文芸文芸・イベント支折の国宝・鑑真和上展見学

     支折の 国宝・鑑真和上・展 見学 
 
                                                                       ( がんじんわじょう )

            house4.818.2.jpg (2297 バイト)    

                                            (唐招提寺 とうしょうだいじ       < 2001年2月1日・・・上野公園/東京都美術館>

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    担当 : 星野 支折  

 

                                                            (2001.2.12)

    wpe82.jpg (27870 バイト) wpe88.jpg (54959 バイト) lobby4.1119.1.jpg (2391 バイト) house5.114.2.jpg (1340 バイト)  < ゲスト: 塾長/高杉光一 >

 

  高杉は、ポン助の出してくれた茶を飲んでいた。やがて、プライベート・ルームから

支折が出てきた。彼女は、カーキ色のオーバーのバンドをしっかりと締め、シャネル

のバッグを肩に掛けていた。マフラーは、いつものバーバリーのチェック柄だった。

  彼女は、マフラーをカシミヤのオーバーの襟元に入れると、両手で額から後ろへ髪

を撫で下ろした。

「...さあ、それじゃ、行くかね?」高杉が言った。

「あ、はい...寒そうですね、今日は、」

「うむ、」

「去年も大寒だったよな、」ポン助が言った。「“皇室の秘宝展”を見に行った時はよ

う...」

「うーん...そうだったわねえ...去年も、このコートだったかしら?」

「そうだよな、」

「気に入ってるのよ。そう言えば、去年は響子さんと一緒だったわね、」

  高杉は、立ち上がった。黒いオーバーのポケットから、皮の手袋を出した。

「午後から、雨になるという話だが、雪になるかも知れんな」

「はい。私、コウモリを持ちました」

「ああ。雨が降ったら、入れてもらよ」

「ええ。それじゃ、ポンちゃん、行ってくるわね」

「おう、」

「今日は、塾長と一緒だから大丈夫。ルンルンよ」

「おう...」

 

                  

        乃木大将の像/上野公園/この写真は、2月1日ではなく、1月19日に、科学博物館を見学に行った時のものです... )

                                                

                                                    ( 今回の“国宝・鑑真和上展”の、記念出版書の表紙/鑑真和上像の顔のアップです )

  上野公園を歩いていると、それほど寒さは感じませんでした。朝の広い公園の中

を、人々が足早に歩いていきます。冬の木々のこずえがガラリと透け、空がどんより

と雲っています。冷たい空気が、甘くおいしい気がします。

  そんな寒々とした公園の中に、国宝・鑑真和上展を示す立て看板があります。二

人は、それに案内されるように、東京都美術館へ向かって歩きました。

 

「作家・井上靖の小説に、『天平の甍(いらか)』というのがある...」高杉が、支折と肩

を並べて歩きながら言った。「あれは、確か、私が高校生の頃だったと思う。あまり本

を読む方ではなかったが...何故か、その難しい本を選び、最後まで読み切ったの

を覚えている」

「ふーん...ソレ、どんな本なのですか?」

「うむ...当時の私には、あまり縁のない、鑑真和上の招請という内容の本だった。

何故、こんな仏法伝来の本を読んでみることにしたのか、今でも分らない...まあ、

しかし、大人になって、いくらか仏法書を読むようになってからは、読んでおいて意義

のある本だったなあと、何度も思ったよ。まあ、そういう本というのも、めずらしい。こ

ういうのを、“仏縁”というのだろうな...」

「ふーん...その時に、日本に仏教が入ってきたんですか?」

「いや、仏教が日本に入ってきたのは、もっと早い。西暦538年といわれる。それか

ら、蘇我(そが)物部(もののべ)の崇仏と排仏の大論争があった。そして、その後、

徳太子の出現により、仏教が全国的に広まっていった。

  この、1万円札でおなじみの聖徳太子は、よく知られているように、6世紀の末に

(すいこ)天皇の摂政になった人物だ。それから、最初の遣隋使・小野妹子(おののいもこ)

(ずい/隋の次が、唐。その次が、宋の時代になります。)に派遣したことでも有名だ。聖徳太子

は、仏教をはじめとする大陸文化を、積極的に日本に招来する事に着手したわけだ

「うーん、」支折は、シャネルのバッグのベルトを、ギュ、と絞った。「だから、1万円札

になったのね、」

「まあ...そういうことだな、」

「鑑真は、その後?」

「うむ...」高杉は、オーバーのポケットから電子メモを取り出した。そして、歩きなが

ら、片手でそれを操作した。

 

                            

「...鑑真は、隋の後の唐の時代の末期に、日本に来る...この時の皇帝は玄宗

(げんそう)で、その妃が絶世の美女と謳われた楊貴妃(ようきひ)のようだ。第十次の遣唐使

・藤原清河(ふじわらのきよかわ)は、鑑真和上の5回の渡日の失敗を知り、玄宗皇帝に正式

な渡日の許可を申し出たという。そして、玄宗はこれを許した。しかし、玄宗は自らが

信奉する道教の僧を同行させることを条件にしたという。そこで、藤原清河は、許可

願いを取り下げてしまう。まさか、仏教を広めようという朝廷のもとに、道教の僧を連

れて行くわけには行かないからな。

  それにしても、この時代は、禅宗の大黎明期だ。したがって、鑑真も、智満禅師と

いう禅僧のもとで出家しているし、禅の修業もしている。ところが鑑真は、律宗の僧と

して来日している...そしてまた、時の皇帝の玄宗は、道教の信奉者だったわけ

だ。中国文化の広さと、奥深さを感じさせる風景ではあるな...」

「うーん...鑑真は、禅僧でもあったのね?」

「まあ、鑑真和上坐像は、結跏趺坐(けっかふざ)しているわけだからね...

  ま、いずれにしても、ここからが面白い。唐の都・長安は、はるか大陸の奥にある。

しかし、遣唐使船は大陸の東側の海岸から出て行く。まあ、細かな話は抜きにする

と、遣唐使の藤原清河は、国際問題を恐れて鑑真和上一行の密航は許可せず、下

船させてしまうわけだ。ところが、それを聞いた副使の大伴古麻呂(おおとものこまろ)は、大

使には無断で、鑑真和上一行を自分の第2船に乗せ、出航してしまう。

  むろん、第1船は藤原清河が座乗し、第2船が副使の大伴古麻呂が座乗。総勢4

隻で、故国日本を目指したという。記録によれば、11月16日に出航し、暴風雨に遭

いながらも、20日には第3船が、沖縄に着いている。そして、翌日、第1船と第2船も

沖縄に到着した。それから、沖縄から再び日本を目指して出航するが、またも暴風に

襲われた。しかし、幸い鑑真和上一行を乗せた第2船は、12月20日に薩摩に漂着

したとある。ま...嵐の中で経文を唱え、法力にすがり、大騒ぎの航海だったろう。

ちなみに、遣唐使・藤原清河の乗った第1船は、ついに故国の大地を見ることはなか

ったと記録されている。

  しかし、いずれにしても、鑑真和上の座乗された第2船は、何とか日本に漂着し

たわけだ。和上自身は、5度の失敗の後、6度目で、ようやく日本の土を踏んだこと

になる。実に12年近くも費やしたわけだ...」

「うーん...もう、大変だったのねえ...あの、日本海を渡るのは、」

「ああ...当時はごく小さな船で、ともかくよく沈んようだ。確か、5度目の遭難の時

は、暴風雨に流されて、はるか南方の海南島に漂着したようだ。しかもこの後、鑑真

和上は盲目となってしまう。また、一緒に活躍した2人の日本の学僧のうち、栄叡(よう

えい)は、その少し前に落命している。したがって、6度目は普照(ふしょう)1人となり、盲目

の鑑真和上と、最後の望みをつなぐことになったわけだ」

「すごいわねえ...」

「うむ。それでもなお、仏法を広めるために、鑑真和上は日本に渡ってこられた。まさ

に、唐招提寺は、その結晶といえるものだな」

「はい、」

  国宝・鑑真和上展 見学      

「ええと、支折です...

  今回の“国宝・鑑真和上展”は、唐招提寺の中心的伽藍(がらん)である金堂の修復

工事にちなんで行われているようです。しかも、今回の工事は平成12年(2000年)から

10年間に及ぶ大解体修理になる模様で、そのための資金集めも兼ねた展示の様で

す」

「前回の明治の修復から100年ほどたっているわけですが、特に6年前、1995年

に起った阪神大震災による損傷も大きかったようですね。まあ、いずれにしても、木

造建造物としては、天平時代という最古のものですので、この巨大な金堂そのもの

が国宝に指定されています」

「今回の修復工事で、金堂に安置されていた本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)千手観音

(せんじゅかんのん)像は解体修理に入っているようです。また、薬師如来(やくしにょらい)立像は、

奈良国立博物館に移されています。それから、同じく金堂安置の梵天(ぼんてん)帝釈

(たいしゃくてん)四天王(してんのう)像の木彫群は、同じ唐招提寺内の講堂に移されたとの

ことですが、これらは今回の“国宝・鑑真和上展”に展示されています。

 

         

                      鑑真和上座像                   帝釈天(左)と、梵天(右)

 「“国宝・鑑真和上展”の記念出版書を、デジタルカメラで写したものです。

                     これだと、著作権に触れないとか...でも、これだけにしておきます」.../支折...

「支折です。

  ええ、展示場は、多数の国宝級の展示物を保護するために、照明は薄暗く落とさ

れていました。これはいつものことですが...うーん...この方が、迫力もあるよう

に思います。

  ええ...展示室に入と、すぐに梵天と帝釈天の立像の並んでいる部屋がありまし

た。上の写真のように、やはり向かって左側が帝釈天、その右に梵天が安置されて

いました。そして、四隅に四天王の立像が、それぞれ守りについている形です。

  うーん...私は、帝釈天のお姿が一番好きでした。りりしく、凄みのある迫力を感

じました...」

「剣を左手にしっかりと構え、体を開いて右手を剣に添えているのは、四天王のうち

持国天(じこくてん)です」高杉は、その剣の構え方を真似ながら、持国天の前で対峙し

た。「この剣を構える身のこなしから、かなりの剣の達人であることがうかがわれま

す。顔料が落ち、木目の見えている表情も、なかなかの剣客のものです。

  それから、怒りの表情をしているのは、増長天(ぞうちょうてん)です。筆と巻物を持ち、し

っかりと記録をとろうとしているのは、広目天(こうもくてん)ですね。そして、左手に槍を持

ち、右手に薬壷か舎利壷のようなものを持っているのは、多聞天(たもんてん)です。この

壷のようなものは何なのでしょうか?調べてみるのも面白いと思います」

                                      

  メインの鑑真和上坐像は、だいぶ進んだ所で出会いました。

「うーん...鑑真和上の坐像は、やはり一番感動しました...高杉さんはどうかし

ら?」

「うむ...仏や仏典は甲乙をつけるものではないが...これは、やはりすばらしい。

この鑑真和上坐像は、鑑真和上の性格表現に成功しているといわれる。最晩年の

和上を活写したもので、日本の肖像彫刻の最高傑作と言われる。うーむ、それにして

も、生きて禅定に入っているようだ...鑑真和上は、自室で西を向いて結跏趺坐(けっ

かふざ)したまま、その76歳の生涯を閉じたという...まさに、この姿のままだ、」

「うーん...今ここに、鑑真和上の魂も、一緒にあるのかしら、」

「ああ...まさに、そうだと思う...」

 

                             house5.114.2.jpg (1340 バイト)   house4.818.2.jpg (2297 バイト)

「支折です。

  今回は、高杉塾長と来たわけですが、大変いい展示物でした。最後に売店があ

り、記念書籍もしっかりと買いました。少々高い本なのですが、これは是非買っておく

べきです。現物を見て、書籍で詳しく読めば、これらの国宝を全て自分の手元に置く

ことができるからです。

  それにしても残念なのは、去年“皇室の秘宝展”を見に来た時、この記念書籍を買

い求めなかったことです。買っていれば、私の自慢のコレクションに出来たのです

が...」

 

「高杉光一です。今回は、大解体修理になるわけですが、素晴らしいものを見せてい

ただきました。私のささやかな出費が、この歴史的な建造物の修理に使われること

を、非常に嬉しく思っています」