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  〔巻1=原・万葉集/天武・ 持統朝

          天武朝/治世白鳳文化   

    石舞台古墳/明日香村・島庄
          

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    女流歌人: 里中 響子

    INDEX                house5.114.2.jpg (1340 バイト)     wpe50.jpg (22333 バイト)

No.1 〔1〕 白鳳文化とは    2011.12.17 
No.2 【巻1-(27)  天武天皇    よき人の よしとよく見て・・・ 2011.12.17 
No.3 〔2〕 天武朝・・・大王から天皇へ 2012. 1.14
No.4           <天武天皇の治世とは・・・> 2012. 1.14
No.5 【巻19-(4260)2首】  〔雑歌/大君賛歌〕  皇は 神にしませば 赤駒の 2012. 1.14
No.6 【巻3-(235)       〔雑歌/大君賛歌〕  皇は 神にしませば 天雲の 2012. 1.14
No.7 【巻2-(103/104) 天武天皇 〔相聞歌〕   我が里に 大雪降れり 2012. 1.14
No.8 〔3〕 天武朝・・・国家建設の線引き・・・ 2012. 1.22
No.9          富本銭 ・・・日本初鋳造貨幣の発行> 2012. 1.22
No.10 〔4〕 天武天皇・・・御在位の風景   2012. 2.12
No.11 【巻1-(23/24)  ・・・ 麻続王が聞きて感傷して和(こた)へたる歌 2012. 2.12
No.12 〔5〕 天武天皇の崩御 2012. 2.26
No.13          <天武朝・・・外交/軍事の考察> 2012. 2.26
No.14          <天武朝・・・文化/宗教の考察>  神道  仏教  道教 2012. 2.26
No.15          【日本書紀 古事記】 2012. 2.26
No.16         【八色の姓やくさのかばね)      2012. 2.26
  推 敲完了                                                               推敲完了 2012. 3.10
No.17          <天武天皇・・・突然の崩御> 2012. 3.17

 

    参考文献

                            Wikipedia  ・・・ 万葉集 (・・・インターネット・サイト・・・) その他       

〔1〕 白鳳文化・・・ 天武朝・持統朝   

           


  響子が...<シンクタンク・赤い彗星ビル・3Fの窓から、冬枯れしていく師走の草原を眺

めていた。空はうっすらと曇り、寒風が吹き渡っていく。まさに、刻々と冬が近づいている様相だ

った。

1300年ほど昔の...」響子が窓辺に肘をかけ、振り返って言った。「あの...〔天平時代〕

も...こうした風景、はあったのですね...」

「ええ...」支折が、作業テーブルから窓を眺めて、うなづいた。

「考えてみれば...」響子が言った。「わずか、1300年とも言えます...

  その間に、濃密日本民族歴史が刻まれ...“今/ここ”に、到達しているわけですね...

でも、この“今/ここ”とは、何処なのでしょうか...その時空構造/1人称的世界(/この世、この世

界は・・・“私”という1人称の窓からのみの視界・・・)の投影とは何なのでしょうか...?」

「...うーん...」支折が、椅子を回転させた。「...わずかか、1300年ですが...

  私たちは、何処からやってきた、何者なのかしら...?...うーん...確かに、1人称的世界

ではあるわけですが...これは、基本的に、重要な鍵になる問題ですよね...」

「そうですね...」響子が、窓辺で口に手を当てうなづいた。「そういうものだ...と言ってしまえ

ばそれまでなのですが...

  この世/この世界/この宇宙が、どうなっているのかという疑問を持つ者には...1人称的世

界/相互主体性世界の...認識構造解は、奥深く興味の尽きないものですわ。この合わせ

のような認識空間で...“ニュートリノ振動”が観測され、“ヒッグス粒子(『標準理論』で、質量を与

えると考えられている素粒子)の発見が...いよいよ間近に迫ってきているわけです。

   私たちは...人間的・バーチャル空間/歴史的・仮想空間の集積/主体的・夢座標に棲む、

ホモサピエンス/日本民族です。その日本民族が、昨今、その基盤が大きく動揺し始めている

わけですね...」

「私たちは...」支折が、髪を揺らし、頭を傾げた。「本当に...何処から来て、何処へ流れて行

くのでしょうか...それが、1人称的世界認識・構造解と...関係があるのでしょうか...?」

「うーん...」響子が、頬に手を当てた。「それよりも...日本の現在が心配です...

  人類は今...“未知の領域/文明の第3ステージ”へ、踏み込んでいると推測されるわけです

が...その未知なる道に...月の光を当てていくのは...やはり、過去/歴史の教訓というこ

となのでしょうか。和泉式部(いずみしきぶ: 平安時代・中期の女性歌人の歌に、こんなのがありますわ...

 

 暗きより 暗き道にぞ入りぬべき                      
           (はる)かに照らせ 山の端(は)の月     

                           (和泉式部 = 平安時代・中期の女性歌人

 

「うーん...」支折が、声を漏らした。「...“暗きより 暗き道にぞ入りぬべき・・・”...ですか、」

  響子が唇を結び、小さくうなづいた。

“山の端の月”とは...」響子が言った。「仏の照らす光/仏の導きを、詠んでいるようですわ。

  “人生の暗く細い道を・・・月の光のように・・・遥かな遠くまで照らしていって欲しい”...と詠ん

でいるわけですね、」

「ふーん...」

「響子、」マチコが声をかけた。インターネット・正面カメラを指差した。

「あ、はい...」響子がうなづき、窓辺を離れた。


            wpe56.jpg (9977 バイト)         
 

「ええ...と...」響子が椅子の背に手をかけ、チラリとインターネット正面カメラを見た。ランプ

が青く点灯していた。

「ええ...<壬申の乱>が終息し...

  この後...673年/天武天皇2年/2月...勝利した大海人は、“飛鳥浄御原宮(あすか

きよみはらみや/・・・“天武天皇”と“持統天皇”の2代が営んだ宮を造って、即位した、ということですね。近江

が滅び、は久しぶりに飛鳥(奈良県/高市郡/明日香村)に帰って来ました...ここまで、支折さん

が、話してくださったわけですね?」     

「はい...」支折が、ユキちゃんの注いだお茶を受け取りながら、うなづいた。

  冬休みに入ったので、またユキちゃんがアルバイトに来ていた。ユキちゃんが来ると、いつもと

は違うにぎやかさになった。ユキちゃんは、響子とマチコの脇にもお茶を配った。

 

「まず...」響子が、モニターを見ながら言った。「【白鳳文化(はくほうぶんか)について...簡単に

説明しておきましょうか、」

「はい...」マチコが、茶碗を口に運びながら、うなづいた。

  ユキちゃんも、自分の茶碗を前において、椅子にかけた。

白鳳文化というのは...

  大化の改新/645大化元年)から ~ 平城京遷都/710和銅年)までの、〔飛鳥時代

開花した、おおらかな文化す。平城京・遷都以降は、〔奈良時代になります。

  この頃に...本格的に、国家が始動しはじめた”と言われています。白鳳文化は、“天武

天皇”・“持統天皇”の時代が中心ですが、一部で、“弘文天皇”/“天智天皇”の時代の文化も

重なるようです」

外国軍との戦争が...」マチコが言った。「“国家”というものを、強く意識させたわけかしら?」

「そうですね...」響子が言い、ユキちゃんにうなづいた。「ええ、いいですか...

  法隆寺聖徳太子(/推古朝)によって代表される飛鳥文化(仏教伝来 ~ 大化の改新まで。538年~645

年)と...東大寺唐招提によって代表される天平文化(7世紀の終わり頃から8世紀の中頃まで。奈良

の都/平城京を中心に開花した貴族・仏教文化)との...中間に位置するのがこの白鳳文化で、ここも1つ

文化の爛熟期(らんじゅくき)に大別されます。

  あの富本銭(ふほんせんなどが鋳造された時代ですね。この銭貨(せんか)は、683(/日本書

』の683年/天武天皇12年の記事の記述に沿っている・・・)につくられたと推定されています。708年に発行さ

れた和同開珎わどうかいちんよりも年代は古く、日本の、最初の貨幣とされているものですね。

  ええと...白鳳というのは、日本書紀に現れない元号1つですが...続日本紀(しょく

にほんぎ: 平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第2に当たる・・・)には、白鳳が記されて

いるそうです。

  白鳳は、天武天皇の時代に使用されたと考えられていますが、天智天皇の時に使用さ

れたとする説もあるそうです。ともかく白鳳文化は、この白鳳の時期に、最盛期を迎えてい

るということでしょう。

「ユキちゃん...」マチコが言った。「飛鳥文化...白鳳文化...天平文化...と続く

わけよ、」

「うん!」ユキちゃんがうなづき、お茶を飲んだ。

 



                                               【巻1-(27)】   【巻1(27)】  

  天武天皇/   よき人の よしとよく見て    天武天皇の吉野の宮に幸(いでま)しし時の御製歌(おほみうた             

*************************************************************

          

     よき人の よしとよく見て よしと言ひし

                吉野よく見よ よき人よく見つ

【現代語訳/大意・・・巻1(27)】           


昔の立派な人が よき所として よく見て “よし(の)・・・吉野” と名付けた...

   立派な人である君たちも この吉野をよく見るがいい 昔の立派な人もよく見たことだから... 

*************************************************************


                           


「ええ...」響子が、マウスでモニターをスクロールした。「この
御製歌(ぎょせいか、おおみうた)は...

  現在の...奈良県/吉野町/宮滝のあたりに存在した、吉野宮で詠まれたのでしょうか...私は

訪れたことがないので、状況がよくわかりませんが...(いにしえ)その頃が、深く偲ばれます。機会

があったら、是非、訪れてみたいと思います。

  この時/679年5月...吉野山山桜も散り...(わらび)の見える頃でしょうか。“天武天皇”

皇后/鸕野讚良(うのさらら)/“後の持統天皇”と...草壁皇子・大津皇子・高市皇子・川島皇子・忍

壁皇子・志貴皇子6皇子を従えて...吉野に来ています。そして、皇位継承での、争いを起こさぬこ

を、6皇子にしっかりと誓わせています...いわゆる、“吉野の6皇子の会盟”です...

  “天武天皇”は、<壬申の乱>の後、着々と支配体制を固めて行きます。その様子は、後で述べます

が...後継者/譲位のことも、しっかりと固めておかなければなりません。とりあえず、東宮/皇太子

は、皇后/鸕野讚良との間の皇子/草壁皇子で、ほぼ決まっていたようです。

  でも...もともと自分自身も...“天智天皇”皇子/大友皇子から、クーデター皇位奪取して

いるわけです。また、大化の改新のスタートとなった、乙巳(いっしのへん/クーデターや、その後

有間皇子ありまみこ: 中大兄皇子にとっては、母/斉明天皇の弟、従兄弟(いとこ)。罪を着せられて処刑のことな

ど、血塗られた身内同士の権力闘争がくり返されてきたわけですね。

  ともかく...血縁内部での抗争に...ここをもって、終止符を打ちたかったわけです...また、それ

天皇家のみならず、すべての人々の願いでした...」

「あ...」マチコが、指を立てた。「ええと...有間皇子短歌があります...」

「はい...」響子が、うなづいた。「どうぞ...お願いします、」

「ええと...」マチコが、モニターを見た。「これは...

   万葉集編纂されているです。【巻-2】の方ですが、ついでにここで取り上げておきます...

                                         

  有間皇子/   家にあれば 笥に盛る飯を・・・     【巻2-(142)】 

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家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)

         草枕(くさまくら)旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る     

 

【現代語訳/大意・・・巻1(27)】

  わが家にいれば 笥/器に飯を盛るのに...

        今は旅に出ているので 椎の葉に盛っていることだ...


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  この歌は...有間皇子が、を着せられ捕らわれの身となって...紀の国/紀伊国/紀州(和歌山

県・三重県の1部)護送されていく途中で詠んだ歌とされています。出家して、を詠み生涯を送るという

希望も、かなわなかったわけですが...この時はまだ、少しの希望はあったのでしょうか...?

  朝鮮半島/“白村江の戦い”で...唐・新羅の連合軍大敗した皇太子/中大兄皇子は...連合

日本に押し寄せてくるのを、非常に恐れていたわけですよね。そのために海岸線島々に、防塁

防人を配備したわけです。

  そうした一環で...に近い大阪/難波宮(大阪市/中央区法円坂から、内陸奈良盆地/倭京

遷都することを、“第36代/孝徳天皇”進言しました。ところがこれは、天皇によって退けられてし

まいます。

  そこで...大化の改新を遂行し、天皇以上の権力を持っていた中大兄皇子は...天皇難波宮

残したまま、大方の人々を引き連れて、倭京に還ってしまいます。この時...有力皇位継承者である

有間皇子の存在は、皇太子/中大兄皇子にとって、放置できないものとなったようです。

  いつ何時、どのような形で...勢力が結集され、反旗を翻さないとも限らないわけです。自分自身

が、クーデターをやっているだけに、心配です。そこで、を着せ有間皇子処刑したようです。この

は、その護送旅の途上に詠まれたそうです...かわいそうですよね...」

「はい...」響子が、うなづいた。「そして...

  大海人皇子/“天武天皇”もまた...同じようにクーデタ ーで、皇位奪取しているだけに、それが

常態化してしまうことを、非常に危惧したわけですね...」

「そうかあ...大海人皇子も、クーデターをしているわけよね...」

「うーん...」支折が、うなづいた。「王族の、身内での権力闘争は...歴史的にも、世界中で見られる

ものですわ...権力者の身内だからこそ、そんな残虐なことができるのかしら...?」

「でも、さあ...」マチコが、首をひねった。「“天智天皇”が...

  長年一緒仕事をしてきた...実弟/大海人皇子...の首を落とすというのは、どうしても信じら

れないわよねえ...人間として、そんなことができるのかしら...?」

  支折が、唇に微笑を作り、ゆっくりとうなづいた。

 

「ともかく...」響子が言った。「“天武天皇”は...

  自分の死後皇子たちが再び争いを起すことを、非常に危惧したわけですね。そこで、自分自身

江朝を追われ...吉野脱出してきた、この地で...皇子たちに、誓いを立てさせることが必要だっ

たわけです。この吉野こそが、格好の地だったわけです...」

「うーん...」マチコが、コクリとなづいた。

当時吉野は...

  霊力の満ちた特殊な場所と考えられていたようです。後に、“持統天皇”が何度も吉野行幸(ぎょう

こう/天皇が外出すること・・・目的地が2か所以上の時は、巡幸・・・)しているのは、こうした霊力の恩恵に浴したか

ったということが、あるのかも知れません。

  まさに...“天武天皇”に詠んでいるように...“よし(の)” と名づけられた吉野の景観の中で、

その霊力の強い場で...また何よりも天武朝出発の地で...皇子たちより強い結束を、確かな

ものとしたかったのだと思います。再び、身内で争うことのないように、盟約させたわけですね...」

「でも...」支折が、肩をかしげた。「大津皇子騒動が...起こってしまうわけですね、」

「そうですね...それは、後で触れたいと思います...」

 

<・・・歌碑・・・>                            


                                


「この歌碑ですが...」マチコが言った。「ええと...色々な所にありますが...上の写真は、吉野郡

下市中央公園のものだそうです」


  〔2〕 天武朝・・・大王から天皇へ               

 
 
   
                  


「ええ...」響子が言った。「くり返しますが...

  大海人皇子/“天武天皇”は...舒明天皇皇極天皇(/後に斉明天皇)の子として生まれ、

中大兄皇子/“天智天皇”、両親を同じくする実兄です。天武天皇皇后/鸕野讃良(うの

さらら)は、その天智天皇娘/皇女で、後に持統天皇となるわけですね..

  “天智天皇”鸕野讃良のほかにも、何人もの皇女実弟/大海人皇子に与えています。当

時は、一夫多妻制で、近親結婚遺伝的に良くないとは知らなかったわけですね。可愛い娘

からこそ、身分の確かな、実弟与えたのでしょう。皇女たちも、身近な男を共同でとして持

ち、高貴な子をなして、雅な生活を維持していたわけです。

  そのあたりから...大らかな・・・万葉時代...と思われるのでしょうが、これは実社会

隔絶した、宮廷やその周辺での話です。その宮中においても、真に自由に振舞えたのは、

皇族のみです。でも、その血縁の中での皇位継承は...非常に血塗られたもの...だっ

たわけですね。

  宮廷には...厳しい身分差別厳しい規律があり...これに背(そむ)いたものには、厳しい処

分/処刑・追放があったわけです。処罰一族にもが及び、追放島流しになった貴族は、

いわゆる都落ちとなるわけです。

  そうした...数々の悲劇に詠まれ、万葉集収録/編纂されているわけです。こうした

罪人や、無名防人なども収められていることが、万葉集評価を高めているようですね。

  こうした意味/視点では、確かに...大らかな・・・万葉時代...と言えるのかも知れませ

ん。でも、これは、編纂者/指導者力量も、高く評価すべきなのではないでしょうか。

  うーん...これは、最初の“持統天皇”柿本人麻呂時代ということになりますが...申し

訳ございません...歌集全体を評価する力量は...まだ私には備わってはいません。

現在、ようやその入口に立ち...はるかな・・・万葉時...を眺めている状態です...」

 

「さて...」響子が、モニターに顔を寄せた。「ともかく...

  “天武天皇”治世14年間...即位からは13年間になります。<壬申の乱>の後も、

海人皇子は、しばらくは美濃に残っていた様子です。それから、飛鳥浄御原宮を造営し、

即位しています。天武天皇治世は、持統天皇治世とあわせ、“天武・持統朝”

されることが多い様です。

  前にも言いましたが...この時期に、〔国家〕というものが、本格的に始動し始めています。そ

れには、海外強大な敵国を背負ったことにより、〔日本/国家〕というものを、強く意識せざる

を得なくなったわけです。

  つまり...“白村江の戦い(663年/朝鮮半島)大敗北があり...唐/中国新羅/朝鮮が、

日本に攻め込んで来る可能性濃厚になったわけです。その、国際的・緊張関係にの下で、

城・防人の体制を敷き、産業・経済・文化の面においても、国力の充実を計らなければなりませ

んでした」

「うーん...」マチコが、頭を横に沈めた。「〔明治維新〕時代と、似ているわね、」

「あ、そうですね...」支折が言った。「白鳳文化が花開き...時代底抜けの明るさのよう

なものも、良く似ているかも知れませんね」

「はい...」響子が、深くうなづいた。「そうした中で...

  〔国家〕というものの...〔統治機構/軍事・行政機構・・・文化・・・宗教〕の...歴史

的・国家の原型〕...が作られた時代と言われています。ともかく天武天皇強烈なカリス

マ性発揮された時代です。

  その後の、“持統天皇”治世は...“天武天皇”路線を引き継ぎ、それを完成させたものと

いう事ができるようです。持統朝発意は多くは、“天武天皇”時代にあったようですね、」

「はい...」支折が、頬に手を当て、うなづいた。

「うーん...」マチコが言った。「“防人の時代”でもあるんだあ...」

「そうですね...」響子が唇の隅に小さなシワを作った。

<天武天皇の治世とは・・・>        

              


「さあ...」響子が言った。「
“天武天皇”治世ですが...

   天武天皇は...<壬申の乱>によって...新たに天下を平けて・・・初めて即位した”

と告げているようです。つまり、“天智天皇”後継者というより...“新しい王統の創始者”...

と、自らを位置づけようとしたということです。〔新しい・・・国造り〕...を始めたということです」

 

そうしたこともあって...」響子が、モニターに目を移した。「“天武天皇”が...

  初めて“天皇”を名のった、とする説が有力なようです...つまり、群雄の中の頭目/大王では

なく、その上となる“天皇”地位の主張です...

  浅学で...詳しくは分かりませんが...天皇・・・天子/天帝に代わって国を治める人・・・帝

...ということでしょうか...」

 

この...天皇の呼称については...

  推古朝(/聖徳太子が摂政)とも、天武朝からとも言われますし...他にも諸説あるようです。でも、

“自他共に認める・・・稀代の英雄”である“天武天皇”が、最もふさわしくも思えるのも確かです。

  いずれにしても...天武朝では、そうした国際的・緊張関係の下で...〔新しい・・・国造り

 スタートした...ということは確かです。まさに、“天命(天が人間に与えた使命)だったのかも知れ

ませんね...」

「うーん...」マチコが、ミミちゃんの頭に手を載せ、大きくうなづいた。

                  

「ええ...」響子が、今度はスクリーン・ボードの方に目を流した。「天武天皇は...

  絶大な権力を持つ...天皇専制・・・専制君主として君臨し...さらに皇親(こうしん)政治

いうものを推し進めます。皇親政治は、人事では皇族/天皇一族要職につけ、他氏族

下位に置くものです。

  そして、自らは...皇族にも掣肘(せいちゅう:肘(ひじ)を掣(ひ)いて妨げたという故事・・・脇から干渉して、人の自

由な行動を妨げること)されず、専制君主として君臨したわけです。これは、武人気質大海人皇子が、

“稀代の英雄”となったわけですから、いかにも必然の流れだったかも知れません。そして、背景

には、国際情勢緊迫があったということです」

「うーん...」マチコが、頬に手を当てた。「...絶対的・専制君主かあ...」

「それは...」響子が言った。「徹底したものだったようです... 

  そんなことができたのは、天武天皇印象、人々に強烈に焼き付けられていたからでしょ

う。吉野逼塞(ひっそく:落ちぶれて世間から隠れ、ひっそりと暮らすこと)し...いざ行動を起こすと、数日にし

数万軍勢を糾合し...それを近江朝に差し向け、1か月ほどで勝利したわけです。

   天武天皇は、まさに奇跡を起こす、希有(けう)な人/神のような人だったわけです。こうし

た、天武天皇崇高な権威象徴するものとして引かれるのが、万葉集におさめられてい

る...大君は・・・神にしませ...ではじまる、複数大君賛歌なのだそうです。これは、

後で、支折さんに紹介していただきます」

「はい...」支折が、唇を結び、うなづいた。

                                     

「ええ...」響子が、マウスに手を置いた。話を進めます...

   “天武天皇”執政は...ひとりの大臣も置かず...法官兵政官などを直属させ...天皇

が自ら政務を執ったようです。そして、要職には皇族をつけたのが特徴で、これを“皇親政治”

言うわけですね。でも、権力/実権は、あくまでも“天武天皇”/個人集中させたようです...」 

「そんなことが...」支折が、頭を振った。「できたということですね...」

強烈な、カリスマ性によって、可能だったと思われます...」

ナポレオンは、さあ...」マチコが言った。「3時間しか眠らなかったというわよね。大丈夫だった

のかしら?」

「うーん...」支折が、微笑した。「ナポレオンフランスと...天武朝日本では、国家の規模

がまるで違うわね...

  でも...ナポレオン人民の皇帝即位しているわけですから...確かに、“天武天皇”と似

ている所もあります。武人気質で、戦略家で...圧倒的な国民の支持があり...絶対的独裁

ということですね。違う点は、ナポレオンの最後は、悲劇的だったことかしら...?...」

ナポレオンは、さあ...」マチコが、指を立てた。「義経と似ているわね...奥州/平泉で討ち

死にした...」

「あ、そうですね...」支折がうなづき、モニターを見ている響子の方を見た。

 

「ええ...」響子が顔を上げた。「いいですか...

   “天武天皇”は...重臣政務を委ねることなく、天皇自ら君臨し、かつ統治した点で...

“史上まれな権力の集中”を成しとげています。“天武天皇”は、強烈なカリスマ性で、“古代/天

皇専制”頂点に達しています

  “武人気質”で...“正義感”が強く...“ずば抜けた優秀さ”がうかがえます...この点は、

ポレオにも、義経にも、共通なのかもしれません。“軍事的才能”...“戦略性”というもの

が、非常によく見えていたのだと思います。

  ただ、残念に思うのは“皇親政治”です。他氏族/一般民衆からの大抜擢というものは、一切

なかったようです。“壬申の乱の功臣”でさえも、地方出身者貴族下位に置かれたままだっ

たようです。こうした意味では、<壬申の乱...“皇位継承争いの・・・域を出なかった、と

いうことになります」

「そうかあ...」マチコが、腕組みをし、頭をかしげた。

「もちろん...」響子が言った。「現代の...

  民主主義や、社会科学常識を当てはめろというのは、な要求です。でも、“絶対的・天皇

専制”確立したわけですから...優秀な人材の登用/抜擢が、〔新しい・・・国造り〕ために

も...欲しかったと思います。でも、これが、限界がだったということでしょうか...

  緊迫した国際状況下では、なおのこと、人材の登用は必要だったと思われるのですが...」

「そうですね...」支折が、唇に指を当てた。「当時は...

  まだ、〔国家・・・大和朝廷というものが...それほど大規模ではなかったのでしょうか。天皇

/個人君臨/統治することが...可能だったからではないでしょうか。そうした意味で、家族

経営/皇族経営のできる規模の、王朝だったのかしら...現在でも、創業者一族君臨する

大企業というのもありますよね...」

「うーん...」響子が、頭をかしげた。「でも...

  “長期的/戦略性の見地”から見れば...“皇親政治”というものには、限界があったのは確

かです。“天武天皇”ほどの人ですから、それは十分に分かっていたと思います。唐/中国

挙制度/中国独特の官僚登用制度で、隋代~清代まで約1300年間続いた。この制度により天子/皇帝は門閥に関係なく、優

秀な官僚を登用することすることができた情報も、飛鳥京には入ってきていたわけですから...」

「そうですね...」支折が、うなづいた。「うーん...その通りです...

  この時期に、唐の都/長安をまねて...条坊制(じょうぼうせい: 南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路/

と、東西の大路/条を、碁盤の目状に組み合わせた、左右対称で方形の都市プラン“藤原京”造営が、着工

(天武5年頃/676年)されているわけです。科挙制度をまねなかったのは、別の意図があったからで

しょうか。“藤原京”が...条坊制をまねても...都市・城壁は作らなかったように...」

  マチコが、2度うなづいた。

「ええと...」支折が、マウスでモニターをスクロールした。「“藤原京”の、本格的・造営が始った

のは、690年持統4年/着工から14年後で...694年持統8年には、“飛鳥淨御原宮”から、“藤

京”遷都しています...完成遷都後さらに10年ほど後のようです...」

「支折...」マチコが言った。「“藤原京”というのはさあ...どこにあるのかしら?」

「あ...」支折が、手で笑いを押さえた。「ええと...

  “飛鳥京”西北部です...奈良県/橿原市です...“飛鳥京”は、奈良県/高市郡/明日

香村ですね...これは、一度、地図を見てもらうしかありません。この時代というのは、いく

つもありました。しばしば新築していたようですよ。

 呼び名は、色々ありますが...時代場所も微妙に異なり...同じ場所拡張 したりも

しているようです。発掘調査で、そうした様子が、少しづつ明らかになってきているようです...」

「うーん...そうかあ...」

「あ...ええと...」響子が、モニターから顔を上げた。「先ほどの、“天皇”呼称ですが...

 1説では“天皇”という呼称は...“天武”という、ただ一人偉大な君主のために用いられた

尊称であり...“天武”“カリスマを継承”するために、“天皇”“君主の号”とすることが、後に

定められた、と言っています。

  ええと...『日本書紀』・・・/“持統紀”に...単に“天皇”とのみ書いて...“持統天皇”でな

く、“天武天皇”を指している箇所があるのが...その根拠だそうです。うーん...そうなのでしょ

うか?」

  マチコが、口を尖(とが)らせ、うなづいた。

それでは...」支折が言った。「...“大君賛歌”を...考察します...」

「お願いします...」響子が、頭を下げた。

 

 


                   【巻19-(4260)】      札ざ雑歌   雑歌・・・大君賛歌〕

   皇は 神にしませば 赤駒の           壬申の年の乱の平定(しづ)まりにし以後(のち)の歌2首

*************************************************************

                 

(おほきみ)は 神にしませば 赤駒(あかごま)

    腹這(はらば)ふ田居(たい)を 都と成しつ   (大伴 御行(みゆき) 

 

大王(おほきみ)は 神にしませば 水鳥の 

    すだく水沼(みぬま)を 都と成しつ        (作者不詳)


 

  【巻3-235)】      〔雑歌・・・大君賛歌〕

                              持統天皇、雷の岳(おか)に出(い)でませる時に、柿本朝臣人麻呂がつくる歌1首

*************************************************************

                        

(おほきみ)は 神にしませば 天雲(あまくも)

              雷(いかつち)の上に (いほ)りせるかも     (柿本 人麻呂

 

****************************

     【現代語訳/大意・・・巻19-(4260)】         


天武天皇は 神であられますので 赤馬/農耕馬が

               腹まで浸かるような水田の里を  都としてしまわれた

 

天武天皇は 神であられますので 水鳥の 

               数多く集まる沼地を 都としてしまわれた

 

【現代語訳/大意・・・巻3-(235)】


持統天皇は 神であられますので 雷雲の 

               電光の上に 庵を結んでおられるのでしょう 

*************************************************************

                   


「ええ...」支折が、マウスでモニターを少しスクロールした。「まず...

  これらは、“雑歌”に分類される、“大君賛歌”といわれるものです。浅学な私が、解説するのは気が

引けるのですが、データをあさり、大雑把なところを述べておきます...御承知おきください。

  最初の歌の作者/大伴御行(おおともみゆき)ですが、『万葉集』では“大将軍贈右大臣大伴卿作”

なっているようです。この大伴卿(おおとも・きょう)は、大伴家持(おおともやかもち)大伯父(おおおじ)/大伴

御行(おおともみゆき)のことだそうです。

  卿作となっていますが...“卿(きょう、けい)とは、律令制八省長官を指します。また、大納言・中

納言・三位以上の人と、四位の参議をいう敬称だということです。“作”は、を詠んだということです。

  ええと...もう一言いいますと...公卿(くぎょう)などと言いますが、これは“公(こう)“卿(けい)

総称になります。“公”の方は、太政大臣・左大臣・右大臣のことです。太政大臣だいじょう・だいじん)は、

律令制太政官最高の官ですが、適任者のない場合は欠員になります。

  それから...明治・新政府職名で同じものがありますが...こちらは、太政大臣だじょう・だいじん

と言い、読み方が微妙に違うようですよ...あしからず...」

 

「...うーん...

  <壬申の乱>では...大伴氏/一族は、“天武天皇”の側についています。大伴馬来田(おおとも

まくた)が、大海人皇子に付き従って美濃国まで行き、その兄/大伴吹負(おおともふけい)は、倭古京(や

まとこきょう/奈良盆地)を占領して、大活躍しています。

  おそらく、そうした積極的・活動の中で...この“大君賛歌”を詠んだ大伴御行活躍し...手柄

立て、大出世したものと思われます。 あ...御行弟/安麻呂の名は、大伴吹負倭古京挙兵

た直後の、連絡・使者の中に見えるようです...この兄弟は、吹負子息ということなのでしょうか。

  それから...大伴御行は、大伴家持大伯父ということですが...大伴家持は、前にも説明してい

ますね“36歌仙の1人で...『万葉集』には479首も掲載されていて...『万葉集』成立にも、深

かかわっている人物です」

 

話は異なりますが...

  『竹取物語』に登場する、“大納言・大伴のみゆき”は、彼をモデルにしたとされています。あ、 『竹取

物語』というのは、から生まれてに帰るという、“かぐや姫”の話ですね。

  この広く知られている物語は、まさにこの時代をテーマにしているわけです。この『竹取物語』は、“日

本最古といわれる物語”で...成立年・作者とも不詳ですが...仮名(かな/・・・ カタカナ、ひらがな、万葉か

な・・・)によって書かれた、最初期物語なのだそうです...」

 

2番目の歌の、作者不詳はおくとして、次の...

   【巻3-(235)】は...天武・持統朝宮廷歌人/柿本人麻呂が詠んだものです。うーん...“皇

(おほきみ)は 神にしませば・・・”...とは大げさなわけですが...これは“大君賛歌”であり柿本

人麻呂宮廷歌人なのですから、それが仕事だったわけですね。

  ここの“皇(おほきみ)は...“天武天皇”を指しているかとも思われるのですが...“持統天皇”に伴

われて、“雷(いかつち)の丘”に行っているわけです。したがって、【現代語訳/大意】では、“持統天皇”

ということにして置きました。本当は、両方なのかも知れませんね。

 

  あ...ええと...“雷の丘というのは、明日香村北西/甘樫の丘にある...“ほんの小さな

丘/小山とも呼べないようなコブ”...の様な所です。

  『日本霊異記』によれば、“第21代/雄略天皇『万葉集』の巻頭/【巻1(1)】の歌の作者)、が小子部(ち

いさこべ)の栖軽(すがる)という者に...“雷を呼んで来るように”...と申しつけたそうです。うーん...

この時代の、“天皇・・・雄略天皇”は...こんなことを命令していたのでしょうか?」

「ホホホッ、」マチコが、笑い転げた。

  響子も、口をすぼめた。

「そこで...」支折が言った。「栖軽は、さっそく宮殿を退出し、呼びに行きます...

  軽の諸越の町中(?)につくと...“天の雷神よ・・・天皇がお呼びであるぞ”...と叫んだといいます。

そして走り帰ると、豊浦寺飯岡の中間の所にが落ちて来たので、輿に乗せ宮殿に運ぶと、また激し

光を放ったそうです。

  “雄略天皇”は...これを恐れ...に供え物をし...落ちて来た所に...返したそうです。

この場所が、つまり、“雷の丘”です。

  その由緒のある丘へ、“持統天皇”行幸した折に...柿本朝臣人麻呂が詠んだ1首いうことです

ね...」

「そうかあ...」マチコが、うなづいた。「それで、今度は...

   雷の上に りせるかも・・・...となるわけかあ...下に敷いている...わけよね...」

そうですね...」支折が言った。「大王は...天孫ではなく、神そのものになったのでしょうか...

  ええ...この辺りは...さらに考察を深めながら、日本民族の歴史というものを、学んでいきたいと

思います」

「はい...」響子が、両手を結んだ。

  



                     【巻2-(103)】  【返歌/巻2-(104)】  戯れ歌・・・相聞歌〕

  我が里に 大雪降れり   天皇の藤原夫人(ふじわらのぶじん)に贈へる歌1首  その返歌(へんか/かえしうた)1首  z

*************************************************************

         

 我が里に 大雪降れり 大原の 

                古(ふ)りにし里に 降らまくは後(のち)    (天武天皇)

         

わが岡の おかみに言ひて ふらしめし 

                雪のくだけし そこに散りけむ            (藤原夫人/妃)


                           

************************************************************

【現代語訳/大意・・・ 巻2-(103/104)】  


私のいる飛鳥の里には いま大雪が降っている...

                    君の大原の 古びた里に降るのは もっと後のことだろうね...

 

私の岡の 神様にお願いして降らせて貰った... 

                    雪の破片が そちらに散ったのでしょう...

 

************************************************************

 

「ええと...」支折が口に手を当て、笑みを作った。「...ホホ...

  このは...“天武天皇”が、妃/藤原夫人(ふじわらのぶじん)に贈った歌ですね。この藤原夫人

原鎌足(中臣鎌足/・・・中大兄皇子とともに大化の改新を行った重臣の娘の、五百重(いおえ)(いらつめ)のこと

で、“天武天皇”夫人の1人/妃(きさき、ひ)です。

 (きさき、こう)は、第1位/鸕野讃良=後の“持統天皇”で、第2位ですね。一夫多妻制の時代

で、何人もいたようです。たちも、そうしたことで、それなりに満足していたわけですね。そして、

後宮(こうきゅう: 天皇の妻妾が住む殿舎)を統制できたのが、皇后というわけでしょうか...」

「ええと...」響子が、顎に手を当てた。「少しというか、だいぶ違うようです...」

「あら、そうかしら?」

飛鳥時代・奈良時代には...

  皇后の下に...妃・夫人・嬪(ひん)の、3種類配偶者がいたようですわ。はいちばん下位です。

婦人の美称で、“別嬪(べっぴん)などとも言うわけですが、この場合は天皇の側室です。それから、

天皇につかえる女官呼称にもなるようですね、」

ともかく...」支折が言った。「夫人は違うわけですかね...その下位が、ですか...」

「そのようですね...」響子が、微笑した。「でも、...

  平安時代/初期には、これは称されなくなり、皇后の下は...中宮・女御・更衣・御息所・御匣殿

称するようになったようです...この呼称については、平安時代の折に、考えることにしましょう...」

「はい...

  うーん...藤原鎌足は、天皇の娘/皇女ではないということで...皇后にはなれなかった

のでしょうか...?」

「そうかも知れません...当時としては、第1位/皇后になるのは、難しかったかも知れません...」

研究の余地ありね...」マチコが言った。

「そうですね...」支折が、うなづいた。「また、浅学をさらしてしまいました...

  ええ...ともかく...大原の里/藤原夫人の住んでいる里...というのは、藤原一族の地で、飛鳥

坐神社のすぐ東にありました。したがって実際には、“飛鳥宮/飛鳥浄御原宮”大原の里は、1キロ

程度の距離です。“飛鳥宮”に雪が降れば、当然、大原の里にも雪は降ったわけですよね。

  つまり、これは... “天武天皇”が、大原の里をからかって詠んだ、“戯れ歌(ざれうた)なのです。当

時の...1つ愛情表現であり...“相聞歌(そうもんか)なのでしょう...」

うーん...」マチコが言った。「これが、“相聞歌”かあ...」

  支折が、ゆっくりとうなづいた。

 


  〔3〕 天武朝・・・国家建設の線引き!       
               


「さあ...」響子が言った。「天武朝/“天武天皇”治世の...〔新しい国造り〕...ですが、

とても簡単には語りつくせません...

  大局的に見て...“天智天皇”崩御し...<壬申の乱>を経て...“天武天皇”が即位し

ても...朝鮮半島/“白村江の戦い”で...大和朝廷/遠征軍大敗北を喫して以来...

迫した国際情勢いていたわけですね。戦争は、終結しているわけではないのです...

  この<国際的・国難>対処するには...引き続き、西国海岸線の防備を固め...防人

の制度を続行し...軍事力~総合的・国力を充実させ...天皇を中心とした、豊かな律令国家

建設急務でした。

  皇位継承正当性に決着をつけても、外国軍侵略を許してしまっては、すべてが水泡に帰

してしまいます。こうした中で、“天武天皇”強烈なカリスマ性が、最大限に発揮されたようで

す。“皇親政治”を打ち出したのも...“この非常事態下における・・・天皇専制の強化...だっ

たのでしょうか」

 

 「ええ...」響子が肩を回し、スクリーン・ボードを見た。「“天武天皇・持統天皇”2代にわたる

皇宮となった...

   “飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらみや)...は、“斉明天皇(第37代天皇=天智天皇・天武天皇の母/

=第35代・皇極天皇/第34代・舒明天皇の皇后・宝皇女でもある・・・/【巻1-(3)(4)】の作者)が造営した...“後

飛鳥岡本宮”(のちあすかおかもとみや)...を再整備・拡張した宮殿と考えられています...」

「うーん...」マチコが、頭に手を当てた。「そういうことなのかあ...」

「はい...」響子が、唇で微笑した。「“飛鳥浄御原宮遺構(いこう: 昔の建築の残存物)は...

  その北西に...広大な苑池(えんち)遺構も発掘されています...当時の、華やかな宮廷生

舞台の一端を偲ばせています。そしてには飛鳥寺があり、その東南の谷には...当時

(7世紀後半~8世紀初頭)の、古代・総合工房跡/“飛鳥池遺跡”(遺跡の名前は、遺跡の上に作られた近世の“溜

池/飛鳥池”に由来する)があります...」

「はい...」マチコが、コクリとうなづいた。「その“溜池/飛鳥池”の底から、大きな古代遺跡

発見されたわけですね?」

「そうです、」

               

「ええ...」響子が、スクリーン・ボードの発掘の写真を眺めた。「この、“飛鳥池遺跡”は...

  飛鳥最先端・総合工房で...1991年(平成3年)...“飛鳥池”埋立て工事にともなう

事前調査で、“池の底に眠っていた遺跡”が発見されました。そして、そこに...“万葉文化館・

建設計画”...というのが持ち上がり、1997年から3年間に及ぶ、大規模発掘調査が行われ

たようです」

「うーん...」支折が、肘を抱き、首をかしげた。「つい、最近のことなのですね...」

「そうですね...」響子が言った。「ここで発見された、炉跡(ろあと/・・・炉で坩堝/るつぼの金属やガラスな

どの鉱物を溶かした)は、300基近くに及ぶそうです。

  他に例を見ない...大規模/工房遺跡であることが分かりました...ええと...この、最先

端・総合工房についても、簡単に説明しておきましょうか?」

「あ、お願いします...」支折が、小さく頭を下げた。

「この大工房は...」響子が言った。「南北は、130メートル以上に及んでいて...

  先で、西の谷筋東の谷筋に分かれています。両岸雛壇(ひなだん)に造成されていて、

西の谷の最奥部には、金・銀・ガラス工房跡が発掘されました。一方、東の谷両岸には、銅・

鉄・富本銭工房跡が発掘されています。それぞれ、業種別配置されていたようです...」

「うーん...」支折が、深くうなづいた。「工房仕事も大変ですが...金・銀・財宝銅銭

も、厳しかったわけですね...?」

「そうだったと思います...」響子が、口に手を当てた。「ともかく...

  金・銀・銅・鉄金属加工...そして、ガラス・水晶・琥珀(こはく: 地質時代の樹脂の化石/黄色で半透明)

を使った(ぎょく)の生産...漆芸(しつげい: うるし工芸)...鼈甲(べっこう: 海亀の一種/タイマイの甲を加工

して作った装飾品の材料。クシ、ブローチなどをつくった)細工...屋瓦(おくがわら)の焼成などが行われていたよ

うです」

“富本銭”も...」マチコが言った。「作っていたわけね?」

「はい...」響子が、子猫の頭に手を置いた。「“富本銭”については...マチコさんが調べて下

さったわけですね...」

「そ...」マチコが微笑した。

「あ、でも...その前に...

  この、“飛鳥池遺跡”から見えて来る...天武・持統朝/時代の...最先端・総合工房につ

いて、その遺物写真で見ておきましょう。当時の...装飾品文化宗教(/押出仏)などから...

鋳造貨幣製造発行、その流通までが見えてきます...」

「はい...」マチコが、うなづいた。

  支折が、スクリーン・ボードを操作した。古代・総合工房/“飛鳥池遺跡”から出土した、工房・

遺物の写真を表示した。

 

***********************************************************************


<写真は・・・“奈良文化財研究所創立50周年記念・・・飛鳥・藤原京展”・・・『出版物』に掲載されていたのものです。

                                          開催/・・・東京都美術館・2002年8月10日~9月29日>

               

飛鳥池遺跡・出土宝玉類                 飛鳥池遺跡・出土/ガラス坩堝(るつぼ)・ガラス玉の鋳型・ガラスの原料 

 

            

飛鳥池遺跡・出土/漆(うるし)が付着した土器      飛鳥池遺跡・出土/金を溶かした坩堝(小)・銀を溶かした坩堝(大)・銀片と金片

 

          

飛鳥池遺跡・出土/銅工房・・・こしき炉・坩堝・羽口・溶銅       飛鳥池遺跡・出土/飾り金具を切り出した後の銅切屑


                              

鳥居古墳・出土/押出仏               飛鳥池遺跡・出土/鍛冶工房の遺物・・・       飛鳥池遺跡・出土/大小様々な砥石

原型は飛鳥池遺跡のものと酷似    クギ、ヤスリ、刀子(とうす)などが、見本をもとに

                       同一製品が大量生産されていた

 

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富本銭 ・・・日本初鋳造貨幣            富本 

      

開元通宝(左/唐銭) 富本銭(右/開元通宝をまねる)  和同開珎(上/同じく開元通宝をまねる)     飛鳥池遺跡・出土/・・・富本銭

 

「ええ...」マチコが言った。「“富本銭”について、少しデータを集めてみました...

  これまで、日本最初の貨幣は...“和同開珎”(わどうかいちん、わどうかいほう)/708年(和銅元年)

の、鋳造貨幣と考えられてきました。

  でも...“飛鳥池遺跡”発掘調査で...1998年に...“富本銭”と呼ばれる銅銭/鋳造

貨幣が、7世紀後半量産されていたことが判明しました。“和同開珎”発行708年ですか

ら、8世紀に入るわけですよね。“富本銭”は、7世紀末には、相当量が出回っていたようです、」

  響子が、コクリとうなづいた。

「ええと...」マチコが言った。「“持統天皇~上皇(・・・生前に、第42代/文武天皇に譲位・・・)の...

  崩御は、702年ですから...“和同開珎”“文武天皇(/707年に崩御)の後の...“第43代

/元明天皇(・・・文武天皇の母/天智天皇の第4皇女/天武・持統の間の皇子/草壁皇子の正妃)の時代になるわけ

ですね。あ...ええと、“富本銭”は、“天武天皇”の時代の発行ですよね...」

「うーん...」支折が言った。「このあたりは、血脈が非常に入り組んでいるので、少し説明して

おきましょうか...

  まず...“天智天皇”第1皇女大田皇女(おおたひめみこ)で、大津皇子であり...第2

皇女/鸕野讚良(うのさらら)とともに...大海人皇子/“天武天皇”となっています。大田皇

大津皇子5歳の時に早世しています。

  もし、大田皇女が生きていれば...彼女が皇后となり...後の、“大津皇子の悲劇”もなかっ

たのかも知れませんよね...ええ、これは少し後で、考察します...」

  マチコが、無言で支折からスクリーン・ボードのコントローラーを取り、画像をスクロールした。

「あ...」マチコが言った。「これですね...

  ええ...『日本書紀』/“天武12年(683年)4月15日条”に、こういう(みことのり: 天皇の言葉。天皇

の命令を直接に下す文書)が記されています。

   “今より以後・・・必ず銅銭を用いよ・・・銀銭を用いることなかれ”...と...つまり、この“富本

銭”が、『日本書紀』/“天武紀”に記載される、銅銭可能性が高まったわけです。うーん...

間違いないと思うのですが...ここは、一応、可能性ということですよね。

  あ、それから、3日後には...“銀銭を用いること・・・止むることなかれ”...ともあるようです

ね。ホホ...やっぱり銀銭も必要だったということです...うーん...“天武天皇”皇后/

野讚良(うのさらら)の...“笑って・・・首をかしげている様子”...が、偲ばれます...」

「フフ...」支折も、楽しそうに唇をすぼめ、手を結んだ。

 

「ええ、ともかく...」マチコが言った。「この“富本銭”というのはさあ...

  唐/中国“開元通宝”(かいげんつうほう/621年に初鋳上に写真があります模倣して作られた、日本

最初鋳造貨幣ですよね...銭文には、“民や国を富ませる本(もと)という願いを込めて、“富

本”二字が用いられたようです。こういう記載が、『日本書紀』/“天武紀”にあるのでしょうか?

  東アジアにおいては...に次ぐ鋳造貨幣発行が...この大和朝廷/天武朝の、“富本

銭”になるようです。日本では、それ以前は、“無文銀銭”が使われていました。これは、真中に

があるだけで、円形の形も大きさもマチマチの銀銭です。これは、鋳造したものではないわけ

ですよね...」

「はい...」響子がうなづき、腰に手を当てた。

「それから...」マチコが、続けた。「これは、確認してあるわけではありませんが...

  唐銭/“開元通宝”なども...当時の日本流通していたのでしょうか。もちろん、これは、

高い文化の香る、最新・貨幣だったわけですね。でも、とは戦争に突入してしまうわけで、

当然、唐銭/“開元通宝は、輸入できなくなるわけですよね。

  もともと...大和朝廷は、朝鮮半島/百済王国(/百済観音=法隆寺所蔵の国宝・・・の名前の由来がある)

交流があり...その王国の再興をかけて、“白村江の戦い”に臨み...唐・新羅の連合軍

大敗しました。

  以後...大陸の進んだ文化移入は断たれ...鋳造貨幣も入ってこなくなったのでしょうか。

そうなれば、自ら製作するほかなかったようです。大陸との国際情勢は、非常な緊張状態にあっ

たわけです...鎖国ではありませんが、そうした状況でした...」

「うーん...」響子が言った。「...そういう事情も、あったわけですね...」

「...と、思います...」マチコが、うなづいた。

「はい...」
 

***********************************************************************

          

<無文銀銭>・・・機内およびその周辺の16遺跡から出土。天智朝の頃にはすでに存在していた。大和7遺跡、近江5遺跡、摂津・

河内・山背(やましろ)・伊勢の各1遺跡から出土。7世紀後半頃に都が置かれていた、大和・近江に集中している。線刻や刻印のあ

るものもあり、切断されたものも出土している。これは、銀地金と同列に扱われていたことを物語っている。

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「ええ...」マチコが、両腕を開き、スクリーン・ボードを眺めた。「もう一度、言うと...

   “富本銭”/銅銭の前まで使われていた...“無文銀銭(無地の銀銭)は...直径/3センチ前

...厚さ/2ミリ前後銀円盤に...さらに銀片を張り付け...重さ/10グラム前後とし、

銀銭としていたようです。

  このような銀銭が、貨幣・機能を持って、流通していたようです。そして、そうした1部が、廃寺

や、遺跡から出土しています...」

「はい...」支折が言い、その画像を拡大した。

「うーん...」響子が、口に手をやった。

  3人で...スクリーン・ボードの、緑青(ろくしょう: 銅や銅合金の表面にできる緑色のさび・・・銀銭にも浮いている

ようです)の浮いた古代・コインを眺めた。

  ポン助が、向こうでお茶の用意をし、焼き芋を皿に乗せていた。

               wpe56.jpg (9977 バイト)          


朝鮮半島の...」支折が言った。「百済(くだら)高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)よりも...鋳造貨

発行は、早かったということですね?」

「そ...」マチコが、うなづいた。「この“富本銭”は...

  対抗する...〔新しい国造り〕...の、象徴としての意味もあったようです。そういう意味

では、唐/長安条坊制を真似た...“藤原京”...の造営/着手(天武5年頃/676年)も、天武

で始まっているわけよね...」

「そうですか...」支折が、口を結んだ。

「ええと...」マチコが、自分のモニターの方をのぞいた。「ともかく...

  唐銭/“開元通宝”が...最初に鋳造されたのが、621年です。 『日本書紀』/“天武12年

(683年)4月15日条”...のは、それから62年後になります。その時には、かなりの量“富

本銭”が、準備されていたものと思われます...〔新しい国家体制の・・・スタート〕...です」

「はい、」支折が、うなづいた。

 「うーん...」マチコが、スクリーン・ボードをスクロールした。「遣唐使船の往来は...

  何年かに、一度でした。そうした状況などを考えると、技術の移入スムーズだったようです。

渡来人が、かかわっていたのでしょうか?」

  響子が、うなづいた。

「そうですね...その人たちの技量なくしては...難しかったでしょう」

「うん...」マチコが言った。


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飛鳥池遺跡・出土/富本銭と鋳棹(いざお)   レプリカ/(複製)の富本銭    レプリカ・・・鋳造/富本銭の枝銭(えだせん)

 

               

飛鳥池遺跡・出土/富本銭の未完成品とヤスリ            各地で出土した富本銭・・・奈良県の平城京藤原京のほか

                                         に、大阪府、長野県、群馬県などの遺跡や古墳からも出土

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「これは...」マチコが、モニターを見ながら言った。「出土した“富本銭”と、レプリカ(複製)です。

  “富本銭”製作/技術復元結果に基づいて...製造/実験をしたものだそうです。“富本

銭”は、アンチモン(元素記号:Sb、原子番号:51、原子量:121.8。普通は銀白色の光沢のある金属。単体・化合物

ともに有毒。活字合金や半導体材料等に利用)合金で作られていたようです。

  再現された“富本銭”は...金色を帯びた、淡く美しい銅色の輝きを放っていたそうです。現在

新品の5円玉10円硬貨中間の様な金属の色でしょうか...ともかく、写真を見てくださ

い。それに近いと思います。当時も、砥石で磨いた完成品は、よほど美しかったと思われます」

「ふーん...」支折が、スクリーン・ボードの画像をさらに拡大した。「...そうですね...金属

美しさというのは...写真では表現できないものがありますよね...」

鋳型(いがた)は...」響子が言った。「どうやって作ったのかしら?」

「それは...」支折が、響子を見た。「砂型(すながた)ではないかしら...

  表側種銭(たねせん)40個と、裏側種銭40個を作り...それを流路で結び...合体させた

のではないかしら...」

コインを、に押し当てて?」

「そ...」マチコが言った。「あ...一応、調べてあるので、説明します...

  それは...現代のベーコマ(小さなコマの一種/大正時代~戦後の高度経済成長期頃まで盛んに作られた、子供の

玩具)を作るのと、同じじゃないかしら。要するに、砂型を合わせて、湯口からを流すよ

うに、湯口を上になるように置きます。

  そして、坩堝(るつぼ)溶けた銅湯口から注ぎ込み...冷めたら砂型を壊します。それが、

写真にある鋳棹(いざお)にくっついた枝銭(えだせん)になります。次に、それを鋳棹からもぎ取り、

スリをかけるのだと思います。この時...四角形の穴鉄棒を通せば...何枚もまとめて、ヤス

をかけられそうです」

「うーん...」響子が、うなづいた。「円い穴では...回転してしまうというわけね?」

「そう...

  それから、さらに...表面裏面側面に...ていねいに砥石(といし)をかけて、完成したよう

です。工房で、分業・製作すれば、かなりの量を作ることが可能だったそうです」

「これが...」支折が言った。「物々交換から、貨幣経済促進していったわけですね...」

  響子が、うなづいた。


  〔4〕 天武天皇・・・御在位の風景              

              

「ええ...」響子が顔をあげ、インターネット正面カメラに向かって頭を下げた。「“天武天皇”

治世について...語ってきたつもりですが...とても語りつくせたとは思われません...

  “肉食の禁止”(みことのり)なども発し...歴史的に、日本人の肉食の慣習を禁じて来た

も...支折さん...“天武天皇”に遡(さかのぼ)るわけですね...?」

「あ、そうです...」支折が、白い歯を見せた。「それは、ええと...与謝蕪村・選集/4・・・日

本人の肉食制限の歴史...で考察しています。

  天武4年675年・・・即位四年目)に...“詔/勅”(みことのり: 天皇の言葉。天皇の命令を直接に下す文書)で...

“牛・馬・犬・猿・鶏を・・・食することを禁止”...しました。つまり...“天武天皇の詔が・・・

最初の肉食禁止令”...だったようです。

  それが、“殺生を禁じる・・・仏教的思想(殺生は、仏教では最も重い罪の1つとされる)と結びつき、“日本

人の・・・歴史的な慣習”となったわけですね。私も、ベジタリアン/菜食主義者というわけではあ

りませんが、小さな頃から肉食敬遠してきました。その影響下にあったわけですね。

  うーん...すごいことだと思います。肉食に関しても...土着/神道世界宗教/仏教との

も...貨幣経済も...この時代を発しているようです。まさに...<新しい国造り>...

がスタートしているわけです」

                                   <肉食に関しては・・・詳しくは、こちらへどうぞ> 

「はい...」響子が、頭を下げた。「ありがとうございます...

  ええ...ともかく色々あった様ですが、話を進めたいと思います。“天武天皇”は、即位して間

もない、天武2年(673年・・・即位して2年目)5月1日に...初めて、宮廷に仕える者を、まず大舎人(お

おとねり)とし...ついで、才能によって役職につける制度を、用意したようです。これは当然のこと

のようですが、皇族貴族の支配する朝廷では、風通しが悪かったわけですね。

  あわせて...婦女望む者には、みな宮仕えを許したようです。ホホ...ずいぶんと気前の

いい話ですが...もちろん、一定の資格が必要だったわけです。『日本書紀』/“天武紀”に記述

する上で、こういう表現になったのでしょうか...?

  それから...天武5年(676年・・・即位して5年目)1月25日には...畿内(きない/都に近い地)・陸奥(む

つ/奥州)・長門(ながと/長州)以外の国司には、大山位以下任命することを定めた、とあるようで

す。うーん...詳しいことは分かりません。でも、これが...官位相当制(律令制において、官人に付与

する位階と官職との間に、一定の相当関係を設定した制度)の端緒となったようです。

  また、同じで...外国(畿内ではなく・・・畿外)の、(おみ)・連(むらじ)・伴造とものみやつこ・国造くにの

みやつこと...“特に・・・才能がある庶人”に...への出仕を認めています。

  そして...天武7年(678年)10月26日には...毎年官人の勤務評定を行って...位階を進

めることとし...その事務法官がとること...法官官人については、大弁官がとることを定

めた...とあるようです。詳しいことは分かりません...

  ええ...一端を紹介してみました。“皇親政治”を行ったといっても、皇族天皇のみで、国家

動かせるわけではなかったわけですね。“特に・・・才能がある庶人”などは、当然、勤務評定

でも高く評価され、頼られることも多かった...かと思います」

「そうよね...」マチコが、うなづいた。「天武朝というのはさあ...

  やっぱり...“飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらみや)だけではなく...ここを中心に、畿内

西国東国まで...支配を広げていたわけよね、」

「そうですね...

  江戸時代の様な、街道というものはまだまだ未整備でした。東国から、西国/九州へ向か

の旅も、よほど大変だった様子です。それが、防人歌などにも詠まれているわけですね...

任務を終了し、故郷に帰れた人は何割いたでしょうか...」

「うーん...」マチコが口にコブシを当て、うなづいた。

徳川幕府の端緒となる...」響子が言った。「<関ヶ原の合戦>が、1600年です...

 武7年(678年)は、その頃よりもさらに、1000年近く昔の時代です...でも、その頃の日本

も...初めての銅銭を手にし...山陽道東海道を旅し...そうしたつらい兵役を、に詠

んでいたわけですね。

  防人歌が収録されているのは...ええと、万葉集-巻14ですね...そのうちに、お目に

かかれると思います」

「はい...」マチコが言った。「そうかあ...

   “天武天皇”の時代というのは...<関ヶ原の合戦>よりも、1000年近くも、昔の話なんだ

あ...ずいぶん、昔ということよね...」

「そうですね...」響子が、うなづいた。「時の流れが、現代のように忙しくはなく...ずっと緩や

だったのでしょう...」

「そうした時代に...」支折が言った。「戻すことが必要ですわ...

  それが...私たちの提唱している、〔人間の巣のパラダイム〕の、究極の目標ということにな

るのでしょうか...」

「はい...」響子が、唇を引き結び、うなづいた。

           

「ええ...」響子が、バレッタ(髪留め)に手を触れた。「いいかしら...

  “天武天皇”治世/日常の政治とは...どのようなものだったのでしょうか...私見も交え、

ちょっと想像してみることにしましょうか...」

「はい...」支折が、顔を輝かせた。「お願いします!」 

  響子が微笑し、うなづいた。

「おそらく...

  “天武天皇”は...1日中政務忙殺され...次々と、決断を下しておられたのだと思われ

ます。専制天皇の政治で、独裁ですから、非常にお忙しかったと思われます。前に、マチコさん

が、ナポレオン3時間しか眠らなかったと言いましたが、集中する時は、“天武天皇”もそうだっ

たかも知れませんね」

  「はい、」マチコが、うなづいた。

 「“天武天皇”は、武人気質なことは疑いのないところです...

  一方、非常に繊細で...感度の高い...自己完結型の...非常に高度な感性を...併(あ

わ)せ持っておられたのではないでしょうか。皇子/皇太子という最高の地位にあり、そうした

(けう/非常に珍しいこと)な人格が、豊かに醸成されていたように思います。

  それほどの高潔な人格でなければ...“天皇専制の頂点”をきわめ、未曾有の国難の時代を、

自らの指導の下で、切り開いていくことはかなわなかった、と思います。理想肌の、繊細な情緒

空間を持つ半面...武人肌男らしい気質行動力が...未曾有のカリスマ性を、磨いて来ら

れたものと思います。

  おそらく...そうした2面性が、波乱万丈な人生の中で、数多(あまた)の危機を救ってきたもの

と思われます。その才能/力量は、大化の改新朝鮮出兵などでも発揮されてきたわけです

が、最も光を放ったのが...近江朝/大津脱出から...吉野脱出/出兵...<壬申の乱

...の時だったと思われます。

  文化的な功績については、即位してからの後の...<新しい国造り>...として発揮される

わけですが、その治世にも、武人気質全体を彩っているようですね。白鳳文化の全体とな

ると、もっと広い範囲になるわけですが...」

「はい...」支折が、強くうなづいた。

「ええ...」響子が、続けた。「そうしたことから...推測すると...

  即位後“天武天皇”日常は...朝から晩まで...国中あらゆる人々を次々と招き、話

を聞き、決裁し...また、次々にわきあがる疑問を、来訪者に問い質(ただ)していた様子です。

  毎日毎日...そのようにして万物を見聞し...あらゆる人々と接し...そばに控えている

官人にも、絶え間なく問い続け...周囲の人々を困らせたりもしていた様子ですね...

  うーん...話の内容は...諸国の様子や、苦情陳情大災害の様子...また、紛争の決

なども、求められたのもかも知れません。良き人も、悪しき人も、(だま)す人もいたかも知れま

せんね。

  そうした所が、【巻1-(27)】の...よき人の よしとよく見て よしと言ひ...にも、う

かがうことができます。

  それから...朝鮮半島大陸の様子は、軍事戦略的な観点からも...喉から手が出るほど

欲しかったわけですね。当然、そうした軍事的・探索もし、その配備・統括していたはずです。こう

したことが、綻(ほころ)びなく行われていたということは...高度な統治賜物(たまもの)です。

  また同時に...“飛鳥池遺跡”/古代の最先端・総合工房の運営を開始していました。それ

らの完成品は、次々と“飛鳥浄御原宮の方に、届けられて来たと思われます。

   “天武天皇”は...来訪者に、そうした宝飾品銅銭下賜(かし: 高貴な人が、身分の低い人にも

のを与えること)したり...華やかな宮廷生活一面も織り交ぜられ...忙しい日々を、送られてい

たのでしょうか...」

                                             

“天武天皇”は...」支折が、スクリーン・ボードに目を向けながら言った。「厳しい粛清(しゅくせい)

と、威嚇(いかく)も行ったようですね。そのことについて、少し調べておきましたので、コメントを入

れておきたいと思います」

「はい、お願いします...」響子が、脚を組み上げた。

「ええ...

  “天武天皇”“皇親政治”というものも...単に皇族甘やかす、というものではなかったよう

です。“天武天皇”は、皇族高い官位の者<壬申の乱>の功臣に対しても、多くの流罪以下

処分を下しています。

  最初の処罰は...天武4年(675年)4月8日で...当摩広麻呂(たいまひろまろ/用明天皇の孫、壬申

の乱の功臣)と、久努麻呂(阿倍氏の一族)が、朝参(宮に仕事に来ること)を禁じられています。いずれも理由

は不明で、後に赦免されているようです。ホホ...おそらく、不埒(ふらち)なことをしていたのでしょ

うか。ところが、これからの宮中は違う、ということを示したのでしょう。

  以後...同年/4月23日には...高官である三位(さんみ/位階の第三位・・・正三位と従三位がある)

麻続王おおきみが、因幡(現在の鳥取県東部)流刑になっています。

  さらに...同年/11月3日には...東の山に登って、妖言して、自殺した人物も出たよ

うです。妖言の内容は伝わっていないそうですが、“天武天皇”政治を、強く批判してのものと

思われます。したがって、よほどの粛清威嚇の下に、行政改革が行われていたのでしょうか。

いつの時代も、こうしたことはあったようですね。

 

  翌年/天武5年(676年)9月12日には...筑紫大宰(大宰府)屋垣王(三位)が、土左(土佐)に流

され...天武6年(676年)4月11日には...杙田史名倉(くいたふびとなくら)が、伊豆島(/・・・伊豆大

島か?)に流されています。でも、処罰この時期に集中しているようですね。

  ええと...先ほどの...麻続王おおきみについては、関連した歌が、万葉集に収録さ

れています。前後してしまいますが、まず、その【巻1-(23・24)】を紹介しておきましょう」

「はい...」マチコが言った。

 



                   【巻1-(23)】    【巻1-(24)】  “返し歌”         巻23.24

   打つ麻を麻続王海人なれや        誰かが詠んだ歌を、麻続王が聞きて感傷して和(こた)へたる歌

*************************************************************

              
  


  
打つ麻
(そ)
 麻続王
おほきみ) 海人あま)なれや

 
                    
伊良虞
(いらごの島の 玉藻(たまも)刈ります

 

  うつせみの 命を惜しみ 浪なみにぬれ 


                    伊良虞の島の 玉藻刈りをす

                
【現代語訳/大意・・・巻1(23)】      


      打った麻を紡ぐむ 麻続王様は 海人なのかなあ... 

               いやいや そんなはずはないのに 

                     伊良碁の島の玉藻を わびしく刈ってらっしゃるよ...

 

      はかないこの命を惜しみ 浪にぬれては私は...

                             伊良虞の島の玉藻を刈り これを食べているのです...

 

*************************************************************

                                   

「うーん...」支折が、背筋を伸ばした。「麻続王(おみおほきみ)は...

  天武朝廷で罪があり...因幡の国(いなばのくに/現在の鳥取県東部)配流(はいる/流罪)になったよ

です。記録では、伊良虞ではなく、因幡になっている、ということでしょうか...

  麻続王は、三位という高い官位にあったわけですが、それにしても、どんな罪があったのでしょうか。

思うに、これは...綱紀粛正(こうきしゅくせい)の見せしめだったのでしょうか...?武人気質“天武天

皇”としては、強大な天皇専制を手中にし、朝廷綱紀粛正行政改革断行したことは...大いに想

像のできるところです。

  かつては...中大兄皇子/“天智天皇”と、中臣鎌足/藤原鎌足らとともに、大化の改新を推し進

めてきたわけです。そして今度は、さらに斬新的な、“新しい国造り”を開始しているわけです。惰性(だ

せい/これまでの習慣や勢い)は一掃する必要があったわけです。それは、皇族高官にも及び、そうした

意味では、不満反発も湧きあがっていたわけですね。そうした中での、麻続王流刑/島流しだった

のでしょうか...

 

  くり返しますが...では、因幡への流刑ではなく、伊良虞(いらご/伊勢の国の島となっています。と

もかく...麻続王伝説は、各地にあるようですね。正確な時代背景正確な人物像はモヤがかかっ

ています。でも、それがむしろ、古代壮大なロマンを漂わせ、日本の古典収録されています。

  現代のように、携帯電話でつながっている時代ではありませんでした。人々は互いに、“一期一会”

関係で旅をし...明日の命も保障されない浮世を生き...そうした中で和歌の文化形成してきたの

です。

  そうした(いにしえ)の空の下で...風の便りに...自分の身の上を憐れんで詠んでいるが、聞こ

えて来たのでしょう。そして、その“返し歌/返歌”を、また風の便りにのせて、送り返しているわけです

ね。ホホ...壮大な、風流話です。

  うーん...実際には、こんなにドラマチックではなく...何らかの意思が通っていたのか、創作が介

在したのかは分かりません。でも、ともかく、雄大な相聞歌ということになるのでしょうか。また、その方

が、万葉集の詠み手としても、面白いわけですね。時代を超えて、永遠に、読み継がれて来ているわ

けです。今も、なお...

  芭蕉『奥の細道』などでもそうですが...人々は、“一期一会”の中で...再び巡り合うことのない

出会いの中で...誠実に人生を生き...丁寧人々草花山海応対し...日々を暮らしていた

わけですね。それが、和歌の心なのでしょう...

  そうした中で...人生の可笑しさがあり、感動があり、時にはひどい目に会い...その反動として、

人情に触れたりもするわけです...そのように、丁寧に、人生と向き合うことが...よく生きる、という

ことだったわけですね。あ、これは、現在でも変わらないのだと思います。

 

  ええと...打つ麻(そ)は...“打って柔らかくした麻”から、“麻”を引き出す枕詞まくらことば

そうです。つまり、麻続王(おみおほきみ)“麻”の字にかかっているのでしょうか。うーん...そうです

か...趣向のあることですね。あ、それから、返歌の...“うつせみの”は、“命”を引き出す、枕詞

なっています。

  ええ...この流刑は後に恩赦になっているはずです。“天武天皇”は、恩赦もしばしば下しています。

天武8年12月2日恩赦によって、それまでに流罪になった者も、赦免になっているはずですから。

  ホホ...しっかりとお灸をすえたということですね。ここにも、“天武天皇”繊細さと、武人気質と、

強烈なカリスマ性が感じられます...」

 

  〔5〕 天武天皇の崩御                 

       

 薬師寺/天武天皇が皇后の病気平癒を祈願・・・】(天武天皇没後698年に藤原京に完成/さらに・・・平城京遷都に伴い現在地・・・奈良市西ノ京町に移転)

   wpe31.jpg (15537 バイト)             


「さあ...」響子が、窓の方を眺めて言った。

  窓の外は、雪が斜めに吹きつけていた。空は明るく、白い草原も、ボンヤリと見えている。

「今回は...“天武天皇”崩御です...

  “天武天皇”も...“飛鳥浄御原宮で...何度このように、すべてが雪に埋まる冬を、お過

ごしになったことでしょうか。むろん、現在の様な暖房設備はなかったわけですが、大がかりに

がたかれ、が温められ...さぞ宮殿の中は、冬の豊かさが満ちていたことでしょう。

  温かい食物も、御馳走だったはずです...古代日本宮廷生活や、庶民生活が偲ばれます。

そして、そうした中で、あれやこれやの騒動が、次々と展開して行ったわけですね。『日本書紀』

編纂され、“富本銭”が作られ...新羅の使者がやってき...が催され...」

  響子が、また窓の方に視線を投げた。

                      


  《クラブ・須弥山》の、羽衣弥生コッコちゃんが、ハイパー・リンク・ゲートを通って、コーヒー

を運んできていた。ポン助がそれを手伝い、コーヒー・カップを作業テーブルに配った。

「ありがとう...」響子が、ポン助に言った。彼女は、コーヒーには手を伸ばさず、スクリーン・ボ

ードの方に肩を回した。

「さあ...」響子が、コントローラーを拾い上げた。「今回は、“天武天皇”崩御ですが...

  “天武天皇”については、<新しい国造り>ということで、まだまだ述べて置くべきことがたくさ

んあります。この際ですから、もう少し詳しく考察して置きましょう。そういうことで、“天武天皇”

御在位の風景を、さらに続けることにします。崩御は、最後の最後ということにしましょう...」

「うん、」マチコがうなづき、コーヒー・カップを口へ運んだ。

「はい、」支折も、うなづいた。

 

「ええ...」響子が、手元でスクリーン・ボードの画像をスクロールした。「あ、ここですね...

  “天武天皇”は...伊勢神宮(三重県伊勢市にある神社。神社本庁の本宗(ほんそう)。神社本庁とは・・・伊勢神宮を

本宗と仰ぎ、日本全国約8万社の神社を包括する宗教法人に...御自身娘/大来皇女(おおくひめみこ/大伯皇

女とも書く)を、斎王(さいおう/・・・伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した、未婚の内親王または女王(親王の娘)

して仕えさせています。

  これは<壬申の乱>の直後、天武2年4月14日のことです...もう一度言いますが、大来皇

“天武天皇”皇女です。そして、彼女の母親は、“天智天皇”皇女大田皇女(おおた

めみこ)で、野讃良皇女(うのさららひめみこ)“持統天皇”の、同母・姉になります。彼女長女

で、野讃良皇女次女だったのでしょうか。

  それから、もう1つの注目点は...斎王/大来皇女同母・弟に...大津皇子(おおつみこ)

いることです。大津皇子は、吉野6皇子の会盟(天武天皇の子4人と、天智天皇の子2人)1人ですが、

後にを負って、刑死することになるわけです。いわゆる、“大津皇子の悲劇”と言われるもので

す。

  “天武天皇”没後...皇位継承をめぐる悲劇が、さらに繰り返されたわけです。それは、次

持統朝で考察することにしましょう」

  マチコが、コーヒーカップを両手で包み、黙ってうなづいた。

 

「ええと...」響子が、唇をやや開けて、ぼんやりとした。「それから...

   “天武天皇”は...父/“舒明天皇”が創建した百済大寺を移し...高市大寺とするなどし、

神道仏教振興を行ったようです。あ、伊勢神宮については、<壬申の乱>での加護に対す

る...“報恩のお気持ち”...がお有りになったようですね。

  それから、“天武天皇”は...天武10年(681年)2月25日...“律令制定”を命ずるを発令

しています。そして同時に、皇后/野讃良との間の皇子/草壁皇子を、皇太子に立てていま

す。これが、“飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)になるわけですが、完成前“天武天皇”は没

しています。

  あ、そうそう...天武12年(683年)2月1日からは...有能大津皇子にも、朝政(朝廷の政務一

般)をとらせています。“天武天皇”がもし健在であったなら...あるいは、母/大田皇女が、もし

当時も健在であったなら、“大津皇子の悲劇”はなかったはずです。姉/大来皇女/伊勢神宮・

斎王では、力不足だったのでしょうか...あ、これは、後で考察するのでしたね...」

  マチコが、うなづいた。

 

<天武朝・・・外交/軍事の考察> 外交/軍事

   


「ええと...」支折が、響子の方を見て言った。「天武朝・時代の...

  軍事・外交の、もう少し詳しいデータが私の方にあります。この際ですから、これらの概略も述

べておきましょうか?」

「そうですね...」響子が、軽くうなづいた。「重複する所も出て来ると思いますが、そうして下さ

い。ホホ...この際ですから、」

「はい...」支折も、口元に微笑を浮かべた。「和歌短歌とも離れてしまいますが...

  この時代資料は...<日本国家のルーツ・・・日本の基盤形成>...という意味で、

常に重要です。和歌短歌を離れても、」

「そうですね、」響子が、顎をつまんだ。「お願いします」

「はい、」

                                       

「ええ...」支折が、そっとマウスに片手をのせた。「そもそも...

  当時は、私たちが考えている以上に...国際情勢/朝鮮半島・大陸情勢というものが、日本

内政にまで、深い影を映しています。

  古代においても、大陸との交流はかなり頻繁だったということです。遣唐使船だけが、大陸

交流ではありません。長崎県/対馬西水道をはさみ、わずか数十キロ先には、朝鮮半島

釜山(プサン)が見えるわけです。

  指呼の間(しこのかん/ 指さして呼べば答えるほどの近い距離に...大敗した敵/唐・新羅の連合軍がい

るということは...ヤマト王権/大和朝廷としては...まさに息の抜けないほどの、戦時体制

緊迫感があったわけです。むろん、(なぎ)であれば、小舟での往来も容易です。また、だか

らこそ大和朝廷は、遠征軍を派遣し、百済王国を支援してきた事情もあったわけです。

  <壬申の乱・・・壬申年の挙兵(663年/白村江の戦い後・・・9年目)...に当たっても、唐の使者

/郭務悰(かくむそう)...672年(天武・元年)5月30日帰国の途についた後...約1カ月後/6

月22日に、決断されているわけです。

  その年の郭務悰来朝は...朝鮮半島支配をめぐって新羅と争いとなり...日本遠征

を出すように求めて来たもののようです。その唐の客人/郭務悰の去った後...近江朝

穏な動きがあり...それを機敏に察知した大海人皇子が、素早く動いたということのようです。

  ええと...この時期、国号倭/倭国から...〔日本〕...に改めているようです。詳しい経

緯については、あらためて考察したいと思います。ともかく、郭務悰が帰国して、1カ月...吉野

脱出/挙兵したのが、6月24日になりますよね...

  それからわずか数日で...数万の大軍勢が動員され、大海人皇子指揮下に入り...琵琶

湖湖畔/近江朝(琵琶湖湖畔/大津)倭古京(やまとこきょう/奈良盆地)に...大軍が差し向けられる

けですね。この、“天武天皇”鮮やかな勝利は、新羅一目置くことになったのでしょう」

「そうかあ...」マチコが、コクリとうなづいた。

                                


「ええ...」支折が、冷めたコーヒーを一口飲んだ。「話がそれてしまいましたが...

  ともかく...白村江の戦い・・・朝鮮半島での、陸/海戦での大敗北...があったわけです

が...その後、新羅朝鮮半島支配権をめぐって対立し、双方とも戦略的に、日本との

関係修復を探っていたようです。

  唐の使者/郭務悰も、そのために来朝していたようです。郭務悰来朝は、何度目かになる

のでしょう。ともかく、大敗北の後ですが、事態はかすかに薄日が差して来たといった所でしょう

か。そして、そうした中での、<壬申の乱>だったわけです。乱の実情/経緯・終息については、

新羅にも、克明に伝わっていたわけです。

  “データ/参考文献”によれば...天武朝では...低姿勢をとる新羅と、使者のやり取りをし

大陸文化摂取しつつ...には使者を遣わさなかったようです。大国/唐威圧的な空気

が、ピリピリと伝わって来るようです。

  ヨーロッパ大陸におけるイギリスと同様に...大陸適度な距離を置く、日本戦略的・地勢

が生かされていたわけです。

  この時代には...済州島(さいしゅうとう: 朝鮮半島の南西にある火山島/韓国最大の島)にあった耽羅(たんら)

からも、使者が来たことが記されているようです。新羅がかかっていたものと思われます。

ともかく、日本列島は大きく、新羅にとっては背後勢力ともなったわけでしょうか...

  日本大敗したわけですが...潜在力は大きく...とくに天武朝に優れ、適度に慰撫

(いぶ/慰めいたわること)し...“よしみ”をつないで置く必要があったということでしょう。そして、その

度合いは、新羅の方がはるかに大きく...時が流れたということですね。

「はい...」響子が言った。「その前に...

  百済が滅んでいるわけですが、その折に日本に渡り、帰化(きか/他国の国籍を得てその国民となること)

した人も多かったわけですね?」

「ええと...そうですね...

  天武朝に関して言えば...天武・元年から天武・10年までは...朝鮮半島からの帰化人は、

課税免除しているようです...そのほかにも、百済人への恩典は多かったようです...」

“白村江の戦い”は...」響子が、モニターを見ながら言った。「ええと、663年ですから...

   “天武天皇”治世というのは...それから10年ほどたって、始まっているわけですね?」

「うーん...そうですね...

  天武・元年672年ですから、そうなりますか。あ...唐の使者/郭務悰ですが、“白村江の

戦”翌年/664年にも...戦後処理を探るために、来朝しているようです。彼は、当時の外交

ですね...」

「うーん..」響子が背筋を伸ばし、うなづいた。

                                                             


  。

「次は...」しばらくして支折が、キーボードをトンと叩(たた)いて言った「軍事に関して、少しデー

タがあります...」

「はい...」響子も、顔を上げた。マチコがいなかった。捜すと、窓辺で弥生と話していた。一緒

に雪景色の草原を見ていた。マチコに手を上げると、うなづいて戻ってきた。

“天武天皇”は...」支折も、窓の方を眺めて言った。「武人気質の人ですから...

  “武”というものには...特別な気持ちがお有りだったようです。また、内外諸情勢から、

威/軍事力というものの姿を、深く理解されていたのだと思います。ともかく、“官人と・・・畿内の

武装強化”については、特別な政策をとっていた様子です...」

「はい、」響子が言った。

「ええ...

  天武4年10月20日に...“諸王以下・・・初位以上の官人に・・・武装を義務づけ”...ていま

す。また...天武・5年9月10日に...“武器検査”行っています。

   天武・8年8月には...“迹見駅家(とみうまや/現在の外山(とび)付近から・・・王卿の馬を駆けさ

せ”...ています。

   天武・9年9月9日には...“長柄神社で・・・大山位以下の馬を閲(えっ)し・・・騎射させ”...て

います。つまり、“文武両道を・・・強く求めた”...ということですね。さらに、その後も...

   天武・13年・閏4月(うるう4月/・・・太陰暦では、1年が約354日なので、適当な割合で1年を13カ月とする。その閏月)

5日には...“政の要(かなめ)は・・・軍事である”...と述べられ...“文武の官と・・・諸人に対

し・・・用兵と乗馬を習え”...と改めて命じています。また、“武装に欠けるものがいれば・・・罰

する”...と(みことのり)しています。“天武天皇”の、本気度がうかがわれます...」

「はい...」響子が言った。「力の入れようが、よく分かりますね...それでも諸人は、そのこと

が、なかなか分からなかったわけですね...」

  支折が、ゆっくりとうなづいた。

「そうですね...」支折が言った。「その上で...

  翌/天武14年8月11日には...“京(飛鳥京)と畿内(皇居に近い地域)の・・・人夫(にんぷ/公役に徴用

された人民)の・・・武器の検査を実施”...しています。こうした、官人武装の政策は、天武・持統

特徴的で、その前後には見られないそうです」

「そうですか...」響子が、両手を組み合わせた。「うーん...国際的緊張関係も、影響してい

たのでしょうか...」

「そうですね...」支折が、モニターを見た。「もちろん、それはあると思います...

  天武・8年11月には...“竜田山と大坂山に・・・関を置き・・・難波には外壁を築かせた”...

うです。それから...

  天武・12年11月4日には...“諸国に・・・陣法を習わせよ”...とお命じになっています。ま

た...

  天武・14年11月4日には...“軍隊指揮用具と、大型武器を・・・評の役所(/・・・“評/ひょう”は日

本書紀では“群”にかわる)に納入”...させています。外国との大きな戦にも、備えていたわけですね」

「支折さん...」響子が、顔をかしげた。「確認しますが...

  こうした軍事への傾注は...やはり、唐/中国新羅/朝鮮半島への備えということなので

しょうか?からは、使者/郭務悰(かくむそう)が何度か来ているし...新羅低姿勢使節団

送ってきていても...現実には、武威が牙をむく、権謀術数(けんぼうじゅっすう/・・・人をあざむくための計り

ごと)の中にあったということでしょうか?」

「うーん...」支折が、腕組みをした。「防人の体制は...いつ頃まで続いたのでしょうか...

  それは、まだ調べてないのですが...やはり相当な警戒態勢の中にあったのだと思います。

唐の使者来朝して圧力をかけ...一方、新羅の使者鄭重(ていちょう)友好的態度を示して

も...その連合軍日本大敗しているわけです。悠長にしていられる状況ではありません。

  この時期...“富国強兵は・・・緊急の・・・至上命題”...だったはずです。“油断があれば・・・

スキを突かれた”...という状況だったと思います。“天武天皇”武人肌の人ですから、そのあ

たりは非常に鋭敏で、駆け引きの機微は、よく分かっていたのではないでしょうか...」

「そうですね...」響子が、口に指を当てた。「...天武朝では...

  内外ともにはなく、世の中が静まって、活気に満ちているようです。このように、自然に治ま

のが、よい治世なのでしょう...<壬申の乱>以来、新羅も、一目置くという治世だった

と思われます。

   “天武天皇”の、ケタ外れカリスマ性が...<日本の・・・新しい国造り>...に向かって

いたのでしょう。また、それを大いに高め利用していたわけですね。この時代は、〔明治維新〕

と似ていますね...」

「うーん...」支折が、うなづいた。「そうですね...

  新羅が、朝鮮半島支配権を争っていたとしても...“白村江の戦い”では、日本大敗

を喫しているわけですよね。まだ、虎口を脱した、という状況ではなかったかも知れません。

新羅再度結集し、九州に押し寄せてくる可能性も、十分にあったわけです。

  そうなれば...海路で、難波(大阪市付近の古称)も危うくなりますし、背後の奈良盆地も、危険にさ

らされます。“天智天皇”はそれを危惧し、琵琶湖の畔/近江大津宮までを移したわけですよ

ね、」

「はい...」響子が、唇を引き結んだ。

「ともかく...資料によれば...

  律令体制下で...国軍主力の位置にある軍団というものは...この時代にはまだ存在しな

かったようです。“天武天皇”“官人の武装化”は...“軍団創設以前の状況における対応”

だったようです。

  指揮用具を・・・評に収めさせた”...のも同様と思われます。あ、でも...“全国的な兵制”

については、まだ学説が分かれているようです」

「はい...」響子が、唇を引き結んだ。

 

<天武朝・・・文化/宗教の考察>文化/   宗教 <神道/仏教/道教>

                


「さあ...」支折が、前髪を2本の指で払った。「天武朝文化/宗教の概略ですが...

  “天武天皇”は...“日本古来の文芸や・・・伝承の掘り起こし”...に力を注いだと言われ

ます。もちろん大陸新しい文化や、新しい物品/新しい技術も、大いに吸収したわけですね。

でも、だからこそ、反面...古来からある伝統文化重要性にも、独特鋭敏な感性で、お気付

きになられたのだと思います。

  そのことは、“天武天皇”前後の天皇と比較しても、土着文化発掘/整理における努力/

実績は、著しいものがあるようです。

  ともかく、“天武天皇”は...並はずれた、多方面の才能をお持ちになり、強烈なカリスマ性

兼ね備えておられたようです。まさに、国家・時代が必要とする、<希有な人格/・・・現人神の

ような神格>を、体現されていたということでしょうか。

  <国家の原型を・・・線引き・・・>するには...そうした<現人神・・・奇跡を起こす神格>

を、必要としていたのかも知れません。むろん、ここは異論も多々ある所だと思います。でも、結

果として...<現在の・・・日本の形/日本の姿>...があるわけですよね...」

「うーん...」マチコが、肩を大きく揺らして、うなづいた。「最近、だいぶ屋台骨グラついてきた

けど...」

「ホホ、そうですね...」支折が、口に手をそえた。「でも、もし...

   “天武天皇”が、<壬申の乱>敗北していたら...『古事記』『万葉集』に代表されるよう

な、“日本の土着的文化”は...『日本書紀』『懐風藻(かいふうそう/奈良時代の漢詩集・・・全1巻。淡海

三船(おうみのみふね)の撰とも言われるが・・・選者未詳)代表されるような...“中国風な・・・洗練された

文化”凌駕(りょうが)されてしまい...後世まで伝わらなかった可能性もあると言われます、」

「ふーん...」マチコが、頬を膨らませた。「もし、そうなら...

  日本では、漢詩なんかが隆盛していて...和歌衰退し...俳句も生まれて来なかったとい

うことかしら?」

「その可能性も...」支折が、マチコにうなづいた。「あった、ということですわ...

  国家舵取りがいかに重要で...それが、はるかな後世にまで影響するか、ということです。

それから、前にも触れましたが...“倭(わ)/倭国に代えて、国号“日本”としたこと...そ

して、初めて“天皇”を名乗ったことなども...天武朝においてです、」

“推古天皇”が...」マチコが言った。「最初“天皇”を名乗ったという説は、結局、どうなるの

かしら?」

「うーん...詳しいことは分かりませんが...

  資料的には...推古朝“天皇号”も、複数存在するようです。でも、それでは、中国“天皇

号”君主に用いた時期よりも、になってしまうようです。こうした事情なども考慮し、天武朝

で、時代を引き下げたようですね。

  他にも...前にも言ったように、稀代カリスマ性を持つ“天武天皇”の、そのを借りるよう

に、“天皇号”が始まったという説もあるわけです」

「うーん...」マチコが、頬に手を当てた。「そうかあ...」

 

「ええと...」支折が、モニターに視線を取られながら、顔を上げた。「いいですか...

  “天武天皇”は...民間習俗積極的に取り込み、国家的・祭祀(さいし/神や祖先を祭ること)としま

した。“五節の舞”(ごせちまい/・・・大嘗祭/だいじょうさい新嘗祭/にいなめさい/しんじょうさいに行われる豊明節会

で、大歌所の別当の指示のもと、大歌所の人が歌う大歌に合わせて舞われる、4~5人の舞姫によって舞われる舞。大嘗祭では5人)

が、その確実な例だそうです...ふーん...

  あ、ええと...新嘗祭国家的・祭祀にまで高め...特別に大嘗祭を設けたのも、“天武天

皇”だと言われています」

新嘗祭(にいなめさい)というのは...」マチコが言った。「よく聞くけどさあ、どういうものなのかし

ら?」

「あ、そうですね...」支折が言った。「新嘗祭(にいなめさい)を、(しんじょうさい)と言うと...分かりやす

いと思います。大嘗祭(だいじょうさい)言葉が似ていますよね。

  新嘗祭は...毎年/11月23日に行われる宮中祭祀1つで...大祭(たいさい/・・・神宮・神社

重要な祭り収穫祭にあたるものです。天皇が、五穀新穀天神地祇(てんじんちぎ/・・・日本神話に

おける神様たち)に進め、また自らもこれを食し、その年収穫に感謝するものです。

  それから、大嘗祭(だいじょうさい)というのは...天皇“即位の礼”の後...初めて行う新嘗祭

のことです。一代/一度限りの大祭になります。これが実質的に、“践祚(せんそ/・・・皇嗣(こうし)が皇

位を継承すること)の儀式”になるようです。

  ええ、現代の歴史学者の多くが...神道祭祀も含め、伝統として伝えられる主要な宮廷儀

の多くは...“天武天皇”によって創始/大成されたと、推測しているようです...」

「うーん...」マチコが、両手を作業テーブルに突き、うなづいた。

                       

「さあ...」支折が、モニターに目を落とした。「...ええと...

  天武4年2月9日...畿内とその周辺から...歌の上手な男女侏儒しゅじゅ・・・?伎人てひ

と・・・工人/工芸技術集団宮廷に集めるよう命じ...天武・4月23日...彼等に、(ろく・・・官に仕え

る者に下付される給与。律令制では・・・(あしぎぬ・・・古代日本に存在した絹織物の一種。交換手段・課税対象・給与賜物・官人

僧侶の制服などに用いられた。悪し絹、太絹)、綿、布、鍬(くわ)、穀物・・・が身分に応じて与えられた)を与えています。

   天武・14年9月15日には...優れた歌を、子孫に伝えるように命じ...天武・15年1月

18日には...俳優歌人褒賞を与えているようです。内容はよく分かりませんが、そのような

記録があるようですね...おそらく、『日本書紀』なのでしょうか...」

「そうですね...」響子が、うなづいた。

「それから...」支折が続けた。「“天武天皇”は...

   天武・10年3月17日に...親王、臣下多数に命じて...“帝紀及上古諸事”編纂の、詔勅

(しょうちょく: 詔書、勅書など・・・天皇の意思を表示する文書の総称)を出しているようです。これは、『日本書紀』

編纂事業開始と言われています。

  また、稗田阿礼(ひえだのあれ)に...『帝皇日継』(ていおうのひつぎ/帝紀『先代旧辞』(せんだいのくじ/

旧辞を詠み習わせています。稗田阿礼は、“天武天皇”舎人(とねり/・・・古代に天皇や皇族の身辺で御用

を勤めた者)の1人で、いちどにしたことは、決して忘れなかったと言われます。ええ...そ

の時、彼は28歳の青年だったようですね... 

  そして...後に...“第43代/元明天皇・・・女帝(天智天皇の第4皇女/草壁皇子の正妃)の時に、

により、稗田阿礼がず誦(ず)し、太 安万侶(おおやすまろ/文官/・・・壬申の乱の功臣の多品治の子とする系

譜がある)筆録し、『古事記』編纂しています。

   『日本書紀』『古事記』も...いずれも、完成“天武天皇”没後になります。そして、これら

日本現存する...“最古の史書/歴史書”...ということになります...

  うーん...これらについて、もう少し詳しく紹介しておきまょうか...」

 

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       < 日本書紀  古事記 >古事記  


『日本書紀』は...

  奈良時代に成立した日本の歴史書ですよね。日本における、伝存最古の正史で、六国

(奈良・平安時代に編纂された、6つの官撰の歴史書第1にあたります。舎人親王(とねりしんのう/天武天

皇の皇子・・・母は新田部皇女(にいたべのひめみこ/天智天皇の皇女)で、天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り・・・

長屋王(天武天皇の皇子の、高市皇子/太政大臣の皇子で・・・“長屋王の変”で自害)とともに・・・皇親勢力として権勢を振

るう・・・)らの撰で...720年(養老4年)完成しています。

  『日本書紀』は、“神代(じんだい/神話時代)から・・・持統天皇の時代までを編纂”しています。

スタイルは、漢文・編年体を取っています。つまり、漢文で書かれていて...編年体という

のは、歴史の記述法1つで...“起こった出来事を・・・年代順に記してゆく方法”、です

よね」

 

『古事記』の方は...ええと...

  『日本書紀』のような、勅撰正史ではないのですが、序文で、“天武天皇”したと書

かれていますから、勅撰と考えることも出来るわけです。

  その序によれば...712年(和銅5年)太安万侶(おおやすまろ)によって献上されている、

日本最古歴史書ということです。

  上・中・下/全3巻に分かれていますが...原本そのものは存在していません。後世の

写本の序文に書かれた、和銅年・月・日によって、年代が確認されているようです。

  『古事記』に登場する神々は...多くの神社祭神としてまつられ...永く日本宗教

文化精神文化に、多大な影響を与えてきています。

  また、天皇祭神を結びつける事により...“天皇の・・・権力の正統性”...を確立する

ことを、目的としていた向きもあるようです」

 

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「ええ...」支折が顔を上げ、響子とマチコを見た。「これらの二書を...

  並行・編纂させた意図に...定説というものはないようですが...内容において、天皇家

支配正当化するという点で...共通すると言われます...」

「はい...」響子が、うなづいた。

「それから...

  長大な漢文で、一貫性を犠牲にして、多数の説を併記した『日本書紀』が...合議・分担

されたのに対し...短く首尾一貫した『古事記』の方に...“天武天皇”個人の意志が、か

なり入った可能性が、指摘されているようです」

『古事記』の方に...ですか...?」響子が聞いた。

「そうです...」支折が、うなづいた。「それから...

  ええと...“天武天皇”は、自らが天文に長じていて...天武・4年1月5日に...日本で最初

占星台/天文台を建てさせています。また...

   天武・4年4月17日に...“肉食禁止令”が出され...“4月1日~9月30日までの間・・・稚

魚の保護と・・・五畜(ウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリ)の肉食を禁止”...しています。

  これが...仏教思想殺生の禁止と重なって...長年に及ぶ、日本文化一端を形成して

きたわけです。これは...“近年/食の欧米化といわれる時代”、まで続いてきたわけです。くり

返しますが...私メは、今でもその影響下にあります...」

   ( 神 道 )              
      (しんとう、しんどう)

「さあ...」支折が、スクリーン・ボードに“伊勢神宮”を拡大表示した。「次は、宗教です...

  天武朝において...後世に残る非常に重要な...<新しい国造り/国の線引き>...と

いうと、宗教もその1つになるでしょうか...」

  マチコと響子が、スクリーン・ボードの“伊勢神宮”を眺めている。

 「ええ...」支折が、引き結んだ唇に指を当てた。「“天武天皇”は、前にも述べましたが...

   “日本古来の神の祭り”重視し...“地方的な祭祀”一部を、“国家の祭祀”に引き上げま

した。“神道の振興は・・・外来文化の浸透に対抗する・・・日本の民族意識/アイデンティティー

を高揚させるため”...でもあったようです。これは、現代でも変わらないようですが。

  でも...“天武天皇”努力は、各地の伝統的な祭祀を、そのまま保存することではなかった

のです。つまり...天照大神 (あまてらす・おおみかみ/女性・・・スサノオ尊の姉)とする...天皇家との

関係において、各地の神々体系化して取り込むことでした。

  これは究極的には...天皇・権力強化に向けられていたと思われます。それぞれの地元

祀られていた、各地の神社・祭祀は...保護と引き換えに国家管理に服し...古代/国家神道

が形成されて行ったようです。その原型的なものが、現在まで存続しているということでしょうか」

「当時も...」響子が、肘を抱いた。「外国文化浸透というものは...

  日本文化アイデンティティーを覆(くつがえ)すほどに、すさまじいものだったのでしょうか?」

「うーん...」支折が、頭をかしげた。「おそらく、そうだったのではないでしょうか...

  漢文・編年体の史書/『日本書紀』や...漢詩集/『懐風藻』は...大陸文化影響力の強

さを物語っています。それは洗練された、魅力的なものだったのでしょう。放置しておけば、古来

日本文化凌駕していく可能性は、十分にあったのではないでしょうか。

  それを危惧された“天武天皇”が...“日本古来の神々の祭りなど・・・伝統文化の再編成

着手されたのではないでしょうか。そこに、日本文化アイデンティティーを認め、これらを

していくことの重要性に、気付かれたのだと思われます」

「うん...」マチコが、うなづいた。「...同時に...

  天皇家系譜も、確かなものに再構築して行くわけかあ...【巻19-(4260)】の...


(おほきみ)は 神にしませば 赤駒(あかごま)

 腹這(はらば)ふ田居(たい)を 都と成しつ   (大伴 御行(みゆき) 

 

  ...という風に...」

天孫(てんそん/・・・天孫降臨・・・天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の末裔)から...」響子が言った。「

人神(あらひとがみ/・・・この世に、人間の姿をして現れた神)...という風に...なって行くわけですね、」

「そうですね...」支折が、小さくうなづいた。「現在も...

  食文化言語の...欧米化/グローバル化が進んでいますが...日本文化食文化も含

め、しっかりと守っていくべきだと思います...“天武天皇”も...同じことを、はるかな古代にお

いて...心配されておられたのですね、」

  マチコが、ゆっくりと、うなづいた。

 

「話を戻しましょう...」支折が言った。「ともかく...

  “国家神道”の形成に際し...“天武天皇”は、“伊勢神宮”特別なものとして重視し、この

“日本最高の神社”とされる道筋をつけました。

   <壬申の乱>の折...挙兵を募(つの)り、伊勢に入った大海人皇子/後の“天武天皇”は、

迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神 (あまてらすおおみかみ)遥拝(ようはい/遠くへりくだった所から拝むこと)

し、戦勝祈願したと言われます。これは具体的には、“伊勢神宮”方角を拝んだと考えられて

います。

  そして、<壬申の乱>を終息させ...“飛鳥浄御原宮即位後...“天武天皇”は、娘/

大来皇女(おおくひめみこ/大伯皇女とも書く“伊勢神宮”に送り...斎王(さいおう/・・・伊勢神宮または賀茂

神社に巫女として奉仕した、未婚の内親王または女王(親王の娘)として仕えさせています。この辺りは、前にも説

明していますよね。

  それから、天武・4年2月13日には...“天武天皇”は、娘/十市皇女とおちひめみこ/・・・女性歌

人・額田王との間の娘/壬申の乱で戦った大友皇子の妃)...“天智天皇”娘/阿閉皇女あへひめみこ/第4

皇女/後の元明天皇)が...“伊勢神宮”参詣(さんけい)しています。

  その折には、斎王/大来皇女ともお会いになっているわけですね...どんなお話をされたの

でしょうか。<壬申の乱>では、親しい肉親どうしが割れ、内乱となったわけですが、女性陣

おのずと第3勢力を形成し、事後処理にも当たっていたのでしょうか...

  ええと...それから...“伊勢神宮”式年遷宮(しきねんせんぐう/社殿を造り替える20年に一度の大祭

開始年については...天武・14年(685年)と、持統・2年(688年)二通りがある様です。

でも、いずれにしろ発意は、“天武天皇”だろうと思われています。

  また...“伊勢神宮”を、五十鈴川ぞいの現在の地に建てたのも...“天武天皇”だそうです。

以前は、宮川上流の滝原宮にあったと、推定されています。

 

  “参考文献”によれば...そもそも、天照大神という“神”を創り出したのは、“天武天皇”だと

いう説もあるようです。伊勢地方(まつ)られていた“太陽神”を、天皇家っていた“神”

合体させ、天照大神としたという説です。

  それから...斎王(さいおう/伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した、未婚の内親王または女王(/親王の娘)

は、“雄略天皇”から“推古天皇”の時まではあったと...『日本書紀』 『古事記』に記されてい

るそうですが...これも、大来皇女おおくひめみこ最初だとする説があるようです...」

「はい...」響子が、小さなため息をつき、口に手をやった。

    ( 仏 教 )            


「次に...」支折が言った。「外来の仏教ですが...

  天武朝では、仏教の保護手厚いものでした...“天武天皇”は、御存じのように、即位前

は、剃髪/出家吉野に籠(こも)るという、経歴を持っているわけです。仏教的・素養も、相当に

深いものがあったと、推察されます。

  “飛鳥浄御原宮即位後/天武・2年3月には...川原寺(奈良県高市郡明日香村/飛鳥の4大寺の

1つ)で...一切経(いっさいきょう: 大蔵経ともいう・・・仏教の経典を集成したものの総称/・・・発行された時期と国により収録

内容が異なる・書写大事業を起こしています。

  天武・5年には...全国使者を派遣し...『金光明経(こんこうみょうきょう)『仁王経(にんのうきょ

う)を説かせています。

   ええ...この『金光明経というのは、4世紀頃に成立したと見られる、仏教経典1つです。

大乗経典(/経典は大きくは、原始仏典大乗仏典に分かれる・・・原始仏教大乗仏教ともいわれる)に属し...日本

おいては、『法華経(ほっけきょう)『仁王経』とともに、護国3部経1つに数えられます。経典

特徴については、今回は割愛(かつあい)することにしましょう...

  次いで、天武・8年には...倭京(わきょう/・・・首都)/24ヵ所の寺宮中で...『金光明経』を説

かせています。

  あ、少し説明しますと...『金光明経』は、“国王が天の子であり・・・生まれた時から守護され

・・・人民を統治する資格を得ている”...と記されているものだそうです。これは、天照大神

(すえ、すそ、エイ/・・・末裔(マツエイ)から、現人神(あらひとがみ)思想という流れと、軌を一にしているの

でしょうか...

  それから、天武・2年12月17日には...美濃王(みのおおきみ/壬申の乱の功臣)紀訶多麻(きの

かたまろ/壬申の乱の功臣)造高市大寺司に任命し...百済大寺高市に移し、高市大寺としてい

るようですね。

  さらに、天武・9年11月12日には...皇后病気に際し...“薬師寺建立・・・を祈願”してい

ます。これは、前にも述べていますよね。ええと...その他にも...自らの病に際しても、様々

仏教に頼って、快癒を願っておられたようです。

  そして、晩年になりますが...天武・14年3月27日には...ごとに仏舎を作って、礼拝供

せよというを下しています。この頃はまだ、畿内をのぞいた地方には、寺院というものは少

なかったようです。天武・持統朝では、全国氏寺(うじでら/氏族が一門の繁栄などのために建てた寺)

んに造営されています...」

「ふーん...」マチコが、うなづいた。「こっちの方も、熱心だったんだあ...」

「そうですね...」

 

「ところで...」支折が、モニターに目を移した。「“天武天皇”の...仏教保護・政策は...

  反面で、僧・尼に対し...寺院に籠(こも)って...天皇国家のための...祈祷(きとう)に専念

することを求めるものでした。

  これは言いかえれば、仏教国家の中に組み込むものです。“国家神道”に対する、“国家仏

教”となったようですね...」

「はい...」響子が、目を閉じた。

「具体的には...」支折が言った。「ええと...

  天武・4年...諸寺に与えられていた山林・池を取り上げています。天武・8年には...食封

見直して、寺院の収入国家が管理するようになります。

  この辺りで...猛烈反発天皇批判が湧きあがり...多くの処罰も下されたわけでしょう

か。東の山に登って・・・妖言し・・・自殺した人物も出た”...というのも、この頃の出来事

ですよね...」

「そうかあ...」マチコが言った。「だから、流刑になった人たちなんかも出たわけね、」

「そうですね...

  そこで、仏教中央統制機関としては...推古朝・時代に設けられ、“十師”によって廃止され

ていた...僧正・僧都(そうじょう・そうず)復活し...僧綱制そうごうせい/仏教の僧尼を管理するためにおかれ

た、僧官の職制/・・・僧正、僧都、律師からなり、それを補佐するための佐官も置かれたを整えたようです。

  また、天武朝では...僧・尼威儀・服装までも規制し...全寺院僧侶国家統制下

置こうとするところまで...国家統制が強まったようです。

   “天武天皇”は、仏教というものを...<新しい国造り・・・の骨格>...としようとしていた

のでしょうか。ロマンチストですよね。でも、それをロマンとして終わらせずに、実行していく所が、

すごいですね...」

「うーん...」マチコが言った。「現代・政治家のように...

  100年・安心プランだとか、不退転の決意だとか...気軽に口から出まかせに言わないで、

それを実行していく所が、すごいわよね...」

「そうですね...」響子が、白い歯を見せた。

 

「ええと...」支折が、モニターを見ながら言った。「いいですか...

  仏教に続く、世界的宗教としては...約900年後に、キリスト教が入ってくるわけですね。

子島への鉄砲伝来1543年の頃...カトリックフランシスコ・ザビエルイエズス会の創設メンバーの1

渡来(1549年)し...その後、ルイス・フロイス来日(1563年/31歳)し、信長秀吉に会って

います。

  でも...秀吉~家康の頃になりますが...キリスト教・管理の難しさから、排斥に舵を切り

“島原の乱(1637年・・・12月11日/勃発)の後には...鎖国政策本格化するわけです。

  一般的には...1639年南蛮船入港禁止から...1854年日米和親条約・締結までの、

215年間鎖国と呼びます。

  ええと...つまり...それまでに...“天武天皇”の敷かれた“仏教や神道の制度”は、日本

の風土/日本の文化深く浸透し...民族的なアイデンティティーを形成していて...この国家

体制は、〔明治維新の開国〕や、〔第2次世界大戦/敗戦・・・戦後民主主義〕到来でも...

不動だったということです...それは、“天武天皇”が創られたものでした」

「うーん...」マチコが、頭に手をやった。「...韓国にはさあ...

  朝鮮動乱の時、国連軍進駐で、キリスト教が広まったようですよね。日本では、占領軍/ア

メリカ軍駐留でも、キリスト教はあまり広まらなかったようよね...仏教独特の神道が、深く

根をおろしていたからかしら...?」

「そのようですね...」支折が、うなづいた。「研究してみる余地は、ありそうですね...

  日本には...国宝級・重要文化財級仏教文化宝物が、大量に保存されています。こうし

たことも、キリスト教の普及には、障害となったかも知れませんね...

  そして、反面では...敗戦で、仏教神道(たこ)の糸が切れたようになり...極めて無宗

教的国家に、なってしまったということです。この無宗教性が...現代日本の・・・信頼できる

ものが皆無”...という、未曾有の状況を創りだしてしまっているようです」

「そうですね...」響子が口を押さえ、椅子の背に上体を倒した。「それは、それで...

  国家・社会慣習法的な意味で、大問題が顕在化しています。特に最近は、“国家3権”“第

4の権力といわれる/マスメディア”規範が緩み、国民の信頼を失っています。こういう時に、

信頼のおける宗教というものが欲しいわけです。

  敗戦の折に、反動占領政策でそれを失ったようですが...いわゆる戦後の時代に...

済の再建だけではなく、“宗教の再建・・・再編成”を行って置くべきだったのですわ...」

「そうかあ...」マチコが言った。「ひと味...足りないわけかあ...」

「ええ...」支折が、咳ばらいをした。「ともかく...

  それらは、ゆっくりと考察するとして...“天武天皇”<国の線引き>は...今もなお歴然

として残り...私たちの日々の暮らしに、影響しているということですね...」

「うん...」マチコが、神妙にうなづいた。

   ( 道 教 )              


「ええ...」支折が言った。「道教についても、触れておきたいと思います...

  そもそも...道教とはどういうものかと言うと...“中国の・・・古代/民間信仰を基盤とし・・・

不老長寿や、現世利益を主たる目的とし・・・自然発生的に生まれた宗教”...ということです。

  別な言い方をすると...“漢民族の土着的・伝統的・宗教で・・・中心概念の道(タオ)とは・・・宇

宙と人生の根源的・不滅の真理を指す”...ということです。うーん...まだ、よく理解できない

ですよね。

  じゃ、もう1つ紹介しましょうか...“道教とは・・・中国古来巫術(ふじゅつ/シャーマニズム・・・大きく、

“脱魂型”と“憑依型”の2つがある、もしくは鬼道(きどう/幻術、妖術)の教えを基盤とし・・・その上部に墨家

(ぼくか/・・・中国・戦国時代に、墨子によって興った思想家集団/諸子百家の1つ/博愛主義・兼愛交利を説き、その独特の思想

にもとずき、武装防御集団として各地の守城戦で活躍した・・・上帝鬼神思想信仰・・・儒家神道祭礼

哲学・・・老荘道家の・・・云々(うんぬん)・・・...だそうです。少しは、理解できたでしょうか?」

「うーん...」マチコが、首をかしげた。

「ともかく...」支折が苦笑し、口を押さえた。「...“天武天皇”宗教観には...この道教

要素が、色濃く出ているようです...


            “皇(おおきみ)は・・・神にしませば・・・”

 

  ...と、一連の歌...【巻19-(4260)】【巻3-(235)...がありますが、この対象

“神”とは...“神仙思想の神/仙人の上位に存在している神”...と言うがあるようで

す。つまり、“現人神(あらひとがみ)であり...“現世の・・・人間に近い神”という概念でしょう。

  あ、高杉・塾長も...どこかで、こう言われていたことがありました...“ひょっとしたら・・・人

間/自我/自己というのは・・・神なのかも知れない”...と...」

「うーん...」マチコが、腕組みをし、頭を横に沈めた。「それはさあ...

  現代の、若者にも分かるように言うと...『ドラゴンボール(漫画)に登場してくる...“武道家

の神様”に似ているのかしら...仙人/カリン様が住むカリン塔の...そのさらに上の方に、

“神様の住む家”があるのよね...そこに住む“神様”は、もしかして...

 

          雷の上に・・・りせるかも・・・

 

  ...の“神様”に、近いのではないかしら?」

「うーん...」支折が、口をすぼめた。「そうですね...

  ともかく...“八色の姓”やくさのかばね/天武天皇が天武・13年に、新たに制定した八つの姓の制度のこと)

上位真人(まひと)です...この真人(まひと・・・しんじん)は...仙人の上位階級ででもあるわけです

よね、」

「ええと...」響子が、マチコの方を見た。「“八色の姓”については、マチコさんが調べて下さった

のではないかしら?」

「あ...そうそう...」マチコが、うなづいた。

「じゃ...」支折が言った。「それを先に、説明してもらえるかしら、」

「はい...」マチコが、うなづいた。

  

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色の      姓【八色の姓 (やくさのかばね)            


「ええと...」マチコが、マウスを動かした。「あ...ありました...

  うーん...【八色の姓】は、“天武天皇”天武・13年に新たに制定した、八つの姓(かばね)の制度

のことです。真人(まひと)朝臣(あそみ、あそん)宿禰(すくね)忌寸(いみき)道師(みちのし)(おみ)、

(むらじ)稲置(いなぎ)...の八つの姓ですね。

 

  真人(まひと)・・・・・ 真人(/・・・しんじん)老荘思想・道教においては、人間の理想像とされる存在

です。仙人の別称として用いられることもあるそうです。そして、真人(まひと)【八色の姓】で制定され

(かばね)の1つで、最上位になります。

  朝臣(あそみ、あそん)・・・・・ 上から2番目の姓になります。最上位真人は、主に皇族に与えられた

ため、皇族以外臣下の中では最上位の姓になります。読みは、(あそみ) が古いそうですよ。

  宿禰(すくね)・・・・・ 真人朝臣につぐ3番目の姓になります。大伴氏佐伯氏など、主に(むらじ)

を持った神別氏族(しんべつしぞく/・・・天神、地祇、天孫に3分類されるに与えられたようです。宿禰の語は、

野見宿禰葦田宿禰武内宿禰のように、大和朝廷初期(1世紀~4世紀ごろ)には、名前として使われて

いたようです。

  忌寸(いみき)・・・・・ 【八色の姓】で新たに作られたで...上から4番目の姓になります。(あたえ)

国造や、渡来人系氏族に与えられたようです。

  道師(みちのし)・・・・・ 【八色の姓】で新たに作られたで...上から5番目の姓です。授与の記録

がなく、どのような氏族を対象にしたであったかは不明です。

  (おみ・・・・・ ヤマト王権で使われていたの1つで...当時は、の中ではと並んで高位にあ

りました。でも、【八色の姓】により、の地位は6番目に格下げになります。その後は朝臣

力氏族の姓となっていくようです。もっとも、【八色の姓】の改革以降、賜姓されたことは無かったようで

す...

  ええと...かつてはヤマト王権中核を為す蘇我氏巨勢氏(巨瀬・許勢)葛城氏波多氏阿部

などの有力な豪族がこの臣の姓を称していたようですね。

  (むらじ)・・・ ヤマト王権で使われていたの1つで...家臣の中では最高位に位置していた

1つです。日本書紀』などにおいては...連姓の多くは、皇室以外の神の子孫としています。中央の

有力豪族が中心であるに対して、連姓を名乗る氏族は、朝廷の役職と直結していたようです。

  これを名乗っていた大伴氏物部氏も、古来からヤマト王権軍事を束ねる役割をしていた氏族

ようです。うーん...【八色の姓】では、連姓7番目に格下げになりました。

  稲置(いなぎ)・・・ 律令制大化の改新以前古代日本にあったとされる、地方行政単位 (こお

り) を治める首長のことのようです。【八色の姓】では最下位で...実際には、一度も賜姓されたことは

無かったようです...」

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「はい...」支折が、小さく頭を下げた。「ありがとうございます...

  ええ...くり返しますが...“天武天皇”は、“八色の姓”最上位真人(まひと)であり...

荘思想・道教においては...人間の理想像とされる真人(しんじん)という側面を持つわけですね。

  事実...“天武天皇”和風諡号(わふうしごう/・・・天皇が死去した際、群臣が先代天皇に対し、実名を含んだ称

号を奉ったもの)は、“天渟中原瀛・真人(あめぬなはらおきまひと、というようです。つまり、現人神(あ

らひとがみ)であり...仙人ということでしょうか...うーん...?...

  あ...“瀛”/瀛州えいしゅうは...中国/神仙思想3神山の1つです。他に、蓬莱島(ほうら

いとう)蓬莱山と、方丈島方丈山があります。いずれも、中国/山東半島東方海上にあり、

不老不死の薬を持つ仙人の住む所だそうです。 

  “真人”は、仙人の上位階級ということですね...“天皇”も、道教最高神だといいます...

“天武天皇”が得意とした天文遁甲(てんもんとんこう/・・・天文占星術の一種のようです。『三国志』で有名な、諸葛孔

もこれを得意としていたようですは、道教的技能のようです。

  ホホ...ともかく...遠い昔のことであり...浅学な私メには、なおのこと、よくは分かりませ

ん。でも、“天武天皇”が葬られた八角墳(現/天智天皇陵、天武・持統合葬稜などが有名・・・)は...東西南

北東・北西・南東・南西を加えた八紘(はっこう/国の八方の果・・・国の隅々)を指すもので...これは

道教的方角観だといいます...うーん...

  あ...こうした道教への関心は、“天武天皇”だけのものではありませんでした。母/“斉明天

皇”においても顕著であり...また、“天武天皇”没後も続いています。

  でも...“日本の道教は・・・国家神道と融合...していて、道教として独立には存在して

いないようです...」

「はい...」マチコが、うなづいた。

ともかく...

  “天武天皇”...<国の線引き>...は、大地分水嶺雨水が、を削り、を彫り、

大渓谷を描いていくように...時代とともに、深まって行ったわけです。そして...<日本文化

/日本国家の風景>...と不可分のものとなり...現在にいたっているわけです」

「はい...」響子が、両手を組んで言った。「まさに、<日本の原型>を造られたわけですね、」

意見評価は、分かれると思いますが、<日本の原型>を造られたのは、確かなことです」

  マチコが、コクリとうなづいた。

 

<天武天皇・・・突然の崩御> 崩御 

         


「支折さんに...」響子が言った。「
業績背景を詳しく説明していただきましたが...ここでは、

“天武天皇”人物像というものを、簡単に総括しておきましょう」

「うーん...」マチコが言った。「人物像ですか...」

「はい...

  “天武天皇”は...宗教超自然的力に関心が強かったようです。また、神仏への信仰心も厚

かった様子ですね。当時は現代のように、科学医学が基盤的に展開しているわけではなく、

や、病魔や、(たた)や、精霊は、日常生活の非常に身近な所に存在していたものと思われ

ます。それが、人生/人生観に強く影響を及ぼしていたわけです。

   『日本書紀』によれば...“天武天皇”は、天文遁甲(てんもんとんこう)をよくするともあり...その

技能は、<壬申の乱>では大いに役立ったようです。この時、自ら式をとって(うらな)“天下

二分・・・の兆し”と解き...また、“天神地祇(てんじんちぎ)に祈って・・・雷雨を止ませた”...という

こともあったようです。

  それが...如何ほどのものかは窺(うかが)い知れませんが...『三国志(中国/180年~280年頃/

魏・呉・蜀の三国が覇を争った三国時代の歴史書)『三国志演義(三国時代を舞台にする歴史小説/明時代・・・1368年

~1644年頃に書かれた軍師/諸葛孔明天文遁甲を得意とし、大活躍しています。

  もっとも、『三国志演義』明の時代に書かれたものですから、“天武天皇”がこの小説を読ん

でいたということはありません。もっと直接的に、大陸の進んだ文化として海を渡ってきていたの

でしょう。うーん...この占いは、諸葛孔明も使っていたように、道教的技能のようです。

  それから、これは『古事記』の方に記載があるようですが...“天武天皇”が、“夢の中の歌を

解き・・・夜の水に投じて・・・自分が皇位に就くことを知った”...と記されているようです。詳しい

ことは分かりませんが、『古事記』の方にも、それほど詳しい記載はないのでしょう...

  このような、予知能力/予言者的能力によって...“天武天皇”“神”と仰がれる、カリスマ

を獲得して行くわけですね。こうした能力は、邪馬台国卑弥呼を連想させます。古代におい

ては、こうした能力人々を統率する上で、重要な要素だったのでしょう。

  “天武天皇”は...即位後政治においても、宗教・儀式への関心が伺えると言われます。

いの活用や、神仏への祈願で、目的を達成する姿勢が強かったようです。これは、科学時代

現代においても...主流ではありませんが...色濃く残っているわけですね。

  神仏への礼も、怠りなくということです。古代においては、そうした傾向が、より一層強かったと

いうことですね。また、そうした方面感性では、大自然と乖離(かいり)している現代人よりも、は

るかに鋭かったということでしょう...」

「うーん...」マチコが、コクリとうなづいた。「そうよね...」

未知なるものへの敬意...」支折が、ポツリと言った。「神仏への敬慕は...

  人間を傲慢から遠ざけ...魅力的にしますわ...それを否定する人は、この世/この世界

/この宇宙を...そして、自己というものを...真に真剣に考えたことがないのですわ...」

「はい...」響子が、うなづいた。「そうですね...

  さあ...繊細“天武天皇”感性と...武人気質決断力/行動力...そして、予言者的

能力強烈なカリスマ性は...今/現在においても...非常に、魅力的な指導者/人物像だっ

たと思われます...」

「そうですね...」支折が、顔を斜めにした。

 

「ええ...」響子が、口に手を当てた。「“天武天皇”は...

  【巻2-(103/104)(天皇の藤原夫人(ふじわらのぶじん)に贈へる歌1首)戯れ歌・・・相聞歌〕に見ら

れるような、くだけた人間性の一面も、万葉集に残しています...また、【巻1-(25)

野への脱出暗く重苦しい歌も、万葉集に残しているわけですね。

  一方...漢詩を作ったとする史料はないようです。これは注目に値します。ここらあたりに、

“天武天皇”趣味趣向が垣間見えてくるようです...また、無端事あとなしこと・・・なぞなぞのようなこと

?/・・・答えて、当たっていたら、必ず賜物をしよう・・・と言われたのように、庶民的趣味もあった様子です。

  庶民的といえば...天武・14年9月18日に...大安殿博戯(ばくち)の大会を開くといった、

侠的なものもあったようです。それから、各種芸能者への厚遇もあり、民衆地方豪族共感

呼ぶ側面も、示されています。これは、<新しい国の線引き>の一端と、考えていたのでしょう

か。

  あ、くり返しになりますが...反面威嚇的も...複数回下されています。天武・4年2月

19日に...群臣百寮天下の人民に、諸悪をするなとを下しています。

  天武・6年6月には...東漢氏政治謀議に加わった過去を、数十年前まで遡って責め、

を下して赦すが、今後は赦さないとしています。

   天武・8年10月2日には...王卿らが怠慢で、悪人を見過ごしていると言って、戒めています」

「はい...」支折が、うなづいた。

                    

「ええ、いよいよ...」響子が、モニターに目をやった。「天武・15年5月24日...

  “天武天皇”御病気になられます。仏教効験(こうけん/効能、効果)によって快癒を願ったので

すが、効果はありませんでした。

   天武・15年7月15日には...政治皇后皇太子にゆだねていますから、相当に重い病状

だったようです。そして、その5日後/7月20日に...元号朱鳥としています。

  そして、天武・15年9月11日に...崩御されました。<新しい国造り>をなかばにしての、

突然の崩御です...」

(/天武15年・・・崩御の前に、元号が朱鳥に変わっています。『日本書紀』中では、朱鳥は1年で終わり、翌年は持統元年となって

いるようです

                      


「ええ...」支折が言った。「これは...後世の記録ですが...

  文暦2年(1235年/鎌倉時代・初期)...盗掘後の調査『阿不之山陵記』に...“天武天皇”

御遺骨について記載があるようです。天皇陵盗掘にあい、その散乱した光景から、調査され

た記録のようです。

 

  それによると...遺骨の首は、普通より少し大きく...赤黒い色をしていた。脛の骨の長さは

1尺6寸(48cm)、肘の長さ1尺4寸(42cm)推定身長175センチメートルぐらい。当時としては、

は高い方だったようです。藤原定家日記/『明月記』によれば、白髪も残っていたということで

す。

 

  この文暦2年盗掘ですが、調べてみると...“野口王墓”(のぐちおうはか)は...奈良県/

明日香村に所在する、古墳時代/終末期八角墳でした。これは、天皇陵で、天武・持統/合

葬陵比定・治定(陵墓と決定されること)されています...

  宮内庁発行『陵墓要覧』による陵名は...“檜隈大内陵”(ひのくまおおうちみささぎ)となって

いるようです。そして『日本書紀』では...“大内陵”記述されているようです。

 

  ええ...文暦2年(1235年/鎌倉時代・初期)盗掘では、大部分の副葬品が奪われたようです。

その際、“天武天皇”の棺まで暴かれ、御遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と

白髪が散乱していたと言われます。“持統天皇”の遺骨は火葬されたため、銀の骨壺に収められ

ていたようですが、その骨壺も奪い去られ、遺骨は近くに遺棄されていたと言われます...

 

  わずかな金品のために...〔日本の歴史〕...を汚すような、ひどいことをしたものです。

棒に説教というのもなんですが、百歩・千歩譲って...仮に盗掘するのであっても...せめて御

遺体には、礼を尽くして欲しかったものですね...

  もちろんその後は...御遺体・御遺骨は清められ...再び安置されたものと思いわれます」

 

 

 

 

    

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