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    < 無 門 関・第16則>  <鐘が鳴ったら袈裟をまとう・・・>

          鐘 声 七 条 ( しょうせいしちじょう )         

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 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    執筆 : 高杉 光一

 

No.11  鐘声七条(しょうせいしちじょう)...<無門関.第十六則>

           <2>..... 無門の評語

2000. 3. 2

2000. 3.19



 

 <1> 公案                wpe54.jpg (8411 バイト)   

  雲門は言った。

     「見よ、この世界の何と広く限りないことか...

                 どうして鐘が鳴ったら袈裟をまとうのだ...」

 

  さあ、<無門関・第十五則>に続いて、再び雲門禅師の登場です。この<無門

関・第十六則>は、私が若い頃に読んだ“無門関講話”(参考文献: 柴山全慶 /工藤智光

.編/創元社)の中で、1番多く傍線の引いてあった公案です。

  おそらく、その当時、最も理解しやすい考案の1つだったのだと思います。もっとも、

非常に短い公案であり、“無門関講話”を書かれた柴山全慶師の解説の方に、共

鳴できる部分があっつたのかも知れません。

  さて、ある日、雲門禅師が講義のために壇上に登った時、鐘の音が響いてきたと

いいます。そこで、雲門禅師はこの鐘声を取り上げて、言いました。

 

     「見よ、この世界の何と広く限りないことか...

                 どうして鐘が鳴ったら袈裟をまとうのだ...」

 

  これは、雲門禅師にこのような法話があり、これを後に無門禅師<無門関・第

十六則>として公案集に取り上げたと言われます。むろん、雲門禅師は、唐時代

の人であり、無門禅師は宋の時代の人です。

  さあ、この公案になった一語の意味ですが、内容的には難しいものではありませ

ん。ただし、禅の公案となると、もう少し説明が必要になります...

 

      “見よ、この世界の何と広く限りないことか...”

 

  ...とは、雲門禅師の禅的境涯の提示であり、このような世界に生きよという教

えです。

 

 この眼前の大宇宙は、なんと広く限りなく、一微塵もなく澄み切っていることか...

 ススキの穂の、ほんのかすかなひと揺れにも、無限に深い仏性の輝きを見よ...

 落ち葉の沈む清水の滴りの下に、大宇宙をも呑み込む深淵の響きを聞け...

 

  ...ということなのです。風といえば、ススキの穂を揺らすほんのかすかな風に

なりきり、水といえば清水の滴りの一滴となりきり、それそのものになりきってみよ、

ということなのです。趙州の「無」も、倶胝の「一指」も、無門の「内外打成一片」も、

その中に見えてくるということです。つぎに...

 

      “どうして、鐘が鳴ったら袈裟をまとうのだ...”

 

  ...とは、どう言う意味なのでしょうか。雲門禅師は何を言いたかったのでしょう

か。これは、鐘が鳴ったら袈裟をまとうという条件反射のような行動を言っているの

でしょうか。むろん、鐘や袈裟、あるいは華厳哲学というものの深い考察もあるの

でしょうが、私は単に条件反射のようなものと解釈しておきます。すると、全体では

このような意味になります。

 

  我々は...「内外打成一片」の限りなく広い禅的な境涯の中に生きている。その

ような中にありながら、何故、客観世界の条件反射のような事象に束縛されている

のか...

  もっと、真の自由に生きよ...ススキの穂を撫でる微風のように...事象に逆

らうのではなく、その全てを呑み尽くし、究め尽くし、それそのものになり尽くせ、と

いうことです...

                                                    

  <2> 無門の評語...口語訳       (2000.3.19)

 

  禅を参究修行するに当たっては、声についてまわり、色に執着することを固く避け

なければならない。たとえ声を聞いて大悟し、色を見て解脱したとしても、これはごく

当たり前のことである。

  もし禅者が声の主となり、色を自由にすることができたとしても、そして、事事物

物の上に真理を明らめ、一挙手一投足すべて自由無碍であっても、それもまた取り

立てて言うほどのことではない。

  それはそれとして、言ってみよ、声が耳の方に来るのか、耳が声の方に行くの

か。たとえもし、響と寂とを共に超え得たとしても、その事実をどう表現するか。もし

耳をもって聞くならば、真に会得することはできない。眼をもって聞く時、初めて得る

ことができよう。

 

  柴山全慶師(参考文献: “無門関講和”の著者)が言うように、この無門禅師の評語は、な

んとも懇切丁寧です。しかも、白隠禅師(江戸時代・中期の臨済宗中興の祖・・・著書/『夜船閑話』)

は、こういって嘆いているほどです。

 

「私はこの評が気に入らぬ...

   無理にかれこれ言わないで、黙って人々の自得に任せればよい...」

 

  これは、まさに白隠禅師の言うとおりかもしれません。しかし、私などは若い頃、

この親切すぎる評に接して、初めて禅への小さな手がかりを見つけたものでした。

 

「声が耳の方に来るのか...耳が声の方に行くのか...」

 

「もし耳をもって聞くならば、真に会得することはできない...

              眼をもって聞く時、初めて得ることができよう...」

 

  上記ような無門禅師の言葉は、まさに白隠禅師が言われるように、各人が心の

中で悶々と自問自答している内容のことです。

  ここで言われている声を聞いて大悟したとは...<無門関・第五則>香厳

禅師のことを指しています。香厳禅師は、悩み抜いたあげく、全てを打ち捨てて師

のもとを去りました。そしてある日、ふとゴミとして捨てた小石が竹にあたり、その

小さな...“カチン”...という音を聞いて大悟したといいます。

  一方、霊雲禅師は、一面に咲き放った桃花を見て大悟したといいます。この評

語でいう声とは、つまり、香厳禅師の聞いた...“音”...のようなものであり、

“色”...とはつまり、霊雲禅師の見た桃花のようなものだということです。

 

  真の禅者は...音がすれば、その音になりきるのです。その音になりきるとは、

その音の主体となって、一緒に響き、一緒に聞くのです...

 

  また、色が現れれば...その色になりきるのです。その色になりきるとは...

その色の主体となって一緒に発色し、一緒に見られ、見るということです...

 

  一度このような、“内外打成一片の境涯というものを、じっくりと探ってみて下

さい。主体と客体を超え、“一如になる”とはこのようなことを言うのです。二元論

を超え“絶対主体”となるとは、このようなことを言うわけです。そして無門禅師は、

さらにこういうわけです。

  

 「もし耳をもって聞くならば、真に会得することはできない...

               眼をもって聞く時、初めて得ることができよう...」

 

   この言葉の通りに、“耳”で聞くのではなく、“眼”で聞くことなどできるのでしょう

か。むろん、いわゆる客観世界においてはこんなことは不可能です。しかし、それ

では無門禅師は何故こんなことを言ったのでしょうか。あるいは、無門禅師はウソ

を言ったのでしょうか。もちろん、この言葉が真っ赤なウソなら、数百年間もこの言

葉が禅者に受け継がれ、語り継がれてくることはなかったはずです。

  さて...では、この言葉の真意ですが...これは主体と客体という二元論を超

えた時に見えてきます。“絶対主体性”の中には、あらゆる境界線も対象もありま

せん。全てが“一如”であり、1つ”だからです。この世界の真実とはつまり、こうし

たものなのです。

 

   したがって、この絶対主体性の世界においては、あらゆるものが主体であり、自

分でないものはどこにもありません。しかし、この認識される世界の全てが主体であ

り、全てが自分自身だとするとどうなるでしょうか。これは裏返せば、自分などはどこ

にも存在しないということになるのです。

  禅では、“無我”になれといいます。仏道を学ぶとは、自己を忘れることだといい

す。それは、この絶対主体性の中に生きよ、“唯心唯一絶対の心”の中に生きよ

いうことなのです。そこは“無心”であり、“解脱の世界”であり、“悟りの世界”だと

いうことです。

 

  さあ、それはともかく...ここでは眼をもって聞くのでも、耳をもって聞くのでもなく、

足で聞くといってもいいわけです。要するに、真に眼も耳も捨てて、絶対主体性の中

に飛び込めということなのです。そして、それそのものと、一如になれということなの

です。繰り返しますが...

 

  音楽の好きな人なら...CDから流れてくる“音”そのものになり切ってみよという

ことなのです。その音の主体となって、一緒に響き、同時に一緒に聞けということな

のです。さらに言い換えれば...“響くものと・・・聞くものが・・・一如となる”...

それそのものに、成り切ってみよということなのです。

 

 

  同じことを、何度もくり返し言ってしまいました。無門禅師はこの“鐘声七条”を、

非常に懇切丁寧に説明しているので、私もそれにならいました。

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