
響子は、コーヒーカップをコトリと受け皿に戻した。そして、唇を引き結んで、ボンヤ
リと眼前の宙を見つめていた。彼女は、しばらくそうしていたかと思うと、やがて窓の
外の吹雪の方を見つめた...
「かなり、強い寒気が入って来ているようだ」高杉が、ポツリと言った。
「さて、始めますか、」外山が言った。
「はい...」響子は、小さくうなづいた。作業テーブルの上にある、自分のノートパソ
コンに目を戻した。「...ええ...これから始まる21世紀は...ゲノム科学の時代
といわれます...
そこで、あらためてお二人にお聞きたいのですが、日本の現状は、実際にはどう
なのでしょうか?」
「確かに...」と、外山は、作業テーブルの上で両手を組み合わせた。「ヒトゲノム解
読では、日本は戦略に欠けたところがありました。しかし、ここでも、最初は日本がリ
ードしていたのだといいます...
理化学研究所(理研)・ゲノム科学総合研究センター
<日本のDNA研究機関...No.3> (ナンバーは、便宜上つけたものです
...)
は、“国際ヒトゲノム計画”の中で、21番染色体を解読した所です。いわゆる、国際
分業の中で行ったわけですが、」
「こういう仕事は、理化学研究所でやっているわけですか?」高杉が言った。
「はい。ここは、科学技術庁の所管です。2001年からは、文部科学省になるんです
かね、」
「ふーむ...何度か、この理化学研究所の前を、車で通ったことがありますよ。あれ
は、埼玉県の和光市あたりだったかと、」
「ええ。そこが本部だと思います。まあ、知っている人は、知っているんですが、」
「しかし、知らない人は知らないというわけですか」高杉は、笑った。「このあたりは、
埼玉県といっても、首都圏に入りますね」
「はい...まあ、ともかく、国際ヒトゲノム計画では、
慶応大学
<日本のDNA研究機関...No.4> (ナンバーは、便宜上つけたものです
...)
が同じく21番染色体と、22番染色体を解読しています。日本が解読したのは、全体
の約7%でした。ちなみに、アメリカが67%、イギリスが22%を解読していますす。
残りは、ドイツなど、数カ国ということになります」
「7%というのは、アメリカやイギリスに比べれば、ずいぶん少ないですねえ」高杉
は、体を横に揺らした。
「そうですねえ...当時のプロジェクトのリーダーで、理研・ゲノム科学総合研究セン
ターの和田所長は、1986年にカリフォルニア州サンタフェで開かれたゲノム配列研
究会を振り返り、こう言っているといいます。
“会議ではヒトゲノム解読で、日本を追い越そうという話ばかりだった...”
一体、いつ、日本は追い越されたのでしょうか。それは、まさに、本格的なヒトゲノ
ム解読が動き始めた時、日本は戦略的な切り替えが出来なかった所にありました。
したがって、この頃になると、ヒトゲノム解読は、研究というよりは膨大な解読作業
そのもので、30億塩基対の山を切り崩していく段階に入っていました。ここのギア
チェンジの際に、日本は大きく遅れをとってしまったわけです。このことについては、
後ほど分析します。
それから、和田所長は、このようなことも言っているといいます...1980年代
に、理研のグループが、“4色の蛍光色素で、遺伝子の4種類の塩基を識別”して、
“塩基配列を解読する特許を申請”した。しかし、それはその後取り下げられた...
理由は、公的研究機関は研究成果を公表すべきで、特許権取得に走るのは、公の
利益に反するという意見があったためだったと...もし、この時、特許が成立してい
れば、日本が世界のDNA分析装置を制覇していたかもしれないということです」
「そのニュースは、私も覚えています。その特許申請を取り下げた時のニュース報道
も、確かそんな奇異なニュアンスだったことを記憶しています。時代としては、すでに
特許権の争奪の時代に入っていたのではなかったでしょうか?」
「はい。そうだったと思います」
「それでは、」響子が言った。「21世紀は、特許権取得の熾烈な競争の時代になる
のでしょうか?」
「そうだろうねえ...」外山は、大きく溜息を吐いた。「まさに、医療方面のヒトゲノム
ばかりでなく、穀物や食糧に関係するゲノムも、経済原理のもとで戦略化されていく
可能性があります」
「大変な時代になりそうですね」響子は、ノートパソコンのキーボードを2つ叩いた。
「それにしても、外山さん、ヒトゲノムそのもので、特許を取得する動きがあるでしょ
う。これには、納得しがたいものがありますね。ゲノムはもともと、そこにあったもの
であって、誰のものでもないでしょう。勝手にそんなもので特許を取られては、たまっ
たものではないでしょう」
「ええ。それは分かりますよ」外山は、微笑してうなづいた。「これは本来、誰のもの
でもありません。それは、まさしく、その通りです。また、しいて言えば、各個人の所
有物であり、最高度のプライバシーそのものでもあります」
「しかし、現実には、特許権の争奪で動いているわけでしょう?」
「まあ、そうですねえ...私としては、時代の中で、コトの推移を見守っていくという
立場です」
「これは、土地の所有権と似ていないかしら?」響子が言った。「もともと地球上の土
地は、誰のものでもありません。だけど、現実には、かなりしっかりとした所有権が確
立しています。私などは、全く土地を所有していませんが、」
「ハハハ、確かにそうだね」高杉は、顔をほころばせた。「本来、土地は、この地球上
に存在するすべての生命体の共有財産です。“命”は、その無機物と有機物の生態
系の中に、深く織り込まれています。それが時間軸と空間座標に最大限に広げる
と、私が“ニューパラダイム仮説”として展開している“36億年の彼”という地球生
命圏の人格になります。したがって、その一部を私有するなどということは、本来お
かしなことです」
「持たざる者、としてはですね、」外山は、口もとを崩した。
「まあ、思想と、便宜性は、分ける必要はありますね」
「さあ、それで、どうなのでしょうか?」響子が言った。「日本のゲノム研究の実態
は?」
「そう、ともかく、話を進めましょう」外山が言った。
「つまり、解読も早まるということでしょうか?」響子が言った。
「結果的には、そうですね。しかし、ここもヒトゲノムと同様で、塩基配列を解読しただ
けでは何の意味もありません。問題は、その遺伝暗号の意味、遺伝子の機能の解
析にあります。
ちなみに、イネゲノムは4億3000万の塩基対からなり、約3万の遺伝子があると
考えられています。また、今の所、農業上有用と思われる遺伝子は、ほとんど見つ
かっていないとも言われます」
「イネゲノムに関しては、日本は進んでいると聞いていますが、どんなことをやってい
るんですか?」高杉が聞いた。
「“イネ・レトロトランスポゾン”の実験がよく知られています。この“イネ・レトロトランス
ポゾン”というのは、特殊な遺伝子なのですが、これを使って突然変異を起こしたイネ
を3万種類以上作っています。そして、変異の現れ方から、遺伝子の機能を突き止
めていこうというわけです」
「3万種類のイネというのは、約3万の遺伝子全てということかしら、」
「ふーむ、大変な作業になりますね」
「確かに、口で言うほど簡単ではありません。しかし、遺伝子の機能を解析するに
は、そうした地道で膨大な量の作業が必要だということです」
「コンピューターがなければ無理ね」響子が、高杉に言った。
「ああ、」
「すでに、“イネの背丈を決める遺伝子”、“乾燥への強さにかかわる遺伝子”、“光合
成の効率にかかわる遺伝子”等、14種類の遺伝子を特定し、特許を出願しているそ
うです」
「うーん...これは、農水省の(農業)生物資源研究所(つくば市)の特許出願ですね」
「はい、」
「すると、有用な遺伝子が、全く見つかっていないというわけではないのですね?」高
杉が言った。
「まあ、いずれは、ほとんどが解明されていくわけです。しかし、現在はまだ、白紙に
近い状態だということでしょうか、」
「そして、特許になるわけですか?」
「はい」外山は、うなづいた。「日本のミレニアム・ゲノム計画では、2004年までに、
100個の遺伝子の特定を目指しています」
「アメリカでは、どうなのですか?」
「ええと...」響子が小さく手を上げた。「それは、私の方から説明しますわ...この
分野でも、ヒトゲノム同様に、欧米が本腰を入れた追撃を開始しています。ヒトゲノム
解読で活躍したセレーラ社や、あの有名なデュポン社、それから英国のノバルティス
社もイネゲノムの解読を始めています。
さらに、欧米企業では、主食の小麦やトウモロコシでも、ゲノム解読に着手してい
るようです。主要な植物は、ここ2、3年で、次々に解読が完了していくと思われま
す。ですが...繰り返しますが、問題はその遺伝子の機能を知ることです。その遺
伝子の作り出す、タンパク質の構造と機能を解明していくことが重要なのです」
「響子さん、いいかしら?」ミミちゃんが、向こうのパソコンの方から言った。
「あ、はい」響子は、片手を上げた。「それじゃ、ミミちゃん、お願いします」
「うん!」
《
ミミちゃんガイド...No.4 》 ...


< ミレニアム・ゲノム計画 >
ミミちゃん/談 
「この“ミレニアム・ゲノム計画”は、すでに何度も登場していますが、これは日本政府
が2000年度に開始したプロジェクトです。この計画の中で、イネゲノムの解読に関して
は、約50億円(2000年度)が投じられています。また、研究の対象も、ゲノムの解読か
ら、遺伝子の機能解明に移りつつあります。
したがって、イネゲノムの解読の先には、コンピューターを利用したバイオインフォ
マティックス(生物情報科学)や、プロテオミクス(タンパク質発現の研究)、完全長
cDNAの“ライブラリー作り”などが視野に入ってきます...」

「はい、ご苦労様、ミミちゃん...
ええ...今年、2000年の2月には、農水省の外郭団体などが出資して、イネゲ
ノムを専門に研究するベンチャー企業が設立されています。
植物ゲノムセンター <ベンチャー企業> (茨城県・つくば市)
<日本のDNA研究機関...No.5>
植物ディー・エヌ・エー機能研究所 
<ベンチャー企業>
(茨城県・つくば市)
<日本のDNA研究機関...No.6>
上記の2社は、いずれも茨城県つくば市に設立されたものです。イネゲノムの分野
で、欧米の追撃に対抗する研究機関です。ベンチャー企業という形態でもあり、その
特質を生かした活躍が期待されています...」
「響子さん!もう一度、いいかしら?」ミミちゃんが聞いた。
「はい。どうぞ、」
《
ミミちゃんガイド...No.4 》 ...


< ベンチャー企業 >
ミミちゃん/談 
「ベンチャー企業は、“ゲノム創薬”を目指している方が、圧倒的に数が多いと思います。
今の所、こちらの方が、はるかにビジネスチャンスが大きいからです。アメリカでは、ゲノ
ム創薬を目指すベンチャー企業は、約500社はあると言われます。
ヒトゲノム解読のセレーラ社や、遺伝子診断サービスのミリヤッド社、タンパク質チップ
のシファージェン社などが良く知られています。
ちなみに“ゲノム創薬”では、“最先端研究をする能力”と、“医療現場のニーズを見極
める能力”という2つの能力が必要といわれます。したがって、この仕事は、個人研究を
優先する大学などの学術研究機関で進めるのは難しく、組織が複雑な大企業にも適さ
ないといわれます。したがって、この中間に位置し、かつ、学術研究機関と大企業を橋渡
しするのが、いわゆる“ベンチャー企業の仕事”になります...」

「はい、ミミちゃん!ご苦労様でした!
ええと...その他に...日本のDNA研究機関で、特に活躍が目立っている所
を、いくつか紹介してみましょうか...
奈良先端科学技術大学院大学
<日本のDNA研究機関...No.7>
枯草菌のゲノム解析は、ここが中心になって進められました。
枯草菌の遺伝子の機能解析でも、先行しています。
名古屋大学
<日本のDNA研究機関...No.8>
タバコの葉緑体のゲノムを全解読しています。
うーん...他に何処があるかしら?」
「色々ありますが...まず、へリックス研究所を紹介しておきますかね、」
「あ、はい。ええと...へリックス研究所ですね...」
響子は、手元のコントローラーで、スクリーンのモザイク画像を操作した。
《へリックス研究所
<ベンチャー企業> 千葉県・木更津市
》


<日本のDNA研究機関...No.9>
「さあ...ええ、出ました...うーん、このへリックス研究所も、ベンチャー企業です
ね。通産省の基盤技術研究促進センターと、民間企業10社によって設立されてい
ます。場所は“かずさDNA研究所”と同じく、千葉県の木更津市にあります...」
「このへリックス研究所は、完全長
cDNA(相補的DNA)の収集と機能解析で、現在世
界のトップを走っているはずです」外山が言った。
「このcDNAは、mRNA(メッセンジャーRNA)から逆転写して人工合成したもので、余分な
配列を含まない、人工のタンパク質情報そのものでしたわね、」
「はい」
「そして、これは本物で、実際にタンパク質を合成できるものだと、」
「そうです。これはmRNAをもとに、逆転写酵素を使ってコピーしたものです」
「この分野では、日本はまだトップを走っているということですか?」高杉が聞いた。
「そうです。ヒトゲノムの解読では、日本は大きく水を開けられてしまいましたが、ヒト
ゲノム以外の所では、よく健闘していると思いますね。実際に、」
「日本はどうも、こうした戦略的な事態に対処するのが下手ですねえ。ヒトゲノム解読
の様なビッグサイエンスや、国家戦略なども含めて、基本的な戦略構想というものを
描けない...
それから、これまで聞いてきたところでも、通産省の基盤技術研究促進センター、
科学技術庁の理化学研究所、農水省の農業生物資源研究所といった具合に、3つ
もの省庁がからんでいます。私には詳しいことは分りませんが、日本の縦割り行政
から言って、とても整合性が取れているとは思えませんね」
外山は、黙ってうなづいた。
「政治家が国家戦略を描けないように、科学者もやはり科学戦略というものを描けな
いのでしょうか、」
「そうですねえ...そうした、しっかりとした戦略的な上位システムを作ることかも知
れません。そして、そこに権限を与え、さらに予算や人材を思い切ってコントロールし
ていけるようだといいのですが、」
「うーむ...“権限を与える”という所が下手なのでしょうか?」
「そうかも知れません」
「あの、それでは、高杉さんは、どうしたら良いとお考えなのでしょうか?」
「うむ...ともかく、日本は倫理問題や環境問題も含めた、“科学行政”という大道
を、もっと活発化していくべきだと思います。今後、この科学技術上の政治的決断
が、人類文明のカギを握って行くことになります。
また、科学技術の分野ばかりでなく、芸術や教育や政治についても、国民がしっ
かりと議論を積み重ねていくことが、大事ですね」
「うーん...科学技術上の政治的決断ですか。例えば、どんなものがあるのかし
ら?」
「過去の例でいえば、原子爆弾の開発があります。そのために、今でも地球上には
危険な核爆弾が大量に存在しています。そして、最近の例では、神の領域といわれ
たヒトゲノムの解読に手を付けたこと。ここはもっと、人類文明全体で、慎重な議論
が尽くされるべきだったと思っています。
まあ、これほど大きな問題ではなくても、科学技術における政治的決断、文明的
決断の機会が増えてくるのは確かです。その場面で、ただ成り行きに任せるのでは
なく、正しい決断をしていくことが重要だということです。それ如何によっては、ご存知
のように、全面核戦争や、遺伝子兵器による文明の絶滅ということもあり得るわけで
す」
「まさに、そのとおりだと思います」外山が言った。
「はい、ミミちゃん」響子が言った。「お願いします、」
「うん!」ミミちゃんは、長い耳を揺らしてうなづいた。
《
ミミちゃんガイド...No.4 》 ...


< 日本の
cDNA(相補的DNA)研究について...>
ミミちゃん/談 
「ええと、すでに何度も話していますが、このcDNAは、mRNAから逆転写酵素を使って
人工合成したものです。したがって、余分な配列を含まない、タンパク質情報そのもので
す。今後、遺伝子の機能解明や、それによって生産されるタンパク質の研究において、
cDNAや完全長cDNAのライブラリー編集は非常に重要な領域になってきます。この分
野では、現在日本が最も進んでいます...
<完全長cDNA
: mRNAを頭から尻尾まで、完全に写し取ったcDNAのことです。>
日本は、RNAの研究では、伝統的に強いものがあると言われます。mRNAにキャッ
プ構造と呼ばれる特異な構造があることも発見していますし、mRNAをもとにcDNAを
作り出し、それをクローン化する独自技術をも発達させてきました。
へリックス研究所は、通産省がこの日本の得意分野に着目し、この分野を官民で強
力に推進していくために設立したベンチャー企業です。ヒトゲノムの解読が完了し、舞台
がいよいよタンパク質に移り、cDNAはまさにそのキイストーン(かなめ石)なりつつあるよ
うです」
< オリゴキャップ法
>
外山陽一郎/談/ (少し難しい話になります)
<参考文献: 現代用語の基礎知識
> 
「cDNAは、ミミ君が説明したように、mRNAから逆転写して作るものです。しかし、普通
の方法で採取したcDNAの集団(ライブラリー)には、完全長cDNAが10%程度しか含まれ
ていません。
そこで、真核生物のmRNAの頭には、完全な遺伝情報をもつmRNAの旗印ともいえ
る、特異な構造(キャップ構造)があることに着目しました。ええ...これは、東大医科学研
究所癌ウイルス研究部の菅野純夫助教授らのグループですね。彼等は、3段階の酵素
反応で、キャップ構造を人工合成した14塩基程度の短いRNA配列(オリゴヌクレオチド)で
置き換える方法を確立しました。これが、いわゆる“オリゴキャップ法”と呼ばれるもの
です。
この方法だと、mRNAから逆転写して作られるcDNAの集団(ライブラリー)には、完全
長cDNAが50%〜80%も含まれるといわれます。へリックス研究所では、オリゴキャッ
プ法にコンピューターソフトなどによる改良を加え、完全長cDNAの収率を90%まで高
めています。
