さて、実際に悟りに至るには、修行という大きな流れがあります。第1ステージ、
“無門関峠の道場”では、“悟り”とはどのようなものか、どのようにそのきっかけを
掴むのかを話してきました。この第2ステージでは、その無門関峠から1歩踏み込
んだ修行の場を用意しました。
いずれにしても、座禅、瞑想、数息観
などの実践的な修行を続けることが最も大
切です。私などは日常生活に追われ、10分、15分の細切れの時間に、数息観を
やっています。これは息を整え、数を数えるものです。言うまでもなく、これはいわゆ
る座禅の呼吸法なのですが、歩行しながらでも出来ますし、車の運転をしながらで
も出来ます。(運転中は、事故を起こさないようにお願いします。)

さて、私のこの様な修行でも、10分やれば10分の効果があり、15分やれ
ば15分の効果があることを、はっきりと保証します。集中にかけたり、迷いが
あったり、いい加減であったりしても、それを積み重ねていけば、それなりに満
足の行く効果が出て来ます。ここで、あえてこのようなことを言うのは、それが
私の体験から来たもので、真実だと確信できるからです。
むろん、中途半端な時もありますし、短時間でも深い禅定に入れる時もあり
ます。しかし、中途半端な時は、中途半端ななりに、それはそれで一切世界を
極め尽くしているのです。また、深い禅定に入った時は、その深い禅定のなり
に、一切世界を極め尽くしているのです。


第1ステージ、“無門関峠の道場”でも言ってきたことですが、“無心になる”
とは、心の中を真っ白にし、何も無くするという事ではないのです。目に映って
いるものは、目に映っているまま、流れているものは流れているままでいいの
です。ただしそれを見つめていて、何も考えていない状態...それが、いわゆ
る“無心”なのです。
山が山を見つめ、川が川を見つめ、車の流れが車の流れを見つめる時、そ
れは内外打成一片となって、一切世界は内にあるのでもなく、外にあるのでも
なく、ただそれそのものがそれそのものを見つめています。
修行では、この様に、主観と客観を超えた体現を習熟してください。