<1> 標準ビッグバン理論とインフレーション理論

「さて...今、宇宙論の中心にあるのは、“標準ビッグバン理論”だ。これは、相対性
理論から組み立てられていったもので、最新の素粒子理論や、その実験成果が組み
込まれている」
「はい」
「しかし、スンナリとは行かないのが、世の常、宇宙論の常だ...
そこで、行き詰まった所で、宇宙が初期において滑るように膨張加速したという、
“インフレーション理論”が組み込まれたわけだ。そして、これはうまく行った。いや、
非常にうまく行ったというべきだろう...
いずれにしても、ともかくこれで、幾つかの問題が解決された。が、むろん、完全に
クリアしたわけではない。そこでそれ以後、インフレーション理論も様々な変形が考案
されいいく。が、しかし、まあ全体としては、“標準ビッグバン理論”と“インフレーショ
ン理論”は、完成度の高い宇宙論として、今後も21世紀の宇宙論をリードして行くこ
とになるようだ」
「うーん...では、何が問題なのでしょうか?」マチコは、大型スクリーンに表示され
ている、宇宙開闢のイメージ画像を眺めた。
「うむ。問題は、常にある...まあ、あえて言えば、完全な宇宙論などは、今のところ
不可能と考えた方がいい。その上で、可能な限り、真の姿を構築していく、というべき
だろうな。そして、まあ...インフレーション理論にも組み込まれているわけだが、宇
宙論は今、“変革期”にさしかかっていると言われる」
「ふーん、何故でしょうか?」
「それは、まず、この宇宙の総質量の問題から来ている...
単純に言って...この宇宙の総質量が比較的小さく、ビッグバンのエネルギーが
大きい場合は、加速・膨張型宇宙になる。爆発エネルギーが勝っているわけだから
な...それから、総質量が大きく、ビッグバンの爆発エネルギーが小さい場合は、や
がて総質量の引力が勝ち、宇宙は収縮して行き、減速・収縮型宇宙になる。そして、
そのちょうど中間のバランスの取れた所が、静的・平坦型宇宙というわけだ。つまり、
この3つのパターンがある。これは分るだろう?」
「はい」
マチコは、ミケを片手ですくい上げ、頭をなでた。ミケはするりとマチコの腕から抜け
出し、トン、と下に下りた。
ミミちゃんの方は、高杉の隣の椅子の上に載っていた。そこでテーブルの上の端
末装置を使い、正面の大型液晶スクリーンを操作している。
「したがってだ、一般相対性理論によれば、この総質量によって、宇宙空間全体の曲
率も決まってくる...ここでは、重力は空間の極率によって表現されるからね。ニュ
ートン力学のように、加速ゼロの均衡の取れた静的な宇宙なら、この宇宙空間の極
率はゼロであり、平坦だということだ...」
「はい、」
「まあ、1998年の超新星の観測から、この宇宙は加速膨張型宇宙だということが分
ってきたようだがね。しかし、これまでも、加速型だ、減速型だ、平坦型だといってき
たから、どうかな...まあ、今度はそれなりの観測事実に基づいているようだが、」
「ふーん...この宇宙は、加速膨張型なの!」ミミちゃんが、椅子の上で言った。
「うむ。ともかく...見えている物質はどのぐらいあるのか、光としてあるエネルギー
の総量はどのぐらいあるのか、さらに見えない“暗黒物質”はどのぐらいあると推定さ
れるのか...これによって、宇宙の総質量というものが推計されるわけだな。
ところが、この問題は、そう単純ではなかった。理論や観測から推定される、いわ
ゆる見えない物質の総量は、桁違いに大きいことが分ってきた。この宇宙における
見えている物質の量などは、たかだか総質量の数%ではないかという推計値が出て
きた...」
「うーん...でも、どうして、そんなことが分かるのでしょうか?」マチコが聞いた。
「うむ...それはだな...例えば銀河系の回転運動などからも分る。この宇宙に
は、1億個とも言われるような膨大な数の銀河系があるが、それらが集まって局所銀
河群や銀河団を形成している。そして、それらがさらに集まって、超銀河団を形成し
ているのだ」
「塾長、私たちの銀河系は?」ミミちゃんが聞いた。
「うむ。もちろん、我々の住む“天の川銀河系”も、こうした局所銀河群に属し、超銀河
団の1つに属している。
さあ、こうした銀河系や銀河団だが...いわゆる真空容器の中で銀河系を回転し
ているのと、水が詰まったような液体の中で銀河系を回転しているのでは、銀河系の
回転の様子そのものが相当に違ってくる。ここは分るかね?」高杉は、ミミちゃんの
方を見た。
「うん!」
「うむ!では...この宇宙は、どっちなのかというとだ...どうも銀河回転の様子か
らは、水が詰まった液体の中のような振る舞いだというわけだ。そういう状況だと解
釈すると、色々とつじつまが合うわけだ...
したがって、そこでこの宇宙を満たしている、大量の暗黒物質が予想されたわけ
だ。ところがだ...理論的に予想される暗黒物質の総量でも、まだ桁違いに不足す
ることがしだいに分ってきた。そこで、ついに、アインシュタインの相対性理論の宇宙
項、つまり“宇宙常数”が引っ張り出されてきたわけだ。そして、この宇宙乗数という
のは、一口で言えば、真空のエネルギーと一致する...」
「うーん...」マチコが、スクリーンの脇で首をかしげた。「その真空のエネルギーと
いうのは、本当にあるのでしょうか?どんなものなのでしょうか?」
「うーむ...この真空のエネルギーというのはだ...いわゆる“場”というものが、
“仮想的な粒子対”が引き起こす、“量子ゆらぎ”のエネルギーを持つということなの
だ」
「“場”そのものが、エネルギーをもつということでしょうか?」
「うむ。そういうことだ。だから、宇宙が膨張していけば、“場”が増えるわけであり、そ
れだけこの宇宙のエネルギーも増えていく。ところが、この真空のエネルギーは、反
発力であり斥力だから、宇宙膨張は益々加速していくわけだ」
「ふーん...難しいわねえ、」
「いいかね、そもそも、ビッグバンの爆発エネルギーというのは、この真空のエネルギ
ーの斥力なのだ」
「うーん、そうかあ...ビッグバンの爆発力は、斥力かあ...それで、どんどん加速
していくわけね」
「うむ...聞くところによれば、重力というものも、“引力”と“斥力”が“対”になってい
るという。ちょうど、電力のプラスとマイナスや、磁力のS極とN極のようにだ。したが
ってこの真空のエネルギーの増大は、重力に由来しているのだという」
「うーん...」
「まあ、これぐらいにしておこうか...あまり細かいことを言うと、話が混乱するから
ね。ただ、電力と磁力が異なるように、重力もまた異なる型の力だということだ。非常
に弱い力だが、集積すれば莫大な力になりうる。ここが、他の力とは違うところだ。電
力や磁力のように互いに相殺してしまうのではなく、重力は蓄積されるということだ。
ちょうど、太陽や地球のように、巨大な質量が集まると、強大な引力が形成される。
あるいは、一般相対性理論から予想されるブラックホールや、銀河団のようなものも
形成されるわけだ」
「ふーん...そうかあ...それが重力の特徴なのね」
「しかし、勘違いされないように言っておくが、“重力波”というのは、そうした巨大な
引力のことではない。それはちょうど電磁波のような、“重力場のさざ波”だという事
だ。いってみれば、そうした種類の電波や光のようなものだということだ...」
「うーん...良く分からないわね」
「うーむ...まあ、それはこれから、くり返し説明していくことにしよう...
ともかく、21世紀の宇宙論では、宇宙の背景放射のマイクロ波を観測するように、
宇宙初期の重力波の観測がテーマになるという。この重力波だと、限りなく宇宙開闢
の直後まで遡れるということだ。つまり、重力波が最初に生まれたインフレーションま
で遡れるわけだ...」
「...」
「まあ、こんなことを言っているが、」高杉は、笑って腕組みをした。「正直なところ、言
っている私自身にも理解できない領域だ。しかし、私は第一線の研究者ではないか
らね。こうした宇宙論の最先端領域を、文化的に解釈していくのが、最初からの目的
だから...」
マチコは、黙ってうなづいた。
「まあ、しかし、少しづつ核心に入っていくつもりだ」
「はい。期待しています」
「ええ...ここまでで、何か質問はあるかね?」
「はい...真空のエネルギーが、何で“宇宙常数”なのでしょうか、」
「うむ...それじゃあ、もう一度、この“宇宙常数”について説明しよう。
アインシュタインは、この宇宙は動的ではなく、静的で静かな宇宙だと考えたわけ
だ。膨張したり、脈動したりというようなダイナミックなものではなく、静かな穏やかな
世界と考えたわけだ。これは、それ以前のニュートン力学もそうだった。アインシュタ
インは、この宇宙を構成する枠組みの“時間”と“空間”にまで手をつけたが、宇宙が
静的なものだということにはこだわっていたようだ。
つまり、“宇宙常数”とは、一般相対性理論において、静的で平坦な宇宙を表現す
るための道具だったわけだ。我々が今夜空を見上げても、この静的で平坦な空間と
いうのが最も人間的感覚になじみやすいだろう?」
「はい、」
「しかし、アインシュタインの努力も空しく、すぐに例の“宇宙の背景放射のマイクロ
波”が観測されて、宇宙は膨張していることが分った。今となっては常識となっている
が、宇宙はきわめて動的で、ダイナミックに変動していることが証明されたわけだ。ア
インシュタインは、この“宇宙常数”を導入したことを、生涯の大失敗といって悔しがっ
たそうだよ」
「ふーん...」
「ところがだ、すぐにまたこの“宇宙常数”が必要になった。別の理論物理学者が、
“真空”に“量子ゆらぎ”のエネルギーがあることを突き止めたわけだ。いわゆる“真
空のエネルギー”だな」
「うーん、アインシュタインさんは、何をやっていたのかしら、」
「まあ、エピソードとしては面白いところだね。いずれにしても、“宇宙常数”で表現さ
れた、この宇宙の超真空空間とは...何かがギッシリと詰まっている状態だというこ
とになる...もっとも、こうした概念は昔からあって、その昔は真空中には“エーテ
ル”が詰まっていると考えていたらしい。まあ、非常に似た概念とはいえるわけだ」
「うーん、」
「くり返すが...最初のうちは、冷えたガスや未発見の素粒子等からなる、“暗黒物
質”だけだと考えられていた。おそらく、見えている物質の数倍の量はあると推計し
てだ...しかし、その推計値でも、全く足りないことが次第に分ってきた。観測される
銀河系の運動風景とは、まだ相当にかけ離れていることが分ってきたわけだな...
そこで、では何か、ということで、白羽の矢が立ったのが、宇宙空間そのものが持
つ真空のエネルギーだったということだ。そして、このエネルギーに求められた量と
は、この宇宙の全質量の実に70%にも達するものだった」
「70%ですか!」
「うむ」
「さてと...ここで、もう一度おさらいをしておこう、」高杉は、脚を組みなおした。
「はい」
「いいかね...いわゆる、“力”というものは、現在この宇宙で観測されているのは4
種類ある...つまり、核力である“弱い相互作用の力”と、“強い相互作用の力”。そ
して、“電磁気力”と“重力”の4つだ。これらは様々な統一理論で統合がはかられて
いるが、現在はまだ4つ目の重力の統合が成功していない。それ以外の3つは、す
でに統合されているがね。
この4つ目の重力を統合できるのは、理論物理学の方で研究が進んでいる“超弦
理論”や、その発展型の“M理論”(参考:ジャンプ)などだといわれている。しかし、まだ、
もう少し時間がかかるようだな、」
マチコは、黙ってうなづいた。
「そこで...例えば...うーむ...“電磁気力”というものを眺めてみようか...
これは、いわゆる、“電力”と“磁力”の統合された力だ。この2つの力を統合した
のは、マックスウェルだ。この“電力”には、プラスとマイナスがあり、これらは互いに
引き付けあう。しかし、同種同士では反発する。“磁力”にもS極とN極があり、これら
も互いに引き付けあうが、同種同士では反発しあう。それから、直感的にはちょっと
分りにくいが、強弱の核力にも、同様のものがある」
「あの、」マチコが、低く手を上げた。「その強弱の核力というのは?」
「ああ、これは、“弱い相互作用の力”と、“強い相互作用の力”だ。弱い方は、いわ
ゆる核兵器などで使われている“核エネルギー”だ。太陽が燃えているのも、この核
融合のエネルギーだ。
一方、“強い相互作用の力”は、いわゆる“量子色力学”の方だ。“クォーク”という
言葉を聞いたことがあるだろう。アップクォーク、ダウンクォークとか...ボトムクォー
ク、トップクォークとか...こっちの方の力学のことだ。専門家ではないので、詳しい
ニュアンスは分らないが、いわゆる“量子力学”に対し、“量子色力学”と言っている
のかな。ともかく、“量子色力学”の方は、どれもこれも個性的な面白い名前を使って
いる」
「ふーん」
「そこでだ、話を戻すが...4つ目の力、“重力”はどうか...通常、我々が知ってい
る重力は、引力だけだろう。例えば、地球の引力であり、惑星探査機が火星や木星
をフライバイしていく時にもらうエネルギーも、引力そのものだ。ところが、この重力と
いうものにも、“対”があるらしい。つまり、重力にも引力と反発力の2つの側面があ
るというわけだな。この反発力のことを、“斥力”という言葉を当てて表現している論
文もある。まあ、私としては、この“斥力”という言葉の方が好きだがね。最初に、こ
の“斥力”という言葉の方になじんでしまったからかも知れんがね」
「うーん、難しくなってきたわねえ...“斥力”かあ...反発力の方が分りやすいんだ
けど、」
「うむ...まあ、いずれにしても、簡単に言えば、この真空のエネルギーというのは、
引力とは対極にある斥力だという事だ。そしてこの斥力とは、電力や磁力にもあるよ
うに、同種同士の反発しあう力のことだ」
「はい」
「そして、ビッグバンを引き起こした膨大なエネルギーとは、この斥力だといわれてい
る。まあ、宇宙論は、理論によって言っていることにズレがあるわけだが、このあたり
はビッグバン理論の共通認識だと思う。まあ、なんでもありというのが宇宙論だが
ね、」
「うーん...」
「さあ、話を先に進めよう」
<2> 宇宙の加速膨張の確認と
重力波によるビッグバンの観測
「ええと...1998年の超新星の観測による“加速膨張の発見”は、このホームペー
ジでもすでに触れている事項かもしれません。が、ここで改めて、少し確認しておきま
す。というのは、この加速膨張の発見により、今後の宇宙論に新たな方向性が創出
されて行くからです。
ちなみにこの観測は、2つのグループが、遠くにある特殊な超新星を独自に観測
し、宇宙膨張率の変化を検出したものです。両グループとも、宇宙は加速的に膨張し
ていると結論を出したわけで、信頼性はかなり高いようです」
「うーん...それで、どういうことが分るのでしょうか?」
「まあ、結論から言えば、“暗黒エネルギー”の存在は、いよいよ否定しがたいものに
なったということだ。つまり、“暗黒エネルギー”とは、先ほどから言っている“真空の
エネルギー”であり、重力と対の関係にある“反発力/斥力”のことだ...」
「うーん、暗黒物質かあ...」
「あ!コラ、マチコ、それは違うぞ!」
「なに?」マチコは、首をかしげた。
「いいか...ここで言っている、“暗黒物質”と“暗黒エネルギー”とは全く別のもだ。
うーむ...相対性理論では、“物質”と“エネルギー”は同一だなどと言われても困る
が、ここではそれは関係ないと思ってもらいたい。つまり、これは言葉の定義の違い
なのだ。
つまり、“暗黒エネルギー”は“真空のエネルギー”のことだが、“暗黒物質”は、こ
の宇宙における“我々には見えない物質”を指している。したがって、“暗黒物質”は
重力も真空のようにマイナスの斥力ではなく、プラスの引力が働いている。分るな?
ここは、混乱してもらっては困る所だ」
「はい。つまり、暗黒物質とは、暗黒星雲なんかのことを指すと考えればいいわけで
すね?」
「うむ。それも含まれる。そして、素粒子論で予測されているが、未だに発見されて
いない素粒子なども含まれる。しかし、こうしたものと真空のエネルギーとは、全く異
質なものなのだ。さあ、脱線ばかりしていないで、話を進めよう 」
マチコはうなづいて、ミミちゃんの操作している大型スクリーンの方を見た。
「ええと...ともかく...この重力と、それと対をなす真空のエネルギーの斥力は、
宇宙初期のインフレーションの折に、“仮想粒子”の“対”が引き離されて出来たもの
といわれている。つまり、本来ないものが、インフレーションの滑るような急激な大膨
張で、仮想粒子対が割れ、引き離され、重力と斥力が顕在化したということかな...
いずれにしても、第一線の研究者以外には分りにくい領域だ...それに、この辺り
のことになると、みんな色々な事を言うらしいし...うーむ、いずれにしても、後でもう
少し詳しく検証することになると思います」
「はい」
「ええ...したがってここでは、“重力波”の発生は、ビッグバンの10のマイナス38
乗秒後のインフレーションにまで遡るということを、覚えておいて下さい。そして、この
時の“重力波”を観測することによって、宇宙開闢の、極限に近い瞬間にまで入り込
むことができるわけです。」
「そんなものを、どうやって観測するのでしょうか?」
「これは、宇宙背景放射のマイクロ波のように、全宇宙にその時の残照が残っている
と考えられている。これも、詳しくは後でもう一度検証することにしよう」
「あの、塾長...」マチコが言った。「その“重力波”というものについて、もう少し詳し
く知りたいんですが...具体的に、分りやすく、」
「うむ、分った。それじゃあ、次は、重力波について少し話そう。その前に、小休止だ」
「はい。ええと、ミミちゃん、お願いね」
マチコは、脇に来ていたミミちゃんの耳に触れ
た。
「うん!コーヒーでいいかしら?」
「ああ」高杉が答えた。