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  〔巻1/原・万葉集〕           <吉野への脱出/壬申の乱・・・ 大王から天皇へ>

     天武・持統朝      

 
             

 トップページ/Hot Spot/Menu/最新のアップロード                      女流歌人: 里中 響子   

    INDEX              house5.114.2.jpg (1340 バイト)         wpe50.jpg (22333 バイト)

No.15 【巻1(25)】  天武天皇    み吉野の 耳我の峰に 時なくそ・・・ 2011.11.14 
No.16 〔1〕 吉野への脱出風景 2011.11.20
No.17 〔2〕 壬申の乱・・・② 
2011.12. 3 
No.18        <吉野から・・・伊賀・伊勢への脱出> 2011.12. 3 
No.19        <美濃から2方向・・・数万づつの軍勢を送り出す> 2011.12. 3 

 

    参考文献

                       Wikipedia  ・・・ 万葉集 (・・・インターネット・サイト・・・) その他       

                          【巻1-(25)】  【巻
 1(25)】

     天武天皇/ み吉野の 耳我の峰に 時なくそ 雪は降りける ・・・   (長歌)

                                        ( 壬申の乱・・・吉野への思い )    

*************************************************************

                   

 
    み吉野の 耳我
(みみが)の峰に 

                時なくそ 雪は降りける 間(ま)なくそ 雨は零(ふ)りける 

           その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間なきが如 

                         隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を

 

【現代語訳/大意・・・巻1(21)】

吉野の耳我の峰には 時知れず雪が降るという 絶え間なく雨が降るという...

       その雪や雨が絶え間ないように...道を曲がるたびに...

               物思いを重ねながら...

                      その山道を辿ってきたことだ...

*************************************************************

                                

「この長歌は...」響子が言った。「“天武天皇”の、吉野への思い詠まれたものと言われて

います...

  “天智天皇”の皇位継承をめぐって...長年約束されていた太政大臣/大皇弟・・・東宮

/皇太子/大海人皇子が外されて...大友皇子への布石が進む中で、大海人皇子は辛く

も、も吉野へ脱出しました。剃髪して、妃/鸕野讚良/“後の持統天皇”ともども、都を落ちて

行ったわけですね。

  歌は...近江京を去り...奈良/吉野に隠遁する道中を回想し、詠んだものといわれま

す。天皇の支配力/軍勢は強大であり、追手がかかっているやもしれず、きらびやかな都を

離れての逃避行です。

  しかも、1日で、嶋宮(/近江京からの最初の宿泊地・・・旧都の天皇家の離宮。蘇我馬子の邸宅跡。後

に草壁皇子の東宮・・・奈良県/高市郡/明日香村/島ノ庄)から、吉野への脱出をはかったわけです

から、よほど事態が緊迫していたのでしょう。嶋宮に、追討の部隊が迫っていたのかも知れ

ませんね。

 

  “雪や雨の絶え間ないように・・・道を曲がるたびに・・・物思いを重ねながら・・・” ...吉野

の険しい山道を進んだわけです。

  もはや...帰る都/戻る道はなく...反旗を翻し、近江朝廷に勝利する...覇道の道し

かありません。また大海人皇子は、頭の片隅でこの日のあることを折り込み、後の世の大構

想を描いていたのかも知れませんね。

  でも...大化の改新の端緒となった、“乙巳の変”(いっしのへん)のようなクーデターではな

く...本格的に国軍と激突するようなクーデターでは...本来、ほとんど勝ち目はありませ

ん。それでも、周囲の支援も多く、社会的不満の高まりがあり、地方豪族を糾合できたわけ

です。

  そして、たちまち...数万の軍勢を不破(岐阜県/不破郡/関ヶ原町)に結集し...2方面か

ら近江朝廷に挑んだわけです。これに勝利することができたのは、大海人皇子の武将として

の抜群の統率力と、ズバ抜けたカリスマ性でしょうか。

 

  ええと...耳我の峰とは、吉野/金峯山のことでしょうか...この峯に、絶え間なく降ると

いわれる雪や雨のように...曲がり角ごとに、絶え間なく物思いをしながら、山道を超えて来

たわけですね...“筆舌に尽くしがたい・・・雪の中の逃避行”...だったようです。

  とりあえず、虎口(ここう)を脱出し...1日にして吉野へ逃げたわけですが...その間は、

まさに、様々な思いが駆け巡ったと思われます。

  そして、一方、この状況を...“虎に・・・翼をつけて放てり”...ということだったわけで

すね。やがて、近江朝廷に反旗を翻すわけですから、周辺状況も非常に複雑だったと思いま

す。万葉の時代は、おおらかで、穏やかなだけではなく、こうした濃密な血縁の中での壮絶

な抗争/粛清もあったわけですね...

  その時の、“天武天皇”の吉野への深い想いが...この長歌に詠まれているわけです」

 

  〔1〕 吉野への脱出風景                 

 
                                

 

「ええ...」支折が、顎を上げ、目を細めた。

  唇をかるく結び...≪航空宇宙基地・赤い稲妻/シンクタンク・赤い彗星ビル3

F≫の窓から、紅葉の始まった草原を眺めた。長野県/≪軽井沢・基地≫から引き揚

げてきて、1週間になる。関東平野/西部丘陵も、いよいよ秋が深まる様相だった。

 “・・・額田王(ぬかたのおおきみ)の言う通り・・・”...支折が、心の中でつぶやく...“・・・

憂いを帯びた秋の陽の光...紅葉し始めた灌木に散る優しい陽光が...時の無い、

永遠の存在をしのばせている...・・・”

  支折が口に手をやり、眼前する...“存在の・・・結晶風景”...を見つめつつ、小さ

な息をついた。響子とマチコを振り返り、口元に微笑を漂わせ、静かにうなづいた。うな

づきは、特に意味はなかった。ただ、全ての存在を、己が肯定したものだった。

「さあ...」支折が、両手の指を組んだ。「では、始めましょうか...」

「そうですね...」響子が、口をすぼめた。「帰って来たのが、嬉しそうですね、支折さ

ん、」

「存在しているのが...」支折が、言い直した。「嬉しいのですわ...また、草原の散

歩に出られます...秋の山道を歩けますわ...去年の、栗拾いを思い出します」

「うん...」マチコが、深くうなづいた。「アケビは、もう駄目よね。口が開くと、鳥がきれ

いに食べてしまうから、」

「ホホ...」響子が楽しそうに、窓の鰯雲を眺めた。「そうですね...」

 

「さあ...」支折が両手を組み、モニターに目を落とした。「ええと...

  ここは<壬申の乱>となりますので...<壬申の乱・・・①>に引き続き、私まと

めておきました。吉野への脱出/逃避行の様子は...【巻1-(25)】...で“天武天

皇”も、『万葉集』に残しています。そこから、当時の状況が生々しく偲ばれます。

 

吉野の耳我の山に...時知れず雪が降っている...

    絶え間なく、雨が降っている...雪が定めなく降るように...

雨が絶え間なく降るように...道を曲がるごとに...

    絶えず物思いに沈みながら...その山道を超えて来た...

 

  元・皇太子/大海人皇子(おおあまのみこ)の一行の...飛鳥/嶋宮(/天皇家の離宮・・・蘇

我馬子の邸宅跡/後に草壁皇子の東宮・・・奈良県/高市郡/明日香村/島ノ庄)からの...吉野/宮滝

/天皇家の離宮への脱出/逃避行を...後の“第40代/天武天皇”が懐かしみ、詠

んでいるわけです。

  私は...不勉強のそしりを、甘んじて受けるつもりですが...“第38代/天智天皇”

は琵琶湖のほとり...近江/大津宮に遷都していたわけですね。大海人皇子の、吉

野への脱出/逃避行は...飛鳥/嶋宮が起点になっているのでしょうか?

  それまでは...近江朝廷の厳しい監視下にあったわけですが、逃げようとはしてい

ないわけですね。ところが、嶋宮で妃や皇子たちと合流すると、間髪を入れず、翌早朝

には、冷たい氷雨の中を、飛鳥川沿いに、吉野への脱出を謀(はか)っているわけです。

 

  このことを、軍事戦略担当の大川慶三郎さんに伺ってみたのですが...この敏速

さは、宮廷での緩慢な所作ではなく、“優れた・・・軍事戦略的・行動”、とのことでした。

この少し前あたりから、大海人皇子の、“将帥・・・戦略/戦術/カリスマ性”、が光って

いるそうです。

  また、こうも言っていました...同じような才能を発揮した人物に、〔平安時代・末

期〕の源義経(みなもとのよしつね)がいるが...彼は、奥州/平泉で弁慶ともども、非業の

最期を遂げた。しかし大海人皇子は、最後まで生き抜き、稀代の英雄となった、そうで

す。当然...歴史上の影響力というものは、抜群となるわけです。

  その1つが...群雄の中の旗頭である大王から、〔超越した存在/最初の天皇〕、

となったということです」

「ええと...」響子が言った。「最初に天皇を名のったのは...

  誰かというのは、諸説あるようですが、最近は“天武天皇”とする説が有力ということ

ですね?」

「はい...」支折が、うなづいた。「...つまり、それほどの力をもったとしても、自然と

うなづけるということです、」

「はい...」

                   

「ええ...」支折が、髪に手を当て、モニターをのぞいた。「嶋宮からの、脱出に話を戻

します...

  飛鳥/嶋宮の近くには、飛鳥川が流れています。おそらく、夜明け前から準備し、周

囲を偵察していた事でしょう。そして、空の白んだ氷雨の中を、人目を避け、飛鳥川を

遡上し...“稲淵(いなふち)”...“栢森(かやのもり)”...と進んで行ったようです。

  そこから、さらに登って行くと...現在の明日香村と、吉野町の境にある、“芋ケ峠

(いもがとうげ)”に達します。この“芋ケ峠”の前後あたりが、【巻1-(25)】に詠まれてい

るような、つづら折れの道になり、急勾配になっているようです。

  歌に詠まれている“耳我(みみが)の山”は、どの山かは判明しないそうですが、“み吉

野の・・・”、と詠まれていることから、“芋ケ峠”を越えて、その先にある山と言われてい

ます。

 

  ええ...<壬申の乱・・・①>...でも触れていますが、671年/9月初旬頃、風

邪をこじらせた“天智天皇”は、病床に伏していました...病状は、いっこうに快方には

向かわず、臨終の床となるわけです。 

  この時点では...太政大臣は実弟/大海人皇子から...子息/大友皇子に差し

替えられています。この最終的な人事が行われた時、大海人皇子は譲位を諦(あきら)め

たと思われます。

  そしてこの時点で、東宮/皇太子の宮殿をも、離れていたのでしょうか。浅学を晒(さ

ら)していますが、おいおいと確認して行きたいと思います。

  あ...大海人(おおあま)という、特徴的な名前ですが...これは、皇子が少年時代を

過ごした、尾張/海部評(あまこおり)に由来しているそうです。そこから飛鳥京に入ったの

は、13歳の時だったそうです。

  “武人気質(ぶじんかたぎ)”に育った大海人皇子は、中大兄皇子のもとで大変貌し、有

能な片腕として成長し、実績を重ねて行きます。そして、大皇弟/東宮・大皇弟(/中臣

鎌足=藤原鎌足に、大織冠を授けた折)とも呼ばれ、人々に慕われていたようです。

  “天智天皇”は、そのご褒美ということでもあったのでしょうか。鸕野讚良(うののさらら/

“持統天皇”)の他にも、何人かの自らの娘/皇女を、実弟(父母が同じ)/大海人皇子に与え

ています。

  姉・妹と...何人も重複して、身近な人間に嫁いでいる様子から...当時の宮廷の、

おおらかな生活感がうかがえると思います。でも、譲位は...大海人皇子ではなく、子

息/大友皇子に固めた“天智天皇”は...今度は、大海人皇子のその抜群の能力を

恐れたわけです。

 

  さあ...また、話を戻しますが...“天智天皇”は、臨終の枕頭に大海人皇子を召し

出し、例の“譲位の話”を切り出します。もし、譲位を受けたら、“謀反の意あり”として、

ただちに首を落とす手筈(てはず)となっていた様です。

  私たちの感覚から言えば、“情として・・・本当に、そんなことができるのか?”、と思

いますが、“皇位をめぐる身内の抗争”は、すでに幾度となくくり返されて来ているわけ

です。“おおらかな・・・万葉時代”ですが、皇位をめぐるこうした、“恐さ”もあったわけ

ですね。

  さあ、大海人皇子の方も...それを察していて、大津宮の近くの自分の屋形を引き

払う準備をし、“天皇の呼び出し”を待っていた様子です。言葉も用意してありました。

  そして、召し出しを受け...天皇の枕頭で、“とんでもございません・・・”...言い、

“直ちに出家し・・・吉野の宮滝にこもって・・・仏道の修行を重ねつつ・・・陛下の御病気

の快復を祈りたい”...と、身の振り方も申し出ます。“天智天皇”はこれを許可します。

  まさに“天智天皇”は、近江朝廷において、絶対権力をもっていた様子がうかがわれ

ます。前にも言いましたが、“天智天皇”もまた、自分の片腕として歩んできた実弟が、

可愛くないはずはありません。そうした、“甘さ”と“非情”の優柔不断が、妙な展開を招

いてしまったわけです。

 

  一方、大海人皇子の方は必死です。機を失せず、宮廷内/仏殿で剃髪をし、そそく

さと退出したと思われます。そして翌日...一足先に、妃/鸕野讃良(うののさらら/天智天

皇の娘/持統天皇)、草壁皇子(くさかべのみこ)、忍壁皇子(おさかべのみこ)たちを...舎人(とねり: 

天皇や皇族の身辺で御用を勤めた者)や女官(にょかん: 朝廷につかえる女性の官人の総称/・・・雑事を行う下級女

官は女儒/にょじゅ、めのわらわ)を付けて、吉野(/その途上の、飛鳥の嶋宮)に先発させたようです。

  残った大海人皇子の方は...出家した身に武器や武具の類は必要なく、それらを

キッチリと宮廷の武器庫に納める仕事があります。これは覚悟のほどを示すためにも、

大事な仕事になります。

  それから...吉野で隠遁するとなれば、山越えもあり多少の準備も必要になります。

その下工作と、親しい知人への、当たり障りのない、別れの挨拶もあります。そうした全

てが、厳しい朝廷の監視下で行われたわけですね。よほどの胆力(たんりょく)が必要にな

ります。

  ええと...逆の立場から見れば...剃髪し、武装解除を進めている屋形を、朝廷側

が襲う理由は、何もありません...武装解除は、大いに結構なことです。それから、都

落ちして行くわけで...ただ見ていればいいわけです。

  でも...この辺りは...息詰まるような緊張感の中で...粛々と進行したものと思

います。

 

  2日後・・・10月19日/早朝・・・ 

  大海人皇子は...兄/“天智天皇”と、最後となる別れの挨拶をした後...輿(こし)

に乗り...50人余りでしょうか...厳選した舎人・女官と共に、大津宮から宇治の方

向に、出発したと思われます。そして旧都/飛鳥を通り、その南側の山を越え、吉野に

入るわけですね。

  宇治橋あたりまでは...見送りの近江朝廷の重臣たちも、付いて来たのでしょうか。

そこで...ピリピリした監視下から離れ...いよいよ都落ちです。でも、この辺りから、

さらに油断ができなくなります。何処に、伏兵を忍ばせているかも分かりません。

  そうした危険を避けるために...おそらく一行は、見送りが離れた先で、ひそかに

準備しておいた馬に乗り換え、約50キロ南方の飛鳥/嶋宮(しまのみや)をめざし、奈良

盆地を疾駆(しっく)したと思われます。

  大和の地は、熟知している土地です。でも、ここはまだ、近江朝廷にとっても裏庭の

中です...ともかく、早朝に近江/大津京を発ち、夕方遅くには飛鳥/嶋宮に入り、首

を長くして待ち焦(こ)がれていた、妃/鸕野讃良や皇子たちとも合流したようです。

  ひとまずは、安堵(あんど)の再会といったところでしょうか。でも、虎口(ここう: 虎の口・・・非

常に危険な所)を脱出するには、吉野まで逃れ、ようやく、“後ろを振り返ることができる”、

といった状況でしょうか。嶋宮/離宮は、ある程度の防御はできても、危険な状況に変

わりはありません。

 

  翌日・・・10月20日/早朝・・・ 

  大海人皇子の一行(/推定100名前後)は...早々に嶋宮を発ち吉野を目指します。前

夜から降り出した、冷たい氷雨は、みぞれまじりの雪に変わったようです。決死の脱出

であり、1刻を争う緊迫した危機が、身近に迫っていた様子です。武人/大海人皇子な

らではの決断であり、行動力ですね。 

  氷雨の降る、薄闇の中...一行は、身を潜めるように...飛鳥川を遡り...“稲淵

(いなふち)”...“栢森(かやのもり)”...と進んで行ったようです。“芋ケ峠(いもがといげ/標高

500m)”では、本降りの雪になった様子です。

  その...冷たい雪の吹き付ける山道を...濡れそぼって黙々と歩き...屈曲をくり

返し...追手も警戒しなければなりません...また、吉野にたどり着いたとしても、先

の当ても定かでない...都落ちの逃避行です。

  大海人皇子の心は...この天候のように鉛色で、重く沈んでいたのでしょうか。それ

でも、その日のうちには、吉野の離宮にたどり着いたようです。古代の山道は険しく、女

・子供を伴った逃避行は...“生涯・・・忘れえぬもの”...となったようですね。 

  【巻1-(25)】...はその吉野への、山越えの逃避行を...しみじみと偲び、長歌

に詠まれ...『万葉集』に編纂されたものです...」

 

                          

「この...あ...」支折が、響子の淹(い)れたコーヒーに、かるく頭を下げた。「吉野と

いう地ですが...

  ここは、“初代/神武天皇”の通ったコースですよね...それは、後で確かめる機会

があるかと思いますが...この地も、“様々に・・・いわくのある地”です。そしてまた、

“天武天皇”と“持統天皇”にとっても...“思い込みの深い地”に、なるわけですね。

  さあ...吉野/宮滝に到着して...まず大海人皇子のやるべき仕事は、離宮の防

備を固めることでした。これは武人として、十分な心得があったと思われます。なにより

も、追手の有無...周囲の偵察...そして、土地の人間を味方にすることも、防御/

情報収集において、最重要になります。

  大海人皇子は...舎人(とねり)たちに、周囲に居住する山人/国栖族(くずぞく: 吉野川

上流に住んでいた先住民族)、吉野・宇陀(うだ)の豪族たちと、親しく付きあい、懐柔し、味方に

引き入れるように指示します。

  さらに、東国の地方豪族の兵力を結集させるべく、隠密裏に工作を開始するわけで

すね。有能な舎人を騎馬で動かし...伊賀・伊勢・尾張・美濃の豪族たちに...軍団

を編成するように促すわけです。尾張は、大海人皇子が少年時代を過ごした土地でも

あったわけでね。

  律令体制の整いつつあったこの時代...近江朝廷は、その律令体制を使うことがで

きたわけです。それで、吉野も監視できたのでしょうか。浅学のため、こうした事情まで

は分かりませんが、ともかく吉野も、しだいに強力な近江朝廷の監視が敷かれて行っ

たと思われます。

  大海人皇子の一行は...100人程度で吉野に入り...半数は帰しているようです。

これは、離宮の収容規模のためでしょうか。でも、残った舎人や女官たちの中にも...

脅し・すかし・血脈などで...近江朝廷に通じる者も出て来たのかも知れませんね。

  “虎に翼をつけて放った者(中国の故事)”...の動静は、常に掌握しておかなければな

らないわけです。その意味では、土地者も、油断はできません。したがって、真の味方

を結集して行くことが、重要になります。

  こうした所でも...大海人皇子の、将帥(しょうすい)としての実績と、才能と、強烈なカ

リスマ性が発揮されるわけです...」

 

                                         

「でも...」マチコが言った。「どうして、地方豪族に不満がたまっていたのかしら? 律

令制度で、締め付けられて来たからかしら?」

「うーん...」支折が、唇を結んだ。「それも、あると思います...

  それと...唐・新羅(とう・しらぎ)の連合軍に、“白村江の戦い(/663年)”で大敗し...

国防にかかわる膨大な出費や、徴用や兵役が、重い負担になっていたからでしょう。そ

れらは全て、都の人々や、地方豪族などへの、重い負担になっていたわけです。

  ええ、667年には...対馬(/長崎県)に金田城...讃岐(/香川県)に屋島城...さら

に、お膝元の大和(/奈良県)と河内(/大阪府の南東部)をわける生駒連山にも、高安城を建

設し、外国と戦争に備えていました。最前線の西国の離島から、畿内(きない: 都に近い地)

まで、臨戦態勢を高めていたようです。

  また同年...都の防衛をより一層高めるために...海岸線から遠い、琵琶湖・湖畔

の近江/大津に遷都を敢行(かんこう: 無理を承知で、思い切って行うこと)します。さすがに、これ

は、都の人々も地方豪族も疲れ果ててしまい、大いに反対したそうです。

  でも、“天智天皇”は強行したわけです。こうした諸々のことで、不満が鬱積(うっせき)し

ていたわけですね。うーん...そこへ持って来て、またまた、皇位継承をめぐる血縁の

中の争い事です。都の人々も、さすがに、ウンザリしていたのではないでしょうか、」

「そうかあ...」マチコが、コクリとうなづいた。「大海人皇子は...それらを緩和すると

約束し...ゴタゴタを終わらせると、宣言したわけかしら?」

「多分...」支折が、うなづいた。「世の中の空気も、変わると思ったのでしょう....」

「でもさあ...外国の軍隊が、攻め込んでくる危険はなかったのかしら?」

「<壬申の乱>は、672年ですから...

  遷都から、5年ほどたつわけですね...ともかく大海人皇子は、近江朝廷とは別の

政策を約束し、地方豪族を糾合をして行ったのだと思います。

  大川慶三郎さんも言っていました...皇位の正当性の主張しただけでは、わずか

8ヶ月間で、数万の軍勢を結集することは不可能だそうです。当時の兵は、豪族や庶

民/農民ですから、皇位の正当性などでは、分かりずらいわけです。

  したがって...急激な改革や、租税の負担は、緩和・軽減すると約束したのでしょう。

つまり...皇位の正当性は、実力勝負/兵力の激突で決まることになったわけです。

   〔平安時代・後期〕には、平清盛(たいらのきよもり)などが現れて、武家社会の台頭が始

まります。でも、時代ははるか以前...〔奈良時代〕の『万葉集』の編纂が始まる以前

の...防人が、西国の海岸線を固めていた時代です。 

「うーん...」マチコが言った。「でも...8ヶ月間で、数万の軍勢を招集するとは、すご

いカリスマ性ですよね...」

「そうですね...」響子もうなづき、口に指を押し当てた。

                              

「ええと...」支折が、モニターから顔を上げた。「吉野が、“いわくのある地”、と言っ

たのは...」

「はい...」響子が、腕組みをした。

「これは...

  古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の一件があったからです...古人大兄皇子は、

“第34代/舒明天皇(/・・・【巻1(2)の長歌】・・・の作者)”の第1皇子で...母は、蘇我馬子

(そがのうまこ)の娘/蘇我法提郎女(そがのほほてのいらつめ)です。そして...娘/倭姫王(や

まとひめのおおきみ)は、“天智天皇”の皇后です。

  さあ...その古人大兄皇子ですが...古人皇子/古人大市皇子/吉野太子とも

呼称されたわけですが...もともと、中大兄皇子や中臣鎌足らの、“乙巳の変(いっしの

へん)”の標的の1人とも言われた...重要人物です。

  ところが、考えてみれば...中大兄皇子は、后(きさき/・・・后は第1位、妃は第2位)の親/

岳父を、クーデターの標的にしているわけですね。当然、妃(/後の皇后)としては、ビック

リ仰天です。こんなことが、当時の権力中枢では、まかり通っていたわけですね。よくも、

別れてしまわなかったとも言えるわけですが...どうなのでしょうか...」

「うーん...」マチコが、頭を横に沈めた。「皇后/倭姫王(やまとひめのおおきみ)は、それで

納得していたのかしら...」

「ともかく...」支折が言った。「先を見てみましょう... 

  “乙巳の変”の後...“第35代/皇極天皇(・・・第37代/斉明天皇でもある・・・)”の退位を

受け...古人大兄皇子が即位することを勧められるわけです。でも、こうした事情もあ

り...辞退し、出家して...吉野宮滝の離宮へ隠退するわけです。

  つまり、ここが...大海人皇子の追従する道となるわけです。同じようなことが、2度

あると言いますが...まさにこのことですね、」

「うん!」マチコがうなづて、納得した。「そういうものよね...」

「それで...さらに、話の続きがあるわけです...

  この古人大兄皇子に、真偽は不明ですが...“謀反(むほん)の企てあり”...という

密告があります。そして、645年9月12日、この吉野において...中大兄皇子によっ

て、“攻め滅ぼされる”...わけです。

  そもそも...“皇極天皇”が退位し、古人大兄皇子は出家しているわけです。“何を

もって・・・謀反”、なのか、よく分かりませんが、旧勢力の巻き返しでもあったのでしょう

か。ともかく、山に囲まれた檻(おり)の中の様な吉野は、わずかな兵力で攻略されたと

言われます。

 

  つまり...“天智天皇”には...“大海人は恐いが・・・古人大兄皇子と同じ・・・あの

吉野に入るというのであれば”...という想念があったと思われます。

  また、大海人皇子にしてみれば...“出家し・・・あの吉野に隠退しますので...謀

反の意思は皆無です”...というメッセージを発したわけです。ここは、大海人皇子が、

1枚上手だったということですね。吉野という地理を逆手(さかて)に取り、油断させたわけ

です」

「そこから...駆け引きが始まっていたわけかあ...」マチコが、宙を見た。

「そうですね...

  大海人皇子は...兄/中大兄皇子を超える軍略家だったわけです...カリスマ性

もあり...中大兄皇子はそれを、誰よりも恐れていたわけです。それゆえに、太政大

臣の地位を解き、あえてそこに、大友皇子を据えたりもしたわけです...」

「うん...」マチコが、コクコクと、2度うなづいた。

「ええと...

  吉野ですが...そこは山桜で有名な吉野山ではありません。その北の吉野川ほと

りで...吉野宮滝の大王家/天皇家の離宮です。私は、訪れたことはないのですが、

離宮があったほどですから、吉野川の渓谷の美しい所だったと思われます。おそらく、

今でも、地形は変わっていないと思います。

  出家して隠棲(いんせい: 俗世間を離れて静かに住むこと)するには、古人大兄皇子(ふるひとのおお

えのみこ)も好んだように、格好の地だったようです。また、謀反の意思はありませんとい

う、強いメッセージもあったわけですから、好都合でした。

  ところが...大海人皇子の...優れた戦略眼で俯瞰(ふかん: 高い所から、見下ろして眺める

こと)した時...吉野は、“山に囲まれた檻(おり)の中”と見るよりも、伊勢と、紀伊とを結

ぶ、戦略的要衝(ようしょう: 軍事・交通・産業の上で、大切な地点)/交通の要衝、と見えたわけで

すね。

  ここをうまく使えば、近江朝廷の触手をかいくぐり、味方の本拠地となる美濃との往

来も、可能だったわけです。また、いざという時は、熊野の山中に逃げ込むこともできた

わけです」

「そうかあ...」マチコが、コーヒー・カップを取り上げ、ゆっくりと傾けた。

 

「近江朝廷では...」支折も、コーヒー・カップを取り上げた。「...“天智天皇”の...

崩御が、さし迫っていました。

  そして、吉野では...大海人皇子が、近江朝廷に対する戦の準備を開始しているわ

けです。信頼のできる精鋭20人余の舎人を機動的に使い、隠密裏に軍勢の動員を促

す、指令を発していったようです。

  ここでは、簡単に言い切ってしまいますが...権力側/近江朝廷との、しのぎを削る

戦いであり...当然、容易なことではなく...熾烈な攻防もあったと思われます...」

「うーん...」マチコが言った。「“天智天皇”の、実弟/大海人皇子の名は、天下に知

れ渡っていたわけよね、」

「そうですね...

  皇位の継承で、身内の粛清をくり返し...多額の戦費...膨大な築城...兵役に

苦しめられて来た、“天智天皇”の後に...大海人皇子が立つと言います。天下の情

勢は、大きく動いたと思われます...」

「ふーん...」マチコが、腕組みをした。

「でも...こうしたことは...

  吉野で隠棲すると決まった時から、天皇の周囲では薄々と予想されていたことです。

だから...都落ちの時もピリピリとし...嶋宮からは、逃避行のような山越えになった

わけです...まさに、“虎に翼をつけて放てり”...という状況になったのです...」

「それでも...」響子が、後ろ髪のバレッタに手をかけた。「...“あの吉野・・・”...だ

ったわけですね?」

「そうですね...」支折が、うなづいた。「私は...

  <壬申の乱・・・①>で、“鴻門の会”(こうもんのかい: 紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦

の都/咸陽の郊外で会見した故事。楚漢の攻防の端緒となった。この宴席で劉邦を取り逃がした項羽は、結局、劉

邦に滅ぼされることになり・・・漢王朝が到来した)を、彷彿(ほうふつ)とさせると言いました...」

「はい...」響子が言った。

                                                              

「それから...」マチコが言った。「どうなったのかしら?」

「大海人皇子が...

  吉野に脱出した年...671年12月3日...“天智天皇が崩御(/46歳)”しています。

この頃には、大海人皇子の“挙兵の工作”も耳に入っていて...“如何(いかん)ともしが

たい状況”...になりつつあったのでしょうか。

  内大臣/中臣鎌足(藤原鎌足)が存命なら...この事態も、あるいは、回避されていた

のかも知れません。でも、この重鎮は...2年前/669年に、すでにこの世を去ってい

ます。

  “天智天皇”は...己(おのれ)が健在なら、大海人皇子を抑えられるのだが...と思

いつつ...“自らが蒔(ま)いた種であり・・・心の残る崩御”...と、なったのではないで

しょうか...」

「そうですね...」響子が、冷めかけたコーヒーに、スッと手を伸ばした。


  〔2〕 壬申の乱・・・②                                      

        B                                      


「
吉野宮滝に入って...」支折が言った。「約8ヵ月...

  東国における軍勢・結集のメドを受け...大海人皇子(おおあまのみこ)がわずかな人数

で、吉野を脱出したのが...672年(天武天皇・元年)6月24日...です。

  ええと...これからは、大海人皇子の子息/皇子が多く出て来るので...ここから

は大海人皇子を、単に大海人(おおあま)と呼ぶことにしますので、よろしくお願いします」

「はい、」響子が、うなづいた。

「さあ...」支折が、残っていたコーヒーを飲み干した。「この時点から...

  古代/日本における最大の内乱...<壬申の乱>(じんしんのらん)...が始まります。

新しい律令体制下の軍勢と、急激な改革に反対する、大海人の糾合した地方豪族軍

勢との戦です。でも元々は、皇位継承をめぐる権力闘争だったわけですよね。

  これは...俯瞰(ふかん: 高い所から見下ろし、眺めること)して見渡せば...大海人・側が、近

江朝/律令体制・側から...地方豪族と律令組織を、どれだけ離反させることができ

るかがカギでした。

  ええ...時間経過を追って...乱の推移を...詳しく見てみましょう...」

「はい、」響子が、小さくうなづいた。「お願いします、」

 

<吉野から・・・伊賀・伊勢への脱出> a1          


 
                                   

「大海人は...」支折が、背中を伸ばした。「吉野を脱出し...

  伊賀から伊勢を経由して、美濃(みの/現在の岐阜県南部)まで逃(のが)れています。吉野・

脱出と同時に、軍勢・結集の号令をかけ、たった数日で数万の軍を動かすというのは、

非常にダイナミック(力強く生き生きと躍動するさま)です。

  近江朝の不穏な動きを見て、先手を打った様ですね。このあたりは、優れた将帥(しょ

うすい)としての独特の嗅覚であり、武人としての、素早い決断と行動力です。こうした大

冒険というのは、誰でもできるものではなく、大海人にそれが降りかかったわけです。

  『日本書紀』によれば...大海人に共に吉野を脱出したのは、妃/鸕野讃良(うのの

さらら)、草壁皇子(くさかべのみこ)、忍壁皇子(おしかべのみこ)を含め、20人ほどだったようで

す。女官は10人ほどで、少人数での機動性を要する、脱出劇だったようです、」

  響子が、うなづいた。

「でも...

  確かな足取りで、東国/美濃にある、大海人の所有する邑(むら、ゆう)を目指したよう

です。この邑/“湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)”というのは...古代中国と日本の〔飛鳥時

代~平安時代〕までの、一部の皇族に与えられた、領地のことをさします。

  日本におけるの“湯沐邑の制度”は、当時の唐からではなく、古代/漢の制度をまね

たようです。都を離れた地にあり、直属の軍勢(まだ、武士階級というものはなく・・・農民が武装した軍

勢)もあって...大海人の命令で、密かに戦の準備を整えていたようですね」

「ええと...」響子が、指を唇に当てた。「後の、律令制の“湯沐邑”は...

  いわゆる領地のような統治権はなくて、収入源だけですね。つまり、お財布だけ。で

も、この頃の“湯沐邑”と、大海人との関係をみると、統治権もあったのでしょうか。緊密

な人間関係も見えますし、舎人(とねり/護衛・雑用に従事した下級官人)なども、邑の出身者たち

もいたのでしょうか?」

「うーん...そうですね...

  古代中国にも、邑(むら)はあったわけですが...国によって、時代によっても、制度は

異なるようです。邑の人間が、都へ出た時は、土地の貢物(みつぎもの)を持って行くことな

どもあったのでしょう。また、御用を聞いたりなどもして、“人間的な絆(きずな)”もできたと

思われます。

  そのような都に通じた人物を通し...屋形の使用人などにも入れてもらえたかと思

います。特に、大海人は大皇弟として、大きな力をもっていたわけですね。武人気質の

大海人もまた、武勇に優れた人物を、周囲に置くことを好んだかと思われます、」

「カリスマ性による、吸引力もありますね..」響子が、目を細めた。「制度とは別に、人

が集まったということですね...」

「うーん...そうでだと思います...

  大皇弟ととして、相応の軍事力も持っていたわけです。古代や中世の軍の編成につ

いては、私は詳しくはないのですが、有力者や、貴族や、豪族などが、そうした人々や

農民などを、保有していたのでしょうか。人材を、常に求めていたのかも知れません」

「はい...」響子が、うなづいた。「そのあたりも、研究が必要ですね」

「そうですね...」

                                    


「ええ...」支折が、モニターに目を移した。「...
吉野からの脱出には...

  護衛に...地元の山人/国栖(くず)族、吉野・宇陀(うだ/莬田(うだ))の豪族など、50人

ほどが周囲を固めたようです。わずか50人ですが、山人や地元の猛者(もさ)たちです。

獣道(けものみち)まで知る人々で、機動的に動ける人数ということでしょうか。当時の緊張

感が、ヒシヒシと伝わって来るようです...

  再度の脱出になるわけですが、今回は、薄暗い氷雨の中の脱出ではありません。季

節は陽光の輝く6月です...現在の新暦/太陽暦ですと、7月~8月でしょうか。兵力

動員のメドもつき、頼りになる味方兵力の、護衛も受けているわけです。

  でも...脱出ということは...相当な包囲の中を、抜け出るということです。ただ、そ

こを抜ければ、緊張した中にも、草花や風景を見る余裕もあったと思われます。都や、

離宮の周辺にいて、本当の意味での外に出ることのなかった、妃や皇子や女官たちに

とっては、暗雲の晴れた、別天地の光景だったのかも知れませんね...」

「うん...」マチコが、うなづいた。「でも、さあ...美濃/岐阜県南部まで歩くのはさ

あ、けっこう大変よね...古代の山道だし...」

「うーん...そうですね...

  でも、吉野からの脱出はともかく...後は、馬なども使ったのではないでしょうか。味

方の勢力下にはいれば...軍勢の動く緊張感の真只中にあっても...それは、味方

の軍勢です。

  一行にとっては...広々とした空の下で...初めての、楽しい旅だったのではない

でしょうか?」

「美濃の、“湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)”からは...」響子が言った。「迎えなどは、来たの

でしょうか?」

「あ、来ています...」支折が、モニター目を移した。「ええと...そのあたりを、もう少

し詳しく説明しましょうか。調べてあります、」

「お願いします...」響子が、ニッとほほ笑んだ。

「はい...」支折が、微笑した。

                        house5.114.2.jpg (1340 バイト)

「ええと...

  672年(天武天皇・元年)/6月22日...大海人は挙兵を決意します。美濃に、舎人(とね

り/下級官人)/村国男依(むらくにのおより/美濃の豪族出身)らの使者を派遣し...

  2日後/6月24日...には自らも吉野を脱出し、後を追います。武人として周到な、

実行力のある、ダイナミックな動きです。

  村国男依という人は...<壬申の乱>...では琵琶湖/近江への直進の軍勢の

諸将の筆頭として...連戦連勝し、最大の戦功を打ち立てています。詳しいことは分

からないのですが、美濃では、村国氏や尾張氏などの地方豪族が、味方に付いていた

ようですね。その村国氏の出身かと思います」

「はい...」響子がうなずき、ボールペンでメモをとった。

「大海人は、まず美濃に使者を出したわけです...

  安八磨郡(あはちまのこおり/“評(こおり)”を、『日本書紀』は“郡(こおり)”と書き改めています。現在の岐阜県

/安八郡 = 安八町、神戸町、輪之内町)の、自分の“湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)”/湯沐令(ゆのうな

がし/湯沐邑の管理者)/多品治(おおのほんじ)に対し、ただちに挙兵し、不破道(ふわどう/“不破の

関(せき)” = 岐阜県/不破郡/関ヶ原町にあった関所。東山道/信濃方面を押さえる要地。美濃/“不破の関”、越

前/“愛発(あらち)の関”、伊勢/“鈴鹿の関”は、“古代の3関”)を封鎖するように、命じます。これは、

電光石火の、戦略上の最初の仕事です。

  これ受け...美濃では、25日までに兵/3000を動員し...不破道の封鎖を完了

しています。これにより、海人は東海道(/三河、遠江(とおとうみ)方面)と東山道(/信濃方面)の

諸豪族から、兵力を募(つの)ることが可能となります。そして逆に、近江朝の連絡路を遮

断することができました。   

  ここが戦略上の、重要な分岐点になります。またこの地は、実は後々も“戦略的な地”

として有名となる、“関ヶ原の合戦場”(1600年10月21日/美濃国/不破郡/関ヶ原・・・岐阜県/不破

郡/関ヶ原町)の地ですね。

  ええ...“日本で最大の合戦となる・・・関ヶ原の地(豊臣方/石田光成と、徳川方/徳川家

康が・・・双方合計で20万の大軍が激突・・・わずか半日で決着した戦場)”...ですね。でも、それ以前の

古代においても、すでに戦略的な土地だったわけです。

  大海人には、そうした大きな戦略図が見えていたわけです。何よりも、まず不破道を

封鎖し、戦略的な仕切りをしたわけです。この、“先見性・戦略性”の、“有無・優劣”が、

時代を動かして行くわけです。

  うーん...うした天性の能力が、何度となく大海人の危機を救って来ているわけです

ね。武人気質ではあっても...“単純/直情型”ではなく...“謙虚さ・客観的視点”と

を合わせ持ち...さらに“慎重さ・・・大胆さ”を、兼備していたようです。

  つまり、こうしたことの総合評価が...“虎に・・・翼をつけて放てり”...という恐怖

となっていたのでしょうか、」

「はい...!」響子が、ゆっくりと、強くうなづいた。「《危機管理センター》の担当者とし

て、しっかりと承っておきますわ!」

  マチコが、響子を見て、うなづいた。

 

「ええと...」支折が、モニターのデータを眺めた。「...この美濃兵/3000を...

  “湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)”の兵力とみる説と...美濃/全体の兵力とみる説があ

るそうです。当時の人口から、どうかということですね。でも、ともかく、安八磨郡の“湯

沐邑”が、最初に挙兵したことは確かなようです」

「うん...」マチコが、宙を見てうなづいた。

「『日本書紀』/巻28/“壬申紀”は...」支折が言った。「<天武天皇・元年(672年)

の・・・1年間の様子>...を克明に記しています。

  それによると...6月24日...大海人は吉野を脱出し、伊勢に向かう途中の“莬田

・郡家(うだ・ぐんけ/・・・莬田(うだ)は、現在の奈良県北東部の宇陀。郡家(ぐんけ)は郡司の役所)”の近くで、

湯沐の米を運ぶ、伊勢国の駄馬50匹を目撃しているようです。

  馬の背に米俵を振り分けて載せ、50頭ほどが連なっていたのでしょうか。当時の物

資輸送の風景が偲ばれます。“湯沐邑”の米は、そんな風にして、都へ運ばれていた

わけですね。伊勢国/“湯沐邑”は、誰のものかは...浅学のため、分かりません」

「このあたりは...」マチコが言った。「宇陀(うだ)ですよね。宇陀の地方豪族が味方に

付いていても、安全ではなかったのかしら?」

「うーん...近江朝の勢力も入り、渾然としていたのでしょうか...

  ともかく、吉野から80キロほど先の、伊賀国/積殖山口(つみえやまぐち/伊賀国/阿拝郡/

柘植(つげ)郷=現在の伊賀市/柘植)まで行けば、安全圏だったようですね。でも、そこまでは、

用心していたようです。

  一行は、大和の宇陀/(うだ/莬田)を通り...米を運ぶ馬/50頭を目撃し...名張を

越えて...伊賀盆地に入ったようです。このあたりまでくれば、まずは、一安心だった

のでしょうか...味方の軍勢が集まって来たということもありますが...」

「うーん...」マチコが、大きくうなづいた。「伊賀・甲賀の...忍者の里よね、」

「ホホ...そうですね...でも、それはもっと後のことです」

「うん、」マチコが、唇をつまんだ。

「ええと...それから...“別の・・・参考文献”では...

  6月25日に...伊賀国・評督(ひょうとく、こおりのかみ = 郡守)が...正規兵/500を率い

て、大海人に合流しています。それから、積殖山口(つみえやまぐち)に到着し...近江を

脱出してきた、大海人の長子/高市皇子(たけちのみこ)とも、合流しています。

  さらにそこで...兵500を動員している、紀阿閉麻呂(きのあへまろ)に迎えられたようで

す。彼は、倭(やまと)国守/紀麻呂岐の子ですね。大海人の挙兵の号令で、一挙に軍勢

が集結してきたわけです。非常に、心強かったと思います...」

「うーん...」マチコが、髪を押さえた。「すごいわよね...」

  響子が、うなづいた。

「この、正規兵というのは...

  何をもって、正規兵かは良く分かりませんが...おそらく、武装/装備ではないかと

思います。源平合戦の時代や戦国時代のような、鎧兜(よろいかぶと)の武者ではないので

しょうが、相応の武装や兵站(へいたん)を備えていたのでしょうか。

  軍勢の動く所では、水・食料などは非常に重要になりますし、弓矢などの補給も、必

要になります。つまり、その人数分の生活が、大移動するようなものです」

「うーん...」響子が言った。「古代においては、大変だったでしょうね...」

   

                                           


「
大海人は...」支折が言った。「
兵/200を...

  近江に通ずる倉歴道(くらふのみち: 近江国/甲賀郡/蔵部)の守備に残しています。それか

ら...大海人は、兵/800余を率いて、加太越(かぶとごえ)から鈴鹿山脈を越えて...

伊勢国/鈴鹿評(“評(こおり)”は、『日本書紀』は“郡(こおり)”と書き改めています)に入ったようです。

  ここで...美濃の“湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)”/湯沐令(ゆのうながし)/多品治(おおのほ

んじ)が、美濃から大海人に送ってよこした、兵/数百と合流している様子です。これは、

直属の兵であり、これも心強かったと思います。

 

  ええ、そして、“鈴鹿・郡家”では...国司守(伊勢守/・・・朝廷から派遣されている官吏・・・守(か

み)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)などの、最上位)の三宅石床(みやけのいわとこ/壬申の乱の功臣)、そ

れから、介(すけ/次官/・・・太守は任国へ赴任しない遥任だったため、実務上の最高位になることも多かった)の

三輪子首(みわのこびと/壬申の乱の折、大和への増援軍の指揮官の1人)が、正規兵/1000をそろ

え、大海人の一行を迎えたようです。

  さらに、湯沐令の田中足麻呂(たなかのたりまろ)、同じく高田新家(たかたのにいのみ)が参じ

たようですね。大海人の勢力は、この地でも急速に膨れ上がって行ったようです。

 

「あの、支折さん...」響子が言った。「高市皇子(たけちのみこ/天武天皇の第1皇子、持統天皇時

代の、大半の太政大臣を務める・・・母は胸形尼子娘)の...近江からの脱出は、どんな様子だった

のでしょうか?」

「ええと...そうですね...

  6月24日...行動を起こした大海人は...大分恵尺(おおきだのえさか)を使者として、

都にいる高市皇子と大津皇子(おおつのみこ)に挙兵の事を告げ、伊勢で会うよう命じてい

ます。

  2人の皇子は、別行動をとって都を脱出しています。共に捉えられるのを恐れたから

でしょう。この脱出劇に付いては、フィクション(小説)の世界に任せることにします。

  ともかく...高市皇子は、鹿深(かふか: 滋賀県/甲賀市/水口町/鹿深)を越えて、6月25日

に...積殖山口(つみえやまぐち/三重県/伊賀市/柘植)で、父に追いつき、合流しています。

  鹿深は甲賀...積殖は伊賀の柘植(つげ)ですね...ともかく、長子/高市皇子の合

流は、大きな意味があったようです。高市皇子は、全軍を掌握し、<壬申の乱>では

大活躍をするわけです。

  この時、高市皇子につき従っていた者は...民大火(たみのおおひ/渡来人系)、赤染徳足

(あかそめのとこたり)、大蔵広隅(おおくらのひろすみ)、坂上国麻呂(さかのうえのくにまろ)、古市黒麻

呂(ふるいちのくろまろ)、竹田大徳(たけだのだいとく)、胆香瓦安倍(いかごのあへ)だと記されていま

す...大津皇子の方も、遅れて“鈴鹿の関”に着き、こっちも無事合流しています」

「はい、」響子が言った。

 

「ええと...6月26日...

  大海人の軍勢は...“伊勢国/朝明郡/郡家”の手前で...村国男依(むらくにのおよ

り/美濃への使者に発った舎人)に出会ったようです。彼は...“美濃兵/3000で・・・不破道

を封鎖した”...と報告に来たようです。

  大海人は...“郡家”に着いてから、高市皇子を不破に派遣します。そして、軍事を

監督させ、東海道と東山道に、兵の動員を促す使者を送ります。こうした動員令では、

遅れることは、“二心(ふたごころ)あり”、と疑われることになりますよね...

  6月27日...高市皇子は不破から...“桑名・郡家”にいる大海人に使者を送り、

“御所から遠くにあっては・・・政治を行うのに不便です・・・近い所にいて欲しい”、と要

請しています。大海人はその要請に従い、4キロほどの距離にある野上に移ることにし

たようです。

  同/6月27日...不破に配置した伏兵が、西から来た敵の使者を捕らえています。

高市皇子は和蹔(わざみ)から野上まで出向き...父/大海人を野上に出迎えます。そ

して、敵の使者を捉えたことを報告しています」

「はい...」響子が言った。「うーん...だいたいの様子は分かりました...」


<美濃から2方向・・・数万づつの軍勢を送り出す> a2                

                    


「うーん...」支折が、髪を押さえた。「大海人は、簡単に処理していたように見えます

が、気弱なことも言っているようです。

  渡来人・系ですがら...高市皇子に付き従ってきた、民大火(たみのおおひ/渡来人系)あ

たりでしょうか。唐(から)や朝鮮では、どんなふうに戦争しているのか尋ねていますが、

専門ではないので、よくは分からないと答えているようです。

  うーん...陶工(とうこう: 焼き物師)としての渡来だったのでしょうか...あ、浅学で申し

訳ございません。それから、高市皇子に対しても...

   “近江朝では・・・左右大臣と、智謀の群臣が、一緒になって軍議をしている。今、朕

(ちん: 天子の自称)は・・・共に事を計る者がいない。幼少の子供がいるだけだ。どうしたも

のか”...と。

  すると、高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ...“近江の群臣は多いといえど、

どうして天皇の霊に逆らえましょうか。天皇がお1人であっても、臣・高市が神祇の霊を

頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討いたします。これを、どうやって防げましょう

や”...と答えたそうです。

  大海人は、これを誉め、高市皇子の手をとって背を撫で、“慎め!怠るな!”と言っ

たと、記されているそうです。そして鞍馬を与え、“軍事を全て委ねた”といいます。これ

は、象徴的な旗印を委ねたということで、当然、智謀を配しているのでしょう。

  それにしても...高市皇子の年齢ですが...19歳とも、12歳ともいわれ、学説が

分かれているようです。上記の大海人との会話を見ると、19歳とも思えないのですが、

しかし12歳では、頼りになるとも思えませんよね...19歳なら一人前なのですが、ど

うなのでしょうか?」

「はい...」響子が、口をすぼめ、うなづいた。「史料が非常に限られているので、後は

推測になりますね?」

「そういうことになります、」

「うん、」マチコが、うなづいた。

 

「ええと...」支折が、頭を斜めにし、モニターを眺めた。「...高市皇子は...

  野上から和蹔(わざみ/・・・和蹔原/後の関ヶ原盆地)に帰ります。和蹔は、関ヶ原盆地の西方

入口で...大海人が行宮(あんぐう: 天皇の仮の御所)を作った野上は、盆地の東端になるそ

うです。行ったことはないので、詳しい状況は分かりませんか、和蹔から野上までは4キ

ロほどだそうです...

  ともかく...各地から馳せ参じた軍勢は、和蹔に集結し、高市皇子の指揮下に入っ

たようです。もっとも、高市皇子もそうした将兵にてこずって、父/大海人に、もっと近く

にいてくれるように要請したりしているわけです。うーん...分かります...

   6月28日...大海人は和蹔に出向き、軍勢を検分したと記されています。それか

ら...翌/6月29日...も和蹔に行き、高市皇子に命令を与え、軍勢に号令し、野上

に帰ったようです。

  それから...日付は不明なのですが、6月末か7月初めに...敵の小部隊が“玉倉

部邑(たまくらべむら: 岐阜県/不破郡/関ヶ原町/玉 )”を襲ったようです。出雲狛(いずものこま)が、

撃退したとあります」

「はい、」マチコが、コクリとうなづいた。

 

「ええ...」支折が言った。「...7月2日...

  大海人は...“不破・・・関ヶ原に集結した大軍勢”...を2つに分け...数万づ

つを2方向に送り出します。うーん...数万と言っても幅があるわけですが...数万を

2つに分けても数万ということですから...ホホ...想像してみてください。

  ええ、1方は...<伊勢の方面>...鈴鹿越えで倭京(わきょう/飛鳥京)に入れ...

“大和の地で挙兵している・・・大伴吹負(おおとものふけい)の軍”の、増援に当たります。も

う1方は...<琵琶湖に直進>...最短コースで琵琶湖/近江に入れます。

  戦略上、問題となったのは...旧都・倭京/大和の地だったようです。そこは、倭古

京(やまと・こきょう)と呼ばれ、人々に親しまれ、開けていたわけですね。近江朝の広い裏

庭でもある、旧・王都を制圧し、ここから北上して近江を落とす必要があったようです。

 

  その倭京には...近江朝・配下の留守司(るすし・とどまりまもるつかさ)/高坂王(たかさかお

う)が盤踞(ばんきょ:  根を張って動かないこと)していました。大海人の味方で、それに対抗でき

る勢力といえば、飛鳥を本拠地とする、大伴連吹負(おおともの・むらじ・ふけい)/大伴連馬来

田(おおともの・むらじ・まくた)の兄弟しか、いなかったようです。

  直前まで、近江朝に仕えていた大伴吹負(おおとものふけい)と大伴馬来田(おおとものまくた)

は、大海人とは深い好(よしみ)があったのでしょうか。大海人が失脚すると、近江朝から

は疎(うと)んじられたようですね...何となく、その様子は、分かる気がします。

  それで...大海人が吉野へ発つと、兄弟もそれと前後して、病と称して倭京に帰っ

ていたようです。倭京は古い都であり、近江はたった5年です。ここに、倭京の戦略上の

意味も重なり...伊勢・方面からも、軍勢を入れる必要があったようです。

  弟/馬来田(まくた)は、大海人の嶋宮からの脱出をきっかけに、倭京を出ています。そ

して以後は、大海人と行動を共にしていたようです。兄/吹負(ふけい)の方は、倭京/大

和盆地で大波乱を引き起こします。

  吹負は...大海人の挙兵と呼応し、倭京の自分の屋敷から出撃します。その時、留

守司/坂上熊毛(さかのうえのくまけ)と共謀し、近江朝・軍に一泡(ひとあわ)吹かせ...まん

まと、指揮権を奪取することに成功します。そして終いには、部隊が寝返ったわけです。

  ホホ...そんなことが可能だったわけですね。でも、ここからが、大変な攻防となりま

す。そんな風に手に入れた吹負の部隊は、潰走と再編成をくり返し...“不破からの

援軍”を待つことになります...」

「留守司(るすし、とどまりまもるつかさ)というのは...」響子が、首をかしげた。「何人か、いた

のでしょうか?」

「あ、そうですね...」支折が言った。「指揮官も、配下もいるわけですよね...」

「はい...」響子が、うなづいた。

                                       

 
「ええと...」支折が、肘を立てた。「...話を戻します...

  くり返しますが...美濃に入った大海人は...7月2日...東国から動員した軍勢

を、伊勢方面と琵琶湖/近江の方面に、くり出します。

  大海人は...6月24日...に吉野を脱出して9日目には...数万の大軍勢を近江

朝に差し向けているわけです。近江朝/大津京は、ビックリ仰天です。“天智天皇”の

崩御(671年12月3日/・・・46歳)から、7ヵ月後のことです。

 

  さて、近江朝/大友皇子の方では...東国と、吉備(きび: 山陽道にあった国/備前、備中、備

後(びんご)、美作(みまさか))、筑紫(つくし: 九州)に、軍勢・動員を命じる使者を派遣します。この

うち東国方面の使者は、不破道の封鎖で阻止されていますよね。

  また...吉備と筑紫は...唐・新羅の国土侵略に備えていますし...そもそも、現

地総領を動かすことができなかったようです。8ヵ月間に、情報が飛び交い、諜報戦が

展開し、旗色を見たわけですね。

  大海人の、急激な改革の緩和策はもちろん...将帥としての実績/人柄/安定性

は、若い大友皇子の比ではなかったようです。各所で、寝がえりなども起こっています」

「うーん...」マチコが、頭をかしげた。「寝がえりかあ...」

「そうです」支折が、コブシを握り、目を閉じた。

 

「さあ...」支折が言った。「倭京/大和盆地においては...

  軍の指揮権を奪取した大伴吹負(おおとものふけい)は、その後、西と北から来襲す近江

朝・軍と、激戦をくり広げます。この戦いは、近江朝・軍が優勢で、彼の軍勢は幾度も

敗走を重ねたようです。

  でも、そのつど部隊を再編成し、近江朝・軍を撃退していたようです。そしてやがて、

紀阿閉麻呂(きのあへまろ)が指揮する...“美濃からの援軍”...が到着し、大伴吹負

は窮状を脱します。

 

  一方、近江朝・側を見て行くと...河内国守/来目塩籠(くめのしおこ)が、大伴吹負/

大海人・側に加勢しようとして...殺されています。また、近江方面の将/山部王(やま

べ のおおきみ/舒明天皇の孫)も殺され、軍が動揺し、足並も鈍ったようです。

  ええと...それから...近江の豪族/羽田矢国(はたのやくに/琵琶湖の北周りの軍を率いた)

が、大海人・側に寝返っていますね。

  近江朝・軍も、美濃に向かって発進するわけですが、動揺や足並の乱れから、前進

が滞ったようです。

 

  対する...村国男依(むらくにのおより)らに率いられた、大海人・側の<直進の軍勢>

は...7月7日...息長横河(おきながのよこかわ)で戦端を開き...連戦連勝して進撃し、

琵琶湖・東岸を南下...大津京に迫ります...」

「息長横川かあ...」マチコが言った。

「あ、そこは...

  滋賀県/坂田郡/米原市/醒井(さめがい)にある、天野川ということです...それか

ら...7月22日...“瀬田橋の戦い(/滋賀県大津市唐橋町)”...で、近江朝・軍が大敗す

るのです。そして...<翌・・・7月23日>...大友皇子が自決します...

  これで...<壬申の乱>...は収束するわけですね。この戦いは、約1カ月間にわ

たり、一進一退をくり返した後、大海人・側が勝利して終結しています。

  多くの血が、流されました。大友皇子の自決は...“動乱の決着”...として、避け

られなかったようですね...」

 

「大友皇子の没年は、24歳です...

  それから、1000年以上の時を経て...明治3年/1870年...“明治天皇”により

諡号(しごう: 贈り名)“弘文”が贈られています。それで...“第39代/弘文天皇(こうぶんて

んのう)”として...公式に列せられています...」

「はい、」響子が、小さく、しっかりとうなづいた。

 

「この後...

  翌/天武天皇2年/673年2月...大海人は、“飛鳥浄御原宮”(あすかのきよみはらの

みや/・・・“天武天皇”と“持統天皇”の2代が営んだ宮)を造って、即位します。近江朝が滅び、都は

久しぶりに...飛鳥(奈良県/高市郡/明日香村)に帰って来たわけです...」     

 

                    

 

 

 

MoMA(ニューヨーク近代美術館)コレクション         

                          

                                          こちらにも、別のもの がございます