Menu 仏道無門関・草枕洞山三斤

    < 無 門 関・第18則>  <如何なるか是れ仏 ・・・  麻三斤まさんぎん

            洞 山 三 斤   ( どうさんさんきん )   wpeA.jpg (42909 バイト)

                                       

        ここに出てくるのも・・・雲門禅師の法嗣/洞山守初禅師です。 曹洞宗の始祖/洞山良介禅師とは別人物です。

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    執筆 : 高杉 光一

                                           

No.12  洞山三斤( どうさんさんきん )...  <無門関.第十八則>

           <2>..... 無門の評語

2000. 3.27

2000. 4. 6

 

   <1> 公案     

  洞山和尚に一人の僧が問うた。

「仏とは何ですか」

「麻三斤(まさんぎん)」と洞山は言った。

 

  さあ、<無門関・第十五則>に続いて、再び洞山守初禅師の登場です。また、

この公案も、禅界では非常に有名な公案の一つです。

  内容は、古典風に言うと、「如何なるか是れ仏」という一人の僧の質問です。そ

して答えは、「麻三斤(まさんぎん)という、洞山禅師の返答です。

  “麻三斤”とは、麻が一掴み...まあ、三斤ぐらい...というものです。しかし、

いつものように、これは禅問答であり、もう少し補足的な説明が必要です。

 

  そこで、私たちもまず、“仏”とは何なのかという、この僧の質問の方から考えてみ

ましょう。まさに、“仏”とは、いったい何なのでしょうか。

  しかし、その前に、この「如何なるか是れ仏」と言うのは、実は最も代表的な禅問

答の常套句なのです。〔無門関/全四十八則〕の中においても、今回の第十八則

そして第二十一則第三十則第三十三則と、4回もこの同じ質問が用いられてい

ます。したがって、4つの公案が成立しているわけですが、その根本は1つです。ま

た、禅匠によって答え方は異なりますが、その示している所も1つなのです。

 

  さて、そこでこの“仏”の意味ですが、これは梵語の“buddha/ブッダ”の音訳とい

われます。意味は、“悟れる者”ということです。“仏”に次ぐ位として、“羅漢(らかん)

あるいは“菩薩(ぼさつ)があることは、よくご存知のことと思います。

  いずれにしても、釈迦牟尼はあまりにも偉大な“仏/悟れる者”であったために、

今でも仏様といえば釈迦牟尼/釈尊を指し示すほどになっています。しかし、実際

には、これは彼の独占的な称号というわけではないのです。しかも、釈尊の入滅後

に、“仏”はさらに肉体を越え、“精神的・思想的な仏陀”へと展開していくのです。

 

  いずれにしても...この公案で、僧が洞山和尚に質問しているのは、そのような

複雑で難解な、“思想的な仏”ではありません。彼が質問しているのは、“禅的な仏”

のことであり、禅において最も重要な...

 

     “菩提樹下における・・・釈尊の悟りの内容としての・・・仏”

        さらに...釈尊の・・・真理の体験的伝承の系譜としての・・・仏”

 

  ...と言ってもいいかも知れません。

  

  さあ、“仏”とはこのようなものだとして...“麻三斤” とは一体何のことなのでしょ

うか...これは文字通り利、(あさ)/三斤のことです。つまり、夏の衣類や麻縄な

どに使う麻の繊維のことで...三斤とは量にして一掴みほどでしょうか。

  洞山禅師は、「如何なるか是れ仏」と問答を仕掛ける僧に、“これが仏だよ”、と

サッと傍にあった麻を掴んでみせたわけです。

  動作としてはいかにも軽いのですが、“三斤の麻には・・・洞山禅師の禅的境涯

・・・全人格”が込められたものでした。いったいこのように示された完璧な麻を、私

たちはどのように受け止めたらいいのでしょうか。時空間を越え、自他を超え、あ

らゆる分別心を超えた“麻”を、私たちはどう扱ったらいいのでしょうか。

 

  もちろん、このことの本質は、“麻”にあるのではありません。本質は、洞山禅師

がすくい上げて示した“麻”が、一切世界を極め尽くしていることにあるのです。こ

の“一掴みの麻”が、全てを永遠のものとし、“仏性”の輝きを放っていることにある

のです。この“麻の真意”を、その深さを、とっくりと考えてみてください。

                                                  

   <2> 無門の評語...口語訳              (2000.4.4)

 

  老洞山は、小さなはまぐり禅を学んで、貝の口をちょっと開いて、その肝腸をさらけ

出してしまった。それはそれとして、言ってみよ、どこに洞山を見るか...

 

  小さなはまぐり禅とは、皮肉と愛嬌をこめた言い方ですが、実際には無門禅師は、

大いに洞山禅師を評価しています。禅では、こっぴどくけなしていて、実は大いに誉

めてしているのは、常套手段です。

 

   <3>無門の頌 (じゅ)...口語訳               

 

「麻三斤」が突出した

言葉親しく、その意は更に親しい。

是非をうんぬんする人は

すなわちこれ是非の人である。

 

  “麻三斤”については、すでに十分に解説したと思います。つぎに、是非の人です

が、これは二元的な意味で言葉についてまわり、理屈をこねる人のことです。したが

って、そのようなことをやっていては、とうてい“麻三斤”の真意は得られないというこ

となのです。この公案の真意は何か...何度も読み返し、とっくりと考え下さい。

 

 

        次は、<無門関・第十九則/平常是道>です。     wpe54.jpg (8411 バイト)

  <無門関・第一則/趙州狗子>の趙州禅師が、二十歳をやや過ぎた頃、南泉

禅師のもとで修行をしていた時の話です。

  ちなみに、この二人は、<無門関・第十四則/南泉斬猫>ですでに出てきてい

ます。もっともこの十四則の方は、公案の順序としては逆になりますが、もう少し後

の時代の話になります...どうぞ、ご期待ください。