Menu 仏道無門関・草枕趙州洗鉢

    < 無 門 関・第7則>    <日常の中にある、即今の風景 >

    eb1514.jpg (1928 バイト)  趙 州 洗 鉢 (じょうしゅうせんはつ)       

                  

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    執筆 : 高杉 光一

 

No.7   趙州洗鉢 (じょうしゅうせんはつ) ... <無門関・第7則> 1999. 9.13

 

 

 <1> 公案

 

  ある時、一人の僧が趙州に問うた。

「私は僧堂に入ったばかりの新参者です。師よ、どうか指示をお与え下さい。」

  趙州は言った。

「朝ご飯は食べたか。」

「はい、食べました。」と僧は答えた。

「それでは持鉢(じはつ)を洗っておきなさい。」と趙州は言った。

  僧は心眼を開いた。 

 

  無門関・第1則“趙州狗子”で出てきた趙州(じょうしゅう)和尚がまた出てきました。中国

唐時代の後期、禅宗の創造時代に活躍されたこの祖師は、「唇皮上に光を放つ」と

いわれたほどの人物です。一喝する祖師もあれば、棒を振るう祖師もあり、また一指

を立てる祖師もありました。しかし、趙州和尚は、精妙な言句に鋭い機鋒を現した禅

風と言われます。なお、この公案は、日常生活に即した禅の真髄を、端的に示したも

のです。

 

  この公案も、表面的な会話の意味は、小学生でも分かるものです。では禅的な意

味はどうなのでしょうか。

  そもそもこの僧は、新参者と自ら名のっていますが、僧堂に入ったのは新参であっ

ても、禅修業においては新参者ではありません。本当の新参者がこの程度の2、3

の会話で悟れるなら、誰も修行などは必要ないのです。六祖・慧能の頓悟(修行の段階を

経ずに、一挙に悟りを開くこと )にしても、それなりの下地はあったのです。ここに、“悟り”と言

うものの一つの風景があるわけです。

 

 公案で趙州和尚は、「朝ご飯は食べたか。」と、聞いています。“ 師よ、どうか指示

をお与え下さい。”と、僧が言っているのに、趙州和尚は何故朝飯の事などを聞いた

のでしょうか。さあ、あなたなら、これを何と受け止めるでしょうか...

  和尚は、即下には何があるか...眼前には何があるか...日常の中にある即今

とはどのようなものか...と指し示しているのです。ところがこの僧は、それに気付

きません。私たちと同じようにボーッとしていて、“はい、食べました。”などと答えて

います。そこで和尚は、同じ意味のことをたたみ掛けて言います。“それでは持鉢(じ

つ)を洗っておきなさい。”と...

  そこで、ようやくこの僧は、「はっ」と、趙州和尚の真意を汲み取ります。その、ある

がままの日常的動作の中に、即今の呼吸があるのだと知ったのです。“悟り”とは、

特別な所にあるのではない、一切がそのまま、真実の結晶世界なのだということで

す。蛇足になりますが、趙州和尚がこの僧に言いたかったのは、“そなたがすでに体

得した、無心に生きてゆくがよい”ということです。

 

 

 

 “無門関”第7則は、これで終わりとします。

  公案は、数をこなしていくようなものではなく、自分の気に入ったものをじっくりと参

究して行くのがよいといわれます。また、ひとつの関を通れば全ての関に通じるとい

うように、それらは結局は同じひとつのことを言っているのです。