プロローグ
.....
「はじめまして...《ロビー》の仕事をしている石清水千春です。
マチコ先輩に頼まれて、初めて補助の仕事を担当します。マチコ先輩は、《免疫系の
守護神》に続き、《痛み・新薬開発の最前線》を担当しているので、こちらの方を私に頼
むと言って来ました。《企画室》の里中響子さんも承知しているそうです。皆さん、おいそ
がしそうなのです。
響子さんは、新戦力をどんどん投入する方針と言います。<
think
tank=赤い彗
星>で事務担当の二宮江里香さんも、《人間の巣/過疎地に集合》で、“アーミッシュ”
の説明をしています。私も、ステップアップし、頑張ってみようと思います。
マチコ先輩は、“適当に、うなづいておけばいいのよ”と言っていました。そして、ミミち
ゃんと、ポンちゃんを助手につけてくれました。マチコ先輩の、言う通りにしてみます。ミミ
ちゃんもポンちゃんも大ベテランなので、心強いです」
「ええ...外山さん、アンさん、よろしくお願いします」
「はい、よろしく、」外山が、笑って片手をあげた。「我々としても、このところハード・スケジ
ュールです。まあ、忙しい時もあるでしょう。頑張りましょう」
「はい!」
「千春さん...」アンが、眼鏡を押し上げた。「私は、アンと呼んでください。“さん”をつけ
て呼ぶと、“アンサン”となって、何となく“寅さん”のようなイメージになってしまいますわ。
アンで結構です」
「はい。『赤毛のアン』のアン・シャーリイですね。聞いています」
「そうです、」アンが、ニッコリと笑った。「『フーテンの寅さん』ではなく、『赤毛のアン』の
イメージでお願いします」
「それでは、アン、よろしくお願いします」
「はい。千春さん、よろしくお願いします」
「さて...では、始めましょうか」外山が言った。「今回も、難しい話ですが、普通の女の
子の視点で結構です。ここでは、その視点を、基本設定にしています」
「一応...」アンが言った。「聞き流すだけで、千春さんも講義は“免許皆伝”とします。そ
れで、この最先端分野に関しては、最先端研究の知識が、十分に得られるはずです」
「はい!頑張ります!」
〔1〕
自己抗体とは・・・
「ええ...」外山が言った。「まず...
“自己免疫疾患”というのは...1型糖尿病(インスリン依存性糖尿病)や、多発性硬化症、関
節リウマチ、全身性エリテマトーデス、重症筋無力症、ベーチェット病など、40を超える病
気があります...
こうした“自己免疫疾患”は...免疫系が、自分の身体組織を標的とする“自己抗体”
を、誤って作ることが原因です。つまり、“自己抗体”とは、“自分の身体組織に誤って反
応する、免疫系分子”のことです...」
「はい...自分に誤って反応する...“免疫系分子”ですね、」
「そうです...
将来、こうした病気の、“発病”を知らせる早期警報として...“自己抗体”というものが
利用できる...これが、今回のテーマです」
「はい、」
「ええ、何故、早期警報が可能かと言うと...
ある種の“自己抗体”は、病気の症状が出てくる何年も前から出現することが分かって
きたのです。具体的には、1型糖尿病の研究で分かってきたのですが、数年前...場合
によっては10年前から、こうした“抗体”が出現していることが確認されているのです。
こうした研究実績から、“自己抗体”の有無や状態を調べることで、将来の発病を予測
しようという研究が進んでいるわけです。さらに一歩進めて、“病気の重症度”や、“病気
の進行”も、予測可能の範囲に入ってきたわけです。どこまで可能性の幅が広がるかは
分かりませんが、そうした研究開発がすでに始まっているということです...
また、免疫疾患以外の病気でも...“発病のリスク”を警告する“自己抗体”が見つか
る可能性があります。将来的には、“予測・自己抗体”の検査が、普通の健康診断の際
に行われ、そうした“自己免疫疾患”等に対し、リスクの警告が出されることが可能かも
知れません...」
「あの...」千春が、遠慮がちに言った。「子供の時に発病する、糖尿病なんかが、健康
診断で分かるということでしょうか?」
「そうですね。将来的には、そうした技術が確立できる可能性があるということです...
1型糖尿病や、多発性硬化症、関節リウマチ、全身性エリテマトーデス、重症筋無力
症、ベーチェット病などの“自己免疫疾患”が、“予測・自己抗体”の検査で、何年も前から
分かる可能性があるということです。
もちろん、一律に分るということではないでしょう...また、それに対する、予防医療の
開発となると、また別の課題になるわけですが...様々な手法で、発病の回避や、軽減
の可能性が、大いに高まります...」
「そうしたことを、」千春が言った。「期待していいのでしょうか?」
「もちろんですわ、」アンが、言った。「でも、すぐに、そうなるわけではありません。そうし
た研究開発が、最先端の領域で、すでに開始されているということです」
「はい!」千春が、ミミちゃんの頭をギュッと押さえつけた。「早くそうなるといいですね!」
「そうですね...」アンがうなづき、モニターをのぞいた。「ええ...
“自己免疫疾患”というのは、実は、非常に多い病気なのです...先ほど外山さんが、
全部合わせると40を超えると言いました...この種の病気は、心臓病や、ガンに次い
で、3番目に多い病気のようですね...
参考文献はアメリカの例ですが...アメリカ人の
5〜8%が “自己免疫疾患”に苦し
み...医療費は年間数百億ドルになる...とあります」
「うーん、大変なのね...」
「そうですね、」
<将来の発病を予測・・・・・>
「ええ...」外山が言った。「こうした、“自己抗体”のことが分ってきたのは...ここ10年
ほどの、多数の“自己免疫疾患”の研究からです...
この“自己抗体”の発見によって、“自己免疫疾患”という病気の理解や、発症するまで
に要する時間について、医師や研究者の見方が“変わりつつある”と言われています。疾
患の全体像が、あらためて分かってきたということでしょうか...」
「はい、」
「先ほども言いましたが...
将来的には、“予測・自己抗体”の検査が、ごく普通に一般の健康診断で行われ、リス
クの警告が出されるようになるかも知れません。そうなれば、その予測のもとに、投薬等
の方法を使って、早い段階で、その病気との闘いを開始できます。症状が出て、重症化
する以前に、それを抑えたり、遅らせたりすることが可能でしょう...
これは、いわゆる予測医学や、予防医療になるわけですが...その延長線上では、
医療に大変革をもたらすことになります...」
「ええと...」アンが言った。「いいですか...
何故、その病気が存在し、発病するのか...また、その病気の発病を抑える方法を見
つけるのも...それが、遺伝子レベルで起こっている場合...簡単なことではありませ
ん...さらに予防療法は、それぞれの病気に、特化したものとなると考えられます...」
「うーむ...」外山がうなづいた。「そうですねえ...」
「“自己抗体”の警報の意味も、様々ですわ...
色々な意味があります...例えば、重症筋無力症のような患者では、“自己抗体”そ
のものが、病気の原因と考えられます。したがって、特定の“自己抗体”の働きを阻止す
ることが、治療法になると考えられます。一方、病気の前兆として見つかる“自己抗体”の
中には、火事そのものではなく、火災警報レベルのものもあるわけです...警報を停止
しても、病気の治療にはなりませんわ。
こうした場合の“自己抗体”は、Tリンパ球やマクロファージなどの免疫系細胞によっ
て、何らかの病気が引き起こされつつあることを、警告していると読まなければなりませ
ん。こうしたケースの予防療法は...“自己抗体”が対象ではなく...その原因となる細
胞を、標的にしなければならないでしょう...」
「うむ...
予防医療の確立までには...それなりの時間と、多大な情熱が必要となるでしょう。現
在は、まだ、様々な“自己抗体”が見つかって来ている段階です...その“自己抗体”か
ら、病気が正確に予測できるのか...まず、そのあたりから、予防医療の基盤を固めて
行かなければならないのでしょう...」
「そうですね...」アンが、うなづいた。「ええ...
そのような大規模試験の実施は...今のところ、糖尿病などの数件にとどまっている
ようですね。これから、予測医療というものが、大きく展開していくのだと思われます。そ
れには、時間と、資金と、情熱が必要だろうということです...」
「まだ、遠い話なのかしら?」千春が聞いた。
「いえ...」アンが、首をかしげた。「そうした予測医療が、しっかりと確立するには、長い
時間がかかると言ったのです...
すでに、そうした研究開発はスタートしています。これから、“予測・自己抗体”の有無
を、“安価”で“迅速”に検査する方法が開発されれば、様相は大きく変わるかも知れませ
ん。そうなれば、コレステロール値の測定のように、一般の健康診断に組み込むことが可
能です。
そうなれば、大量のデータが集まることになります。予防療法の開発にも、弾みがつき
ますわ。そうしたことを積み上げながら、予防医療の基盤が、総合的に確立されて行くと
いうことです...」
「はい...」千春が、神妙な顔でうなづいた。
〔2〕
1型糖尿病の研究が発端・・・・・ 

「さて...」外山が、自分のパソコン・モニターから顔を上げた。「予測医学、予防医療と
いうのは、医療関係者にとっては、まさに理想とするものです。その上流には、病気にな
らないようにという、健康管理の課題があるわけですが、健康管理だけでは対処できない 病気もあるわけです。
例えば...先天的な遺伝病もありますし、化学物質過敏症のように、個人には対処を
越えた社会環境から来るものもあるわけです。それから、複雑な要素の絡むガンのような
病気も存在します。したがって、病気を予測する、予測医学、予防医療というものは、病
気というものに関しては、1つの理想なのでしょう...」
「はい、」千春が言った。
「さて...予防医療ということでは...
予防接種のようなものは、すでに存在するわけです...“自己免疫疾患”等が予防医
療の範疇に入ってくるということになれば、まさに大きな朗報です。夢の実現でしょう。遺
伝子診断や、テーラーメード医療/オーダーメード医療(個人の遺伝子のタイプに応じて、最適な薬を投
与する治療法)も始まっていますが...ここでも大きな夢が開拓されているということです」
「あの、外山さん...」千春が言った。「ヒトゲノムが解読されたのなら...どうして予測
医学なんかが必要なんでしょうか?ヒトゲノムから、何もかもが解読されるんじゃないので
すか?」
「いい質問です!」外山が、ニッコリとうなずいた。「それを、これから、どう話そうかと思っ
ていたところです...現在の、遺伝子解析の進歩/そのパワーを知っている者ならば、
当然そう考えるわけです」
「私は...」千春が、慌てて両手を振った。「そんなことは知りませんけど...」
「はっはっ...ともかく...
こうした、テーラーメード医療の時代です。病気の原因遺伝子を持っているかどうかを
調べる時代に...何故、“予測・自己抗体”の検査法を開発しなければならないのかとい
うことです...それは、こういう事情があるのです...
ほとんどの慢性疾患は...“環境による影響”と、“複数の遺伝子”が、相互に複雑に
絡み合って発病するからです...また、それぞれの遺伝子というのは、その病気のほん
の一部に関わっているに過ぎないということです。遺伝子というのは、つまり、そのような
形で発現しているということですね...」
「はい...」
「したがって...
病気にかかわる遺伝子を検出したとしても...それが、1つ1つの病気に対応してい
るわけではないのです。また...その人が、特定の“自己免疫疾患”を発病するのか、
発病するとすれば、いつ頃発病するのか...そういったことが、確実に分るわけではな
いのです...」
「ふーん...遺伝子診断というのは...そういうものなんですね、」
「そうです...
それに対し、“特定の自己抗体”が検出されるということは...確実に、発病の過程が
進行中であるという証拠なのです。“自己抗体”ができているわけですからね...その進
行状況というものも、それなりに分かるわけです」
「はい、」
「したがって、将来的には、こういうことになります...
まず、遺伝子検査によって、特定の病気になりやすい体質かどうかを調べます。そし
て、そうした特定の遺伝子を持った人に対して...早めに、“予測・自己抗体検査”を実
施していく方向です...それなら、相当に範囲が絞り込めるわけです。そして、早めに、
予防医療を実施していくわけです。」
「はい...」
「言うまでもなく、この方が、患者負担が非常に少なくなるわけですね...それと、これも
重要なことですが...伸び続ける、医療費の総額...個人負担・社会負担を、大幅に軽
減することができます」
「はい、」
<1型糖尿病/小児糖尿病とは・・・・・>
「ええ...」アンが言った。「こうした、発病予測というものに...“自己抗体”が役立つ可
能性があるということを、最初に示したのは...インスリン依存性の、“1型糖尿病患者を
対象にした試験”でした。
これは、小児や10代で発症することの多い病気です。そのため、小児糖尿病とも呼ば
れます。病気としては...インスリンの製造元である膵臓(すいぞう)の、ベータ細胞を、免疫
系が攻撃してしまうものです。つまり、何度も言うところの“自己免疫疾患”です...
そうですね...厳密にいえば、主に、“自己免疫疾患”によって、引き起こされる病気
ということです。“2型糖尿病”から、“1型糖尿病”になるようなケースもあるわけですね」
「はい...」千春が、うなづいた。「子供のうちになるわけですから、可哀そうですよね、」
「そうですね...まさに、そうですわ...この病気の概略を説明しておきましょうか...」
「はい...」
「この“1型糖尿病”というのは...
自己の免疫系が、誤って内乱を起こし...自分自身の膵臓の、ランゲルハンス島ベー
タ細胞...つまり、インスリン工場の大部分を破壊することで、発病します。
これは、“2型糖尿病”のように、生活習慣病でもないですし、先天性の病気でもありま
せん。また、遺伝的に、同じ家系の中で何人も発病することも...“まれ”と言われます」
「うーん...そうなんだ、」千春が、口に拳を当てた。
「この病気は...
過去のウイルス感染が...“リンパ球の内乱のきっかけ”になっている場合が多いと
言われています...でも、糖尿病の発病は、“ウイルス感染が治癒した後の出来事”な
のです。そういうわけですから、糖尿病が感染するということではありません。リンパ球/
免疫系の内乱が、問題なのです...」
「はい、」
「ええ...せっかくですから、もう少し詳しく話しておきましょう...
ベータ細胞に対する、免疫系の攻撃というのは...Tリンパ球とBリンパ球という免疫
細胞が、ベータ細胞のあるランゲルハンス島に侵入することから始まります。おそらく、T
リンパ球がダメージのほとんどを引き起こします...
そして、このTリンパ球が“悪さ”をしている時に...Bリンパ球の方は、ベータ細胞が
作るタンパク質に対する“抗体”を放出します...通常は、まず、“インスリンに対する抗
体”が生み出されるようですわ...自己を守るはずの免疫系が、何故こんな“誤り”を犯
すのでしょうか...実に、不思議であり、残念です」
「はい...」千春が、うなづいた。
「あ、もちろん、《免疫システムの考察》では、それを考察しているわけですね...
ええと、そういうわけで...膵臓で、インスリンを作ることができなくなってしまうわけで
すね。それが、“1型糖尿病”です」
「アン...インスリンがないと、どうなってしまうのかしら?」
「あ、そうですね。それを説明しましょう...
インスリンが作られなくなると...グルコース/ブドウ糖を...細胞に取り込むことが
できなくなります。そうすると、血管のなかにグルコースが溢れることになりますわ...
このグルコースというのは...細胞にとっては、エネルギー源として大切なものです。
一方、血管の中に大量に溢れてしまうと、いろんな形で血管の壁に溜まってしまいます。
これが、糖尿病特有の合併症につながって行くわけです...」
「はい、」
「“1型糖尿病”では、“脳死・膵臓移植”や、“膵島移植”を受けるか...あるいは、一生
涯、1日数回のインスリン自己注射を続けることになります...ポンプによる注射という文
明の利器もあるようですが、基本的には同じものでしょう...
この“1型糖尿病”に比べ、はるかに多いのが、“2型糖尿病”がの方です。糖尿病患者
の99%が、“2型糖尿病”と言われます。病気の原因も治療法も、全く異なっています。
でも、この“2型糖尿病”の方は、大量の予備軍がいて、今後、社会的な大問題になって
行くと考えられています。
ええと、“2型糖尿病”の方は...《肥満と生活習慣病》の方で考察しています。どう
ぞ、そちらの方をご覧ください...そちらは、響子さんが担当していますね、」
「インスリンがなくなると...」千春が言った。「実際、どういうことになるのかしら?」
「細胞が、餓死します...」外山が言った。「エネルギー源が、無くなるわけですから...
その一方で、血液中のグルコースが急激上昇するわけですね。こっちの方は、過多に
なり、特有の副作用が出ます...つまり、失明や腎不全をはじめとして、色々な合併症を
発生させます」
「うーん...はい、」
<20年にわたる、精力的な研究で・・・・・> 

「40年前は...」外山が言った。「“1型糖尿病”は、まだ“自己免疫疾患”とは認識され
ていませんでした。何が、ランゲルハンス島(膵島)のベータ細胞の死滅を引き起こすのか
は、誰も知らなかったわけです。
その、1970年代、ベルギーのブリュッセル自由大学のゲプツが、“1型糖尿病”で死亡
した子供の膵臓を調べ、ランゲルハンス島にリンパ球が浸潤(しんじゅん)していることを明ら
かにしました。浸潤というのは、ガン細胞の浸潤としてよく使われる言葉ですね。それと
同じ状況です。
1970年代と言えば、ベトナム戦争の末期です。あの戦争は、1975年にアメリカ軍が
サイゴンから撤収し、集結しています。最後に、空母に載せきれないヘリコプターを、海の
中へ突き落とし、大混乱の中で撤収作戦が敢行されて行く様子を、子供ながらに覚えて
います...つまり、その頃の話でしょう。
その後間もなく、イギリス/ロンドンのミドルセックス医科大学院のボッタッツォが、“1
型糖尿病患者”の血液が、ランゲルハンス島を攻撃するのを確認しました。このことから、
ランゲルハンス島/ベータ細胞を標的にする“自己抗体”は、患者の血液中を循環してい
ると考えられました。
さて、この研究結果から...“自己抗体”が、特異的に反応する分子/“自己抗原”が
見つかれば、“1型糖尿病”がどのように発症するかが分かるわけです...そして、ベー
タ細胞の中の、“自己抗原”探しが始まったわけです...」
「はい、」千春がうなずいた。
「...20年間かかりました...20年間にわたる精力的な研究で...3種類の“自己抗
原”が見つかりました、」
「探すのに、そんなに時間がかかるんですか?」
「そうです...ミクロ世界での、分子の探索です...公園の砂場で、10円玉を探すのと
はわけが違います。それこそ、見渡す限りの砂浜で、10円玉を探すようなものです。特
定のタンパク質のマーカーを探すのなども、みなそうですね...大変な作業なのです。し
かし、それだけの価値のある作業でもあるのです...」
「はい...そうやって、医学が進歩してきたわけですね...」
「そうですね...
ベータ細胞の中見つかった、3種類の“自己抗原”は...“インスリン”、“グルタミン酸
脱炭酸酵素(GAD)”、“膵島抗原2(I
A−2)”です。“I
A−2”というのは、ベータ細胞の
周囲にある、小嚢(しょうのう/小さな袋/...インスリンを運ぶ袋)の成分です...」
「ええ...」アンが、大きく体を揺らし、椅子に座りなおした。「こうした...
“自己抗原”に結合する、“自己抗体”というものが...ベータ細胞を死滅させる上で、
何らかの役割を果たすのかどうかとなると...実は、専門家もまだ分かっていないと言
います。関係性が分かっても、その役割が、良くは分らないということでしょう...
ただ、これに関しては、《非常に感度の高い検出テスト》の、結果が出ています。“自己
抗体”というもの関係性が分からなくても、有効性はバッチリと証明されているのです」
「はい、」
「それによると、“1型糖尿病患者”の約70〜90%には...診断の時点で...これらの
3種類の“自己抗原”のうち、少なくとも1つに対応する、“自己抗体”が存在することが確
認されています...」
「高い確率ですね、」
「そうですね...
現在、《この検査法》は、“1型糖尿病”の診断でけはでなく、“1型糖尿病”と“2型糖尿
病”の、判別にも使われています。“2型糖尿病”は、肥満の成人で発症することが多い
わけですが、《この検査法》で調べると、約5%には、“自己抗体”が見つかっているようで
す。
このようなケースでは...“2型糖尿病”に、間違って分類されていたと考えられます。
あるいは、両方を併発しているとも、考えられるわけですね...病気が、進展するなどし
て...」
「そうやって、判別するんですね、」
「そうです...ええ、ついでですから、“2型糖尿病”にも、一言触れておきましょうか」
「あ、はい...」
「“2型糖尿病/...インスリン非依存型/成人型糖尿病”は...
先ほど、全糖尿病の99%と言いましたが、データによっては、95%となっているのも
あります...ともかく、ほとんどが“2型糖尿病”だということです。ええ、“遺伝的要因”
と、“肥満”が、その大半を占めています...
“遺伝的要因”の場合は、“インスリン抵抗性”が問題となります。両親とも糖尿病のケ
ースでは57%...片親の場合は27%となっています...“インスリン抵抗性”とは、イ
ンスリン拮抗物質が存在するか、“インスリン受容体”数が少ない場合を、指しています」
「はい...」
「“肥満”の場合は...
血液中の糖質の量が多すぎて、常用量のインスリンでは、処理しきれなくなるために起
こります...こうした“2型糖尿病”の場合は、肥満の人は特にそうですが...遺伝的背
景をもつ人も...共に、“運動療法”、“食事療法”を、まず行います...それでも下が
らない場合には、“薬物療法”も併用して行くことになります...」
「はい...」
<発病予測/自己抗体・・・・・>
「ええ...話を進めましょう...
ともかく...“1型糖尿病”では、糖尿病の症状が現れるはるか以前から、“自己抗体”
が出現していることが分りました。3種類の“自己抗原”...“インスリン”、“グルタミン酸
脱炭酸酵素(GAD)”、“膵島抗原2(I
A−2)”...これらに対する“自己抗体”が存在す
るわけですね」
「“抗原”に対する、“抗体”というわけですね」千春が言った。「免疫反応ですよね、」
「そうです...
“抗原・抗体”反応の、痕跡を探すわけです...それが、“自己抗体”です。体の中で
はすでに、ベータ細胞に対する攻撃が始まっている考えられるわけです...」
「はい、」
「そこで...
様々なグループが参加して、この“自己抗体”の研究が、大規模に開始されました。数
千人の健康な児童から、血液を採取しました。そして、最大10年間にわたって、これらの
児童の発病が観察されました。“1型糖尿病”を発病した児童については、血液サンプル
を取り出して来て、“自己抗体”の有無を調べたのです...」
「ああ...はい...」千春が、うなづいた。
「こうした、精力的な研究調査から...
“1型糖尿病”になる運命をもった児童のほとんどは...目に見える何らかの症状が現
れる10年も前に...血液中に、3種類の“自己抗体”のうちの...“少なくとも1つを持っ
ていた”ことが、分かって来たのです...」
「はい...」千春が、大きく息をした。「“1型糖尿病”には...どのぐらいの人がなったの
かしら?血液採取した、数千人のうち...」
「“1型糖尿病”は...実は、比較的まれな病気と言われています。約400人に1人、と
言われていますわ」
「うーん...約400人に1人で...それがまれな病気なのかしら?」
「そうですね...統計的には、そうなるようですね...
だから、数千人の健康な児童から、血液サンプルを採る必要があったのですわ」
「はい...」
「この調査研究以前には...
“1型糖尿病”というのは、ほんの数週間で、突然発病すると考えていた専門家もいま
した。でも、この研究に示されたデータでは...免疫系が何年にもわたって、静かに膵
臓を攻撃し続けていたということが分かりました...
そして、しだいにランゲルハンス島のベータ細胞が死滅して、体が必要とする、十分な
インスリンを作ることができなくなって行くのです。そうすると、やがて症状として現われて
来るわけですね。
“極端な空腹感”や、“のどの渇き”や、“頻尿(ひんにょう)”といった、糖尿病特有の初期症
状が現れるわけです...」
「はい、」
「この研究で、重要なのは...」外山が、モニターを見ながら言った。「“自己抗体”の有
無を調べれば...その児童が将来、“1型糖尿病”にかかる可能性を...“予測できる
見通し”が、出てきたことです...
臨床研究のデータでは...“自己抗体”を1種類持っていれば...5年以内に症状が
出るリスクが、10%であることが分かっているようです...2種類持っていれば、それが
50%になり...3種類ならば、60〜80%という確率で、発病するようですね...」
「いいかしら...」アンが、肩を引いた。「この、“1型糖尿病”の予測・可能性は、非常に
大きな朗報です...特に、成人糖尿病ではなく、小児糖尿病ということなので、幼い子供
にとっては、朗報になります。予測ができるということであれば、それなりの対処も可能に
なるはずです...
医療技術的な面でも...“1型糖尿病”の発病を防ごうと考えている研究者には、大き
な影響を及ぼしているようです。この“予測・自己抗体”が見つかるまでは、予防療法の臨
床試験を行うのは、およそ不可能に近かったわけです」
「はい」
「先ほども言ったように...
“1型糖尿病”は、約400人に1人というまれな病気です。仮に、100人の予防療法の
効果を評価しようとするなら...4万人以上の被験者に、臨床試験に参加してもらわなけ
ればなりません。それは、予算面だけを考えても、膨大なものになります。
でも、現在では...血液中に“自己抗体”を2種類以上持っている児童を選び、臨床試
験に参加してもらえば良いのだそうです。つまり、何も治療をしなかった場合、少なくとも
半数が、5年以内に発症することが予想される児童たちです。臨床試験をする被験者の
数を、大幅に減らすことができてはじめて、予防療法の試験ができるようになったのです」
「じゃ...」千春が言った。「そうした臨床試験は、始まっているわけですね?」
「そうですね...
ある研究では...“1型糖尿病”にかかる可能性の高い数千人を特定し、“インスリン
注射”で発病を防げるかどうかを調べました...」
「はい、」
「残念ながら...この治療法は、うまくいかなかったようですわ。でも、研究は、さらに続
けられています。いずれ、何らかの“有効な方法”が、見つかるものと思います」
「早く、見つかるといいですね、」千春が言った。
〔3〕
関節リウマチの自己抗体・・・

「ええ...」外山が言った。「次は、関節リュウマチですね...まず、ポン助君に、関節リ
ウマチという病気について、概略を説明していただきましょうか、」
「おう!」ポン助が、スクリーン・ボードを見上げた。「それじゃ、関節リウマチについて、説
明するよな!」
***************************************************************************** ≪ポン助の、ワンポイント解説・・・@≫  
<関節リウマチ・・・・・> <世界人口の約1%が罹患(りかん)>
「関節リウマチというのはよう...リウマチ性の、関節の疾患だよな...リウマ
チ熱にともなう、関節炎と、慢性・関節リウマチ(リウマトイド関節炎)とがあるぞ...
“リウマチ”というのはよう...運動器に疼痛を生ずる疾患の総称だよな。筋
肉や関節に、“痛み”と炎症が多発してよう...それが身体の各部に流れて行
く、“rheuma/ギリシア語”のように感じられるところから、名付けられたぞ。
しかしよう、“rheuma”はよう、英語の辞書を引いても、出ていなかったよ
な。ま...ギリシア語だから、当然だよな...
慢性・関節リウマチはよう...高齢の女性に多い、“自己免疫疾患”だよな。
この病気はよう、女性の方が、男性に比べて3倍も多いぞ。関節には“不動関
節”、“半関節”、“可動関節”の3種類があるぞ。慢性・関節リウマチはよう、
“可動関節の滑膜”が、炎症をおこす病気だぞ。
“全身の可動関節”に起こるけどよ...ま、手足が主だよな...はじめは、
熱っぽい、だるい、手足がこわばる、貧血などの、全身症状からはじまるぞ。次
に、関節の腫れ、痛み、熱感などの、関節症状が現れるよな...」

*****************************************************************************
「はい...」外山が言った。「ポン助君、ご苦労様です...
ええ...ポン助君の説明で、慢性・関節リウマチとはどういう病気か、分ったと思いま
す...ここでは、慢性・関節リウマチを、参考文献に合わせて関節リウマチということで、
説明して行きます...」
「はい...」千春が、ポン助の毛並みのいい頭をなでた。
「ええ...と、」外山が、顎をさすった。「“1型糖尿病”の発症が...
“自己抗体”の存在で、事前に予測できることが分ったたわけです...そこで、他の
“自己免疫疾患”についても、同様の“自己抗体”があるのではないかと、研究が開始さ
れたわけです。
中でも、精力的な研究が行われているのが、関節リウマチなのです。この疾患は、ポン
助君も説明したように、非常に患者数の多い疾患です。患者数の多い、衰弱性の疾患で
す。世界人口の、約1%が罹患(りかん/病気にかかること)していると言われます。特に、高齢の
女性に多い疾患です。
この病気にかかっている人では...免疫系が、様々な関節の内面を攻撃し、破壊する
ために...腫脹(しゅちょう/はれ)や、慢性の痛みが生じ...やがて、動くことができなくなっ
てしまいます。
おそらく、1人ぐらいは、そういう人を見聞きしたことがあるのではないでしょうか、」
「ええ、」千春が言った。「関節が痛いという、お婆さんは知ってます」
「そうですね...」アンが、深くうなづいた。「いくらでもいますわ、」
外山が、うなずき、モニターに目をやった。
「最近の研究では...
その、関節リウマチと診断された患者の...30〜70%に存在する...“自己抗体”
が発見されています。この“自己抗体”は...ええと...ある種のタンパク質中に存在す
る、“シトルリン(アミノ酸の1つ、アルギニンが1部変化したもの)”と結合するようですね...
まあ、ともかく、この病気にも、“自己抗体”が発見されているということです」
「うーん...」千春が、うなった。「“自己抗体”は...もう、発見されているんだあ」
「そうです...
複数の研究によると...最初の症状が現れる前...場合によっては、10年以上も前
に...血流の中に、この“自己抗体”が出現していることが確認されています」
「10年以上も前からですか、」
「そういうケースもあるということです...
それから、もう1つ確認されているのは...この“自己抗体”を持っている人は、持って
いない人よりも、関節リウマチを発症する可能性が、15倍も高いということです」
「15倍ですか。相当に高いわねえ、」
「それに...」アンが、言った。「関節リウマチの場合は...
予防医療のための薬が、すでに存在していることです。発症を抑える薬が、すでにある
のということですね。ここが、“1型糖尿病”とは大きく異なる所ですわ」
「それなら、」千春が言った。「もう、関節リウマチは、予防できるわけですね?」
「その方向です...
でも、集団検診が可能になるまでには、まだクリアしなければならない課題が、いくつも
あります」
「順を追って話しましょう」外山が言った。「まず、この“自己抗体”は、“シトルリン”と結合
しますが、これが予測マーカーとして確立されることが必要です。まず、それが、クリアさ
れることです」
「はい...」
「リウマチ専門医は...これまでも、関節リウマチと診断した時点で、直ちに薬の投与を
開始しています。そして、関節の柔軟性が失われるのを、“止めたり”、“遅らせたり”す
る、予防治療を実施しているわけですね。
予測マーカーが確立されれば、この治療がさらにずっと早い段階から、開始されること
になります。したがって、はるかに高い効果が、期待できるわけです。“自己免疫”による
関節への攻撃が...取り返しのつかない打撃を与えてしまう前に...治療を開始するこ
とが期待されます」
「ええ...」アンが言った。「そのための...集団検診がですが...
まず...“シトルリン”に対する“自己抗体”...“抗シトルリン自己抗体”の有無が、関
節リウマチの発症を、確実に予測できることが、証明されなければなりません。そして、こ
れには、臨床試験での確認が必要です。
それから広く、一般人...あるいは、家族歴のある人を対象にした...集団検診を行
うことになります。それには、集団検診が可能なシステム、低価格の検査法を開発する必
要があります。こうした技術開発、システム作りは、“1型糖尿病”の場合も同じです。
また、男性に比べて、女性は3倍も多く、特に高齢の女性に多い疾患ですが...“い
つの時点”で、“どのぐらいの頻度”で、集団検診を実施するか...その集団検診のマニ
ュアルというものも、決めて行かなければなりません。でも、これらは枝葉の問題ですね。
ともかく、その方向で研究が進んでいるようですわ」
「でも...」千春が言った。「どうして、女性に多いのかしら?不公平よね、」
「それは...」外山が、少しためらいながら、言った。「専門家ではないので、確かなこと
は言えませんが...“自己免疫疾患”は、女性が多いですのです...これは、女性の方
が男性よりも、免疫システムが強力にセットされていることが、原因ではないかと思われ
ます...」
「うーん...」千春が、首を傾げた。「女性の方が、どうして強力なのかしら?」
「女性は...某・厚生労働大臣の言葉を借りれば...“子供を産む機械”だからでしょ
う...女性の体というのは、全体がそういうシステムになっているのは、一面の真理を突
いています。そういう意味で、男性の体とは基本構造がだいぶ違うのです」
「それは、分かるわね」
「免疫による防御力が、男性の体よりも高く設定されているというのも、その1つでしょう。
高く設定されている分、防御力が高い半面...逆の影響も、強く出てしまうということで
でしょうか...」
「うーん...そうなんだあ...」
「免疫系システムというのは、チューニング(調整)が微妙だということかも知れません」
「はい...」千春が、うなづいた。「ともかく...関節リウマチも、“自己抗体”による予防
医療が、期待ができるわけですね、」
「はい、」アンが言った。「期待していいと思います。研究は進んでいるようですわ」
〔4〕
セリアック病/環境要因を除去!
「次は...」アンが言った。「セリアック病ですね。これは、ミミちゃんが、一生懸命にデー
タを集めていましたね。ミミちゃんに、説明してもらいます」
「うん!」ミミちゃんが、スクリーン・ボードの横で、長い耳を揺らした。「アンに手伝ってもら
って、集めたもん!」
「はい、」アンが、ミミちゃんの背中に手を当てた。
*****************************************************************************
 《・・・ミミちゃんガイド・・・》
<セリアック病
・・・・・グルテン性腸症
>
<欧米で多く、罹患率1%...日本人はまれ...>
「セリアック病は、小麦、大麦、ライ麦などに含まれる、タンパク質の1種である “グルテン”に対する、“自己免疫疾患”なの...“グルテン”は、みそ汁などに 入れる麩(ふ)の原料で、麩素とも言うもん...
小腸内膜には、絨毛(じゅうもう)や、微絨毛と呼ばれる小突起があって、栄養の
吸収をしているの。でも、セリアック病の患者が、“グルテン”を含有する食物を
摂取すると...免疫系が反応して、小腸内膜を攻撃して、絨毛などを損傷して
しまうの。
それで、小腸から栄養やビタミンなどを吸収できなくなって、食事の量などに
は関係なく、栄養失調になってしまうの...
患者の近親者に、セリアック病患者が見られる事から、遺伝的要因が大きい
と言われるわ。外科手術、妊娠・出産、ウイルス感染、激しいストレスなどが引
き金になって、発病する場合もあると言われているの...
大部分の患者では、“グルテンを含まない食品/グルテンフリーの食事”を
摂る事で、症状悪化を防ぎ、小腸の機能回復する事が出来るの...でも、市
販の食品には、“グルテン”を含んだものが多いから、注意が必要ね。栄養士
の助言を受けたり、回避すべき食品の、リストアップを行う必要があるの...
現在はまだ、完治させる方法は無いの...“グルテンフリーの食事”は、生
涯続けなければならないわ...それから、“グルテン”はビタミン剤などの、食
品とは関係ないものにも含まれている場合もあるので、注意が必要なの...」

*****************************************************************************
「はい、ミミちゃんありがとうございます」アンが、ミミちゃんの長い耳に触れた。
「うん!」ミミちゃんが、アンを見上げた。
「環境要因を除去するとこで...」アンが、指を立てた。「“自己免疫疾患”の活動を、停
止できる可能性があります...
“予測・自己抗体”が見つかった時点で...その人の周辺に存在する、誘因を除去す
ることで...“自己免疫疾患”の活動を、停止できるかも知れないのです。この典型的な
例が、セリアック病だということです...」
「はい...」千春が、頭をかしげた。
「セリアック病は...
日本人には、ごくまれな病気です。いわゆる、米食中心の日本の食生活では、これま
では、重症化することが無かったと考えられます。それと、日本人はHLA型の遺伝子型
が少ないということもあるようです。
でも、近年では、食生活の欧米化が進み、パンやシリアルや麺類などの麦類食品は、
常に身近にあるようになって来ています。したがって、今後は、注意が必要かも知れませ
ん。現在、実態調査を進めている段階なのでしょうか...」
「外国では、そんなに多いのかしら、」千春が聞いた。
「欧米では、罹患(りかん)率が約1%と言われます。非常に多い病気と言えるでしょう。約
1%と言えば、関節リウマチと同じぐらいですね」
「うーん...これは、見つかっても、治せないわけですよね。“グルテンフリーの食事”し
か、ないわけでしょう?」
「そうですね...病気そのものを、無くしてしまうことはできません...
ただ、“予測・自己抗体”が見つかり...発病する可能性が高いと判明した時点で、
“グルテンフリーの食事”に切り替えることで...病気を未然に防ぐという可能性が、出て
来たと言うことです」
「うーん...はい、」
「ええ...いいですか...
セリアック病を発病すると...小麦や大麦やライ麦などに含まれる“グルテン”が、“免
疫系”をけしかけて、小腸の内側の絨毛(じゅうもう)を攻撃するのです...そのダメージで、
食物が吸収されなくなります。そして、下痢、体重減少、栄養不良が引き起こされ、衰弱
してしまうのです。
それが、健康に対して、大変な疾病となるわけです...生涯にわたって、“グルテンフ
リーの食事”をすることが、大変だということではないのです...
もちろん...“1型糖尿病”の、インスリンの自己注射と同じように、それはそれで大変
な事は確かですわ。でも、“グルテンフリーの食事”をしていれば、普通に健康でいられる
のです。この病気を、発病させないことが、大事なのですわ...」
「うん...分かったわ」千春が、手を組んだ。「症状は、きついのかしら?」
「そうですね...」アンが、マウスを動かした。「体重が減少し...栄養不良に陥って行く
わけですから...全身に影響が出てきます。その意味からしても、病気が進むと、非常
にきついものになります...
ええ...0〜5歳の子供では、成長の遅れもあります。大人では、ガス、腹部膨満感と
痛み、慢性の下痢、悪臭を放つ便、体重の急激な減少や増加、貧血、歯の変色やエナメ
ル質の欠損...などの病状があります...」
「はい...」
「ともかく...
“グルテン”の入った、パン、パスタ、シリアル、うどんなどは、食べられないということで
しょう...詳しい事は、その方面のホームページや、栄養士、医師に相談して欲しいと思
います...今のところ、日本では、あまり多い病気ではありません...
ともかく、“予測・自己抗体”が発見されている、“自己免疫疾患”の症例の...環境要
因を除去する、典型例として紹介しました」
「はい、」
「ええと...」外山が、ゆっくりとマウスを動かし、モニターをのぞいた。「肝心の...セリ
アック病の、“自己抗体”について説明をしましょう...
セリアック病の患者の多くはですね...ええ...新たに作られる多数のタンパク質を、
部分的に変化させる...“組織型トランスグルタミナーゼ”という酵素と反応する...“自
己抗体”を作ることが分かっています...この“自己抗体”は、症状が出る前.../最大
7年前に...出現することが確認されています...」
「はい、」
「したがって...
セリアック病になる可能性が高いと判明した時点で...早期に、“グルテンフリーの食
事”に切り替えれば...この病気を未然に防ぐことができるかも知れないということです。
ただし、これは...まだ、検証はされていないということです...このあたりの事情は、
参考文献には詳しくは載っていません」
「はい、」千春が、うなづいた。「それでも、研究は進んでいるということですね、」
「そういうことです」
「これも、期待していいわけですね」
「そうです」外山が、コクリとうなづいた。
〔5〕
多発性硬化症/寛解(かんかい)と進行!
「さて...」外山が言った。「次は、多発性硬化症ですが...これは、ポン助君が調べて
あるのかな?」
「そうだよな!」ポン助が言った。
「大活躍ですね、」アンが、ポン助の頭に手を置いた。「それでは、多発性硬化症の解説
をお願いします」
「おう!」
***************************************************************************** ≪ポン助のワンポイント解説・・・A≫  
<多発性硬化症・・・・・>
<10万人に/欧米では30〜90人...日本人は3.7〜5人>
「多発性硬化症はよう...
おかしな名前だけどよう...英語で multiple
sclerosisと言うぞ...multiple
というのは、あちこちに、いくつも、という意味でよう、医学用語では“多発性”と
翻訳されてるよな。sclerosisというのは、“硬化”という意味だぞ。病巣の神経
組織が触ってみると、硬くなっているという意味だよな...
症状の原因となる病巣が...中枢神経の大脳や脊髄、それに、まれに末
梢神経で...1つ以上、あちこちに散在して出来てくるぞ。病巣は、身体的に
散在しているだけでなくてよう、時間的にも散在してるぞ...次々と、現われた り、消えたりするぞ...」
「この多発性硬化症はよう...20〜40歳頃に、最も多く発症するぞ。かなり
急に...歩くとふらつく、目がかすむ、二重に見える、尿が出にくい、などの自
覚症状が出るよな...痛みや、しびれがよう、体のどこかに出たりすることもあ
るぞ...
子供や、若い人が発症する場合はよう、てんかんが出ることもあるようだぞ。
これらの症状は、1日で消えたり、数日の内に良くなったりもするぞ。だけどよ
う、どのような症状が次に出るか、予測は難しいというよな...
症状は、ある時期に集中して出た後、もう二度と出ない人もあるぞ。それか
ら、年に2〜3回、これらの色々な症状を、くりり返し起こす人もあるぞ...
それから、男性にくらべて、女性の方が多い病気だよな。日本では10万人
に3.7〜5人ぐらいと言われるぞ。欧米ではこれが、30〜90人ぐらいになるよ
な...アメリカでは、約40万人が発症しているようだぞ...」
「病気の原因は、不明だけどよう...
“自己免疫疾患”だと考えられているよな...“自己免疫反応”によって、炎
症がおこり、ミエリン(髄鞘の構成物質/ミエリン構造)の破壊が起こり、髄鞘(ずいしょう/ミエ
リン鞘)とその下の神経線維の損傷が生じるよな...
それからよう...多発性硬化症には、遺伝も関係しているぞ。そして、環境
も関係しているようだよな。
データによると、温帯地域で成長した人の2000人に1人が発病するけどよ
う、熱帯地域で成長した人は1万人に1人...そして赤道直下の地域で成長
した人はよう、ほとんど発病しないというぞ...生まれてから15歳まで住んで
いた地域が、発症しやすさにかかわっているけどよ、16歳以降は関係ないらし
いぞ...」
 
*****************************************************************************
「うむ...」外山がうなづいた。「ええ、ポン助君、ありがとうございます...
非常に、ややこしい病気ですねえ...まあ、めったにない機会ですから、ついでにもう
少し説明しておきましょう...」
「はい...」千春が、うなづいた。
「この病気には...寛解(かんかい)があるということです...
寛解というのは、病気そのものは完全に治癒していないが、症状が1時的に、あるい
は永続的に、軽減したり、消失したりすることです...
つまり、ポン助君が説明したように...病巣は、身体的に散在しますが...また、病
気そのものも、時間的に散在しているのです...次々と現われたり、消えたりするわけで
す...」
「うーん...」千春が、うなづいた。「不思議ねえ...」
「そうですね...
まあ、消失すれば問題はないわけです...しかし、消失しない場合...病状が進行
するか、あるいは逆行するのかは、予測がつきません。ただし、進行する場合は、症状に
はいくつかのパターンがあります」
「はい、」
外山が、モニターをのぞきこんだ。
「ええ...次の、4つのパターンがあります...
@/“再発−寛解パターン”では...
症状が悪化する再発と、安定する寛解が交互に起こります。寛解は、数カ月〜数年続
きます。再発は自然に起きたり、インフルエンザなどの感染症が引き金になって起こった
りします。あるいは、夏の猛暑、熱い風呂・シャワー、発熱など...高温がきっかけとなっ
て、再発や症状の悪化をもたらします。
A/“1次性・進行パターン”では...1時的に、病状が進行しない停滞期が現れるも
のの...寛解期間がないままに、徐々に進行します...悪化していくわけですね...
B/“2次性・進行パターン”では...再発と、寛解とのくり返しで...徐々に病気が
進行していきます。
C/“進行性・再発パターン”では...病気が徐々に進行している途中で、突然に再
発します。このタイプのものは稀(まれ)です...」
「ふーん...4つのパターンですね、」
「そうです...
多発性硬化症の、約20%の人は...1回発症すると、その後は、“全くか/ほとん
ど”...進行しません」
「あ、そうなんですか...」
「そうです...また一方...非常に稀ですが、症状が現れてから、急速に病気が進行し
て、重症の身体障害や、死亡に至るケースもあります...」
「はい...」
「ええ...」アンが言った。「いいですか...
多発性硬化症が進行すると...動作がおぼつかなくなり、思う通りに動けなくなったり
します...筋力の低下などで歩行が困難になり...最終的には、歩けなくなることもあり
ます...また、部分麻痺や完全麻痺を起こすこともあります...話し方が遅く、不明瞭
になり、発語をためらうようにもなりますわ...
ええ、病気の後期には...痴呆と躁の症状が現れます...排尿や排便をコントロー
ルする神経が侵されるために、尿や便の失禁が起こったりします。頻繁に再発するように
なると、患者の障害がひどくなり、一生続くこともあります...
でも...多発性硬化症患者の約75%は...1度も、車椅子を必要とせず、約40%
は、普通に生活を続けられます。ほとんどの人が、正常に長生きします。ちなみに、この
病気は、日本では、難病/特定疾患として、公費の対象になります...」
「はい...」千春が、うなづいた。難病として、指定されているわけですね、」
「そうです」
<多発性硬化症の自己抗体・・・・・>
「この、多発性硬化症では...」アンが言った。「“自己抗体”による早期警報は...実
は、これまでとは別の面で役立つ可能性があります...」
「はい、」千春が、頭をかしげた。
「すでに、診断が下されている“自己免疫疾患”が...どのぐらいのスピードで、進行する
か...どの程度、重症化するか...それを判断するのに、役立つ可能性があるのです。
その好例となるのが、多発性硬化症なのです」
「はい、」千春が、顎に指を当てた。
「いいですか...
多発性硬化症というのは...比較的軽度の症状で発病します...そして、病気が進
行する場合は、先ほど述べたように、4つのパターンで進行します。長期間にわたって寛
解が続くケースや...再発した場合に、次の治療法が行えるケース...というのもあり
ます...
また、頻繁に生じる症状や、重い症状と闘うことになる患者もいいるわけですね...中
には、ごく稀(まれ)なようですが、全く寛解のない患者もいます。これは、病気ですから、仕
方の無いことですわ」
「はい、」
「そこで...
医師の側では、患者を適切に助けるために...どの患者が重い症状になるかを、初
期段階で見極めようと苦心しています...それが分かれば、初期段階から、それなりの
治療法を開始できるからです」
「ふーん...」千春が、うなづいた。「“自己抗体”で、どのぐらい重い症状になるか、分る
わけですね?」
「そうです...
2003年に...多発性硬化症であることが、新たに確認された患者/100例以上を
対象に、試験を行いました...神経細胞を覆っているタンパク質2種類に対して、“自己
抗体”を“作る患者”と、そうした“自己抗体”を“作らない患者”を、比較した試験です」
「はい、」
「すると...
“自己抗体”を“作る患者”では...初期症状が和らいだ後、再発する可能性が、ほぼ
4倍も高いことが判明したのです。さらに、“抗体陽性”の患者は、“抗体陰性”の患者より
も、早く再発することが分かりました...」
「うーん...“抗体陽性”の患者と、“抗体陰性”の患者もいるわけかしら?」
「そうですね...
これ以上の詳しいデータは、参考文献には載っていませんわ...2種類のタンパク質
というのも、記載されていませんね...この時点で、全てのデータが公開されているわけ
ではないのでしょうか...その点は、よく分りません」
「はい、」
「しかし、」外山が言った。「このデータから...
“自己抗体”の検査によって、多発性硬化症が進行するかどうか...どのぐらいのスピ
ードで進行するか...比較的簡単に予測できる可能性が出て来たわけです。まあ、こう
した検査を実用化し、治療の指針にするためには、さらに研究を進める必要があるようで
す」
「はい。ともかく、多発性硬化症でも、研究が進んでいるわけですね、」
「そういうことです」外山が、うなづいた。
〔6〕
現在・研究中の自己免疫疾患

アンが、キイボードをたたき始めた。そして、モニター画像をのぞき、眺めていた。それ
から、さらにマウスを使い、データを確認した。
「ええと...」アンが言った。「“自己免疫疾患”で...“自己抗体”や...“特異な免疫
反応”が見つかっているものには...次のようなものがありますわ。現在、研究が進んで
いるものですね...」
「はい、」
アンが、モニターの画像を、スクリーン・ボードに転送した。そして、肩をかしげ、スクリ
ーン・ボードの方のデータを読んだ。
「ええと...まず...
アジソン病 (/慢性・副腎皮質機能低下症)
〔症状・患者数〕
副腎の病気...低血圧、衰弱、体重減少を招きます。
日本の患者数は、10万人に4〜6人ぐらいです。
〔研究の状況〕
小児では...副腎組織と、21・ヒドロキシラーゼという酵素に対する
“自己抗体”が、非常に高い予測能力を持ちます。
抗リン脂質抗体症候群
〔症状・患者数〕
血管中に、くり返し形成される血餅(けっぺい/固まった血)と、流産が特徴で
す...日本での受療推計数は、1997年のデータで...3700人です。
〔研究の状況〕
さまざまな分子に対する“自己抗体”が、この病気の合併症を発症する
可能性のあることを、知らせるています。
セリアック症 (/グルテン性腸症)
〔症状・患者数〕
食物に含まれる“グルテン”が誘発する消化器疾患です...欧米では
多いのですが、日本では、ごくまれな病気です。
<詳しくは、上記の<セリアック症>をご覧ください。>
〔研究の状況〕
組織型トランスグルタミナーゼという酵素を標的にする、“予測・自己抗
体”がつきとめられています。
多発性硬化症
〔症状・患者数〕
身体の動きを損なう、神経疾患...日本の患者数は、約10万人...
アメリカの患者数は、約40万人...
(10万人に対し/欧米では、30〜90人...日本では、3.7〜5人)
<詳しくは、上記の<多発性硬化症>をご覧ください。>
〔研究の状況〕
神経細胞の軸索を覆い、絶縁体として働くミエリン鞘に対する“自己抗
体”が、再発の可能性を知らせているようです。
関節リウマチ
〔症状・患者数〕
関節の慢性の炎症...日本における患者数は、約100万人...
(世界人口の約1%が罹患...女性の方が、男性よりも3倍も多い。)
<詳しくは、上記の<関節リウマチ>をご覧ください。>
〔研究の状況〕
多くの改変タンパク質の構成要素であるシトルリンに対する、“自己抗
体”が、症状の生じる10年も前から、出現することが分かっています。
全身性エリテマトーデス
〔症状・患者数〕
関節や腎臓、皮膚をはじめ、多くの器官が冒されることがります...
日本での患者数...2万〜4万人...
〔研究の状況〕
発症に関係する“自己抗体”が、幾つか見つかっている。患者の、最大
で80%には、症状が現れる前に、こうした“自己抗体”が、少なくとも1つ
は、出現しています。
1型糖尿病 (/インスリン依存性糖尿病)
〔症状・患者数〕
膵臓のベータ細胞が死滅し、インスリンを分泌できなくなります...日
本の糖尿病患者数は、“1型”と“2型”を合わせて約700万人。このうち、
“1型”は5〜10%と推定されています...
<詳しくは、上記の<1型糖尿病>をご覧ください。>
〔研究の状況〕
3種類の、膵臓タンパク質に対する“自己抗体”が見つかっています。こ
れらが、発病の原因となっているかどうかは不明ですが...患者の70〜
90%は、少なくともこのうちの1つを持っていることが分かっています。
重症筋無力症
〔症状・患者数〕
全身性の筋肉の炎症...日本での患者数は、約1万人...
〔研究の状況〕
筋肉のアセチルコリン受容体を攻撃する“自己抗体”が、発病の原因。
(研究が行われているようですが、参考文献の記載はこれだけです...)
ベーチェット病
〔症状・患者数〕
全身性の炎症疾患...虹彩炎、口内炎、陰部潰瘍と、血栓性静脈炎、
皮膚の紅斑様発疹などが、繰り返し起こる慢性病。女子より男子が多く、
特に20〜30歳代に多い疾患です。
日本、韓国、中国、中近東、地中海沿岸に多い病気です。日本での患
者数は、1万8000人...
〔研究の状況〕
目の炎症を示す患者では...自己由来熱ショックタンパク質に対して、
“T細胞”が特異的に反応し、ある種のサイトカインが活発に作られること
が、分かっているようです。
ウェゲナー肉芽腫症
〔症状・患者数〕
全身性の血管の炎症...日本での患者数は、600〜800人...
〔研究の状況〕
白血球に対する、“自己抗体(抗好中球細胞質抗体)”が見られます。
*****************************************************************************
ええ...これらの10の病気で...研究が進んでいるようです...」
「はい、」千春がうなづいた。
<ガンに自己抗体出現の可能性・・・>

「さて...」外山が、モニターを見ながら言った。「ごく、最近...
過去・数年間の、研究成果ですが...
一部のガンなど、一般には“自己免疫疾患”と
は考えられていない病気でも、“自己抗体”が出現している可能性があることが、分かっ
て来ました...
こうした“自己抗体”は...どうやら、腫瘍の増殖を抑制するものではなさそうですが、
早期発見には、役立つかも知れないと言うことです...現在、その確認を急いでいるよう
です」
「はい、」千春が、言った。「ガンに関しては、研究が活発なのですね、」
「まあ、そうですねえ...
それから...アテローム性動脈硬化症では...脳に向かう動脈が、閉塞を起こして、
卒中になりやすい患者を、“自己抗体”で見分けようとする研究が行われています...え
えと...参考文献では...詳しい状況が分かりませんね。しかし、こうした、“自己免疫
疾患”以外でも、研究が行われ始めてているようです...」
「はい、」
「それからですね...」外山が、姿勢を正して、両手を組み合わせた。「実は...
ここで紹介してきた研究というのは...ほとんどが、少数の学術機関の、研究室で行
われて来た研究成果なのです...しかも、主要な“自己免疫疾患”に、限られていたとい
う状況です...」
「はい、」千春が、うなづいた。
「しかし、現在は...
様々な研究者や企業が...治療法を進展させる上で...“自己抗体”の持つ潜在的
な意義に、ようやく気付き始めました...そこで、これまでに得られた研究成果を、他の
“自己免疫疾患”にも適用し...それぞれの疾患と関連する、“予測・自己抗体”の探索
に、乗り出して来ている段階なのです」
「うーん...まさに、最先端の研究なのですね...」
「そうです。これから、本格的に研究が進んで行くものと思います。その研究課題につい
ては、次に話しましょう...」
「はい!」
〔7〕
今後の課題と展望・・・・・
<3つの研究方法・・・・・>
「ええ...」外山が言った。「本格的な研究となると...
まず...長年にわたって、大規模な集団を、追跡調査することになります。何千人もの
健康な人を集めて、血液サンプルを入手し...その人たちが病気になるかどうか、10年
以上も、経過を追跡調査していくことになります。これは、作業も人員も費用も、膨大なも
のになります...ええと...こうした研究方法を、@“前向き研究”と言います。
一方、こうした研究を最初から始めるのではなく、健康に関する既存のデータベースを
活用し、A“後向き研究”を行う方法があります。参考文献では、米軍兵士や、10万人を
超える女性を対象とした“ウイメンズ・ヘルス・イニシアチブ”のような、大規模調査を利用
する方法です。こうした、長年にわたって採取してきた血液サンプルや、医療情報が、す
でに存在しているわけです。
したがって、既存の大規模調査や、プロジェクトに参加していた研究者と協力し、そうし
た中から、“自己免疫疾患”と診断された人をリストアップし、保存血液の“予測・自己抗
体”の有無を調べればいいわけです...この方法なら、時間的にも、費用的にも、負担
は相当に軽減されます。実際に、こうした共同研究はすでに始まっています...」
「そうかあ...」千春が言った。「もう、共同研究は、始まっているわけですね?」
「そうです。すでに始まっています...
それから、もう1つ、方法があります。それは、“未知の自己抗原”と、それに対する“自
己抗体”を突き止めるものです...これは、B“ヒトゲノムのデータベースを検索”して、そ
うしたタンパク質をコードする配列を探し出すものです。
この情報を利用すれば、実験室でタンパク質を作り出すことができるのです。こうやっ
て、合成した各タンパク質と、“自己免疫疾患”の患者の血液を混ぜ合わせるわけです。
そして、合成した各タンパク質と、“抗体”の複合体が形成されれば、“自己抗原タンパク
質”を、正確に特定できるわけです...」
「うーん...」千春が、首をかしげた。「ここで言う、タンパク質というのはさあ...“未知
の自己抗原”ということかしら?」
「そうです...
まあ、こうした方法も、あるということが分かれば、それで十分でしょう。ちなみに...
そうやってできた複合体を分析すれば、未知の“自己抗原”と“自己抗体”の両方を特定
できる可能性があります...」
「はい...」
「しかし、何といっても...全ゲノムから、“自己抗原”の遺伝子を探し出すというのは、非
常に骨の折れる仕事です」
「この方法も、進んでいるのかしら?」
「そうですね。ごく一部ですが、研究は進められているようです...
例えば...インスリンの分泌に関与することが分かっている膵臓のタンパク質を、数十
種類作りだし...糖尿病患者の血液中に存在する“自己抗体”が...これらと結合する
かどうかを調べているようです。つまり、“1型糖尿病”に関係する、新しい“自己抗原”を
探しているわけです...」
「あ...」千春が、頭に手を当てた。「“1型糖尿病”の“自己抗原”は...3つじゃなかっ
たかしら?」
「そうです、」外山が、ニッコリと顔を崩した。「よく覚えていました...
“1型糖尿病”で、すでに見つかっているのは3つです。“インスリン”と、“グルタミン酸
脱炭酸酵素/GAD”...それから、“膵島抗原2/IA−2”です。したがって、それ以外
の“自己抗原”を、この方法で探しているようです」
「はい...」
「ええ...
これらの、@ABの研究方法を組み合わせ、大規模な研究調査が進められていくの
だと思います。また同時に、予防医療や予測医療の方も、総合的に研究開発されて行く
のだと思います」
「はい」
<実用化の課題・・・・・>
「病気の治療は...」アンが、体を乗り出して言った。「今後は、対処的な診断治療から、
予防、予測対処へと、大幅に進歩して行くでしょう...
10年〜20年後には...少なくとも、一部の病気では、“自己抗体検査”が、標準的・
健康診断項目に入ることは、ほぼ確実と言われています」
「はい、」
「将来的には...
健康診断にやってきた人は、たった1つの検査で...血液中に複数の“予測・自己抗
体”が含まれているかどうかを、調べてもらえるようになるかも知れません。つまり、コレス
テロール値や、血糖値などと同じように、“予測・自己抗体”の項目が入ってくると言うわ
けですね...
もちろん、こうしたシステムの開発は、簡単なことではありません。それに、コストの問
題があります。自動化によって、迅速に、安価で、しかも信頼性の高いものでなければな
りません...
ええ、残念ながら...現在こうしたシステム開発に取り組んでいるのは...小規模な
ベンチャー企業が、数社程度という段階だそうです」
「でも、」千春が言った。「これから、本格化していくわけですよね、」
「そうです...
いずれは、大きな流れになって行くはずです。それから、どのような人を対象として、ど
れぐらいの頻度で検査するのか、というような問題もあります。
例えば...小児糖尿病の“1型糖尿病”の検査と...高齢者の女性に多い、関節リウ
マチの検査では、当然その対象も、検査の頻度も違ってくるわけですね...“予測・自己
抗体”が、発病のどのぐらい前に現れるかというものも、当然、問題になりますね...」
「はい...すべては、これからの研究開発にかかっているわけですね、」
「そうです...」
<倫理面の課題・・・・・>

「さて...」外山が言った。「。“予測・自己抗体”で...今後、複数の病気のリスクが、予
測可能になって来ました。これは遺伝子検査の場合と同じように、かなり深刻な倫理上
の問題が、生起してきます...
まず、“予測・自己抗体”が発見されたとして...その病気に対して、はたして治療法
が確立されているのか、という問題があります。病気を予測できたとしても、予防法や治
療方法を提供できなければ、患者にとっては意味のないものになってしまいます...
むしろ、病気を予測したことで、不安だけをあおる結果にもなってしまうわけですね。し
たがって、そうした場合は、“知りたくない”という人も出てくるでしょう。しかし、まあ...
そのために、新たな予防法や新たな治療法を、情熱をもって研究開発して行くことになる
わけです」
「うーん...治療法があるかどうかは、大問題ですよね、」
「そうですね...予防や治療のために、全てが動いているわけです。少しでも早い治療
は、それだけ効果を上げる場合が多いわけです...」
「はい、」
「それから...これは、別の問題になりますが...
“将来の発病リスクに関する医療データ”を...保険会社や、勤務先や、社会一般が
入手した場合は...何らかの、社会的差別を受ける可能性があるということです。何し
ろ、“将来的に、病気になる高いリスク”があるというわけです。これは、厄介な問題です」
「はい...」
「しかも...
“予測・自己抗体”の場合は、遺伝子診断よりも、“はるかに高い発病の可能性”を示し
ているわけです。その“抗体”が、すでに血液中にできているわけですからねえ...もっ
とも、その全てが発病するわけではありませんが...それがまた、難しい所です。
保険会社は、そうしたリスクは減らしたいわけですし、医療としては、全ての人を救済し
ていかなければなりません。新しいシステム作りが、必要になるでしょう。〔人間の巣〕の
ようなものが出来て、全てが保障された社会になれば、こうした心配はなくなるのかも知
れませんね、」
「あ、はい...」千春が、コクリとうなづいた。
「現在のように...
モラルハザードに陥っている社会状況では、悪意を持って使われる可能性もあります。
したがって、こうした医療データの取り扱いには、高い倫理観と、厳格な法整備が必要に
なってくると思われます」
「はい、」
「まあ、現在でも...医療データはそうした扱いになっているわけですが、将来的には、
大きな倫理問題になる可能性があります。したがって、この問題も、早い段階から議論を
深め、高い倫理観を持って、解決していかなければなりません」
「はい、そうですね、」
「ええ...」アンが、両手を擦り合わせた。「いいですか...
確かに、横道にそれたような心配はあります...でも、それは本筋ではありません。こ
うした医療データを、正しく扱いさえすれば、“自己免疫疾患”と闘う運命にある、膨大な
数の患者たちを救うことができるということです。
そのためにこそ、医学が進歩するのであり、多大な情熱を傾けて、研究開発に取り組
んでいるのですわ...社会的差別を作り出すために、医学が進歩して行くのではありま
せん」
「その通りです...」外山が言った。「しかし、遺伝子診断が問題になった時と同じよう
に、この問題がまた持ち上がってくるわけです...私はいっそのこと、〔人間の巣〕の展
開で、社会福祉そのものも大きく変わってくることを期待したいですね、」
「そうですね...」アンが、口に手を当てた。「ええ、ポンちゃん...ボードをスクロールし
てください、」
「おう!」ポン助が、スクリーン・ボードをスクロールさせた。
「ええと...一番最後の画像です」アンが、顎に手を当てながらボードを眺めた。「あ、は
い...そこでいいですね...
ええ...ここに、“予測・自己抗体”を広く活用するための、今後の課題をまとめておき
ました。読み上げてみます...
倫理と実用面の課題
予防療法や、治療法のない病気であっても、検査すべきなのか...
検査結果が“陽性”であれば、間違いなく発病ということではなく...病気
にかかる一定の可能性を示しているのだということを...患者に確実に理
解してもらうには、どのような方法が最善か...
患者に、不必要な心配をさせたり、間違って安心させたりすることがないよ
うに...検査結果が“擬陽性”または“擬陰性”になる危険を、最小限に抑え
るには、どうすればよいか...
病気になる可能性があることが分かり、早期治療を受ければ、恩恵に浴
することができる患者数は...その検査を、定期検診に組み込んだ場合に
要する費用に、見合った価値があるのか...(費用対効果の問題)
遺伝性の“自己免疫疾患”の場合、患者の家族は検査を受けるべきかどう
か...リスクが高いことを示す、検査結果に対する心配を抱えて生きていく
方が、そのことを知らないということに対する不安に耐えるよりも、たやすい
ことかどうか...
検査結果が“陽性”だった場合、勤務先、保険会社、社会一般から、社会
的差別を受けることにはならないか...この倫理的的な課題を、どのように
解決するか...
...ええ...このようなものですね...」アンが、スクリーン・ボードから目をそらし
ながら言った。
「はい、」千春が、うなづいた。
「医療が...受身の対処医療から、予防・予測医療にシフトいて行くに当たっては、避け
ては通れない課題ですわ...ともかく、医療データの管理は、これまで以上に、高い倫
理性が求められます。
また、“病気の可能性”から来る社会的差別は、社会的コンセンサスにおいて、一掃し
ておくことが必要だと思います。法整備の面でも、慣習法の面でもです...
怪我や交通事故や、感染症などと同様に、一般的なリスクの中に、組み込むのも一考
かも知れません。結果としてみれば、同等なのかも知れません...」
「はい、」千春が言った。「他にも、病気や怪我の可能性なんて、いくらでもありますよね」
「そうです。この可能性だけが、差別の対象にならないようにすることが大事です...
私たちは、様々な弱者を保護し、共に歩んでいくために、文明社会を形成しているので
す。医療は、弱者に陥った時に、それを救うためにあるのです。病気の可能性があるとい
うことで、社会的差別が生まれるようでは、何にもなりませんわ。そんなことは、弱肉強食
の、食物連鎖の中での話です。
日本社会が、モラルハザード社会になってきている現状で、あえてこのことを強調して
おきたいと思います。病気は、誰にでも起こりうることですから...」
「うーむ...」外山が、腕組みをした。「そうですねえ...
しかし、医療全般も...市場原理、経済原理で流れているのも事実なのです。エイズ
の新薬が、肝心の発展途上国の貧しい人々に届かないというのは、人類文明の皮肉と
いうべきでしょう。
先進国が、グローバル化を推進し、エイズを蔓延させたのは、まぎれもない事実です。
そして、その経済の恩恵を受けていない、発展途上国の貧しい人々に、エイズ被害が集
中しているわけです...
しかし、エイズの新薬を開発するには、膨大な資金がかかるというわけです...こうし
た矛盾の矛盾を克服は、現代文明の大きな試練でしょう。医療は、経済原理で動いて行
くと同時に、“大きな倫理の流れ”があることを、再確認したいと思います...
あの、ナイチンゲールが、クリミア戦争(1854〜1856年)の時に始めた、“クリミアの天使/
白衣の天使”の精神です。今では、“国境なき医師団”などによって引き継がれています
が...」
「そうですね、」アンが、うなづいた。「それと同時に、これは社会構造的な課題だと思いま
す...今は、社会が、そして世界構造が、大きく流動化しています。そうした中で、考え
て行くべき問題かも知れませんね...」
「このホームページでは...」千春が言った。「“文明の折り返し”を提唱してますね...
やっぱり、それと関係して来るのかしら?」
「そうです...」アンが、ゆっくりとうなづいた。「最終的な問題解決には、“文明の折り返
し”が必要かもしれません...今後、あらゆる問題は、その坩堝(るつぼ)の中に流れ込ん
でいくことになりますわ...」
「はい...」
「ええ、千春さん...このページは、これぐらいにしておきましょうか、」
「あ、はい...」千春が、頭を下げた。「ええ、ありがとうございました。私の初めての仕事
でしたが、うまくできたでしょうか?」
「ええ、」アンが、やさしく微笑し、うなづいた。「しっかりとできました」
「はい!
ええ...《病気の予測/自己抗体》は、これで終わります。どうぞ、今後の展開にご
期待下さい」
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