My Work Stationgroup F個体の死・残留人格昇華の経路死の概念・システム論の概略

 
      
死の概念 ・ システム論の概略      

 

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トップページHot SpotMenu最新のアップロード                   塾長 / 統括責任者 :  高杉 光一

 

                                                            1998.4.23

 <1> システム論の概略

 

 さて、ここでは再びシステム論的な全体構造の風景と、個体レベルの死の風景を

考察します。まず,フリッチョフ・カプラ著“ターニング・ポイント”より、以下の一節を抜

粋します。システム論の概略が示されています。

 

  システム論的見方は、世界を関係と統合と言う観点から眺める。システムとは、

その性質がそれ以上小さな単位の性質に還元し得ない、統合された全体のことを

さす。基本的な構成要素ないし物質に着目する代わりに、システム・アプローチは

組織の基本的な諸原理に重点を置く。システムの実例は、自然の中にふんだんに

ある。極微のバクテリアからさまざまな動植物、それに人間にいたるまであらゆる有

機体は統合された全体であり、生きたシステムなのである。細胞は生きたシステム

であり、身体のいろいろな組織や器官もまたそうである。中でも人間の脳は、もっと

も複雑な例である。けれども、システムは個々の有機体やその部分に限られるもの

ではない。

 

  野生地帯に温存されているのは、個々の樹木や有機体ではなく、それらが織り

成す複雑な関係の織物なのである。

 

 全体系的な属性は、システムが物理的ないしは理論的に孤立した要素に分解さ

れるとき破壊される。どんなシステムにおいても個々の部分を識別することは可能

だが、全体の性質は常に単なる部分の総和とは異なっている。

 

 システム論について少し抜粋してみましたが、これらの概念を真に理解するのは

容易なことではありません。が、一般的な教養で、共感できる概念もチラホラと見え

ると思います。まさに、私自身もそのような状態であり、少しづつ理解を深めていくこ

とに努めています。

 

 

 <2> “死”の概念            

 

 さて、それでは、本題の“個体の死”というテーマに入ります。

 

 私たち命あるものには、やがて、必ず死がやってきます...

 

    と、こう書いても、普通はこの文章の意味を疑う人はいません。では、この意味す

るところは、本当に正しいのでしょうか。

 

(A)

 そこでまず、“命あるもの”とされる個体とは、一体何なのでしょうか?さらに、“命

あるもの”とは、何から何を分離して個体として独立したものなのでしょうか。

(B)

  また、“命の無いもの”は、この生命圏の中でどの様な差別を受けているのでしょ

うか?同様に、生物体の中で、“命のあるもの”と“命の無いもの”は、どのように差

別されているのでしょうか。

 

  たとえば、食物としてとられた胃の中のものは、“命の無いもの”であり、血液の

ヘモグロビンは、“命のあるもの”と区別されるのでしょうか?では、酸素はどうなの

でしょうか。人体の中には、あらゆる形態の酸素分子や酸素原子があるわけです

が.....こうして見てくると、生物体という個体の中でも、何が生きていて何が生き

ていないものなのか、その境界はきわめて曖昧なものになってきます。さらに、“命”

というものの形態も、まさに有機物と無機物で巧妙に織り上げられています。そし

て、そうした命は、さらに有機物と無機物で構成される環境の中に織り込まれ、生

態系の中に織り込まれ、生命圏の中に織り込まれ、宇宙の中に織り込まれている

のです。これがつまり、逆に言えば、生命体とは“開放系システム”なのだと言うこと

です。

 

  しかし、まさにここで問題としているのは、こうした数十年にわたって織り込まれ

た“人格”という固有のシステムが、個体の死でどのように昇華していくかということ

です。もう一言付け加えれば、“人格”はどのような経路で発現してきて、どのような

経路で昇華していくかということです.....

 

  さて、私はこのホームページの中の“地球・生命圏”のページで、“36億年の彼”

という概念を提唱しています。それは“原初の命”が、命そのものを子孫に受け継ぐ

というその本質から、命は一度も死んだことがないのではないかというものです。ま

た、そうだとしたら、たった1個の“原初の命”が、36億年あまり経過する現在もま

だ生きているということになります。つまり、“彼”は一度も死んだことがないというこ

とです。まさに、“命”とは、死んだ経験が無いということになるのです。“死んだ”と

思ったら、ヒエラルキーの上位のシステムへ逃げ込み、必ず生き延びているように

見えます。

 つまり、絶対に影を踏ませず、必ず抜け殻を残して逃げ延びているように思える

のです。しかも、この喧しい食物連鎖の喧騒も、全てが“36億年の彼”の一側面な

のです.....

 

  このような“36億年の彼”の存在と、始まりもなく終わりもないといわれる“自己”

の風景を、深く考察してみるべきです。また、そのいわゆる無限数量の“自己”の集

合体が、新陳代謝で更新されていく生命圏システムについても、少しづつ考察して

みるべきです。また、無限数量の相互主体性が創り出す宇宙の夢を、しばしふり返

ってみるべきです。

 

    くり返しますが、一瞬一瞬、私の体の相当数の細胞が、アポトーシス(細胞が新

陳代謝していくための自殺)を起こして死んでいます。しかし、ヒエラルキーの上位

である臓器等は、新しい細胞が補充されて、生き続けています。また、私という“人

格”も、きわめて安定して存在し続けています。つまり、細胞という個は死んでいき

ますが、その上位のヒエラルキーしとては常に生きているということです。これはま

た、私という個は死んでも、上位のヒエラルキーである生態系や“36億年の彼”は、

生きているということです。 

 

  (3) 再び、“死”とは何なのか...     33   

                  <少し別の角度から切り込んでみます。意味的に重複するところもあります。>  

 

  一般的に私たちの認識する“死”は、個体の死であり、肉体の死であり、その消

滅ということです。ところが、私たちの体の細胞は常に入れ替わっていますし、長い

ものでも数年でそっくり入れ替わってしまうと言われます。こうした新陳代謝していく

ための細胞の自殺を、アポトーシスと言います。これは、ギリシア語で、枯れ葉が離

れ落ちていくと言うほどの意味だそうです。

 一方、神経細胞や心筋細胞等は、アポトーシスを起こしません。つまり、これらの

細胞は新陳代謝はせず、細胞の死は、個体の死と直結します。したがって、これら

の細胞の死は、アポトーシスと区別し、アポビオーシスと呼ばれるそうです。

 

  細胞の死には、もう一つ、いわゆる事故死があります。しかし、アポトーシスもア

ポビオーシスも、細胞自身が本来持っている自殺のメカニズムです。

 

  分子生物学的な見地から見ると、“死”とは、遺伝子が切断されることだそうで

す。アポトーシスの場合は、DNAはバラバラに細かく分断されます。しかし、アポビ

オーシスの場合は、必要なところだけが切断されるそうです。記憶をつかさどる神経

細胞や、心臓の筋肉である心筋細胞は、常時“生き続けろ”という信号を受けている

のだそうです。そして、それが弱まってきたり無くなってしまった時、細胞自身のもつ

自殺機構が働くようだと言います。それがつまり、アポビオーシスであり、個体の死

と直結します。そして個体の死は、生態系レベルでの、個体の新陳代謝となりま

す。

 

  さて、物質的側面から見れば、ほとんど全てが入れ替わったとなれば、まさに別

の肉体とみなしていいと思います。しかし、実際にはそうではなく、厳密に細部まで

私は私であり続けています。また、友人も、一生涯友人であり続けています。

 

 激しい細胞組織的な変貌 ...常に外部から新しいものを取り入れ、エントロピー

を排泄している生理的代謝 ...変動する環境と対話し、千変万化で対応して均衡

する恒常性と進化 ...こうした全体的な大変動の中で、少しも変わっていないもの

は何か ...また、“私”らしさは、何によって保たれているのか...

 

  そこには、物質的新陳代謝とは別の何かがあります。確固として形成されてい

る、“システムとしての私という花模様”が織り込まれているのでしょうか。私という

“人格”を形成している、生態系に深く織り込まれた開放系システムが発現している

のでしょうか ...

 

 さて、ここで問題とするのは、この“私”というハイパーサイクルの情報系花模様

は、“死”によってどのように昇華していくかということです。さらに、このような生態

系の各レベルにおける無限数量の花模様の新陳代謝は、生命圏でどのような潮流

を描いているかということです。

 

    また、これは別の問題になるわけですが、こうした“人格”のような開放系システ

ムは、どのような情報系で書かれているのでしょうか。DNAは、細胞の中にあり、そ

れは肉体と共に消滅します。したがって、残留する人格は、そうしたDNA的なもの

とは、明らかに一線を画さなければならないわけです。

 しかし、発生を考えると、もともとは1個の受精卵であり、ワンセットのヒトゲノムか

ら出発しているのです。まさにこれは、まぎれもなくDNAの賜物なのです。しかし、

“心”がDNAで書かれているとは思えませんし.....

  もっとも、ここまで掘り下げてくると、すでにデカルトの言う“思惟するもの=精神

と、“延長されたもの=物質”の分割にまで近づいてきています。

 

  この“心”と“物”の関係は、このホームページの総合的なテーマの一つです。今

後とも、様々な角度から検証していきます。

 

 

                                                                              house5.114.2.jpg (1340 バイト)