< <1999.10. 6 >
第1章/永遠の考察・・・

第一部 “無門関峠への道程” で、眼前の風景の中に “永遠の相”
を見て行くよ
うにと言いました。ここでは、この “永遠の相”
とはどのようなものかを考察して行
きます。
時間とは何か.....
永遠とは、どのようなものでしょうか.....
このホームページにはすでに
My
Work Station /group E /
唯心・“我”のスペクトル / 永 遠 の 考 察 において、
“永遠”についての考察を行っています。あまり長い文章ではないので、ここにその全文
を再度示しておきます.....
<以下...>
永遠の考察/・・・時のない瞬間を生きる! (1998.3.16)
“永遠...”とは何でしょうか?
この言葉を広辞苑でひいてみました。すると、次のように載っていました。
(1)
果てしなく長い間。
(2) a.
時間の中に限りなく続き、終わりが無いこと。
b. 数学の命題のように無時間的に妥当する真理の性格。
(3)
高次な実在のもつ不生不滅で超時間的な性格。
この説明では、何の事か良く分かりません。また、果てしなく長い間と、無時間
性、超時間性の説明は矛盾しています。むろん、そうした幾つもの意味に使われて
いるということで、辞書としてはいいのだと思います。しかし、では、私たちは実際に
どう捉えたら良いのでしょうか。
<1> 無時間性
とりあえず、適当な所から首を突っ込んでみます。まず、以下に、ケン・ウィルバ
ー著 “無境界”
の一節を抜粋してみます。
「永遠にふれること」
が、非常に大変なことに思える理由の一部は、我々が一般
に 「永遠」
ということば自体の真の意味を誤解していることにある。我々はふつう、
永遠とは非常に長い時間で、何億、何百億年と果てしなく続いていくものだと想像し
てしまう。だが神秘主義者は、永遠をそういう形では理解していない。
永遠とは、果てることのない時間の自覚ではなく、それ自体まったく時間を持たな
い自覚だからである。永遠の瞬間とは、過去も未来も以前も以後も、昨日も明日も
誕生も死も知らない、時の無い瞬間である。統一意識の中で生きるとは、時のない
瞬間の中で、また時のない瞬間として生きることである。時という汚れほど聖なる
光をかげらせるものはないからである。
<下線は、私が引きました。>
色々と言っていますが、ここではとりあえず、“永遠”というものを、“無時間性”と
捉えておくことにしましょう。つまり、“永遠”とは、無限に続く遠い未来のことではな
く、“無時間”だということです。さて、無時間とは一体どういうことなのでしょうか。と
りあえず、広辞苑にあった(2) b.と(3)の説明が該当しています。
(2) b. 数学の命題のように無時間的に妥当する真理の性格。
(3)
高次な実在のもつ不生不滅で超時間的な性格。
さて、物理学が好きな人なら、例えばこう考えたらどうでしょうか。時間と空間とい
う物理学の最も基本的な2つの概念において、時間を無時間と置き換えたら...
あるいは、相対性理論の時間と空間の関係式に、同じように無時間を代入した
ら...
(どうなるかは知りません。御自由にお考えください.....)
一方、物理学ではなく、禅的な趣味のおありの方は、“無門関”48則中の第1則
にある、「無」の概念が面白いと思います。また、無時間性という概念においても、
正鵠を射たものと考えられます。この“無”という概念は、まさに禅の公案にあるごと
く、禅的な悟りの境涯とも重なるものだからです。
<2> 永遠の現在
さて、“永遠の瞬間”、“永遠の現在”というものを、もう少し詳しく調べてみましょ
う。そこで、再び“無境界”より、ケン・ウィルバーの文節を引用します。
この現在の瞬間にはじまりはなく、はじまりのないものは不生である。いくら探し
ても、この現在の瞬間の体験のはじまりを、見出すことも知ることも感じることもでき
ないのだ。この現在は、いつはじまったのだろうか。いったい、はじまったことはある
のだろうか。あるいは、この現在は時間をはるかに超えて漂っているために、時間
の流れに入るべき、いかなるはじまりももたなかったのであろうか。
同じ理由で、この現在の瞬間に終わりはなく、終わりの無いものは不死である。
いくら探しても、この現在の瞬間の体験の終わりを、見出すことも知ることも感じるこ
ともできないであろう。現在の終わりを体験することは、絶対にできないのだ(死の
時にさえ、終わりを感じるあなたはいない) 。
シュレーディンガー(波動関数の創始者。ノーベル物理学賞受賞。)が、「現在こそが、終わりの
ない唯一のものである」
と言うのは、そのためである。現在の瞬間が外形的には途
方もない連続のうちに行進していくとしても、現在そのものは我々が
「時間」 と解釈
すべく教えられてきたものによって破壊されることも汚されることもない。この現在の
瞬間には、過去もなければ未来もない。時がないのだ。そして時のないものは永遠
である。
禅師雪峰は、つぎのように語っている。
「もし、永遠が何を意味するかを知りたければ、それはこの今の瞬間をおいてほか
にない。この現在の瞬間にそれをつかまえられないとすれば、何百年にわたって何
度生まれ変わろうとも、それをつかまえることはできないであろう」
さらに、ケン・ウィルバーは、“果てしなく続く時間”という永遠の解釈について、次
のように述べています。
果てしなくつづく時間という概念は、一つの奇形なのだ。どんなことをしてもそれを
実際に理解し、把握し、体験することは不可能である。だが、永遠の今、この時の
ない瞬間は、あなた自身の現在の体験同様、単純かつ身近なものだ。その二つは
同じ一つのものだからである。
ここで雪峰禅師は、無時間性を説いています。しかし、道元禅師は、“正法眼蔵”
有時の項で、全ては“時”であると主張しています。また、同じ“正法眼蔵”画餅の項
では、一動一静として、“画”でないものはないと言い切っています。画とはすなわ
ち、空間の優位性であり、その結晶化です。
それでは、いったいどっちなのだ、ということになります。が、しかし、実際に間違
っているのは、この“どっちなのだ”と決めてかかろうとするところにあります。ここで
言う、“無”も“有”も“画”も、いわゆる一般的な意味をはるかに超越したステージで
展開しているのです。こうした理性を超えた分別、思慮を超えた統一性が、より深
い本質を映し出しているのです。
<3> “悟り”の風
さて、“無時間”とは、具体的にどのようなものでしょうか。もう少し考察してみま
す...
私たちは、海に沈む夕日の美しさに心を奪われ、時のたつのも忘れて見入ってい
たことはないでしょうか。あるいは、山にかかる夕焼け曇の魔法に心を魅了され、暗
くなるまで西の空を見てたたずんでいた経験はないでしょうか。こうした時、私たち
は、はからずも時を忘れ、“永遠の現在”に足を踏み入れているのです。
さらにまた、何かに夢中になって没頭している時、私たちはしばしば時を忘れて
いることがあります。これも、文字どおり時のない瞬間です。こうした時のない瞬
間...時を忘れている瞬間...“永遠の現在”に浸っている瞬間...こうした時、
たいがい私たちは幸福です。いや、それすらも意識せず、私たちはそれそのもの
に没頭し、真我の中に自らを解放しています。
では、こうした“時のない瞬間”、“永遠の現在”を、もっと確実に獲得することはで
きないのでしょうか。方法はあります。それは、宗教的な“悟り”を得る修行の道で
す。
仏教、キリスト教、イスラム教など、いずれにも、こうした真理に到達する道標が
示されています。また、先覚者たちによって、多くの言葉も残されています。
“無時間”、“時のない瞬間”、“永遠の現在”等は、いずれも同じ一つの真理を指
しています。
さて、自分で、よく考えてみて下さい...純粋な“時間”などというものが、実際に
自覚できるでしょうか。自覚できるのは、運動や変化等、質量を介して確認できるも
のだけです。このことの意味を、自分なりに追及してみて下さい。時間は相対的な
のか、絶対的なのか、主観的なのか、あるいは均質なのか、凸凹なのか...
“時のない瞬間”、“永遠の現在”に足を踏み入れている瞬間.....
ここから、“悟り”という高次の意識風景の一端を覗き見ることが出来ます。その、
“思慮を超えた無時間的な透明感”に、その片りんの風が吹き寄せて来ています。
<4> 永遠に響く “水の音”
私は当ホームページの俳句コーナーで、松尾芭蕉の俳句をひとつ解説してい
ます。それも、この“永遠の現在”の概念に当てはまるものと思われます。
古池や、蛙とびこむ、水の音...
この水の音が、まさに“永遠の現在”に響く水音と言われます。
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