Menu文 芸短 歌万葉集巻2-相聞歌・挽歌

  〔原・万葉集/巻2-1〕  <巻1/雑歌> と <巻2/相聞・挽歌> で1対を形成

   相 聞 歌 ・ 挽 歌      

 
 
 
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プロローグ        【原・万葉集】は・・・【巻1/雑歌】【巻2/相聞歌・挽歌】で1対

      
<万葉集の概略・・・>
2012. 6.22 
No.1 〔1〕 相聞歌・・・  <磐姫皇后> 第16代/仁徳天皇の皇后   2012. 6.22
No.2       <第16代/仁徳天皇>     2012. 6.22
No.3 【巻2-(85)】  磐姫皇后-相聞歌  2012. 6.30
No.4 【巻2-(86)】  磐姫皇后-相聞歌  2012. 6.30
No.5 【巻2-(87)】  磐姫皇后-相聞歌  2012. 6.30
No.6 【巻2-(88)】  磐姫皇后-相聞歌  2012. 6.30
No.7 〔2〕 大来皇女と大津皇子 2012. 9.24
No.8 【巻2-(105、106)】  大伯皇女-相聞歌    2012. 9.24
No.9 【巻3-(416)  さ E 大津皇子-辞世の句 2012. 9.24
No.10 〔3〕 大津皇子と石川郎女、そして草壁皇子との、三角関係? 2012.10. 7
No.11 【巻2-(107)  さE  〔大津皇子-相聞歌〕 2012.10. 7
No.12 【巻2-(108)  さE  石川郎女-相聞歌   2012.10. 7
No.13 【巻2-(109)E     大津皇子-・・・ 〕 2012.10. 7
No.14 【巻2-(110)E     草壁皇子-相聞歌  2012.10. 7

        

プロローグ・・・                                            

         【原・万葉集】・・・ 【巻1/雑歌】【巻2/相聞歌・挽歌】 で1対

                                 

「ええ...」響子が、両手を握り、頭を下げた。「万葉集の、「【巻2】に入ります...

  万葉集/全20巻のうち...【巻1】・【巻2】は、“原・万葉集”と呼ばれているものです。

“原・万葉集”については...《巻1/原・万葉集》...のページで、すでに説明しております。

詳しくは、そちらの方でお願いします。

  それから、ひとこと言い添えると...“原・万葉集”は、【巻1/雑歌】【巻2/相聞歌・挽

歌】分割されていて、これは一対となっているようです。

  また、すでにお気づきと思いますが...“原・万葉集”というのは、〔天皇家の歌集〕となって

いるわけですね。とりわけ...“天武・持統朝の・・・皇統を・・・祝福・礼賛”...しているとも言わ

れ、万葉集“原型”とも言うべき区分のようですね、」

「はい...」支折が、うなづいた。「私たちとしても、浅学なため、確定的なことを言える立場では

ありません」

「そうですね...

  ともかく、“原・万葉集”は...“第41代/持統天皇”(じとうてんのう)や、柿本人麻呂(かきもと

ひとまろ)関与したものと思われ...そうした意図編纂が始まったのであれば、当然のことか

も知れません」

「ええと...」支折が、胸元に指を添えた。「いいかしら...

   巻1は、持統朝まで...巻2は、“藤原京/藤原宮・・・持統天皇・文武天皇・元明天

皇の3代”まで...というような分類もあります。それと...“原・万葉集”でも“原撰”“後補

/増補”という...分類もあるのでしょうか?」

「はい...」響子が、ゆっくりとうなづいた。「そうですね...

  様々な考察や、学説があるわけですが...ここは万葉集接し慣れ親しんでみるという

コンセプト(concept/観念、観点)で...まず、万葉集全体風景を眺めて行きたいと思っていま

す...」

「はい...」支折が、コクリとうなづき、マチコを見た。

  マチコも唇を結び、大きくうなづいた。

<万葉集の概略・・・>                      

           


「くり返しますが...」響子が、体を前に乗り出した。「万葉集というのは...

   “7世紀後半(飛鳥時代)~8世紀後半(奈良時代)...にかけて編纂(へんさん: 色々の材料を集め、整理

や加筆などをして、書物にまとめること)された、日本に現存する・・・最古の和歌集です。

   “天皇貴族下級役人・防人など・・・様々な身分人々が詠んだ歌を・・・4500首以上

も集めた・・・壮大な和歌集”です。

  ええ...分類・構成について...以下に、再度、概略を掲載しておきます...」

 

      ≪内容から、大きく・・・3つに分類≫    

 

     【雑歌】 (ぞうか) ・・・  

             くさぐさのうたの意味で...相聞歌挽歌以外の歌です。具体的に公的

            宮廷関係の歌旅で詠んだ歌自然や四季をめでた歌...などが、この範疇

               (はんちゅう)に収められています。                    

     【相聞歌】 (そうもんか)・・・

             相聞は、消息を通じて問い交わすことで...主として男女の恋を詠みあう歌

            ...となっています。

     【挽歌】 (ばんか) ・・・  

             (ひつぎ)を曳(ひ)く時の歌...で死者を悼(いた)哀傷を詠んでいます。



  
≪表現様式から、大きく・・・4つに分類≫   


     【寄物陳思】 (きぶつちんし)    ・・・  恋の感情を...自然物に例えて表現

     【正述心緒】 (せいじゅつしんしょ) ・・・  感情を...直接的に表現

     【詠物歌】 (えいぶつか)      ・・・ 季節の風物を...詠(うた)う。

     【比喩歌】 (ひゆか)           ・・・  想いを...類似する事物に託して表現

 


  
≪全20巻のうち、巻14だけが・・・東歌   


     東歌】(あずまうた)

              古代おいて...東国地方で作られた民謡風の短歌

                        万葉集/巻14と、古今集/巻20の1部に収録されている。  

 

「さあ...」響子が言った。「分類・構成を再確認した上で...

  “原・万葉集”は...【巻1/雑歌】【巻2/相聞歌・挽歌】分割されていて...一対

なっているということですね。ここからは、【巻2/相聞歌・挽歌】の方を、見て行くことになりま

す」

「はい...」支折が、微笑を溜め、満面でうなづいた。 

 

 

〔1〕 相聞歌                                  


 <磐姫皇后> 第16代/仁徳天皇の皇后




ええ...」支折が、インターネット・正面カメラの方に、軽く頭を下げた。「
“第16代/仁徳天皇”(にん

とく・てんのう/313年 ~ 399年)皇后/磐姫皇(いわのひめ・こうごう)については...この支折メが、担

当させていただきます」

「お願いします、」響子が、目を閉じた。

「はい...コホン...

  ええ...大阪府堺市に、表面積ではエジプト/クフ王/ピラミッドや、中国/秦/始皇帝陵をし

のぐ...“世界最大の墳墓・・・仁徳天皇・御陵/前方後円墳”...があるのは、ご存じだと思い

ます。

  この...“第16代/仁徳天皇”奥方/皇后が...磐姫皇后です。彼女は、当時の大和朝廷

支えた大豪族/葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)です。慣例を破り、皇族以外から皇后になった最初

の女性のようです。

  磐姫皇后は...“仁徳天皇”他の女性執心するのに悩まされ...嫉妬(しっと)したと言われま

。その若い恋人というのが、八田若郎女(やたわかいらつめ)ですが...当時の一夫多妻制の社会で

は、ごく一般的なことだったのでしょう。

  でも...磐姫皇后人間として...一夫一婦制愛情自信・確信を持ち...そのことを疑わな

い、一途で無垢な女性、だったようですね...」

「ええと...」響子が、手を立てた。「“仁徳天皇”についても...少しふれておきましょうか?」

「あ、そうですね...」支折が、前髪をすき上げ、うなづいた。「はい...」


<第16代/仁徳天皇>                    

                         

<仁徳天皇陵古墳/全長486メートル・・・堺市ホ                                         <仁徳天皇・・・画像は著作権の保護期間が満了している

                    ームページより>                    パブリックドメインの状態・・・仁徳天皇 - Wikipedia より>

                   

“仁徳天皇”は...」支折が、スクリーン・ボードを眺めた。「“第16代/天皇”です...

   万葉集/巻頭の...【巻1-(1)/長歌】“第21代/雄略天皇”よりは...5代前の天皇

いうことになるでしょうか。より、“初代/神武天皇”に遡ることになります。“初代/神武天皇”は、

孫降臨...<初代/神武天皇の・・・来歴は・・・>...で考察していますよね。

  さあ...この“第16代/仁徳天皇”ですが...“第15代/応神天皇”(おうじんてんのう/・・・実在性が濃厚

な、最古の大王)崩御の後...最有力と目されていた皇位・継承者/菟道稚郎子(うじわきいらつこ)・皇子

と...皇位譲り合ったようです。

   ええと...『日本書紀』によれば...菟道稚郎子・皇子は、父/“応神天皇”寵愛(ちょうあい)され、

皇太子に立てられていました。でも、そのために、皇位継承混乱が生じたようで、皇子異母兄/

“仁徳天皇”皇位を譲るために、自殺したようです。

  また、そうした関係でしょうか。3年間は、天皇の座空位になっているようです。でも、これは混乱

ではなく、美談として評価されているようです」

「うーん...」マチコが、両腕を組んだ。「“応神天皇”寵愛が、裏目に出たわけかあ...

  それでさあ、実在性明確になっている、“第16代/仁徳天皇”というのは、どういう人だったのか

しら?」

「そうですね...」支折が、天を見た。「立派な、天皇だったようですわ...

   『記紀』によれば、“仁徳天皇”は...

 

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“人家の竈(かまど)から・・・

   炊煙(すいえん)が立ち上っていないことに気づいて、租税を免除し・・・

  その間は、倹約のために、宮殿の屋根の茅(かや)さえ葺(ふ)き替えなかった”  

                                             ....『記紀の逸話/民のかまど』

*************************************************************

 

  ...と記されているように、“仁徳天皇”治世は、仁政(じんせい/恵み深い、思いやりのある政治)として知

られています。

   “仁徳”漢風・諡号(しごう/贈り名)も、この事績由来していると言われます。あ...記紀という

のは、『古事記』『日本書紀』との総称です。『古事記』“記”『日本書紀』“紀”を併せて、『記

紀』と言います。字が異なっているので、2つ並べて簡略化しているわけですね。

  ただ...同じ『記紀』の中で...“仁徳天皇”は、皇后嫉妬手を焼き女性に苛(さいな)まされる

別の一面...も描かれています。それが、つまり...万葉集【巻2-(85)(86)(87)(88)】

に採(と)られている、一連の【相聞歌】です。同じ頃編纂されたわけですが、それが裏づけられてい

ますよね、」

「うーん...」マチコが、うなづいた。「も残っていたわけだし、間違いないわよね...」

「そうですね...」響子が頭を傾げ、バレッタ(髪留め)に手を当てた。

「それから...」支折が、モニターに目を投げた。「“仁徳天皇”事績の一部が...

   “第15代/応神天皇”重複・類似することから...“1人の天皇の事績を・・・2人に分けたという

説”...があるようですわ。

  さらに...『播磨国・風土記』においては...“大雀天皇”と、“難波高津宮天皇”として...“書き

分けられてある”...ようですね。これによれば...“2人の天皇の事跡を・・・1人に合成した”...

とも考えられるわけです」

「うーん...」マチコが、うなった。

「いずれにしても...」支折が、続けた。「“第15代/応神天皇”は...

  “実在性が濃厚な・・・最古の大王/天皇”です。そして、“第16代/仁徳天皇”はそこに絡むわ

けです。“遠い・・・歴史の彼方の・・・人物”です。でも現在も、堂々と...“最大級の・・・前方後円

墳の陵墓”...が、大阪府/堺市版図に、威容を誇っているわけですね...」

「うん!」マチコが、うなづいた。

「ええと...」支折が、ゆっくりとモニターに目を戻した。「さらに...

   “仁徳天皇”は...『宋書(そうじょ/中国・南朝の宋について書かれた歴史書)/・・・倭国伝』に記される、“倭の

五王”の中の、(さん)または(ちん)に、比定するがあるということです。でも、確定はしていないよ

うですね、」

「そうですね...」響子が、大きくうなづいた。「その古(いにしえ)の...

  第16代/仁徳天皇”磐姫皇(いわのひめ・こうごう)が...時を越えて...今も聞こえてくるわ

けですわ、」

不思議よねえ...」マチコが言って、宙を見た。

「そうですね...」響子が...その古のさざめきを聞くように...梅雨空の草原の方を眺めた。

「では...」支折が言った。「の方を、見ていきましょうか...」

 

 

 

    【巻2-85)】  さB  【相聞歌】/・・・磐姫皇后

                           磐姫(いわのひめ)皇后は・・・この歌を詠んで、愛しい“仁徳天皇”への、思いを託しています。

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       君が行き 日(け)長くなりぬ  

               山たづね 迎へか行かん 待ちにか待たん 

 

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     【現代語訳/大意・・・巻-()】         



 
  あなたが、私のもとを去って行ってしまってから...ずいぶんと日がたちます...

         あの山を越え...迎えに行きましょうか...

             それとも...このまま、待っていればいいのでしょうか...
 

 

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「この歌は...」支折が、ポン助が持ってきたコーヒーカップに、うなづいた。「
夫/“仁徳天皇”が...

  新しくできた、若い恋人/妃たちのもとに行ってしまい、帰らない日々が重なるのを嘆き詠んだもので

す。若い(きさき)が増えていけば、おのずと、そういうことになるわけですね。

  夫/“仁徳天皇”を...本当に愛しているがゆえに...会いに行った方が良いのか...はしたない

ことはせず...このまま待っていれば、やがて自分のもとに帰ってきてくれるのか...迷い悩む女心

のせつなさが...よく表現されているです。

 

  『古事記』によれば...磐姫皇后新嘗祭(にいなめさい)に必要な、“御綱柏(みつながしわ/オオタニワタ

リ/大谷渡の別名・・・単にタニワタリとも言う。シダ植物門/チャセンシダ科に属する・・・日本南部から台湾の、森林内の樹木

や岩などに着生するシダ植物)の葉をとりに、紀州/紀伊の国へ出掛けている留守の間に...妃/黒日売

(くろひめ/吉備海部直の女)の後にできた、新しい恋人です。“仁徳天皇”は、若い恋人/八田若郎女(やた

わかいらつめ/仁徳天皇の異母妹・・・父は同じ応神天皇宮廷に入れ...寵愛したと言われます。

  ソノコトを知った磐姫皇后は、激怒したと言われます。それで、難波の宮廷には帰らず、舟で川を遡り

山城の国豪族の家に篭ってしまいました。

  うーん...私は浅学で、地理的状況はよく分からないのですが、山城の国に入ったのは、大豪族/

葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の出身だということに関係しているわけでしょうか。

  “仁徳天皇”磐姫皇后の怒りをおさめるために...天皇が自ら出向き、社殿の外で皇后のため

に、心をおさめる歌を詠んだとされます。ちゃんと、を尽くし、迎えにも来ているわけですね...」

 

「ええと...

  “第16代/仁徳天皇”は...大和(奈良盆地)から難波(大阪市の中央区~浪速区)の地に、遷都していま

す。その上町台地北端難波碕難波高津宮を造営しました。それ以後、上町台地には、6世紀

“第29代/欽明天皇”祝津宮...“第36代/孝徳天皇”難波長柄豊崎宮...そして、奈良時代

“第45代/聖武天皇”難波宮が営まれています。

 

  さあ...“仁徳天皇”が自ら足を運び、(わ)を入れても、磐姫皇后は帰らなかったようです。山城

国/田辺/筒木(京都府/京田辺市/筒木・・・今も筒木宮跡がある)に住む、韓人/ヌリノミの家に入って暮ら

し、そこで生涯を終えているようです...“仁徳天皇”に、反省/対処が足りなかったということでしょう

か...

  ともかく...“承知しなかった”...わけですね。を同じ“応神天皇”とする異母妹が、妃/第2位

となっては、皇后/第1位よりも親しくなり、宮廷・権力を振るうことになっては、後宮が乱れます。磐姫

皇后は逆に、皇族以外から初めて、皇后に上ったという事情も重なるわけです。

  “応神天皇”は、すでにいないわけですが、いずれにしてもデタラメな話です。皇后が、若い恋人/

田若郎女激怒したのはね当然ですよね。うーん...それまでは、八田若郎女との関係はあっても、

後宮に入れることは、遠慮していたということでしょうか。

  “仁徳天皇”異母妹ですから、当然、磐姫皇后はよく知っている間柄の、若い皇女だったわけです

よね。それが“仁徳天皇”と関係を結び、後宮に入ることをねだったのは、八田若郎女だったのでしょう

か。“仁徳天皇”も、皇后留守の間に、既成事実を作ってしまおう、ということだったのでしょうか。

  “油断も隙もない”...とはこのことですね。磐姫皇后女性として...“一夫一婦制”...を強烈

に叫び続けたわけです。そういう意味では、一種求道者だったのかもしれません。それとも...“嫉

妬の権化”...だったのでしょうか。

  一風変わった求道者で思い出すのは、松尾芭蕉です。を学んだ芭蕉は...“旅の風雅の妄執”

に取りつかれ、それに没入しています。以下は...《当ホームページ》/俳句/松尾芭蕉/奥の

細道-那須/黒羽の抜粋です。

 

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  芭蕉にとっては...

農夫の家に、一夜を借りるのも風雅...思わぬ、親切の気転に出会うのも

風雅...人なつこい子供たちに出会うもの風雅...大いなる、現実肯定の

世界観です。

 

  “雨降らば降れ、風吹かば吹け・・・(/有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)に帰

る一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け.../一休・禅師の歌)

 

  ...ですね。そうした全てが、芭蕉にとっては、巨大な風雅の極みだっ

たのでしょう。そうした風雅の魔心は...ある意味では、禅的な覚醒とは

対極にある、妄執(もうしゅう/ 迷いによる執着になります。

  でも芭蕉は...文学者として、風雅の魔心に深く恋をし...あえてその

苦しい...風雅の魔心/風雅への妄執...という道を歩んだのでしょう

か...」

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    ...磐姫皇后もこのように、恋の魔心/恋の妄執求道者のような道を歩み続けたのでしょうか。

でも、それは...皇后という唯一絶対の地位があってこそ、可能だったことですよね。さらに、“仁徳天

皇”にも愛されていて...大和朝廷を支えた大豪族/葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)娘だから、でき

たことですすよね。

 

  話は、グンと小さくなりますが...以前、ボス(岡田)から、こんな話を聞いたことがあります。ボスの家

子猫が迷い込んで来たので、家に白猫がいたのですが、それも一緒に飼ってやることにしたのだそう

です。ところが、それに嫉妬したのか...群れない猫の習性なのか...白猫の方が家を出てしまいま

した。磐姫皇后の話とよく似ています。

  白猫メスでしたが、何度も捕まえて家に連れ戻したそうですが、とうとう家には居つかなくなり、どこ

かへ消えてしまったそうです。磐姫皇后に接し、ふと、その話を思い出しました。

  こうした話は...私たち/生物体の中に眠る...“底知れない・・・深い本能”...や...“存続/

進化・・・生きるという・・・本質的なベクトル”...に触れることなのでしょうか?

  ともかく、そのようにして...ストーリイが紡(つむ)がれ...時間的・流れを創出し...歴史というも

のが刻印され...豊かな文化の土壌を創出・・・して来たわけですね。

  この世の歴史を創出していくことは、楽しいことですね...でも、歴史/ストーリーは、過去・現在・未

へと、非可逆的に流れるものではなく...未来から現在への衝撃...なども、検証される時代に

なっていますよね...」

 

 

 

     【巻2-86)】  さC  【相聞歌】/磐姫皇后

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    かくばかり 恋ひつつあらずは 

               高山の 磐根(いわね)し枕(ま)きて 死なましものを 

 

****************************

     【現代語訳/大意・・・巻-()】            



 
  こんなにも...あなたが恋しい気持ちがつのっていくばかりだから...

         いっそのこと、あの山の...

              岩根を枕にして...死んでしまいたいものだ...

 

*************************************************************

 

「うーん...

  “仁徳天皇”は、何度も帰ってくるようにと、お迎えを出されたのでしょう。でも、磐姫皇后は帰ろうとは

せず、手を焼かせています。“嫉妬深い女性の代名詞/= 磐姫皇后”...ですが、あの強い気性

“持統天皇/鸕野讚良良”でさえも、 “天武天皇”独占していたわけではありません。

  でも、鸕野讚良良の場合は“天武天皇”に嫁いだ時、すでにが先に嫁いでいたわけですね。当然、そ

のような状況下では、には頭が上がりません。それとも、“天武天皇”強烈なカリスマ性が、そんな

女の嫉妬心をも、露のごとく振り払ってしまっていたということでしょうか。また、それが許されてしまうの

が、カリスマ性ということなのでしょうか...?

  おそらく“仁徳天皇”は、そうした“天武天皇”とは対照的な人格だったのでしょうか...ホホ...面白

いですね...でも、磐姫皇后は、そんな夫/“仁徳天皇”深く愛し恋い焦がれ皇后の身分でありな

がら...“妃の存在を・・・絶対に認めなかった!”...わけですね。年を重ねるにつけ、知恵も付け

て、そんな夫/“仁徳天皇”を、イビったりもしたのでしょうか...つまり、嫉妬ですよね...

  うーん...現代なら当然ともいえますが...でも、皇后という最高位の身分まで振り捨て...嫉妬を

貫くというのも、大したものですね。簡単に、マネのできることではありません。あ...そうそう、

ですよね...貴婦人としても、よほどの自信がおありだったのでしょうか...」

 

 

 

     【巻2-87)】  さD  【相聞歌】/磐姫皇后

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       ありつつも 君をば待たむ 

                    うちなびく わが黒髪に 霜の置くまで 

 

【現代語訳/大意・・・巻-()】         



 
   そうであるけれど...私は、やはりあなたを待っていよう...

                うちなびく...          

                        この黒髪が...霜のように白くなるまで...

 

*************************************************************

 

「うーん...

  “皇后である私は・・・年老いても・・・いつまでもあなたを待っているつもりです・・・

         だから・・・どうか・・・早く・・・私のもとに帰って来て下さい・・・”

  ...という、女の切ない気持ちが、この歌に込められています...

  皇后は、宮廷天皇と...こんな文/歌のやり取りを、どのような形で展開していたのでしょうか。

ともかく、仁政(/恵み深い、思いやりのある政治)を行っている、生真面目“仁徳天皇”の心を、磐姫皇后

はかき乱していたわけです。

  あ...何度か触れていますが...磐姫皇后は、大和の西/葛城(かつらぎ)山脈の麓に勢力を誇っ

ていた、地方大豪族出身女性で、大和の一族以外からは、初めて皇后に上った女性です。

  これ以後も、天皇直系から外れると、皇后になるのは難しかったようですよね。現在は、むしろ逆に、

外部から良い血/良いDNAを入れているのでしょうか...」

 

 

 

     【巻2-88)】  さE  【相聞歌】/磐姫皇后

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 秋の田の 穂の上(へ)に霧(き)らふ 朝霞(あさかすみ) 

                   何処辺(いつへ)の方(かた)に 我が恋ひ止まむ
 

 

【現代語訳/大意・・・巻-()】         



 
  秋の田の...稲穂の上にたれ込めている...重く沈んでいる朝霧...

        (その霧のように...いつまでたっても見通しの見えない、私の恋心...)

              いったいどの方角へ向かって、この恋は晴れ上がって行くのだろうか...

 

*************************************************************

 

「うーん...

  磐姫皇后の、一途な想いというものが、ヒシヒシと感じられます...一方、人の良い“仁徳天皇”は、

彼女の恋心に、ずいぶんと悩まされたのでしょうか。これを少し離れた所から...現象として、冷徹に、

客観的に...眺めてみましょう。1つの、野次馬的な視点です...

  “男性/女性の・・・感情の行き違い”...“繁栄/繁殖のための・・・性システムの起動・・・その強烈

な動因と喧噪と固体の錯綜”...“豊かな感情の湧出・・・性の共振と共有・・・芸術性への昇華”...

“ちぢに乱れる・・・反作用の顕在化”...“文明の曙と・・・文明の融合”...そして...“文明の・・・折

り返し点への到達”...やがて...“人間原理空間・ストーリイの・・・世界軸が顕在化”...して来るの

かも知れません。

  うーん...ともかく...男女の関係は...奥の深い難題のようです...この男女という2元的世界

は...この世心的風景の結晶化とも、深く絡んで来るようです...」

 

  

                    

「ええと...」支折が言った。「磐姫皇后に関して...一言付け足しておきましょう...

  これらの【相聞歌】は...実際に磐姫皇后の創作というよりも、庶民の間で民謡風に歌われていた

のを、 磐姫仮託して、誰かが創作したのではないかというもあります。

  また、こういうデータもありました...この4首/相聞歌は、『記紀』(『古事記』『日本書紀』との総称)に出て

くる仁徳天皇”磐姫皇后に関する古代歌謡をもとにされて伝承されて来たもので...もとは、短歌・

形式ではなかったそうです。それが、長い歴史の中で継承され、詠み継がれ洗練され短歌・形式

に整えられたようだ、と言ってます。

  古代の歌は、人々によって詠い継がれ、その過程で洗練されることは、よくあるのだそうです。その

ようにして、日本の伝統文化歴史の中で洗練され、人々によって継承されてきたわけです。まさに、

日本民族の、珠玉伝統文化です。そして今、私たちは、その真っ只中に立っているわけです。

 

  いずれにしても...古い話で...それを天武・持統朝/〔白鳳文化時代〕に、『古事記』『日本書

紀』編纂され...万葉集【巻2-(85)(86)(87)(88)】、にも採られているわけです。そうし

磐姫皇后嫉妬が...日本の歴史の中で浄化され...珠玉の和歌として輝いているわけです。

 

  磐姫皇后が亡くなった後...八田若郎女(やたわかいらつめ)皇后に立てられているようです。他に

として、日向髪長媛(ひむかかみながひめ)宇遅之若郎女(うじのわきいらつめ)黒日売(くろひめ)などがいた

ようです。もちろん、八田若郎女皇后になったのは、仁徳天皇”異母妹という血統の良さでしょ

う。

  くり返しますが...磐姫皇后は、地方豪族出身の、初めての皇后でした。そのあたりでも...強く

対立する・・・当惑する・・・違和感・・・”...あったのでしょう。よくわかる気がします...」

 

「最後に...

  磐姫皇后陵墓ですが...奈良市/平城宮の北に、磐姫皇后陵とされるヒシアゲ古墳(奈良市/佐紀

町/字ヒシゲ)があります。航空自衛隊/奈良基地の近くです。また、すぐ近くには、有名なウワナベ古墳

コナベ古墳もあります。これらのいずれかに、磐姫皇后永眠している可能性が高いのだそうです。

仁徳天皇陵は、大阪府/堺市ですね...壮大な歴史のロマンが漂います。


  うーん...陵墓は、天武・持統陵野口王墓古墳/天武天皇と、皇后・持統天皇の夫婦合葬陵・・・八角形の五段築造)のよ

うに、夫婦合葬ということは、非常に珍しいのでしょうか。“持統天皇”の場合は、火葬にしたり、合葬

にしたりと、彼女の強い意向が働いたのでしょうか...」

「うん...」マチコが、大きくうなづいた。「磐姫皇后“持統天皇”かあ...色々あったんだあ...

  それに、“第35代/皇極天皇”“天智天皇”“天武天皇”だけどさあ...再び“第37代/

斉明天皇”して即位し...九州/大宰府まで下っているわけよね、」

「そうですね...」響子が言った。「そこで、崩御されています...

  <白村江の戦い>(/663年/朝鮮半島の白村江で行われた・・・倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の、海と

陸の会戦)の前ですね」

「そ...」マチコが、うなづいた。「色々と、大変だったわよね...」

「そうですね...」響子が、唇を結んび、うなづいた。

 


 

 

〔2〕 大来皇女 と 大津皇子                

         (おほくひめみこ・・・大伯皇女とも書く          

             wpe4F.jpg (12230 バイト)

                                                <シンクタンク赤い彗星/心理学者/綾部沙織 >


<2012/夏・・・軽井沢基地で・・・>



ええ...」響子が、ワンピースの前で両手を結んだ。「現在、
長野県/軽井沢市の、《軽井沢基地》

おります...

 

  2012年/夏の、ロンドン・オリンピックも終わり、お盆も過ぎ、はや9月下旬になります。猛暑の

も、ようやく去ったようですね。私たちは、朝露の中を散歩に出かけ、俳句短歌を詠み、菜園

新鮮な野菜を収穫し、質素ですが、それなりに楽しい夏を過ごしております。

 

  私たちの理想とする...〔人間の巣/未来型都市/千年都市〕全国展開すれば...こうした

“スローフード/スローライフ”は...〔日本の全国民・・・そして、世界市民〕のものとなります。洪水

のような、人間の欲望を満たすものではありませんが...心を整え大自然と一体の生活に...立

ち返ることができます。

 

  もちろん...これだけで全ての人々が、幸福になれるわけではありません。でも、〔極楽浄土・・・

千年都市〕の...インフラの整備面は整ってきます。私たちは、〔極楽浄土/パラダイスの・・・イ

ンフラ整備〕を...“宗教の・・・ 信仰の道 ~ 覚醒の道 ~ 儀礼の道 ・・・に次ぐ、第4の道”...

と考えています。                          <詳しくはこちらへどうぞ・・・・・極楽浄土のインフラ建設

 

  さあ、そうした理想社会に向かって...日本ではこの以降...政治混迷期に入る様相です。

さらに...〔安全/需要/民意・・・に反して・・・原発の再稼働〕という大問題惹起(じゃっき/事件・

問題などを引き起こすこと)しています。そして、一方...〔脱・原発・・・国民的大運動〕...も本格的

(たいどう/母胎内で胎児が動くこと/・・・新しい物事が内部で動き始めること。表面化し始めること)を始めているようです。

 

  これは...〔電力会社/財界/官僚組織・・・既得権勢力〕と...〔主権者/国民〕との、〔日本

の社会体制/存在の器の形態〕をめぐっての...“大きな選択”になって来る様相です。

  さあ、これまでの...“勝者の総取り・・・敗者は住む場所も無く・・・結婚もできない”...という

社会形態を、このまま、子孫に残しても良いものでしょうか?そして、〔未来社会への遺産〕として、

〔極楽浄土・・・ 千年都市・・・〕...はいかがでしょうか?

 

  ともかく...日本は文字どうり、“激動期”突入して行くものと思われます。社会の貧困率も高ま

り、生活保護世帯も増え、もはやこれまでのような余裕はありません。背水の陣での、“維新・発動”

になります。

  さあ...“真の・・・若い志士”...たちが立ち上がり...この未曾有日本の危機を...良い方

牽引することはできるのでしょうか。私たちは...未来世代を担っていく...若者世代期待

ています!」

             


「萩の風が...」響子が、2Fのベランダの方へ、2歩、3歩と歩いた。「気持ちのいい...初秋の風

が...部屋いっぱいに入ってきます...

  ここ軽井沢は...政治の中心/東京からは、だいぶ離れています。また...一番近い、東京電力

“柏崎刈羽・原発”(新潟県柏崎市)からも、それなりに距離があります。さあ、ここで...私たちは、私

たち自身の仕事を...しっかりと遂行して行きたいと思います。

 

   今回は...折原マチコが、ミッション/永田町・考・・・妖怪憑依説 VS 漫才定数 ...

なため、代役を綾部沙織に依頼しました。彼女とは毎年、彼女の故郷でもある八ヶ岳地方や、こ

軽井沢で、一緒に夏を過ごしています。一声かけると、承諾してくださいました。

  御存知かと思いますが、彼女は シンクタンク=赤い彗星心理学担当です。ユング心

理学や、トランスパーソナル心理学の方面が、御専門ということです。その方面でのコメントも、加え

ていただけるかも知れません...ええ...沙織さん...よろしくお願いします、」

  響子が、頭を下げた。

「こちらこそ...」沙織が、心理学者らしさを漂わせ、丁寧に頭を下げた。「よろしくお願いします」

高原の涼風は...」響子が、顔を和ませて言った。「万葉の昔も今も...変わりなく吹いているよう

ですわ」

「そうですね...」沙織も、顔を和ませた。

 

「さて...」響子が、モニターに目を投げた。「今回は...

   万葉集/〔巻2・・・相聞歌・挽歌〕ですが...大来皇女(おほくひめみこ/大伯皇女とも書く伊勢斎宮

と、その悲劇の弟/大津皇子(おおつみこ)を、取り上げます...」

「はい...」支折が、口を引き結んだ。

「時代は...

   “第40代/天武天皇”晩年から...“第41代/持統天皇”初期ということになるでしょうか。

あ、これは...“持統天皇”即位する前...ということになるわけですね。ともかく、“天武天皇”

崩御の前後、ということになるのでしょうか、」

「そうですね...」支折が、風でなびく髪を、そっと手で押さえた。

「この4人の関係を...」響子が言った。「支折さん...もう一度、おさらいしておきましょうか、」

「はい...」支折が、ハンカチの上に手を置いた。「ええと...

  何度か説明していますが...まず、当時の草壁皇子(くさかべみこ)/皇太子も、この悲劇と深く関

係していますし、次に紹介する、【巻2-(110)】の作者でもありますので、ここでも合わせて紹介し

ておきます。この皇太子は...“天武天皇”鸕野讚良(うのさらら・皇后御子ということですね...

  そして...大来皇女(おほくひめみこ/伊勢斎宮)大津皇子も、同様に“天武天皇”御子なので

すが...2人の母は、鸕野讚良・皇后姉/大田皇女(おおたひめみことの間に生まれた、御子たち

です。その母/大田皇女は、朝鮮半島<白村江の戦い>の後...帰京して間もなく、2人がまだ

幼いうちに早世しています。

  幼い2人は、大海人皇子(/後の“天武天皇”)のもとで、なに不自由なく過ごしたのでしょう。また、

鸕野讚良(うのさらら・皇女<壬申の乱>の苦難の時代を通して、母同様に、よく面倒を見てきた

のでしょうか。ただ1つ譲れない所は...自分の皇子を、天皇即位させるということだったのでしょ

うか」

「そうですね...」響子が、うなづいた。

「ええと...」支折が言った。「何度も、説明していますが...

  大田皇女妹/鸕野讚良・皇女は...2人とも、中大兄皇子/“第38代/天智天皇”です。

そして、の方が先に、大海人皇子/“天武天皇”に嫁いでいるわですね。

  でも...大田皇女の子/大津皇子は...鸕野讚良・皇女の子/草壁皇子よりも1つ年下です。こ

れは、鸕野讚良・皇女草壁皇子だけのようですが...大田皇女大来皇女に続いて、2人目

の子になるわけですね」

「はい...」響子が、うなづいた。「ええ...ありがとうございます...

  それでは、まず...万葉集に収録されているを見てから、考察を進めましょう。万葉時代の、

人々の心の機微(/表面だけでは知ることのできない、微妙なおもむきや表情)というものが、より鮮明に見えて来る

と思います」

「はい...」支折が、楽しそうにうなづいた。

  沙織も、支折を見て、柔和な微笑を作り、うなづいた。  

 

 

 

   【巻2-(105、106)】E        【相聞歌】/大伯皇女    105

 大津皇子の密に伊勢の神宮に下りて上り来ましし時に、大来皇女(おほくひめみこ)の作りませる、歌二首

*************************************************************

                              

 

       わが背子(せこ)を 大和へ遣(や)ると さ夜深(ふ)けて

                       暁(あかとき)(つゆ)に わが立ち濡れし


       二人行けど 行き過ぎ難(がた)き 秋山を

                       いかにか君が 独り越ゆらむ

 

     
 

【現代語訳/大意・・・巻2-(105)】         



 
  わが弟を...飛鳥に見送って...

                  夜のふける中...

             明方の露に濡れるまで...わたしは立ちつくしていました...

 

   二人で行っても...

           暗く心細い...秋の山道を...

                  私の愛しい弟は...たった一人で越えて帰って行く...


  ( 危険は...暗い秋の山道だけでなく...

       本当に...身に危険の及ぶ飛鳥の地へ...私の弟は、一人で帰って行く...

          母は無く...父/“天武天皇”は崩御が近く...私は、どうすることもできない... )

 

*************************************************************

 

「この歌は...」支折が言った。「大来皇女が、弟/大津皇子を偲んで詠んだ歌ですね...

  そもそも...この2人の姉弟悲劇が発生するのは...“天武天皇”が突然に病気を得、それが

の病となってしまったことです。突然の死の訪れは、“天武天皇”にとっても、新しい国造り道半ばであ

り、非常に残念なことでした。新風の仏法法力でも、この暗雲は振り払うことはできませんでした。

 

  “天武天皇”の健在中は...大津皇子はその豊かな才を、天皇や周囲の人々に、非常に愛されて

いました。むろん...鸕野讚良・皇后/が、自分の子である草壁皇子天皇即位させたいと願い、

すでに東宮/皇太子としての待遇は、受けていたわけです。

  大津皇子も...そのことについては、十分な納得があったと思います。聖地/吉野での、“6皇子の

誓い”もあり、父/“天武天皇”がいてくれれば、それで満足だったと思います。でも、同じ血筋

物腰(ものごし)もすぐれた大津皇子に...“天皇に即位して欲しい”...という願いは、天皇自身

も含め、宮廷には漂っていたのかも知れませんね...でも、それを、皇后が押さえていたわけです。

  したがって...死病に取りつかれたのが、天皇ではなく皇后の方だったら...状況は変わっていた

可能性が高くなります。でも、歴史は...薬師寺の建立発願したほどの...皇后の病気/“天武天

皇”が鵜野讃良・皇后の病気平癒を祈願して、薬師寺の建立を発願・・・百僧を得度(出家)させた・・・)ではなく、天皇の死

へ傾いたわけです。これも、歴史の巡り合わせですね...」

「うーん...」響子が、つぶいた。「そういう...ことですね...」

 「“天武天皇”という...」支折が言った。「巨大なカリスマが、死の病床に伏し...

  “国中の山野の・・・巨大な悲しみ”の中で...皇位の継承をめぐって、ひそかな動きが始まっていた

のでしょうか。皇太子は決まっていても、こうした悶着には長い伝統があったわけです。そして、鸕野讚

良良・皇后もまた、機敏陰謀を仕掛けたのでしょうか?そして大津皇子は、そうした不穏な動き

し、姉/伊勢斎宮に密かに会いに行ったということでしょうか...?

  でも...もし天皇が、枕頭で...“大津皇子に譲位する・・・”と言えば...“天智天皇”大海人皇

に持ちかけたように...天皇の意志容易にかなうわけです。その段取りも...天皇が、枕頭

津皇子を呼び出し、それを告げればいいだけなのです...」

「でも...」響子が言った。「そうは、なさらなかった...」

「うーん...」支折が、コブシを口に当てた。「そうですね...

  まさか、大津皇子が...謀反の罪処刑になるとまでは...“天武天皇”はお考えにならなかったの

でしょう。でも、追い詰められた大津皇子は、密かに伊勢に下り、姉/大来皇女/伊勢斎宮に会うわけ

です。妙案はないかと、知恵を借りに行ったのかも知れません。むろん背後には、伊勢神宮があるわけ

ですから。

  この当時...伊勢神宮最高の霊験を持つ神として、非常に敬われていました。それゆえに、

天皇内親王(/皇室典範: 嫡出の皇女・・・及び、嫡男系嫡出の、皇孫である女子)巫女(みこ)として祭っていた

わけです。その巫女が、大来皇女/伊勢斎宮だったわけですね。

  さあ、それほど神聖伊勢神宮において...天皇以外男子が...勝手伊勢神宮最高位の

巫女/伊勢斎宮に接することは、皇位をうかがう重罪とされていたようです。つまり、との対話ができ

るということであり、御法度中の御法度だったようです。そのことは、前もって、大津皇子にも何度も告

げられていた、と思います。

  でも...その重罪を犯してまで...大津皇子姉/大来皇女に会いに来たのであり、また、大来皇

はそのを迎え...ふたたび大和へ帰って行くを見送る...というのが、この歌の状況です。

  大来皇女心情/姿が...簡潔な歌の中に、よく表現されています。彼女の想いは『万葉集』に採

られ、末永く読み継がれることになったわけです。それにしても...辛い別れですね...」

「そうですね...」響子が、うなづいた。

「さあ...」支折が、風に目を細めた。「この姉弟再会自体が...

  鸕野讚良・皇后策謀だったのか...それとも大和/飛鳥で、命の危険を感じ取った大津皇子が、

最後の別れと覚悟を決め...に会いに行ったのでしょうか。でも、この直後...大津皇子はこの行

為によって...謀反人として捕まり...処刑されることになります...」

「沙織さん...」響子が、首を回した。「何か一言...」

 

「そうですね...」沙織が、物静かに言った。「支折さんの説明と、重なってしまいますが...

  私の方でも、一応調べておきましたので、述べておきましょう。理解の一助になると思います...」

「はい...」支折が、うなずいた。「お願いします...」

「はい...ええ...

   この姉弟/大来皇女・大津皇子は...2人とも...“第37代/斉明天皇”・・・中大兄皇子/大海

人皇子/中臣鎌足・・・の時代に...父/大海人皇子が...天皇と共に、九州/太宰府(だざいふ)

下向していた折に生まれています。これは、朝鮮半島百済国(くだらこく)救援のための大遠征軍を、よ

り近い九州/太宰府直接指揮し、鼓舞するためでした。

  天皇動座し、遷都しての、朝鮮半島への大遠征でした。天皇動座するほどのというのは、

本史上でも、この時だけだと思います。当時の小さな戦船を、大量に送りこんでの、百済救援だったわ

けですね。その兵力は、資料が少なくて分からないようですが...多く見積もれば、数万でしょうか、」

  響子が、頭を斜めにした。

“斉明天皇”が...」沙織が言った。「船で、筑紫/九州に下向したのは、661年ですわ...

  この折...船が大伯(おおく)の海の上(岡山県瀬戸内市の沿岸)を通過している時に、大来皇女大伯皇女

とも書くが誕生しています。その名前の大伯の由来となっているわけですね。

  その年...“斉明天皇”が、大宰府の近くの朝倉宮(/福岡県朝倉市・・・朝倉橘広庭宮(あさくらたちばな

ひろにわみや)は、“斉明天皇”が営んだ宮殿)に住まわれたのは、わずか2カ月ほどです。天皇は、到着後、

すぐに崩御されます。やはり、船旅がきつかったのでしょうか。

   『日本書紀』によれば...宮の建設に際して、朝倉社(麻氐良布神社/まてらふじんじゃの木を切って用

いたために、雷神が怒って宮殿を壊した、とあるようです。宮殿内には鬼火が現れ、大舎人天皇

近侍病死する者が続出したとあるようですね。

  さらに、天皇も、7月24日崩御され...8月1日皇太子/中大兄皇子“齊明天皇”の喪をつと

磐瀨宮(いはせみや)に戻られた宵には...朝倉山の鬼が大笠を着けて、喪の儀式を覗いていた、

とあるようです...」

「うーん...」響子が、唇に微笑を浮かべた。「迫力のある話ですわ...」

「でも...」支折が言った。「大きな戦を前にしての...不吉な話ですわ...」

「この朝倉宮は...」沙織が言った。「天皇の、筑紫への下向前から準備されていて...

  それが整ったということで...“斉明天皇”船出になったのだと思います。この船出に際し、額田王

無事を祈って、を詠んでいます...【巻1-(8)】/額田王 ですね...この頃は、額田王はまだ、

“天智天皇”に取り上げられてはいなくて、大海人皇子だったはずです...

 

      熟田津に 船乗りせむと 月待てば 

                       潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな    

 

  思うに...それでも...地神(じがみ)(たた)られたのでしょうか...“斉明天皇”急死は、朝倉

祟りであり...<白村江の戦い>での、不吉(ふきつ)大敗北へとつながって行った...というこ

となのでしょうか...?」

「うーん...」支折が、深くうなづいた。「朝倉山の鬼も...一連の様子を、見ていたのでしょうか...」

「恐ろしいですね...」響子が言った。


          


「くり返しますが...」沙織が言った。「2人姉弟/大来皇女・大津皇子は...

  大海人皇子大田皇女との間に生まれた御子たちです。そして、大田皇女鸕野讚良・皇女も、2人

とも“斉明天皇”皇子である、中大兄皇子娘/皇女たちです。それから、ともに、中大兄皇子

弟/大海人皇子に嫁いでいるわけですね。可愛い娘たちを、実力があり、身分も高く、子供の頃から可

愛がってくれた、実弟にくれてやっているわけです。この後も、2人ほど、くれているのでしょうか。

  ええ、ちなみに...鸕野讚良・皇女子/草壁皇子も、この筑紫への下向時代に生まれています。

大津皇子よりも1歳年上ですね。

  ええと...つまり... 661年/大来皇女が、下向する船の中で生まれ...翌年/662年草壁

皇子が誕生し...その翌年/663年/<白村江の戦い>の年に、大津皇子が生まれているようです

ね」

「うーん...」支折が、コブシを口に当てた。「そういうことですか...

  その、筑紫時代3年間に...運命の3人の御子たちが生まれたわけですね。そして、ええと...

686年/“天武天皇”の崩御(朱鳥元年9月9日/686年10月1日)の...同年の24日後(朱鳥元年10月3日/

686年10月25日)に、大津皇子謀反の罪処刑され...3年後689年に、草壁皇子即位すること

なく、薨去(こうきょ/皇族などの死去)されるわけです」

「はい...」沙織が言った。「即位は、可能だったのでしょうが...

  鵜野讃良・皇后は、皇太子/草壁皇子を、直ちに即位させる事はしなかったようですね。若さというこ

ともあったようですが、やはり...大津皇子処刑に対する宮廷内の反感が、草壁皇子即位の障害

となったと、考えられます。

  つまり...“余計なことをした”...ということです。そのために、草壁皇子即位することなく、薨去

れるわけです。そして、その後継となったであろう大津皇子も、すでにこの世には無いということですわ。

そこで、皇后自身が、“第41代/持統天皇”即位することになるわけです...」

「沙織さん、」支折が言った。「大来皇女の...没年はどうなのでしょうか?」

「はい...」沙織が、マウスを動かした。

「珍しいですね...」響子が言った。「沙織さんが、マウスを動かしているのを見るなんて、初めてじゃな

いかしら...?」

「私だって...」沙織が、腹から笑いながら言った。「パソコンは使いますわ...」

「ほほ...」響子が、苦笑した。「そうですね...」

「ええと...

  朱鳥元年/10月3日に...大津皇子謀反人としてを賜った後...11月17日に、伊勢神宮

退下し、に帰ったようです。それから、16年後薨去されています。

  そもかく、謀反については...川島皇子密告については、虚構であるとも言われますし...謀反

の内実については、天皇殯宮(ひんきゅう/天皇・貴族の棺を埋葬の時まで安置しておく、仮の御殿・・・もがりの宮)

で、皇太子(そし)ような発言をしたのではないかとする見方もあり...また、姉/伊勢斎宮に会っ

たことが、禁忌(きんき/タブー)抵触してのではないか...とする見方もあるようです」

  響子が、うなづいた。

「確かな資料が...」支折が言った。「非常に、少ないわけですね?」

「そのようです...」沙織も、うなづいた。「話を戻していいでしょうか...?」

「あ、はい...」支折が、うなづいた。

 

「ええ...」沙織が言った。「最後に...

  663年8月・・・<白村江の戦い>で...日本の遠征軍は、唐・新羅の連合軍大敗し...皇族も、

筑紫/大宰府から撤退します。“斉明天皇”御遺体は、とうに難波宮に送還されているわけですね。

そして、皇太子/中大兄皇子弟/大海人皇子家族も、取り急ぎ大和帰還して行くわけです。

  でも...その帰京の旅は、唐・新羅の連合軍大敗北しての、また、日本本土への追撃予測して

の...慌ただしい撤収の旅だったと思われます。この過酷な旅が影響したのでしょうか...大田皇女

は、まだ幼い姉弟を残したまま薨去されます。大来皇女/7歳大津皇子/5歳の時で...母方の祖

父/“天智天皇”に引き取られたようです...」

「あ...」支折が言った。「“天智天皇”に引き取られたのですか、」

「そのようですね...」沙織が言った。「そして、<壬申の乱>(じんしんのらん)では...

  大海人皇子は、使者を出して、高市皇子(/長男)大津皇子に事を告げ、伊勢で会うよう命じていま

す。高市皇子鹿深を越えて、積殖山口で父の軍勢に追いつき、大津皇子は遅れて鈴鹿関に着き、

無事に合流を果たしています。このあたりは、以前に話しているようですね、」

「そうです...」支折が、にっこりとうなづいた。

「さあ...」沙織が言った。「唐・新羅の連合軍に、大敗北の後...

  九州水城(みずき/7世紀中頃に構築された国防施設。現在の福岡県大野城市から太宰府市にかけてあった)が造

られ、防人(さきもり/九州沿岸の防衛のため設置された、辺境防備の兵)が配置されます。

  一方、皇太子/中大兄皇子は...難波宮から、海から離れた大和盆地/飛鳥に帰り...さらに内

奥の、琵琶湖の畔近江大津宮を造営し...そこでようやく、“第38代/天智天皇”として即位します。

それほどに、唐・新羅/連合軍が恐ろしかったということでしょう。

  でも...外国からの侵略はなく...近江朝安定し、非常に栄えたようです。それから“天智天皇”

崩御の前後で...“野に・・・翼をもった虎/大海人皇子・・・を放てり”...という状況になり、混乱

始まるわけです。そして、近江朝廷吉野宮との駆け引きがあり、やがて、<吉野出兵/壬申の乱>

となって行くわけです」

「はい...」響子が、組み上げた膝の上で、両手を組んだ。


「ともかく...」沙織が言った。「大津皇子は...   

  <壬申の乱>を体験しつつ、文武両道にすぐれた若者に成長して行ったようですわ。『懐風藻』によ

れば...

  “体格や容姿が逞しく、寛大・・・幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文

章を書いた・・・成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った・・・人柄は、自由気ままで、規則にこだ

わらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した・・・このため、大津皇子の人柄を慕う、

多くの人々の信望を集めた・・・”

  ...とあるようです。『日本書紀』にも、同様の讃辞があり、抜群の人物と周囲から認められていた

ようです。草壁皇子賛辞は特にないようですね。

  したがって...やや病弱で、取り立てて目立つことのない草壁皇子よりも、“天武天皇”がこの大津

皇子の方に期待しても、不思議はなかったわけです。カリスマ性を持つ、ご自分に、より似ていると思わ

れたのではないでしょうか。でも、波風を嫌い、草壁皇子皇太子の座は動かさなかったわけです」

長男の...」支折が言った。「高市皇子(たけちみこ/<壬申の乱>で活躍。母は胸形尼子娘で、身分は高くは

なかった)は...別として、ですね...」

「そうですね...」沙織が、うなづいた。「彼は、“持統天皇”時代の太政大臣になるわけですが...とう

に、皇太子草壁皇子と決していました。

  でも、人望大津皇子に集まりつつあり...鸕野讚良・皇后としては、草壁皇子皇太子決定され

いても、安心できる状況ではなかったのでしょうか。大津皇子は、高市皇子とは違い、その出自/身分

においても、草壁皇子同等だったから...様々に比較されたわけですね。

  こうした事態は...有間皇子(ありまみこ/有馬皇子とも書く)悲劇とも、似ているのでしょうか?で

も、大津皇子悲劇の方が、背景が華やかだったのでしょうか?こうした『万葉集』に残され...

今も当時の権力闘争非情さを見せつけ、ものの哀れを誘います...」

                            


有間皇子について...」支折が言った。「くり返しになりますが、簡単に説明して置きましょうか?」

「あ、そうですね...」響子が、うなづいた。「お願いします」

「はい...」支折が、モニターに目を移した。「ええと...

  有間皇子は...難波朝なにわちょう/難波宮は現在の大阪市中央区にあった“第36代/孝徳天皇”

皇子で、皇位継承権を持っていたわけです。時の実力者は、“大化の改新”を推進していた、中大兄皇

子/後の“天智天皇”であり...中臣鎌足/後の藤原鎌足ということですね...

  中大兄皇子は、<乙巳の変>(いっしのへん/蘇我入鹿を暗殺・・・蘇我氏を滅ぼした政変)以降...天皇以上

の権力を持った皇太子となり...皇位継承に邪魔になる有間皇子は...“斉明天皇”/4年に、謀反

の罪を着せられ、処刑されるわけです。“斉明天皇”、九州/朝倉宮崩御されますが...それより

2年~3年前のことですね...

 

  ええと...この“第37代/斉明天皇”ですが...何度も説明していますが、“第35代/皇極天皇”

でもあるわけですね。また、“第34代/舒明天皇”皇后であり...“天智天皇・天武天皇”でもあ

り、第36代/孝徳天皇”にも当たるわけです。

  当時...“第35代/皇極天皇”から“第36代/孝徳天皇”へは...からへ...史上初譲位

がなされています。そして、“第37代/斉明天皇”4年目の年に...有間皇子藤白坂(ふじしろさか

/・・・和歌山県海南市/藤白)での絞首刑がありました。

  この後...筑紫/朝倉宮下向するわけですが...<白村江の戦い>の前に、“斉明天皇”

されるわけです。孫/大来皇女誕生には...船上で接しているわけですが...草壁皇子大津

皇子の顔は、見てはいなかったわけです。

 

  ええと...これも前にも掲載しましたが...有間皇子の歌も、万葉集に残されています。再度、

掲載しておきましょう...【巻2-(142)・・・雑歌】 有間皇子  です...

                        

  家にあれば  笥(け)に盛る飯(いひ)を         

                      草枕  旅にしあれば  椎(しい)の葉に盛る 

 

  ...この歌は、を背負い...その旅の途上で詠まれた様子です。死の影が大きくなる中での、

明るい装いの歌です。

  この悲劇に対し、大津皇子悲劇の方は、鸕野讚良・皇后仕掛けたものとされています。また、実

際に、皇后仕掛けたものではなかったにしても...少なくても...皇后にはそれを止める力があった

はずです。天皇独裁の頂点/カリスマ性の権化の...“天武天皇”強大な権力を引き継いでいたわ

けですから、それはできたはずなのです!」

  綾部沙織が、コクリとうなづいた。

「ええ...」支折が、ゆっくりと言った。「そうですね...

  “天智天皇”の...実弟/大海人皇子は...皇位継承をめぐっては、武人としての才...鋭敏な

感性戦略性を...いかんなく発揮しています。巧妙かつ大胆に...“天智天皇”虎口/近江京

逃れて...吉野へと脱出しています。そして、再び、吉野脱出と同時に...数万の大軍を、挙兵して

いるわけです。

  それと比べると...有間皇子にしろ、大津皇子にしろ...これほどの鋭敏な感性戦略性は、とて

も備えていなかったわけです。年齢も若く...大海人皇子のように、幼少からの武人気質で育ったので

もなく...何よりも、実戦経験が乏しかったわけですね...大津皇子は、その器量を備えていたようで

すが、飛鳥脱出することはなかったわけですね...」

「はい...」沙織が、しっかりとうなづいた。「そういうこと、になりますわ...

  天皇家/皇族の中での、皇位継承の争いですが、まさに骨肉の争いだったようです。“おおらかな

万葉の時代”などとも言われますが、こと皇位継承権のある者にとっては、厳しい状況だったようです。

  “勝者としての・・・総取り”か、“服従・忍従・・・それとも死か”、という壮絶な戦いだったわけです。これ

は、その勝負に賭ける周囲の人々も、大出世を賭け、運命共同体になって、神輿を担いでいたわけで

すね...基本構造は、今も昔も変わらないようです...」

「ふーん...」響子が、口に手を当てた。「そういうことですね...

  謀反の意思がなくても、有間皇子のように、いつどのような形でクーデターで担ぎ出されるか分から

ず、確実に処刑にしておく必要があったわけですね。中大兄皇子は、自分がかつて、そうしたクーデタ

を起こしてきたわけですから...」

  支折が、コクリとうなづいた。          

  

                  

 

 

   【巻3-(416)E       【辞世の句(/・・・和歌、俳句がある)】/大津皇子   416

           大津皇子、被死らしめらゆる時、磐余の池の堤にして涙を流して作りましし、御歌一首

*************************************************************

                 

 

      百伝ももづた)ふ 磐余(いわよ)の池に鳴く鴨を

                     今日のみ見てや 雲隠(くもかく)りなむ 
     
 

 

【現代語訳/大意・・・巻3-(416)】        



 
  この磐余の池にいる...鴨の鳴く声を聞くのも...

          今日が見納めになることだ...

               私はこれから...黄泉(よみ)の国へと旅立っていく...

 

*************************************************************


「ふーん...」支折が、そっと両手をそろえた。「大津皇子は...

  伊勢で...姉/伊勢斎宮に会い...飛鳥へ戻ってほどなく...伊勢斎宮密会したという、謀反

重罪によって、捕らえられたようです。この辺りの実態は、『日本書紀』『万葉集』『懐風藻』を合わ

せても、資料となるものが非常に少なく、推量が多くなるようですね」

「そうですね...」響子が言った。「浅学な私たちも...

  偏ったデータを述べることがあるかも知れませんが、そのあたりはご容赦を願います...また、新し

い研究成果や、新しい発掘などによっても、データは変わってきますので、」

「はい...」支折が、両手を結び、頭を下げた。「よろしく、お願いします...

  さあ...とらえられた大津皇子は...即刻、譯語田宮(おさだみや/現在の奈良県桜井市/本来は“第30

代/敏達天皇”の皇居であり、大津皇子が居所としていた)謹慎処分となります。そして、このデータでは、翌3

とありますから、朱鳥元年10月3日のことでしょうか。近くの磐余池のほとりで、自決/自死を強い

られます。処刑とありますが、有間皇子のような絞首刑ではなかったようです。

  あ、そういえば...<壬申の乱>でも...敗者の、大海朝廷側の総帥/大友皇子も、自決を促さ

れているようですね。救済のための奔走もあったのかも知れません。でも、大きな戦であり、犠牲者

多く出ているので、皇族内の同情だけでは収まらず、それなりのケジメは必要だったようですね。

  武人身の処し方として、これがやがて切腹として形式化して行くのでしょうか...でも、武人とは、

どの国でも、そうしたものなのでしょうか...“武士道と云うは、死ぬことと見つけたり”...という、『葉

隠』(はがくれ/江戸時代中期の書物・・・佐賀鍋島藩藩士の山本常朝の、武士としての心得について、“武士道”という用語

で説明したもの)も...そうした身の処し方の哲学ですよね...」

「はい...」沙織が、微笑してうなづいた。

 

「ええ、と..」響子が言った。「いいかしら...」

「はい...」支折が、風に吹かれる髪を、耳の後ろへなでた。

大津皇子は...

  この辞世の句と並べて...臨終の漢詩も詠んでいます。から入って来た漢詩は、大陸の洗練され

先進文化の香りが漂うもので...大津皇子漢詩教養も豊かだったようですね。

  辞世の句は、『万葉集』で採られていますが...臨終の漢詩の方は、『懐風藻』(かいふうそう/現存す

る最古の漢詩集・・・その序文によれば、近江朝の安定した政治による平和が、詩文の発達を促し、多くの作品を生んだ・・・と

あるようです)収録されています。次のような、五言絶句(5文字4行で、起・承・転・結の形式をとる)ですわ...

 

  ****************************************************************
  
        <大津皇子・・・臨終の漢詩>   

 
     <漢詩>          <漢詩の読み>                     <ひらがな読み>

金烏臨西舎    金烏西舎に臨らひ          きんう せいしゃに てらひ

鼓声催短命    鼓声短命を催す
           こせい たんめいを うながす

泉路無賓主    泉路賓主無し    
           せんろ ひんしゅ なし

此夕離家向    此の夕べ家を離りて向かふ
       この夕べ 家をさかりて むかふ

 

【現代語訳・・・大意】

  今...夕日が西の家を照らす...

       夕刻を告げる太鼓の音は...短い吾の命を...さらにせきたてている...

            これから行く黄泉(よみ)路は...客も主人もいない...吾ただ一人...
 
                この夕べに...私は家を離れ...黄泉の国へ向かう...

  
   ****************************************************************

                                           

「こうして...」響子が言った。「大津皇子は、黄泉の国/冥土(めいど)へと旅立ったわけです...

  この時、24歳ということです...知らせを受けた、妃/山辺皇女は悲しみのあまり、裸足で外へ飛

び出し、後を追ったと伝えられます。そういえば...<壬申の乱>において、瀬田の唐橋の決戦で、

海人皇子に敗れた大友皇子も...確か、24歳だったでしょうか...

  でも...大友皇子の妃/十市皇女(とおちひめみこ)は...戦争の、板ばさみになりながら

も、その苦汁の業(ごう)を生き抜いています。同様に、十市皇女は、女性歌人/額田王(ぬかた

おきみ)ですが、彼女もまた大海人皇子であり、十市皇女を生んでいるわけですが...実兄/“天

智天皇”に取り上げられ、に加えられながらも...複雑な心境で、戦乱を眺めていたわけです。

  このような状況ですから...当時の、近江朝/後宮(こうきゅう/王や皇帝などの、皇后や妃が住まう場所)

は...女性陣による第3勢力/聖域らしきものが、形成されていたのでしょうか。額田王は、大友皇子

/“第39代/弘文天皇”妃/十市皇女母/後見として...また宮廷歌人としても...一定の勢

を保持していたわけですから、そうした中心にいたのでしょうか。

  でも...大勢の血が流され、大友皇子自決は、避けられなかったわけです。大海人皇子も、苦渋

の決断をし...こうした調停には首を縦には振らなかったわけです。

  こうした...一連の皇位継承をめぐる大反省から...“天武天皇”は、鸕野讚良・皇后とともに、年

長の皇子たちを伴い...聖地/吉野で、“吉野の6皇子の誓い”を立てたわけです。この場に、皇后

いたわけですが...結局、彼女は女の意地を通してしまい、大きな悲劇を呼んでしまいます。結局、

太子/草壁皇子も、即位直前薨去してしまい、大津皇子処刑無駄になってしまうわけですね。

  うーん...でも...反省している様子も、なさそうです。そこで、自分が“第41代/持統天皇”として

即位し...その可能性のあった長男/高市皇子(/<壬申の乱>で大活躍)には太政大臣になってもらっ

て...孫/草壁皇子の御子が、成長するのを待つことになるわけです。

  もちろん、鸕野讚良・皇后も...人知れず、苦悩したことはあったと思います。彼女も、“天武天皇”

ほどではないにせよ、朝政にも助言し、それなりに優秀な指導者だったようですね。

  “天武天皇”治世を引き継ぎ、を治め通した実力者とも言えます。カリスマ性を持たない者が、

保持することが、どんなに大変なことかを考えれば、白鳳時代の歴史に、大きな貢献していることは

明らかです。あ、そして、この『万葉集』編纂もあるわけですし...藤原京への遷都などもあるわけで

す。天武朝の時代に計画されたものが、持統朝において完成されたものが多くあります。

  でも...近親者謀殺し...皇位につき...それで平然としていられたというのは...私たちの

像を絶するものがあります。でも、これは、万葉時代皇族に限ったことではなく...世界中の歴史

中に散見されるわけです。身内であればこそ...こうした残酷もある、ということなのでしょうか...」

  支折が、目を閉じて、うなづいた。

 

   

 

 

〔3〕 大津皇子と石川郎女・・・       


 
          そして草壁皇子との、三角関係・・・?



  
      wpe4F.jpg (12230 バイト)  

 

「さあ...」響子が、お茶の茶碗を、そっと指で押した。「...大津皇子(おおつみこ)は...

  伊勢神宮から都/飛鳥に帰って...すぐに、このようにして、壮年身空(みそら/身の上)で、黄泉の

へ旅立ちました。

  でも、楽しいことも多くあったわけですね...“天武天皇”のもとで、利発な皇子として育ち、何不自

由なく暮らしてきたのでしょう。逆に...草壁皇子/皇太子も...凡庸(ぼんよう: 平凡でとりえのないこと)

いうことで、責められる事はありません。利発な子もいれば、凡庸な子もいるわけです...

  みな、“天武天皇”御子たちであり...としては、それぞれに幸せに暮らして欲しかったわけで

す。ただ、1つ違っていたことは...この皇子たちには皇位継承権があり...やがて、〔新しい国造

り〕という大事業を、託さねばならないということです。

  そこで天皇は...草壁皇子/皇太子の他に、利発物腰(ものごし: 人に接するときの、言葉遣いや身のこなし)

も優れた大津皇子をも朝政に加え、将来ともに手をたずさえて、優れた政(まつりごと)をして欲しいと望

んだわけです。

  でも...あの、“辛かった時代”...吉野への脱出・逃亡を共に果たし...よく付いてきてくれた、

妃/鸕野讚良・皇女の願いは...無碍(むげ: 妨げのないこと)にするわけにはいかなかったのでしょう。こ

こで、男の仕事・・・新しい国造り〕と...“女の本能的な・・・子種を残すという個人的エゴ”が、

交錯(こうさく)するわけです。そして...“天武天皇”が先に崩御されたということです...」

 

「さあ、話を戻しますが...

  大津皇子(おおつみこ)にも楽しい日々があったわけですね。ここでは、『万葉集』に残されている彼

相聞歌を取り上げ...その万葉当時のことを、偲んでみたいと思います。

  これらの相聞歌は...大津皇子石川郎女(いしかわいらつめ)、そして草壁皇子(くさかべみこ)にも関

係している様子です。でも、1300年余りも昔の、その当時の様子は...『万葉集』『日本書紀』

そして『懐風藻』などに、わずかな資料が残るばかりです。やはり、はるか遠い、昔の話なのですね。

  これらの、少ないデータ行間から、当時の人々繊細な想いを想起するわけですが...和歌は、

短い言葉の中に想いをこめた...非常に優れた意思伝達形式です。これらはやがて、連歌(れんが)

や、俳諧(はいかい)俳句川柳などに、枝分かれして来るわけですね...

  全/日本の歴史を通して...日本民族は、様々な場面でを詠み、をやり取りするなどして...

日本の文化/日本の歴史を形成してきたわけです...

  当時/万葉の人々の...その想いのたけも...によって永久(とわ)その想いを発し続け...

今も、私たちの心にはよく響きます...やはり、同じルーツ(先祖)を持つ...日本民族なのだというこ

とでしょう...」

「はい...」支折が、ゆっくりと頭をかしげ、髪をサラリと揺らした。「でも...

  日本の場合...歴史的にも貴重な、国宝級・重要文化財級の遺物が...非常に多く残っています

よね、」

「うーん...」響子が、うなづいた。「そうですね...

  日本では、どこを歩いても...そういう歴史的遺物がありますね...国民もまた、そうしたものを、

非常に大切に保存して来ています...」

「そうですね...」支折が言った。「私たちは...

  ごく自然に、そうした歴史的な遺物の中にいるわけですが...こうした濃密歴史的遺物という

ものは、世界的にもなようですね。これには、外国/海外からの侵略が、日本列島には全く無かっ

たことが、大きく貢献しているようです...

  それに加えて...御所(ごしょ/天皇の御座所や、正倉院(しょうそういん: 奈良市/東大寺境内/大仏殿の西北にある、

高床式の大規模な校倉造(あぜくらづくり)倉庫/宝庫。天平時代(710~784年)の建造・・・正倉というのは、最も重要な倉という意味。

現在、東大寺の正倉の1棟だけが、正倉院宝庫として、奈良時代のままに残っている。“第45代/聖武天皇”のゆかりの品をはじめとして、

天平時代を中心とした、多数の美術工芸品を収蔵。日本ばかりでなく、東洋美術の粋を伝える)や、寺院などの、貴重な宝物・

建造物が...戦乱の中でも、民族的に敬(うやま)われ/守られた...ということがあるわけですね、」

「うーん...」響子が、微笑してうなづいた。「そうですね...

  天皇の地位や...神社・仏閣の地位というものは...歴史を通して尊重され...守られてきまし

た。あ...もちろん、例外もありますわ...

  “天武・持統天皇陵”(檜隈大内陵/ひのくまおおうちみささぎ・・・野口王墓古墳。“天武天皇と皇后/持統天皇”の夫婦

合葬陵。奈良県高市郡/明日香村野口)盗掘され...御遺体御遺灰が...乱雑に扱われた例は、私たち

の心を痛めています...

  それに...織田信長による、“比叡山の焼き討ち”(1571年)などもそうですね。それ以前にも、足利

義教細川政元も、“比叡山の焼き討ち”を行っていますが...信長のそれは苛烈を極め...僧侶

学僧上人児童の首を...ことごとく(は)ねたと言われます...

  この...信長比叡山/延暦寺(/比叡山全域を境内とする・・・京都市と滋賀県大津市にまたがる天台宗総本山・・・日本

仏教の母山とも言われ・・・伝教大師・最澄が、平安時代に開山。高野山金剛峯寺/弘法大師・空海が開山・・・と並んで平安仏教の中心

との戦いは...ルイス・フロイス(/ポルトガル出身のカトリック司祭、宣教師。イエズス会員として戦国時代の日本で宣教・・・

織田信長や豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる、『日本史』を記したことで、歴史に名を残した)書簡にも記載さ

れているようです」

「はい...」支折が、ゆっくりとうなづいた。「日本本土の侵略を受けたのは...マッカーサー元帥

の率いた...アメリカ軍/占領軍が...唯一なのでしょうか...?」

「うーん...」響子が、耳の後ろに手をやった。「そうだと思いますわ...

  2度にわたる元寇(げんこう: 蒙古襲来/・・・ンゴル帝国(大元朝=中国とモンゴル高原を支配した王朝)朝鮮半島/高麗

(高句麗の後期における正式な国号)の連合軍による、2度の日本侵攻・・・<文永の役/1274年>・・・<弘安の役/1281年>は、

鎌倉時代・中期における...大陸からの大軍による、本格的日本侵攻でした。主戦場九州北部

でしたが...“神風”/台風が、外国の大軍海底に沈めた...とされています」

「つい、最近だと思います...」沙織が、急いでマウスを動かしながら、2人に言った。「元寇船(げんこう

せん)が...ええと...長崎県/北部の...伊万里湾で見つかったようですわ...」

「ああ....」支折が、大きくうなづいた。「はい、はい...そんなニュースがありました...去年だった

かしら...?」

「あ...」沙織が、口を崩し、顔を上げた。「ここにありました...

  ええと...長崎県/伊万里湾にうかぶ、鷹島(たかしま)...水深20~25メートルの、海底の

土の中から...元寇船が発見されたそうです。原形を残した、良好な形で発見されたのは...これ

が初めてだそうです。

  これは...2011年10月24日ニュースです...やはり...“神風”/台風でによって沈んだと

いう話は、本当だったようです...」

「そうかあ...」支折が、口をあけた。「やはり...“神風” は吹いたんだあ...」

「はい...」沙織が、うなづいた。「その可能性は...高いようです...

  発見された...船体の背骨/キール/竜骨の大きさは...幅50センチ、長さ12メートルほどで、

全長20メートルを超える大型船だということです...船底、船腹の外板材は、幅15~25センチ、長

さ1~6メートルだそうです。この外板材が、竜骨にそって、整然と並んでいたそうです。

  2度目に来襲した<弘安の役>1281年ですから...その時から海底の土に埋もれて、700年

以上も眠っていたわけですね。<白村江の戦い>663年ですから...それからさらに、600年以

も、前のことになるわけですね...」

「そうですか...」響子が、顔を輝かせた。「歴史的な...壮大なロマンを感じますわ...

   <白村江の戦い>大敗北の後は...結局...唐・新羅/連合軍は...日本には押し寄せて

は来なかったわけです。そして、琵琶湖の畔(ほとり)で、“天智天皇”近江朝は、大いに栄えたようで

す。それから、大海人皇子/皇太子皇位継承しないことによって...このは滅ぶわけです...」

  支折が、うなづいた。

「で...」響子が言った。「...したがって...

  やはり...本格的外国軍進駐は...第2次世界大戦後/アメリカ軍進駐が...初めてに

なるようですね。そして、この時も...本土空襲沖縄上陸...それから、“広島・長崎の・・・原爆投

下”などがあったわけですが、“日本の歴史的遺物・・・は大破壊されることなく・・・残った”...と

いう事です...」

  支折が、両手を結んで、うなづいた。

 

「ええ...」響子が、肩を引き、スクリーン・ボードを見た。「話を進めましょう...

  ともかく...『万葉集』にある通りに、大津皇子石川郎女(いしかわいらつめ)、そして草壁皇子(くさか

みこ)を、取り上げてみたいと思います...

  あ、それから...石川郎女ですが、『万葉集』に登場する石川娘女/女郎は、最大7人いるそうで

す。ここでは、関係するだけを紹介しておくことにします...」


 


   【巻2-(107)  さE  【相聞歌】/大津皇子          107

                                             石川郎女(いしかわいらつめ)に贈る御歌一首

*************************************************************

           

    

      あしひきの 山のしづくに 妹(いも)待つと 

                   我れ立ち濡れぬ 山のしづくに 

 

【現代語訳/大意・・・巻2-(107)】             



 
  木々のしずくの落ちる中で...

         約束したとおり...私は愛しいあなたを待っていました...

             あなたが来ないので...木々のしずくで、すっかり濡れてしまいました...


 

*************************************************************


                                      

有名な歌ですね...」沙織が、モニターを見ながら言った。「石川郎女宮中に仕える女官です...

  蘇我氏系/石川氏だったようです...石川郎女という女性は、響子さんも言いましたが、『万葉

集』の中に、数人出てきます。でも、どの人物とどの人物が同一なのか、はっきりとした解釈は、まだ出

来ていないようです。

 

  このは...大津皇子逢瀬(おうせ/愛し合う男女の密会)の約束をしていたのに...なんらかの理由

で、石川郎女が逢いに来なかったことが詠われています。軽い揶揄(やゆ)をにおわせ、大津皇子淋し

が感じられます...彼女が来られなかった理由が、大津皇子には分かっていたのでしょうか?

 

  詠み出しの...“あしひきの”は...にかかる枕詞です。今なら携帯電話で一発ですが...こうし

不便もまた、奥ゆかしいかぎりです。そこで...次の返し歌、【巻2-(108)】が、あるわけですね、」

「はい...」支折が、ニッコリと微笑して、うなづいた。

 



   【巻2-(108)  さE  【相聞歌】/石川郎女         108

                                                   石川郎女の和(こた)へ奉れる歌一首

*************************************************************

                 

 

      (あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 

                    山のしづくに 成らましものを

 

【現代語訳/大意・・・巻2-(108)】       



 
  
私を待って...あなたは...そんなにも濡れてしまわれた...
 
          私はいっそのこと...あなたを濡らしたという...

                その山のしずくになって...ずっと一緒にいたかったのに... 

 

*************************************************************

 

「ふーん...」支折が、口元をほころばせた。「こんな風に...

  恋歌をやり取りしていたわけですね...携帯電話で一発よりは、はるかに深く豊かな情感が、

葉時代には流れていたようです。

  そして、(いにしえ)の人々には...常に、死は身近な所に提示されているわけです。一期一会(いち

ごいちえ: 生涯に一度限りであることに近い人生を、日々歩んでいたわけでしょうか...そうした中で...

との逢瀬があり...皇位をめぐる骨肉の闘争もあったわけですね。

 

  さあ、大津皇子は...石川郎女逢瀬(おうせ)に来られなかった理由が、分かっていたかも知れない

と思えるわけです。その理由とは...おそらく、草壁皇子の存在だったのかも知れません。後で、草壁

皇子を紹介しますが、もまた石川郎女に、熱い想いを寄せていたようです。そして、そうした気遣

からの、約束破りだったのでしょうか。

  つまり、このように解釈すれば...石川郎女が、あえて大津皇子との逢瀬に来なかった理由も、うな

づけるわけです。でも、それは考えすぎで...本当に何かの巡り合わせで、逢瀬に出向くことができな

かったのかも知れませんよね...資料も少なく、これ以上のことは分からないようです...その代わり

に、私たちを様々な想像世界へ誘(いざな)ってくれます。

 

  ともかく...草壁皇子石川郎女に贈った恋歌も、関連歌のように『万葉集』編纂されています。

石川郎女が、草壁皇子恋人でもあったのなら、大津皇子との恋愛三角関係が考えられます。当

時、彼女がどのような仕事をしていて、上司が誰で、どちらが先に親しくなったかなど、様々な要因が考

えられます。それによって、3人の風景も、微妙に異なってくるわけです。

  また、単に...凡人秀才という物差しだけでは...片づけられないものもあります。でも、概して、

2人とも何不自由のない、高い身分があるわけです。その上で、皇太子/草壁皇子の方には、皇后

後ろ盾もあり...それが三角関係にも、強い力が及んでいた、ということなのでしょうか。

  あ、でも...こうしたことは、現代社会においてもありますよね...女性にとっては非常に重要な、

恋愛哲学ということですから...」

「そうですね...」沙織が、唇をすぼめ、コクリとうなづいた。

 



 
 
【巻2-(109)  さ
E  ・・・大津皇子/相聞歌?       109

          大津皇子の竊(ひそ)かに石川郎女に婚(あ)ひし時に...津守連通(つもりむらじとほる)のその

         事を占(うら)へ露(あら)はすに、皇子の作りませる御歌一首...いまだ詳(つばひ)らかならず

*************************************************************

                                     

 

      大船(おほふね)の 津守(つもり)が占(うら)に 告(の)らむとは

                        まさしに知りて わが二人宿(ね)

 

 

【現代語訳/大意・・・巻2-(109)】         



 
  
大船の...泊まる津守(港を守る番人/当時の有名な占い師の、津守の名をかけている)が...

          占いに現すだろうことを...知っていながら...

                 私たち二人は...一夜を共にしたのだ...

 

*************************************************************

 

「うーん...」支折が言った。「このは、どういうことなのでしょうか...?

  あ...津守/津守連通(つもりむらじとほる)というのは...上の添え書きにもあるように、当時の有

名な占い師だったようです。でも、この占い師が、何のために、2人の関係を占ったのでしょうか?そし

て、それを知っていて、一夜を共にしたなどというのは...相聞歌なのでしょうか...?

 

  ええ...石川郎女をはさんで...大津皇子草壁皇子ライバル関係であるとしたら...津守は、

草壁皇子鸕野讚良・皇后依頼で、占ったということなのでしょうか?それとも、占うのではなく、恋の

ライバルを...監視/妨害圧力をかけていた...ということでしょうか?

 

  それで...【巻2-(107)】に詠まれているように...大津皇子待ちぼうけを食らった、とい

うことも、あったのでしょうか?

  草壁皇子東宮/皇太子であり...いずれは天皇即位する身分です。そうした強大な意向という

ものは、宮廷では絶大な力です。また...同じ“天武天皇”御子であればこそ...皇太子ライバル

にもなれたのでしょうか?

 

  うーん...一方、草壁皇子が、純粋一途な青年であったとすれば...余計なことをしていたのは、ま

さに、鸕野讚・皇后なのでしょうか?後の、悲劇の発火を考えれば、その可能性も大きいと思います。

もちろん...どうだったかは分からないわけであり...真実歴史の闇に沈んでいます。

 

  ともかく...監視の目があることを知りながら、大津皇子石川郎女は、一夜を共にしたと詠んでい

るわけです。あえて、このように詠んでいるのは、“人の恋路の・・・邪魔する”...という、強い不快感

あったのでしょうか?

 

  そして...この三角関係勝敗もまた...皇位継承をめぐるライバルへの、陰謀の一端にもなった

のでしょうか。また、天皇即位しても...後々まで大津皇子とは絶えず比較され...邪魔な存在にな

る...ということになったのでしょうか?

  でも、こうしたことが...『万葉集』編纂されているのが...公平な視点が存在していた、ということ

で面白いですね...」

 

 


   【巻2-(110)  さE  【相聞歌】・・・草壁皇子       109

             日並皇子尊(ひなみしみこみこと)の石川女郎(いしかわいらつめ)に贈り賜へる御歌一首

                    ( 女郎(/・・・郎女とは、字が入れ替わっていますは、字(あざな)を大名児(おほなご)といへり )

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                                                          house5.114.2.jpg (1340 バイト)

 

      大名児(おおなご)が 彼方(をちかた)野辺に 刈る草(かや)の 

                     束(つか)の間(あひだ)も わが忘れめや

 

 

【現代語訳/大意・・・巻2-(110)】                   



 
  大名児が...遠くの野辺で草を刈っている時の...

          ほんの束の間も...

                 私はあなたを...忘れることはないのだよ...

 

*************************************************************

 

この歌は...」響子が言った。「私がコメントするのですね?」

お願いします、」支折が、小さく頭を下げた。

「ええ...」響子が、姿勢を正した。「これは...

  日並皇子尊(ひなみしみこみこと)が...大名児(おほなご)に贈った恋歌ですね...日並皇子尊は、

添え書きあるように、草壁皇子のことです。そして、大名児というのは石川郎女です。石川女郎は名前

の漢字が入れ替わっていますが...【巻2-(107、108、109)】と並べて...『万葉集』編纂

れてあることですし、大津皇子恋人/石川郎女同一人物と思われます。

  前にも言いましたが...『万葉集』の中には、石川郎女(/石川女郎)と呼ばれる人物は、何人か出て

来るようです。すべて同一人物なのか、また別人なのかは、はっきりしていないようですね。

  “天武天皇”年齢などもそうですが...当時当り前であっても...千年もの歴史が流れると、

細不明となることが多くなるわけです。でも、そうではあっても、『万葉集』『懐風藻』、そして『日本書

紀』『古事記』を残したことは...日本民族巨大な財産となっています」

はい...」支折が、うなづいた。「私たちも...コメント関係性は、しっかりとしておく、ということです

ね、」

ほほ、そうですね...」響子が微笑し、口に手を当てた。「私たちも...

  まさか、万葉時代の人々同様に...千年後の世で...これほど熱心に読まれているとは思えない

わけですが...一応...丁寧(ていねい)な仕事を心掛けましょう」

「はい...」沙織も、唇を結び、微笑してうなづいた。

 

「さて、ここでは...」響子が言った。「大方の解釈どおりに...

  この歌の石川女郎を、大津皇子の恋人の石川郎女と解釈しておくことにしましょう。すると、大津皇子

恋人であった石川郎女に、草壁皇子恋歌を贈っているわけであり...三各関係が見えてくるわけ

です。

  石川女郎は...恋多き女性であり...宮廷内ではよほどの、ミーハー(流行などに熱中しやすい人)な美

だったのでしょうか。それとも草壁皇子...強烈な横恋慕だったのでしょうか...?

  でも、こうした宮廷の出来事を、皇后/鸕野讚良が知らぬはずはありません。石川郎女も上

手で、よほどの秀才だったのでしょうか?

  宮廷では、かつて歌人/額田王のように...大海人皇子と子をなしたであっても...実力者/

“天智天皇”に取り上げられる...というようなことも、あったわけですね...」

「うーん...」支折が、頭をかしげた。「石川女郎という女性を...もう少し知りたいですよね...」

悲劇の...」沙織が、顔の前で手を握った。「皇子ということで...

  通常なら...歴史上では、大津皇子に味方するところです...でも、草壁皇子の方が先に親しくな

り、気持ちを打ち明けていたとすれば、どうでしょうか...誰にも好かれる大津皇子の方が、横恋慕

て、奪ったということも、考えられなくはないのです...」

「そうかあ...」支折が、サラリと髪を揺らした。「でも...先に友達だったとしても、恋人になるとは限り

ませんよね、」

「そうですね...」沙織が言った。「現代のように...

  女性の権利が保障された、民主主義社会であれば、石川郎女選択ということにもなるのでしょう。

でも、当時は、そんなことはほとんどなかったわけです。おおらかな万葉時代と言いますが、何もかも自

由にできたのは、ごく一部の皇族だけだったわけですわ。それ以外の人々は、厳しい規律の下に置か

れていたのです。場合によっては、首を刎(は)ねられるといった処罰もあったわけです。

  それゆえに...石川郎女も悩んだと思います。そして、大津皇子待ちぼうけを喰らわせたのでしょ

うか。そうすることで、草壁皇子の顔も立てたということでしょうか。もちろん、皇太子も、後々のことを考

えれば、非常に魅力的な存在です...バリエーションは、意外なほど多くあります...」

「そう...」支折が目を細め、萩の風が吹き込む窓を眺めた。「何が、本当だったのでしょうか...」

 

「ともかく...」響子が言った。「この恋歌に対する...

  石川女郎返歌は、『万葉集』には編纂されていません。これも、どういうことなのでしょうか?『万葉

集』“持統天皇”系列化編纂されたものですから、草壁皇子の立場を悪くするものではないので

すが、特に誉めている様子もないといいます。大津皇子は、『日本書紀』でも『懐風藻』でも、賞賛してい

るようですが、草壁皇子そうした記述はないようです...」

 

「ともかく...」響子が、脚を組み上げ、モニターを眺めた。「この後...

  草壁皇子天皇即位させたいと願う...鸕野讚良・皇后謀略(ささや)かれる中で...

津皇子謀反の罪処刑されます。そして、姉/大来皇女も、伊勢斎宮を解かれ、飛鳥へ帰った

ようですね。この様子については、また別の機会に触れることにします。

 

  そして...皇太子/草壁皇子もまた...即位直前薨去し...鸕野讚良皇后/自身が、“第41

代/持統天皇”として即位することになります。大津皇子処刑では、草壁皇子もまた、相当に苦しま

れたのでしょうか?そのことが、彼の命を縮めてしまったということは、なかったのでしょうか?これで、

筑紫に下向した時に生まれた3人の御子は、大来皇女を残すのみとなりました...

 

  それから...すったもんだの挙句...“第42代/文武天皇”(草壁皇子の長男・・・母は“第43代/元明天

皇”であり、“天智天皇”の第4皇女即位となり...“持統天皇”初の上皇太上天皇となって...まだ

い孫(/15歳)“文武天皇”と、並び座すことになるわけです...

  彼女としては、メデタシ・メデタシということでしょうか。女性としての、意地は通したわけですね...」

 


 

 MoMA(ニューヨーク近代美術館)コレクション         

                          

                                          こちらにも、別のもの がございます