のように大きな瞳を見ながら、嘲笑う。
真正面から突っ込んでくるとは、バカな獲物がいたものだ、と。
そして、この少女こそが、神代ちとせだと直感した。
痛めつけられている姉を取り戻すために駆けているのだろう。
――ならば。
シルビアは、唇の端を邪悪な形に吊り上げ、倒れている葵の黒髪を掴んで持ち上げるようにして無理矢理に膝立ちにさせた。
「返して上げなきゃね」
すでに抵抗する力も残っていない葵の腹へと突き刺すような蹴りを思い切り叩き込んだ。
ブーツの固い靴底が深々と葵の腹を穿ち、内臓まで響く強烈な衝撃に身体がくの字に折れ曲げられる。
「かはっ!」
葵は何度目かの吐血の糸を引きながら、ちとせへ向かって吹き飛ばされた。
「姉さん!?」
ちとせは動転しながらも、蹴り飛ばされた姉の肢体を受け止める。
鳩尾を強く蹴り上げられたためか、葵は気を失っていた。
美しい唇から赤い血が流れ落ちているのは内臓を損傷しているためだろうが、今すぐに命にかかわるような状態ではないように思えた。
ちとせが、ほっと息を吐く。
しかし、一瞬ではあったものの、葵を救うために動きを封じられてしまった。
再び怒りを燃やして前方に視線を戻した時には、シルビアの姿は消えていた。
「アハハハハハハッ、バカだねッ!」
シルビアの耳障りな甲高い笑い声は、ちとせの頭上から聞こえた。
慌てて上を向くが、そこにシルビアの姿を捉えることはできなかった。
銀色の月だけが、夜空に浮かんでいる。
――見失った!
焦燥が、ちとせの心に押し寄せる。
葵を抱き抱えているため、敏捷な動きはできない。
慌てて周りを見渡そうとした時、視界の端で銀色の光が閃いた。
「ドコを見てンのさァ!」
甲高い声と痺れるような殺気が、ちとせの背筋を突き抜ける。
ちとせは、咄嗟に葵を庇うように抱きしめた。
同時に、背中に熱く鋭い痛みが走った。
そして、ブレザーとブラウスの切れ端が夜空に舞い、両肩から血飛沫が上がる。
「きゃあああっ!」
両肩から背中にかけて斜め十字に斬り下げられたとわかった。
ほんの一瞬で、二回も斬られたことになる。
だが、傷自体は浅いようだ。
背中に焼けるような激痛は走っているが、我慢できないほどではないし、動けないほどでもない。
そう思った瞬間。
「ッ!」
ちとせの目が大きく見開かれる。
身体が大きく反れていた。
生々しく斜め十字に裂傷を刻まれたばかりの背中へと、シルビアの廻し蹴りが炸裂していた。
「がはっ!」
蹴り飛ばされながらも、ちとせは葵を守るように強く抱き締める。
身を呈してでも、これ以上姉を傷つけさせはしない。
「ちとせ!」
悠樹が放った風でちとせを包み込み、地面に叩きつけられる衝撃から守った。
そして、シルビアへ向かって烈風を放つ。
シルビアは追撃をあきらめ、血を吸ったばかりの愛剣フランベルジュから霊気の混じった電撃を放って悠樹の激しい風を散らせた。
燃えるような紅蓮のツインテールと毒々しい黒基調のゴシックロリータのドレスの裾が強制的に後ろへと流れるが、シルビア自身にまったくひるんだ様子はない。
新手の少年を見下すようにねめつける。
風使いの少年の美しい顔立ちからは少女と見間違えてしまいそうな儚さを感じるが、見返してくる両目の透明な瞳にはそよ風のような静けさがある。
そして、その静けさと裏腹に、先程、散らせた霊気の風には、暴風のような荒々しさも潜んでいた。
シルビアは舌打ちした。
ちとせと違って逆上して手を出してこない分、この風使いの厄介な相手だ。
一筋縄ではいかなそうな少年から目を離さないようにしながら、蹴り飛ばした獲物の様子を伺った。
「げほっ、げほっ……」
ちとせは姉を地面に寝かせ、咳き込みながらも立ち上がろうとしていた。
だが、身体に十分な力が入らず、すぐに崩れるように片膝をついてしまった。
「くぅっ、し、失敗した……」
姉を取り返すことはできたが、逆上した行動の代償は大きかった。
ちとせの肉体は明らかな大ダメージを受けていた。
斬られた上に蹴り潰された背中の傷が激しく痛み、額から流れる汗が頬を伝って滴り落ちる。
鮮やかな赤い色の髪をした少女の恐るべき動きの冴えであった。
毒々しい黒基調のゴシックロリータのドレスの裾は長く、靴はブーツという、まるで戦いに向いているとは思えない服装であるのに、その動きは雷光の如き速さだった。
彼女が敵でなければ、ちとせも悠樹もその華麗な動きに感嘆し、見惚れていたかもしれない。
だが、この赤毛をツインテールにした少女は自分たちを死へ導く敵なのだ。
シルビアが煽るような視線でちとせを見下しながら、愛剣フランベルジュの凶悪な刃に付着した血を振り払った。
「アンタ、『神代ちとせ』ね?」
「はぁ……、はぁ……、はぁ……」
自分の名を呼ばれ、ちとせが荒い息を吐きながら、毒々しい黒のゴシックロリータのドレスに身を包んだ赤い髪をした少女を睨み上げる。
シルビアの顔には悪意に歪んだ笑みが張り付いていた。
「ハンッ、たいしたことないじゃない。"氷の魔狼"の腕も錆付いたモンね」
「……そういうあなたは、……『シルビア』でしょ」
「!」
自分の名前を呼び返されて、シルビアの目が驚いたように大きく見開かれる。
ちとせは、よろめきながらも立ち上がった。
そして、姉を庇うように一歩前に出ると、『いむかふ神と面勝つ神なり』と謳われる神代神社の祭神である
「はぁ……、はぁ……、"氷の魔狼"シギュン・グラムを知っているなら、『ヴィーグリーズ』の関係者である可能性が高い。それに、センセから聞いた特徴と似てたから、カマをかけてみたんだけど……」
「……ふんっ、シンマラに聞いたのか」
シルビアが不快そうに眉を吊り上げた。
そして、思い直したように再び邪悪な笑みを浮かべる。
「ちょォ〜ど良かったわ」
シルビアの声に耳障りな甲高さが一際跳ね上がった。
「このまま親愛なるシンマラ先生のもとへ案内してもらいたいモンね」
皮肉を込めて言う。
ちとせはシルビアの捻れた視線を真正面から受け止めた。
「……今のあなたをセンセに逢わせるわけにはいかないわ」
シルビアの魂は歪んでいる。
真冬に裏切られたショックのせいなのか、それとも元々こういう性格なのかは、ちとせにはわからない。
だが、精神的にまいっている真冬に今、この悪意を放ち続ける赤い髪の少女を逢わせるわけにはいかなかった。
シルビアの表情が再び、不快感に染まる。
彼女の精神もまた安定していないようだ。
「そのザマでアタシを止められる気ィ?」
シルビアは肩をすくめた。
瞬間、鮮やかな赤毛をツインテールにした少女の身体は左へと吹き飛んだ。
「ッ!?」
地面を転がり、すぐに体勢を立て直したが、シルビアは何が起きたのかはわからなかった。
右頬が酷く痛む。
手で触ると、腫れているのがわかった。
口の中に鉄の味が広がっている。
ぺっと唾を地面に吐き出すと、血の色をしていた。
その地面を濡らした唾の先で、紙でできた
右腕らしきものを、天に向かって突き上げる。
その拳から霊気の波動が伸び、人形は、ぱたりと倒れた。
「アレに殴られた……?」
シルビアは痛む頬を擦りながら、信じがたいと言うように呟いた。
「ボクを侮るからだよ」
ちとせの言葉は人形が彼女の仕業だということを肯定していた。
シルビアが憎悪の滾った表情で振り返る。
防戦一方だったはずのちとせが、いつの間にか打ち込んできたというのか。
しかも、葵を庇いながら、だ。
強力な攻撃ではなかったが、シルビアが気づかぬうちに反撃を放ったこと自体が驚くべきことであった。
「……ヤってくれるじゃないさ」
唇の端から滴る血を手の甲で拭い、シルビアはちとせを睨みつけた。
ちとせは、シギュン・グラムと同じ、降魔の力を持っているはずだ。
先程までは、その降魔の力まで含めて考えても、自分の実力が数段上回っていると、シルビアも判断していた。
だが、どうやら思ったよりも容易な相手ではないようだ。
加えて、相手はちとせ一人だけではない。
いまだに動かない風使いの少年もいる。
彼もちとせと同等か、それ以上の力を持っているはずだ。
「ラーンの言っていたことも、
シンマラは憎い。
目の前の少女もムカつく。
見せしめに、身体の隅々まで痛めつけてやりたい。
だが、状況は悪い。
ちとせに傷を刻みはしたが、彼女にはまだ余力があり、目の前の少年も実力を見せていない。
それに、時間が立てば、気を失っているちとせの姉も目を覚ますだろう。
彼女には深手を負わせているが、意識を取り戻せば結界術による支援程度ならしてくるかもしれない。
三人に連携を組まれると厄介なことになる。
普段は猪突ともいえる性格でありながら、シルビアには戦場で身につけた戦機を見る勘というべきものがあった。
今は退くべきだと、その勘が告げている。
一番の目的であるシンマラがこの場にいないのならば、尚更だった。
シルビアは後ろへと跳んだ。
桁外れの跳躍力で、ちとせたちと大きく間合いを離す。
「今日は挨拶だけにしておいてやるよ」
ちとせも退こうとしているシルビアを追おうとはしない。
シルビアを真冬に逢わせる訳にはいかないし、気を失ったままの葵の容体も気になる。
何より、ちとせ自身のダメージも大きかった。
動けないほどではないが、血が脈打つ度に背中の傷に激痛が走る。
この状態で、退こうとする相手に、あえて戦いを続ける理由はない。
悠樹も手を出す気配はなかった。
「シンマラに伝えときな。教え子の命が惜しかったら、さっさとアタシに殺されなってね」
言いながらも、シルビアにはわかっている。
神代ちとせも、風使いの少年も、シンマラを見捨てるわけがない。
――つまり。
いつでも好きなだけ弄って殺せる。
だから、安心して退ける。
残酷な笑みに唇を歪ませたシルビアの周りを囲むように、電撃が雨のように降り注ぐ。
無数の赤い稲妻の残像を残して、憎悪に身を焦がす赤毛の少女の姿は掻き消えた。