Menu 仏道無門関・草枕不思善悪

    < 無 門 関・第23則>   <善悪を思うことをやめよ/二元論的な分別心を捨てよ・・・> 

   不 思 善 悪  ( ふしぜんあく )               

                        頓悟の出現・・・六祖・慧能/南宗禅の開祖

          衣鉢を授かり、六祖となった行者/慧能が、五祖/弘忍のもとを離れ、南方へ逃れていきます。その峠道で、

               追っ手に追いつかれて......<禅宗の黎明期における、超有名な事件/・・・公案>
                           

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    執筆 : 高杉 光一

 

No.14  不思善悪( ふしぜんあく )... <無門関.第二十三則>

        <3>..... 無門の評語

2000. 7.13

2000. 7.28

 

 

    <1> 公案                touge.13.jpg (1193 バイト) 

  六祖を追って明上座(みょうじょうざ/明は、慧明の略)(だいゆれい)に来た。六祖は

明がやって来るのを見て、衣と鉢を石の上に置いて言った。

「この衣は信の象徴である。力をもって争うべきものではない。君が持ち去ろうとい

うのなら、そうしたらよかろう...」

  明は衣を持ち上げようとしたが、まるで山のように動かなかった。明はためらい、

おののいた。彼は言った。

「私は法を求めてきたのであって、衣のためではありません。行者(あんじゃ)よ、どう

か教示して下さい!」

  六祖は言った。

「善を思い、悪を思うことをやめよ。この時、明上座の本来の自己とは、どのよ

うなものか?」

  これによって明は直ちに大悟した。全身に汗が流れた。涙を流しつつ礼拝して、

彼は尋ねた。

「この密語密意のほかに、まだ何か別の意旨がありましょうか?」

  六祖は言った。

「私が今、あなたのために説いたところは、秘密ではない。自己の真面目に目覚め

るならば、秘密とするものは、かえってあなた自身の中にあるのだ」

  明は言った。

「私は黄梅山で、他の雲水たちに従って修行してきましたが、自己の真面目に目

覚めることができませんでした。今あなたに適切な御指示を頂いて、人が水を飲ん

でその冷暖を身をもって知るように、自知することができました。行者よ、あなたこ

そ私の師匠です」

  六祖は言った。

「あなたが、本当に本来の面目に目覚めたのならば、あなたも私も共に五祖の門

下なのだ。体得した“這箇(しゃこ)”を、大切に護持して行ってほしい...」

 

  さて...前回取り上げた、<無門関・第十九則/平常是道>で、“頓悟”という

概念が出てきましたので、六祖/慧能やその時代背景についてはすでに多少触れ

てきています。ここでは、これらについて、さらに深く掘り下げて考察していきます。

 

  言うまでもなく...仏教釈尊が生まれた、インドが発祥の地となります。この

ンド文化はきわめて哲学的傾向が強く、一方、中国文化はきわめて実践的傾向

強い文化といわれます。

  この二つの文化が...“仏教の中で・・・最も実践的な禅という・・・宗教体験

の形で結合”...しました。そして“インド臭さ”を捨て去り、“禅宗という・・・真の中

国仏教”確立したのが、六祖/慧能の時代といわれます。これは、唐/玄宗皇帝

の頃であり、妃/絶世の美女/楊貴妃(ようきひ)のいた時代ですね。

  それまでは中国においても...伝教大師(最澄)が日本に持ち帰った天台宗や、

弘法大師(空海)が日本に持ち帰った密教などが主流だったのです。つまり、後に

提達磨が伝えた...“釈尊の宗教体験を重視する・・・実践修行・・・禅宗”...

とはだいぶ違うものだったのです。

  むろん、中国で大きく開花した禅宗は、日本の仏教世界にも大きな影響を及ぼ

して行きます。日本曹洞宗の開祖・道元が中国に渡ったのは、宋の時代です。

日本では、鎌倉時代・初期ということになります。この時代になると、遣隋使

唐使の時代に比べれば、造船や航海技術も格段に発達し、かなり多くの学僧

入宋(にっそう)していたようです。

  もう1人有名な人物をあげれば...日本における臨済宗の開祖/栄西がいま

す。道元は出家した後、その栄西のもとで学び、入宋し、日本の曹洞宗の開祖

なったわけです。

  栄西の方は...二度入宋していて...最初(/27才の時)天台教学を学んでい

ます。二度目(/47才の時)は、天竺(てんじく/インド)行きを計画していましたが、断念し

ました。もしこの計画が実現していたら、玄奘三蔵をしのぐ壮大な旅行記が後世

に残っていたかもしれません。いずれにせよ、天竺行きを断念した栄西は、禅修

業に励み、帰国して臨済宗の開祖となったわけです。

  

   <2>公案の解析         


  この
<無門関・第二十三則>は、公案としては、かなり長いストーリイになって

います。しかし、この公案で肝心なのは、明上座が、慧能の一言で大悟する部分で

す。むろん、大悟するには、明上座の長年の修行があったわけであり、機が熟して

いたというのは、大きな要素になります。しかし、彼はまさに、慧能のこの一言で

したのであり...ここがこの公案の命です...

 

「善を思い、悪を思うことをやめよ...この時、明上座の本来の

自己とは、どのようなものか...?」

 

 ...これによっては直ちに大悟した。全身に汗が流れた...といいます。

あ、公案の全文を、何度も読み返してみてください。そして、この慧能の一言を味

わってみてください。そして、もし...が熟していれば...あなたも慧明(えみょう

/明上座/明)のよう、に大悟できるでしょう。

 

  さて...善を思い悪を思うことをやめよ...とは、どのようなことを指してい

るのでしょうか。“善”“悪”とは、正反対の両極端の概念を指しています。これは、

とも同じ関係ですし、も同じです。つまり、リアリティーを二つ

に分割し、そのそれぞれの一端をあらわしている対の概念です。

  したがって、これらの中から...“善”“愛”“高”“左”...のみをかき集め

て来ることなどは不可能なのです。磁石のS極N極のように、必ず対になってい

るわけです。そして、こうした概念構成は、これまでにも何度も説明しているように、

二元論と言います。

  この二元論を究極的に応用しているのは、という、二進法で構成されてい

コンピューターです。コンピューターはまさに、二元論の権化のようなマシンです。

 

  この公案については、小説・ 唯 心 でも詳しく説明していますので、そちらの方をご覧下さ

い。また、“頓悟”については、“特別道場/第2ステージ・まほろば”の方で考察していきます。

                                         

    <3> 無門の評語            (2000.7.28)

  六祖は、緊急の場で、とんでもないことをしでかしたと言わなければならない。まこ

とに老婆親切である。新しい荔(れいし/琵琶(びわ)の類、)の殻をむき、種を取り除いて

相手の口に入れてやり、ただ呑み込みさえすればよいようにしてやったようなものだ。

 

  この評語は、あえて説明する必要はないと思います。無門禅師は、相変わらず揶

揄を含んだ調子で、こき下ろしながら、実は若い六祖/慧能を大いに賞賛している

わけです。また...

 

  “口に入れてやり、ただ呑み込みさえすればよいようにしてやったようなものだ”

 

  ...と、赤ん坊の口に含ませるより簡単なようなことを言っています。しかし、ここ

が実は...“無門関・・・無門の関”...であり、容易ではない関所です。ともかく、

これによって慧明大悟し...“全身に汗が流れた”...となります。

 

  慧明はこの後、ひとり山中で禅の境涯を深め...やがて袁州(えんしゅう)の蒙山(もうざん)

活躍したと言われます。

  

    <4> 無門の頌(じゅ) (/頌は偈(げ)と同じで、詩の意味です ) 


それは描写しようにも描き得ず、絵に画こうにも画けない。

詠ずることも、たたえることもできない。

一切の模索分別をやめよ。

本来の面目は、どこにも隠す所がない。

世界が崩壊する時、それは朽ちない。

 

   ...この無門禅師は...

 

「善を思い、悪を思うことをやめよ。

       この時、明上座の...本来の自己...とはどのようなものか?」

 

  ...というこの公案の核心部分にある“本来の自己=本来の面目(/原文)

ついてのみ、述べています。さあ、この禅における核心中の核心、“本来の面目”

とはどのようなものなのでしょうか。

  それは、無門禅師がこので、懇切丁寧にうたっています。繰り返し読んでみて

下さい。また慧能慧明に言った、上記の一言、明上座の本来の自己”につい

ても、深く考えてみて下さい。結局、慧明は、これによって何を悟ったのかと。

 

  それから、前章の<無門関・第十九則/平常是道( へいじょうこれみち )の解説

の中で、私はこう言ってきました。

 

****************************** <一部抜粋>

  阿頼耶識( あらやしき )にある...“分別する心・・・自我”...を捨てよ、

そして...“ただ・・・無心となれ”...そうすれば、おのずとそこに、全

てが明らかになるということです。

 

         自我を捨て...自我を忘れ去り...

       この世の一切の柵(しがらみ)を、両腕と両脚から放下し...

       ただ無心に、眼前の風景を見つめる時...

 

     ...まさに、それが南泉のいう、“平常の心”なのではないでしょうか。

ここには...

       

        主体もなく、客体もなく...

       時間もなく、空間もなく...

       生もなく、死もない...

       すなわち、一切の二元性のない世界... 

********************************   

    

  ...これが、いわゆる慧能の言った、“善を思い、悪を思うことをやめよ”と言った

時の、真意の風景です。このような時、あなたの“本来の自己”とはどのようなもの

かと問われ、慧明大悟したのです...

 

  さあ、実践宗教です。“本来の自己=本来の面目も、頭で理解しただけで

は、小さな一歩/スタートでしかありません。このことを、自分の全人格で体現してい

くことが、“悟り/覚醒”への道になります。

 

 

                                        

  無門関・第二十三則、第二十九則>は、小説/『唯心』の方で詳しく解説

しています。

  『無門関』の考察は、ここでしばらく離れ、次回は“特別道場/まほろばに移

行したいと思います。どうぞ、ご期待ください。

                                   執筆 : 高杉 光一   wpe54.jpg (8411 バイト)