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         響子の・・・ 小倉百人一首  

        < 81 ~ 100 >   (2016年/1月30日~8月15日)
 

  

             

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【81番→

      後徳大寺左大臣
】
 ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる
【82番 → 道因法師】  思ひわび さても命は あるものを 憂(う)きにたへぬは 涙なりけり
【83番→

   皇太后宮大夫俊成】
 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
【84番→藤原清輔朝臣】  ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂(う)しと見し世ぞ いまは恋しき
【85番 → 俊恵法師】  夜もすがら もの思ふころは 明けやらで 閨(ねや)のひまさへ つれなかりけり
【86番 → 西行法師】  なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
【87番 → 寂蓮法師】  むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ
【88番→皇嘉門院別当】  難波江(なにわえ)の 芦(あし)のかりねの ひとよゆゑ(え)

                    みをつくしてや 恋ひわたるべき
【89番 → 式子内親王】  玉の緒(お)よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
【90番→殷富門院大輔】  見せばやな 雄島(をしま)のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず
【91番→

後京極摂政前太政大臣】
 きりぎりす なくや霜夜の さむしろに 衣かたしき 独りかも寝む
【92番 → 二条院讃岐】  わが袖は 潮干(しおひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾(かわ)くまもなし
【93番 → 鎌倉右大臣】  世の中は 常にもがもな 渚(なぎさ)こぐ あまの小舟の 綱手(つなで)かなしも
【94番 → 参議雅経】  み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり
【95番→前大僧正慈円】  おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に すみぞめの袖(そで)
【96番→

 入道前太政大臣】
 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
【97番→権中納言定家】  来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ
【98番 → 従二位家隆】  風そよぐ ならの小川の 夕暮は みそぎぞ夏の しるしなりける
【99番 → 後鳥羽院】

 人もをし(愛し) 人もうらめし(恨めし) あぢきなく 

                  世を思ふゆゑ(え)に 物思ふ身は

【100番 → 順徳院】  ももしき(百磯城)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
【★ 小倉百人一首

  ・・・成立の由来】
 

 

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 1月31日

岡田健吉‏@zu5kokd1後徳大寺左大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(779)


【81番 → 後徳大寺左大臣】(ご・とくだいじ・さねさだ/徳大寺実定は、平安時代末期~鎌倉時代初期

                          にかけての公卿・歌人。右大臣・徳大寺公能の長男。官位は正二位・左大

                          臣。祖父/実能が大徳寺左大臣と呼ばれたので、実定を後徳大寺左大臣

                          と呼んで区別しています。

                          詩歌管絃に優れ、教養豊かな文化人だったと伝わります。『古今著聞集』(

                          ここんちょもんじゅう/鎌倉時代中期の説話集。橘成季 (たちばなの・なりす

                          え) 著。 20巻。)に<風月の才人にすぐれ>と記されるように、漢詩を能

                          くしましたが、特に和歌の才能に優れていました。)


★ ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる



  < 天空で…

        ホトトギスが一声鳴いて行く…

             その方を眺めやれば…

           ホトトギスの姿は見えず….

                 ただ有明の月が、薄く儚(はかな)くあるばかり…>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1後徳大寺左大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(780)


「この歌は…『千載集/夏』(せんざいしゅう/『千載和歌集』は、平安時代末に編纂された勅撰和歌集。全

20巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に撰集され、勅撰和歌集の第7番目に当たります。)に…

<詞書 : 暁聞郭公(あかつきにホトトギスをきく)といへる心を詠み侍りける 右大臣>

…として載っています。

後徳大寺左大臣とは…藤原実定(ふじわらの・さねさだ)のことです。祖父/実能(さねよし)が

大徳寺左大臣と呼ばれていたので、実定を後・徳大寺左大臣と呼んで区別しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1後徳大寺左大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(781)


左大臣なのに…詞書(ことばがき)では右大臣となっていますよね。実定は53歳で亡くな

っていますので、この歌を詠んだ時は右大臣であり、50歳前後と言われています。

<保元・平治の乱>(<保元の乱>(保元元年/1156年)と、<平治の乱>/(平治元年1160年))が

あったのは、実定が20歳前後の時です。

やがて…平氏が興り…<平氏と・・・平清盛が奢(おご)る世>となります。



 2月 1日

岡田健吉‏@zu5kokd1後徳大寺左大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(782)


<清盛一門(きよもりいちもん)が奢(おご)る世>では…古い家柄の貴族は、誇りだけを抱き、

不遇だったと言います。

古来、公卿(くぎょう、くげ/・・・公 (こう=大臣)と、卿 (けい=大納言・中納言・参議・三位以上の官人)との称。広く、

殿上人)の常で…実定(さねさだ)も権勢には敏感で、官位昇進の野心も人並みに持っていま

したが、柔和な性格で、敵を作っていません。彼は文化人として自分を売り出そうとして

いた様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1後徳大寺左大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(783)


実定は…藤原俊成の甥(おい)、藤原定家の従兄弟(いとこ)と言います。また、祖父/実能

(さねよし)に、かつて西行法師(/俗世時代は、鳥羽院の北面武士でした。)も仕えていて、歌人として

のつきあいもあります。

そして、社交界では…実定は朗詠上手・管弦上手で…歌も激情を詠む歌人というより、

品の良い文化人の香りを漂わせていました。

(★ 北面武士(ほくめんの・ぶし)/院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛し、御幸に供奉した武

士のこと。11世紀末に白河法皇が創設しました。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員されました。)



 2月 2日

岡田健吉‏@zu5kokd1後徳大寺左大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(784)


平安時代末期/治承4年(1180年)…平清盛により福原遷都(/現在の兵庫県神戸市兵庫区の地

・・・都造りは途中で頓挫し、半年で平安京に還都。)が行われます。幼帝/安徳天皇(あんとくてんのう/第

81代天皇。高倉天皇の第1皇子。母は平清盛の娘/建礼門院徳子。2歳で即位。源平の戦いで西国に逃げ、壇ノ浦で

平家一族とともに入水。 )、後白河法皇(/第77代天皇)、高倉上皇(/第80代天皇)をはじめ、全宮廷

人がそれに従います。

実定も従いましたが…歌人/文化人として…是非、<中秋の名月を京で見たい>と

思い、清盛に願い出て、京に向かいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                    

                                                           徳大寺実定/『前賢故実』より・・・菊池容斎   パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(785)


主(あるじ)/帝(みかど)の去った京は…早くも寂れ、荒れ始めていました。

実定が訪れたのは、近衛河原の大宮御所(/皇太后(大宮)の女院御所)…

ここには実定の異母妹/大宮多子(おおみやの・たし)が住んでいられました。徳大寺家とい

えば美貌の待賢門院が頭に浮かびますが、多子も美貌であり、近衛(/第76代天皇)・二条

(第78代天皇)の<2代の后>となられたお方です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                    

                                                           徳大寺実定/『前賢故実』より・・・菊池容斎   パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(786)


でも…それもふた昔も前のことです。

彼女も40歳を越えていたと思われます。両帝に先立たれ、残された彼女は淋しい境遇

でしたが、彼女には風流を解する女房たちが仕えていました。

そんな所に、実定が到着して、言います…

「京の月が見たくて、福原より参りました」



 2月 3日

岡田健吉‏@zu5kokd1                

                   大宮御所/現在は天皇や東宮が入洛された際に宿泊されます。 (ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(787)


大宮は懐かしみ…しみじみと世の流れと、これからの行く末を物語られます。そして、折

しも、有明の月(ありあけのつき/陰暦16日以後、夜が明けかけても空に残っている月。)が昇ってきます。

実定は、即興の今様(いまよう/平安時代中期から鎌倉時代にかけて流行した歌謡)を歌いました…


  古き都にきてみれば・・・

     浅茅(あさじ)が原とぞ荒れにける・・・

          月の光は隈(くま)なくて・・・

              秋風のみぞ身にはしむ・・・

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                

                       木曽義仲像/長野県木曾郡木曽町  徳音寺所蔵  (パブリック・ドメイン)   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(788)


風流を解する…大宮も女房たちも、感動し涙を流します。荒れ行く京も、なお愛おしく、

愛惜(あいせき)の情が深まります。

やがて…

奢(おご)る平氏の命運も尽き…西海へ落ちて行き…壇ノ浦(だんのうら/山口県下関市周辺の海

域)の海に沈みます。

都も京にもどり…平氏の代わりに、木曽義仲(きその・よしなか/源義仲/源頼朝・義経の従兄弟)が

権勢を振るいます。

(★ 壇の浦の戦い・・・第81/安徳天皇が、「どこへ行くのか?」と聞くと、二位尼(にいのあま/従二位・平時子/安徳

天皇の母である建礼門院の母)は、「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます…」と答えて、安徳天皇とと

もに海に身を投じました。安徳天皇の母/徳子/建礼門院も入水しますが助けられ、罪は問われず、洛東の吉田の地に

隠棲し出家します。それから、比叡山の北西の麓の大原寂光院に入ったと言われます。)

   
          『安徳天皇縁起絵図』 赤間神宮所蔵         (パブリック・ドメイン/著作権フリー)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1               

                              大宮御所/ふだんは入ることが制限されています。 (ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(789)


その木曽義仲も…源義経(みなもとの・よしつね)に追われ…義経もまた兄/頼朝(よりとも/鎌倉

幕府を開きます。)に追われ…静御前(しずかごぜん/源義経の愛妾)と別れて安宅の関(あたかのせき/

石川県小松市/歌舞伎の『勧進帳』(かんじんちょう)で有名)へ向かいます。

義経一行は日本海側を北上し、奥州平泉に入るわけですね。(/・・・芭蕉の『奥の細道』とは逆

コースになります。)

一方…西行法師は、鶴岡八幡宮で偶然に頼朝と出会いますが…東大寺の勧進(かんじん

/東大寺再建のため、奥州・藤原氏に寄付を要請に行く旅)で、戦前夜の平泉に入ります。



 2月 4日

岡田健吉‏@zu5kokd1   

                     毛越寺 一山白王院 所蔵の「三衡画像」より、藤原秀衡の法体像 /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(790)


奥州平泉/藤原秀衡(ふじわらの・ひでひら/奥州藤原氏第3代の、3代目の当主・・・<武家の世>となり、奥

州が独立していることが難しい時代になります。)は…天下の武将/義経を得たわけですが、にわか

に亡くなります。

後を継いだ4代目/泰衡(やすひら)は、父の遺言を翻(ひるがえ)し、頼朝に籠絡(ろうらく/他人

をうまくまるめこんで、自分の思う通りにあやつること)されます。配下の数百騎で、義経の起居してい

た衣川館を襲撃(/義経・弁慶主従も、相手が味方の軍では、反撃も鈍り、弁慶は矢襖(やぶすま)となります。)

し、義経を自殺に追い込みます。

しかし頼朝は…義経の首を差し出されても、奥州/独立国を放置するはずもなく、出兵

します。義経なき奥州17万騎(誇張と、寄せ集めではあっても、相当の軍事力です。)は、あっさりと頼

朝の軍門に下ります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              

                                                        後白河法皇像 (宮内庁蔵 『天子摂関御影』 より) /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(791)


うーん…

こうした…<武家の世の・・・変遷>を…天皇や宮廷貴族は、息を殺して眺め、耐えて

いたわけですね。その中に、内大臣に昇進した実定もいました。

後白河法皇(/第77代天皇)が…大原(おおはら/京都市左京区北東部の・・・比叡山西麓/高野川上流部に

位置する、小規模盆地)へ、落飾された建礼門院(けんれいもんいん/壇ノ浦で命を救われた、安徳天皇の母)

を訪ねられたのは、文治2年の春のことです。そこに、48歳になる実定も付き従ってい

ました。



 2月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1              

                                                                            大原寂光院  建礼門院徳子像  /ネットより画像借用  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(792)


安徳天皇と一緒に入水(じゅすい/水中に身投げして自殺すること。<壇の浦の戦い> は1185年4月25日)

し、1人救われた建礼門院は、尼姿とならています。

騒乱の最中でお別れした時から1年…法皇と実定自身も、身の周りを含めて、世の変

転は果てしがありません。

折りしも…ホトトギス(/渡り鳥で、日本では5月中旬頃に来る)が鳴いて、天空を過(よ)ぎり…建礼

門院が1首詠まれます…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                     

                                                                大原寂光院   /ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(793)


★ いざさらば 涙くらべむ ほととぎす われも憂き世に 音をのみぞなく


実定は、歌を庵室の柱に書きつけます。実定の『小倉百人一首』の歌…



★ ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる



…は、詞書(ことばがき)に

<暁聞郭公(あかつきにホトトギスを聞く)といへる心を詠み侍りける 右大臣>…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                     

                                                           徳大寺実定/『前賢故実』より・・・菊池容斎   /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(794)


…というものですから、この時の情景を詠んだものですね。

以後…鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と<武士の世>が続き…王政復古が確立す

る明治まで…700年近くかかります。

そして、明治・大正・昭和と続き…前の戦争で大敗北し…〔戦争放棄を世界に宣言し

て・・・平和憲法を持つ国〕として…再び大変貌しました…」



 2月 6日

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(795)


【82番 → 道因法師】(どういんほうし/藤原 敦頼(ふじわらの・あつより)・・・平安時代後期の歌人。藤原北家

                   高藤流、正三位・藤原惟憲の曾孫。治部丞・藤原清孝の子。官位は従五位上・右馬助。

                   承安2年(1172年)に出家して道因と称しました。

                   永暦年間から治承年間(1160年 - 1181年/19年間)に開催された主要な歌合せ

                   に参加・出詠。自らも<住吉社歌合> <広田社歌合>などの社頭歌合を主催していま

                   す。『千載和歌集』に20首採られているのをはじめ、勅撰和歌集に41首が入集していま

                   す。)


★ 思ひわび さても命は あるものを 憂(う)きにたへぬは 涙なりけり



  < つれなき人のことを…

       思い嘆きながら…

            絶えてしまうかと思った命は…

                 まだあるというのに…

               辛さに絶えきれず…

                     流れてくるのは涙 ばかり…>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(796)


「この歌は…『千載集/恋』に…<題知らず>として載っています。

この歌も、文化基盤の違う現代人が読むと、どうにもピンとこない歌だと言われていま

すよね。

でも、定家は…『百人秀歌』にも載せていますし、『小倉百人一首』にも採っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(797)


道因法師は…藤原敦頼(ふじわらの・あつより)のことで、12世紀後半の人です。90歳を超

える長寿だったと言われます。歌道に非常に熱心な人として有名で、様々な逸話があ

る様ですね。

7、80歳になるまで…<私にどうぞ秀歌を詠ませてください>と、大阪の住吉大社

(歌の神様と信仰されていた)に徒歩で月詣(つきもうで)をしていたと言います。



 2月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(798)


ともかく…歌道に関しては異常な熱心さでした。ある歌合で、判者/藤原清輔(ふじわら

の・きよすけ/次の次、【84番 → 藤原清輔朝臣】)が道因の歌を負けと判じると、判者の元まで行

き、涙を流して恨んだといいます。

年をとっても…歌道へ執着は益々深く、90歳になり耳が遠くなっても、講師(こうじ)そばま

で分け入って行き、耳をそばだてて聞いた、と言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(799)


一方で…

道因は負けん気が強く、ケチンボでもあったと言われています。花道に偏屈なほどの

執着を持ち、生来の吝嗇家(せいらいの・りんしょくか/吝嗇とは、極度に物惜しみすること。つまり、生まれ

ながらのケチンボ)で、長生き…と言えば、何となくその人物像が浮かび上がってくる様です

ね。

決して悪い人ではないけれど…1人外れている様な…つまり、変人/偏屈な人物…?



 2月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(800)


うーん…

出家前の若い頃の道因法師/藤原敦頼(ふじわらの・あつより)は、崇徳帝(/崇徳院の帝位時

代)に仕える従五位下の右馬助(うまのすけ/右馬寮 (うめりょう) の次官・・・大宝律令で左馬寮・右馬寮が

設置され、諸国の牧から貢上された朝廷保有の馬の飼育・調教にあたった。)でしたが、その時にもこんな

逸話(いつわ/エピソード)があります。

敦頼は…部下の馬飼(うまかい)たちに、慣例で与えるべきものを与えず、恨まれました。

それで、斎宮(/伊勢斎宮・・・未婚の内親王または女王(皇族の子女)が務めました)の行列を采配する、

晴れ舞台の日…痛烈なしっぺ返しを受けます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(801)


…見物も多い一条大宮(/都市上京区大宮通一条)あたりに、行列がさしかかると…

思いがけず…馬飼たちが、バラバラと行列の所に現れ出てきて…言います…

「お手当ては、何時くれるんだ?」

「そのうち、そのうちと、言い逃れてばかりじゃないか!」

「代わりに、着ている物をいただこうじゃないか!」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(802)


…馬飼たちは口々に罵(ののし)り、果ては彼の衣冠(いかん/衣服と冠(かんむり)。束帯(そくたい/

天皇および文武百官が、朝廷の公事の際に着た、正式の服装)に次ぐもので、公家が朝廷に参入するときに着る、略

儀の衣服。)から、くつした、下帯まで剥(は)ぎ取ったので、ついにたまらず、赤裸(あかはだ

か/すっぱだか)で逃げ出したと言います。

見物人は大笑いし…以来、敦頼には、<はだし馬の助>という仇名(あだな)がついた

と言います。

うーん…でも…何処まで反省したのでしょうか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(803)


生来の吝嗇家(りんしょくか/ケチンボ)であってみれば…存外、反省はしなかったのかも知

れません。それは恥としてアッサリと計上し、歌道に没頭していたのでしょうか?

ほほ…やっぱり変人ですね。でも、ケチンボゆえに、歌道に異常に執着し、90歳を超

える生涯とは…拍手ですよね。



 2月10日

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(804)


うーん…

道因法師が出家したのは、83~84歳以後になるのでしょうか?そして、歌壇で活躍

したのも、その前後の晩年の様ですね。

ともかく…道因法師の他の歌を、『千載集』から見てみましょうか…


★ 花ゆえに しらぬ山路
(やまじ)は なけれども まどふは春の 心なりけり

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(805)


★ 夕まぐれ さてもや秋は 悲しきと 鹿の音(ね)きかぬ 人にとはばや


  < ほの暗い夕方…

          鹿の哀れ深い鳴き声が、聞こえてくる…

                この鹿の声を聞いていない人に、問うてみたい…

                      それでもやはり、秋は悲しいものかと… >



 2月11日

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  道因法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(806)


道因の死後…

定家の父/藤原俊成(ふじわらの・としなり、しゅんぜい)によって、『千載集』が編纂(へんさん/・・・

後白河院より、俊成に撰集の院宣が伝達された。撰者は俊成ただ1人で、定家が助手をつとめた。)されます。

俊成(しゅんぜい)は、道因が歌道にかけた情熱を酌(く)み、18首を採ります。すると、俊

成の夢枕に道因が現れ…涙を流して礼を言ったそうです。それで俊成は哀れに思い、

もう2首を追加し、20首にしたそうです。愛されていて…名を残したわけですね…」



 2月18日

岡田健吉‏@zu5kokd1  wpe75.jpg (13885 バイト) 皇太后宮大夫俊成

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(807)


【83番 → 皇太后宮大夫俊成】(こうたいごうぐうの・だいぶ・しゅんぜい/藤原俊成(ふじわらの・としなり、

                   しゅんぜい)

                   平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊

                   忠の子。

                   はじめ・・・葉室家(はむろけ/名家の家格を有する公家。藤原北家勧修寺流の支流・・・

                   分家に姉小路家などがある)に養子に入り、藤原(葉室/はむろ) 顕広(あきひろ)を名

                   乗った。後に、実家の御子左家に戻り改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太

                   后宮大夫。

                   早くから・・・歌人としての活動を始め、藤原基俊に師事。佐藤義清(西行法師)の出家に

                   影響され、自身も一時その願望を持った。平安末期の無常観を反映しつつ、『万葉集』

                   『古今集』の伝統を踏まえた抒情性の豊かな歌風を確立。新奇性を重視した六条流の歌

                   風と当時の歌壇を2分した。和歌所寄人をつとめ、後白河院の院宣で単独で『千載集』

                   を編纂した。藤原定家の父親・・・)


★ 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる



  < この世には…

         悲しみや辛さを、逃れる方法はないものだ…

              思いつめ、分け入った山の中さえ…

                   哀しげに鳴く、鹿の声が聞こえてくるよ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  wpe75.jpg (13885 バイト) 皇太后宮大夫俊成

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(808)


「この歌は…『千載集-巻17/雑』に…

<述懐の百首歌よみ侍(はべ)りける時、鹿の歌とてよめる>…として載っています。

皇太后宮大夫俊成と…『小倉百人一首』ではなっていますが、藤原定家の父/藤原俊

成のことですね。

『小倉百人一首』の編者/藤原定家の、ナマの視界の時代になります。



 2月19日

岡田健吉‏@zu5kokd1  wpe75.jpg (13885 バイト) 皇太后宮大夫俊成

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(809)


俊成
(しゅんぜい)が…この歌を詠んだのは、まだ顕広(あきひろ) と名のっていた27歳頃と

言います。壮年時代ですが、ずいぶんと年寄り臭い、厭世的(えんせいてき/人生に悲観し、生

きているのがいやになっているさま)な歌ですね。

でも、これは、平安時代末期の時代的風潮の様です。その年、23歳だった北面武士

(ほくめんの・ぶし/院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこ

と。11世紀末に白河法皇が創設しました。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員されました。)/佐

藤義清(さとう・のりきよ)/西行法師が出家しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  wpe75.jpg (13885 バイト) 皇太后宮大夫俊成

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(810)


俊成は…年下の円位(えんい/出家した時の法号)/西行に影響を受けた様ですね。いずれ

にしても、狭い王朝社会です。でも結局、俊成は出家せず、藤原基俊(ふじわらの・もととし/

【85番 → 藤原基俊】/・・・我が子の光覚僧都(こうかくそうず)を<維摩会の講師>にと願い、法性寺入道・藤原忠

通に、<しめじが原>だよ、と言われた人物。)に師事し、歌道を極めたわけです。

<世の中よ 道こそなけれ・・・>は、出家・遁世(とんせい/世間をのがれ去り、俗事とのかかわ

りを絶つこと)の道の意味ですが、政権批判ととる人も現れた様ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  wpe75.jpg (13885 バイト) 皇太后宮大夫俊成

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(811)


俊成は、後白河法皇の院宣(いんぜん/上皇または法皇が出した宣旨(せんじ)・・・院司が上皇や法皇の意

志を奉じて出す奉書。宇多法皇に始り、院政の発展とともに次第に重要性を増した。一般政務のほかに、私的な面にも

使われました。)を受け…『千載集』を編纂(へんさん)します。

その折…自分の若い頃のこの歌を採りたいと思いますが、政治風刺の批判があり、た

めらいました。でも、どう手を回したのか…特に勅命(ちょくめい/天皇の命令)があり、入選し

た様です。うーん…時代の空気感が、漂いますよね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                            藤原俊成 (菊池容斎・画 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(812)


『小倉百人一首』に…

藤原定家は…父/俊成の歌として、若い時のこの自信作を採りましたが、俊成自身

が代表作としていたのは、次の歌の様ですね…


★ 夕されば 野辺の秋風 身にしみて 鶉
(うずら)鳴くなり 深草の里



これも…『千載集』を代表する、俊成の名作です。

 


 2月22日

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                            藤原俊成 (菊池容斎・画 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(813)


俊成(しゅんぜい)は…永久2年/1114年に生まれ、元久元年/1204年に、91歳で没

しています。何度も触れていますが、『小倉百人一首』の編者/藤原定家の父親です。

また、平安王朝末期の歌壇の、大御所です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                            藤原俊成 (菊池容斎・画 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(814)


俊成は…<幽玄体>の歌風をうち立て、息子/定家、寂蓮法師(じゃくれん・ほうし/【87番

→寂蓮法師】)、九条良経(くじょう・よしつね/【91番→後京極摂政前太政大臣】)、式子内親王(しきし・

ないしんのう/【89番→式子内親王】)という…新古今調の旗手たちを育成指導しました。

そして、俊成の師は…法性寺入道(ほっしょう・じにゅうどう/【76番→法性寺入道前関白太政大臣】.)

に、<しめじが原>だよと言われた、あの藤原基俊(ふじわらの・もととし/【75番→藤原基俊】)

であり…その基俊のライバルが、源俊頼(みなもとの・としより/【74番→源俊頼朝臣】)ですよね

…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                            藤原俊成 (菊池容斎・画 明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(815)


そういう時代(/平安王朝末期の歌壇の風景・・・人々の風景)ですから…

俊成は、源俊頼にも私淑(ししゅく/尊敬する人に直接には教えが受けられないが、その人を模範として慕い、

学ぶこと。)していました。俊成自身はこう言っています…

<私は歌をお慕いしているのだ。人柄や派閥によらない>

人々は俊成の心の公平さを貴(とうと)しとした、と言います。

でも、あえて、そんなことを、ゴチャゴチャと言い伝えられるのは…基俊の偏屈さの度合

(/人を批判する時は容赦なく、口を開けばライバルの俊頼の悪口雑言・・・歌合の判者としても煙たがられ・・・あげく、

右大臣俊家の息子で、有名歌人でしたが・・・人望がなく、生涯栄達せずに・・・微官に終わっています。)が…窺(うか

が)えますよね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原俊成                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(816)


ところで…

俊成の<幽玄体>(ゆうげんたい)の歌風というのは…人生と自然の渾然融合(こんぜんゆう

ごう)した詩境(しきょう/詩に歌われた境地)と言われます。つまり…

<和歌は短い詩形だから、人にタカをくくられやすいが、深く入り込むと、その道

は限りなく、どんな世界をも深く広く表現できる>…と、『古来風体抄』(こらいふうていしょ

う/鎌倉時代初期に成立した歌学書・・・式子内親王が、藤原俊成に依頼して執筆されたもの、とされます。)で、言っ

ています。



 2月25日

岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原俊成                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(817)


公平・廉直(れんちょく/心が清らかで私欲がなく、正直なこと)、<幽玄体>を体現する俊成の人柄

は…人々の信頼も厚く、よく歌合の判者にもなっています。師/基俊の偏屈とは好対

照です。歌壇の重鎮/大御所とは、そう言うものですよね。

俊成は…定家ほどは絢爛(けんらん/目がくらむほど、きらびやかで美しいさま)ではないという事で

すが、うーん…そうなのでしょうか。未熟者で、申し訳ありません…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原俊成                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(818)


ええと…俊成の歌を、3首並べて置きます…


★ またや見む 交野(かたの)のみ野の 桜狩(さくらがり) 花の雪散る 春のあけぼの



★ 住みわびて 身をかくすべき 山里に あまりくまなき 夜半(よわ)の月かな



★ 須磨の関 有明の空に 鳴く千鳥 かたぶく月は 汝(なれ)もかなしも


岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原俊成                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(819)


俊成の逸話は多いのですが、有名なのは、『平家物語-巻7/平忠度(たいらの・ただのり)』

の話ですね。

平家一門が、都落ちする際…薩摩守忠度(さつまのかみ・ただのり)は侍(さむらい)5騎を連れ、

俊成の邸(やしき)の門を叩(たた)きます。俊成は70歳/出家し釈阿(しゃくあ)と号していま

した。忠度は、俊成の編纂する勅撰集に自分の歌を託します…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原俊成                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(820)


忠度(ただのり)が言います…

「生涯の面目に、1首の御恩をかうむり候(そうら)はばや!」

やがて…平家は滅亡、忠度も戦死します。

俊成は…『千載集』(/後白河院より、俊成に撰集の院宣が伝達され・・・撰者は俊成1人。ただし、その息子の

定家も編纂の助手を務めた。)に忠度の歌を入れようと思うのですが…<勅勘(ちょっかん/勅命に

よる勘当)の人>であり、名を出すのは、はばかられ…<詠み人知らず>として入れま

した。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原俊成                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(821)


それが、次の歌です…


★ さざなみや 志賀(しが)の都は 荒れにしを 昔ながらの 山ざくらかな

   (/<志賀の都>は、天智天皇時代の琵琶湖の畔の古い都。<昔ながら>の、<ながら…長等山>の中腹の桜

    が丘に、歌碑が建っています。長等山は逢坂山(/滋賀県大津市の西部に位置する標高325 mの山)に続く山

    地の中腹にあり、古来、桜の名所として有名です。)


もう1つ、逸話を紹介します… 

俊成は…あるお堂の扉を開けてもらおうと、その管理人に頼みます。しかし、何処へい

ったのか、その鍵(かぎ)が見つからない、と言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                                            

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(822)


「★ かぎあづかるも しやうの大事や・・・」

…と、俊成が呟(つぶや)きます。

<しやう>は<錠/じょう>と、<今生/こんじょう>と掛り…<鍵あづかる>に

繋(つな)がります。さすがは、歌壇の大御所…呟きも掛詞(かけことば/1つの言葉に2つ以上の

意味を持たせたもの)になって、繋がっています。

すると…そばに居た、ごく普通の女が…受けて詠みます。

「★ あけくれは させることなき 物ゆゑ(え)に・・・」

<させる/さす>は<鍵をさす>で、錠(じょう)の縁語です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                                    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(823)


<させる/さす>は…ふだんは、<さして・・・用がないもの>ですから…ですね。

まさに…俊成の微笑が、今も漂って来る…ようですね。

古書に曰(いわ)く…戯(たわむ)れにも、俊成のごとき大御所の呟きに、大胆にも歌を付け

たものだ…

<肝(きも)太くぞ付けける。女は尚(なほ)おそろしきものなり>…とか…ほほ…」



 2月26日

 岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原清輔朝臣                                 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(824)


【84番 → 藤原清輔朝臣】
(ふじわらの・きよすけ・あそん/平安時代末期の公家・歌人。藤原北家魚名流。

                        左京大夫・藤原顕輔の次男。官位は正四位下・太皇太后宮大進。

                        二条天皇に重用され、『続詞花和歌集』を撰したが、奏覧前に天皇が崩御し勅撰

                        和歌集とはならなかった。久寿2年(1155年)、父から人麻呂影供(ひとまろえい

                        ぐ/歌聖・柿本人麻呂を祭ったもの。六条家においては歌道継承のシンボル)を

                        伝授され、六条藤家を継ぐ。御子左家の藤原俊成に対抗した。)


★ ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂(う)しと見し世ぞ いまは恋しき


  < この先長く生きていれば…

        辛い今この時も…

             懐かしく思い出されるだろうか…

          辛く苦しかった昔の日々も…

                 今は、恋しく思い出されるのだから… >


岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原清輔朝臣                                  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(825)


「この歌は…『新古今集-巻18/雑』に…<題知らず>として載っています。

清輔の家集(/『清輔朝臣集』)には…

<いにしへ思ひ出でられけるころ、三条大納言いまだ中将にておはしける時つか

はしける>

…とあります。<三条大納言>(/藤原公実)が正しければ、清輔が55~62歳頃の歌

と言います。



 2月27日

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原清輔朝臣                                  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(826)


藤原清輔(きよすけ)は…

平安王朝末期の有名歌人…俊成(しゅんぜい)よりは11歳年上…歌壇の長老でした。清

輔の父/顕輔(あきすけ)/【79番 → 左京大夫顕輔】で…その父/顕季(あきすえ)も歌

人で六条烏丸(ろくじょう・からすま)に邸があり、六条藤家(ろくじょう・とうけ)/人麿影供(ひとまろ・

えいく/歌聖・柿本人麻呂を祭る儀式)歌会の創始者です。いわゆる俊成・定家の御子左家(みこ

ひだりけ)のライバルですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原清輔朝臣                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(827)


清輔は『万葉集』を尊重し…義弟の顕昭(けんしょう)と共に<六条家歌学>を確立しま

す。人麿影供をした顕季が歌道の家柄をいきなり創ったのではなく…清輔の代で確立

した様です。

後に…俊成や寂蓮(じゃくれん)の<御子左家/御子左流>と対抗し…時の流れで圧迫

を受けた…という事でしょうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原清輔朝臣                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(828)


でも…清輔は父/顕輔との不和は顕著でした…

顕輔が…崇徳院に命ぜられ『詞花集』を編纂した折に、清輔は補助を務めますが…対

立し、清輔の歌は1首も採られていません。

その後も…父に疎(うと)まれ、昇進の支援も得られず、40歳代後半まで従五位に留ま

りました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原清輔朝臣                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(829)


後に…

第78代/二条天皇には重用され、清輔は『続詞花集』()しょくしかしゅう)を撰進(せんしん/詩

歌・書物を編集して天皇などに奉ること)することになりますが…完成前に二条帝は崩御されます。

清輔は…父に疎まれ、ここでもまた、勅撰集の栄光はなく、挫折します。

でも、彼の生きた時代は<保元・平治の乱>(1156年の保元の乱と、1160年の平治の乱)があ

り、世の中全体が騒然として行くわけですね。


(★ 平治の乱(へいじのらん)・・・

平安時代末期の平治元年(1160年)、院近臣らの対立により発生した政変・・・以後、平氏一門が台頭し、平清盛は武

力を背景に国検を断行、さらに大宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与することになり、経済的な実力をも高めた。

一方、源義朝(/頼朝、義経の父)は・・・保元の乱では国家による公的な動員だったのに対して、今回はクーデターのた

めの隠密裏の召集であり、義朝が組織できたのは私的武力に限られ、兵力は僅少だったと推測される。)

 

 

左・・・ 『平治物語絵巻』三条殿焼討 (ボストン美術館所蔵)

                             右・・・ 『平治物語絵巻』に描かれた、平治の乱で敗走する義朝一行

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原清輔朝臣                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(830)


そこで、この歌/『小倉百人一首』です。もう1度、記して置きます…


★ ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂(う)しと見し世ぞ いまは恋しき


…
< 生きてみようじゃないか・・・辛く、嫌な事の多いこの頃だが・・・この時代だって、

また恋しくなるさ・・・>…と、言うわけですね。



 2月28日

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原清輔朝臣                                   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(831)


うーん…気になるので、もう一度、振り返ってみましょう…

家集/『清輔朝臣集』の詞書(ことばがき)には…<三条大納言>の言葉があり、これは

藤原公実(ふじわらの・きんざね/三条・西園寺・徳大寺の3清華家(せいがけ/公家の家格のひとつで、最上位の

摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置)の共通の祖)のことで…正しいとすれば、この歌は清輔が、

55~62歳頃の歌になります。

一方…別の古書には、<三条内大臣>とあるそうです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原清輔朝臣       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(832)


<三条内大臣>の方が、正しいとすれば…これは、藤原公教(ふじわらの・きみのり/三条公

教(さんじょう・きみのり)/藤原北家閑院家流三条家当主で、太政大臣三条実行の子。正二位・内大臣。)のことで

あり…清輔が、32、3歳の時の歌…になるのだそうです。

俊成も…若い時に、年寄り臭い厭世的(えんせいてき)な歌を詠んでいますよね。そうした

時代なのでしょうから、一概には言えませんね。未熟者の私には、コメントできません

が…小言よりも、古代推理が楽しいですよね。そう思いましょう…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原清輔朝臣       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(833)


この歌は…素直に、人の共感を誘う秀歌(しゅうか/すぐれた和歌)ですね。

人生の深い所で、“しっかりと、うなづかせる真実”があり、それ故、ある程度の深い人

生経験を感じさせます。あ、でも、俊成の例もありますし…

ともかく…清輔は…当時としては長生きで、74歳まで生きています…」



 2月29日

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(834)


【85番 → 俊恵法師】(しゅんえ・ほうし/平安時代末期の僧・歌人。父は源俊頼(/【74晩→源俊頼朝臣】)。

                   早くに、東大寺の僧となる。17歳の時に父と死別し、約20年間、作歌活動から遠ざかっ

                   ていた。

                   白川の自坊を<歌林苑>と名付け、そこに藤原清輔・源頼政・殷富門院大輔など多くの歌

                   人を集めてさかんに歌会・歌合を開催し、衰えつつあった当時の歌壇に大きな刺激を与え

                   た。鴨長明の師。

                   風景と心情が重なり合った象徴的な美の世界や、余情を重んじて、多くを語らない中世的

                   なもの静かさが漂う世界を、和歌のうえで表現しようとした。同じく幽玄の美を著そうとした

                   藤原俊成とは事なる幽玄を確立した。)

★ 夜もすがら もの思ふころは 明けやらで 閨(ねや)のひまさへ つれなかりけり

  < 貴方を待って…

        夜通し物思いに沈むこの頃は…

             夜がなかなか明けず…

          寝室の隙間の明かりさえも…

                 つれなく、冷たいものに思えてしまう… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(835)


「この歌は…『千載集-卷12/恋』に…<恋の歌としてよめる>として載っています。

詞書に<恋の歌>とあるから、そうなのでしょう。すると、男を待ちぼうけの夜が続く、

女の気持ちを詠んだものですね。

仏門の身で…と思うのですが、しばしば、目にしますよね。

(響子・談・・・こういうジャンルがあるのでしょうが、歌風から言っても、違和感があるような・・・?)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(836)


この歌で、問題となるのが…<明けやらで>です。

俊恵の家集/『林葉和歌集/林葉集』(りんようしゅう)では<明けやらぬ>になっていま

す。

『小倉百人一首』を編集した定家も、<で>ではなく、<ぬ>としています。なら、それ

で良いわけですが…最近/近年の傾向として、<で>を採るようですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(837)


うーん…

<で>と<ぬ>では、意味が違って来るのです。<ぬ>とすると、明けないのは<閨

(ねや)>に掛かります。<で>にすると<夜>に掛かるわけですね…

こうなると…著作権も何処へやらで、勝手に変えてしまうのが和歌の世界です。持統天

皇の歌も、山部赤人の歌も…



 3月 1日

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(838)


…<新古今調>という事で、勝手に書き換えてしまうわけですね。

あ…もちろん、未熟者/私/響子メとしては、異論のあろうはずもございません。“参

考文献”の『田辺聖子の小倉百人一首』 に従います。それで、<で>…の方を採って

います。

ちなみに…その有名な、代表的な2首の変更とは…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(839)


…持統天皇(じとうてんのう)の歌/【2番 → 持統天皇】では…


★ 春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山       
(万葉集…原文/万葉仮名)

★ 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣乾したり 天の香具山  (万葉集…訓読、現代語訳)

★ 春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 (新古今集…新古今朝の変更)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(840)


山部赤人(やまべの・あかひと)の歌/【4番 → 山部赤人】では…


★ 田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留     (万葉仮名)

★ 田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける (万葉集)

★ 田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ   (新古今集)


…ですね。



 3月 2日

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(841)


俊恵法師は…17歳の時に父/源俊頼と死別しています。早くに東大寺の僧になって

いますから、この時に出家したのでしょうか。

以来、20年ほどは、歌からは遠ざかり…彼の千百首ほどの歌は、殆(ほとん)どがそれ以

後のものと言います。歌才は、さすがに父/俊頼ゆずりですね。 

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 俊恵法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(842)


『方丈記』(ほうじょうき/鴨長明による鎌倉時代の随筆。日本中世文学の代表的な随筆。『枕草子』と、約100年後

の『徒然草』とあわせ<日本三大随筆>と呼ばれます。)で有名な鴨長明(かものちょうめい/平安時代末期から

鎌倉時代にかけての歌人・随筆家。俗名は、かものながあきら。禰宜(ねぎ)・鴨長継の次男。位階は従五位下。菊大夫

とも号した。)は…俊恵法師の弟子といいます。

鴨長明は自著の『無明抄』(むみょうしょう/鴨長明による鎌倉時代の歌論書)の中で…俊恵の自賛歌

(/作者自身がよい作品であると認める歌)は、次の歌だったと言っています。


★ み吉野の 山かき曇り 雪ふれば ふもとの里は うちしぐれつつ



吉野は…天皇家の離宮もあり、桜の名所で…<歌枕の地>ですよね…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 西行法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(843)


【86番 → 西行法師】(さいぎょうほうし/平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は

                   左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。俗名は佐藤 義清(さとう・のりきよ)。出家し

                   て法号は円位、後に西行。

                                           勅撰集では『詞花集』に初出/1首。『千載集』に18首、『新古今集』に94首をはじめと

                                            して二十一代集に計265首が入撰。

                                            家集/『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』…その逸話や伝説

                                            を集めた説話集に、『撰集抄』、『西行物語』があり…『撰集抄』については、作者と目さ

                                            れます。

 

★ なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな


  < 嘆け、と言って…

        月が私に、物思いをさせるのか…

             いや、月は無心に照るばかり…

          月にかこつけ、流れる出る…

                私の、恋の涙なのだなあ… >



 3月 3日

岡田健吉‏@zu5kokd1 西行法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(844)


「この歌は…『千載集 - 卷15/恋』に…<月前恋といへる心をよめる 円位法師>

…として載っています。円位(えんい)は、西行の出家時の法名ですね。

うーん…

この『小倉百人一首』の西行の歌も…およそ魅力のない歌として、古来より、いぶかし

がられている様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 西行法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(845)


西行は…勅撰集(ちょくせんしゅう/天皇や上皇の勅宣によって編纂された公的な歌集。『古今集』から『新続古今

集』までの二十一代集をさす。)だけで、265首が採(と)られ、秀歌は山ほどあります。前の俊恵

法師の歌もそうですが…あえて駄作も、採っているのでしょうか?

ともかく、西行の秀歌を幾つか並べてみましょう…


★ 道の辺に 清水ながるる 柳陰(やなぎかげ) しばしとてこそ 立ちどまりつれ

                       (『新古今集 - 巻3/夏歌・262』・・・西行法師/<題しらず>)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(846)


★ 津の国の 難波の春は 夢なれや 葦(あし)の枯葉に 風わたるなり

                                    (『新古今集 - 冬・625』・・・西行法師/<題しらず>)

★ 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮れ

      (『新古今集 - 巻4/秋歌上・362』・・・西行法師/<題しらず> “秋の夕暮れ”をよんだ“三夕”の1つです。

       他の2つは、以下です。)

         ★ さびしさは その色としも なかりけり まき(槇/緑樹の総称)立つ山の 秋の夕暮 (寂連法師)

         ★ 見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまや(苫屋)の 秋の夕ぐれ (藤原定家)

     (“秋の夕暮れ”のはしりとなった・・・【70番→良暹法師】の歌です・・・)

         ★ さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮

 

★ ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ   (山家集)

                 (西行は自身の死の時期を・・・如月の望月の頃と予言し・・・その通りに亡くなっています。)

         ★ ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比 (/続古今和歌集)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(847)


西行法師については、何度も触れていますが…

俗名/佐藤義清(さとう・のりきよ)、父は左衛門尉(さえもんのじょう/左衛門府の判官で、六位相当の官

職)康清(やすきよ)、母/監物(けんもつ/中務省に属した品官・・・倉庫の鍵を管理・出納事務の監察に携わっ

た)・源清経女(みなもとの・きよつねの・むすめ)…で代々、誇り高き武人の家で、鳥羽上皇(/第

74代天皇)に仕える北面の武士(ほくめんのぶし/上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士。院御所

の直属軍)でした。

また、徳大寺家(とくだいじけ/清華家の家格を有する公家。)の家人(けにん/家に仕える者)でもあった

わけですね。そして第75代/崇徳天皇の時、23歳で出家しています。



 3月 4日

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(848)


前の俊恵法師も…17歳で父/源俊頼と死別し、若くして奈良/東大寺の僧となってい

ます。裕福な貴族の家に育って、若い多感な年頃に、何があったというのでしょうか?

西行も…多くの歌や足跡を残しつつも、そこは謎とされています。曰く…友人の死に無

常感を感じたとも…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(849)


…さる高貴な女人に報われぬ愛を捧げた結果とも。また、時代的な厭世観(えんせいかん

/この世の中では幸福や満足を得られず、積極的な価値は認めがたいとする人生観)も助長したのでしょうか?

俊成も…若いのに、年寄り臭い厭世的な歌/【83番 → 皇太后宮大夫俊成】を詠み、

西行の出家に同調していたとか…

時代的空気感(/平安時代末期は…<保元・平治の乱>があり、<源平合戦>があり、<奥州合戦・・・鎌倉政

権と奥州・藤原氏との戦乱>があり…平安時代中期から流行していた、“末法思想”(まっぽうしそう/釈尊の入滅後、年

代がたつにつれて正しい教法が衰滅することを説いた、仏教の予言)ありました。)というものは…私たちが考

えるよりも、よほど、重いものなのですね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(850)


西行には、妻と2人の子供がいました。4歳ほどの娘が慕い寄るのを、西行は心を鬼に

し、縁から蹴落として、家を出たと伝えられます。

うーん…出家となれば、さすがに、余程の決心だった様ですね。現代社会とは違い、ひ

とたび旅に出れば、今生の別れともなった時代です。



 3月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(851)


円位(えんい/出家時の法名)/西行は…あちこちで草庵を結び、旅を住処(すみか)として放浪

しました。

世は…<保元・平治の乱>で騒々しく…西行ゆかりの大徳寺家の出の待賢門院(たい

けんもんいん)のこと…そのお子の、崇徳院の讃岐(さぬき/讃岐国は、現在の香川県)への配流(は

いる/島流し)もありました。

崇徳院が讃岐の地で亡くなられた後…西行は四国へ渡っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(852)


西行は…身分の差はありましたが、崇徳天皇とは親しい関係で、歌の贈答もありまし

た。そして、崇徳院の霊を慰め、次の歌を捧げています…


★ よしや君 昔の玉の ゆか
(床)とても かからむ後は 何にかはせむ


西行の半生は…平氏の勃興(ぼっこう)と栄華と没落の時代でした。また…鳥羽院と崇徳

帝の、血縁の宿命的な憎悪の地獄も、身近で目撃して来ました。

(★ 第75代/崇徳天皇の母の待賢門院は、大徳寺家の出ですが・・・幼少時より白河法皇の養女となり、その寵姫・祇

園女御に養われました。

ところが、鳥羽天皇の内裏に入内する前に、すでに白河法皇のお子を身ごもっていた様子です。時の権力者/白河法皇

が在世中は・・・法皇の意向で、鳥羽帝が退位、崇徳帝の即位となりますが・・・法皇が崩御される、と鳥羽院の世となり

・・・崇徳帝/崇徳院へのイジメが始まります。

その鳥羽院が崩御されると・・・<保元の乱>が勃発します。しかし、崇徳院はそれにも敗れ、讃岐への配流となり・・・あ

げく、日本の3大怨霊の1つとなります。ちなみに、3大怨霊は・・・菅原道真、平将門、崇徳天皇です。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   西行法師  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(853)


そんな…人の世の地獄絵図を見て来た西行の心には、慕わしく美しいものは…ただ、

月と花だったのでしょうか…


★ ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ 
(山家集)


西行は、如月
(きさらぎ)の望月(もちづき)の頃に死にたいと、歌に詠んでいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       
                           西行法師 (菊池容斎画/・・・江戸時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(854)


如月の望月は…2月15日…釈迦入滅の日です。仏門の者として、その日の入滅を願

うのは当然です。そして、桜の花の下で死にたいと願うのは、西行の花への愛情とロマ

ンなのですね。

そして、その願い通り…2月16日に亡くなっています。釈迦入滅の日は憚られ(はばから

れ/遠慮され)、その翌日にした…ということですよね。享年73歳です。



 3月 6日

岡田健吉‏@zu5kokd1       
                           西行法師 (菊池容斎画/・・・江戸時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(855)


うーん…

西行の歌は…当時の歌風と、やや趣(おもむき)を異にし、現代人でも違和感なく入って行

ける様ですね。それは、現実感があり、具体的描写があって、当時としては、新しいセ

ンスと言います。

つまり…この時代の歌人そうである様な机上の歌ではなく…西行が、実際に旅をした、

実感、なのだと言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       
                           西行法師 (菊池容斎画/・・・江戸時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(856)


『後鳥羽院御口伝』(ごとばいん・ごくでん/鎌倉時代前期の歌論書・・・1巻、第82代・後鳥羽天皇の著)で、

ご自身も歌人であられる後鳥羽院が…次の様に、西行を賞賛しています…

<西行はおもしろくてしかも心も殊(こと)に深く、ありがたくいできがたき方(かた)も共

にあひかねてみゆ。生得(しょうとく・せいとく/生まれつき)の歌人と覚(おぼ)ゆ。おぼろけの

人まねびなどすべき歌にあらず・・・>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       
                           西行法師 (菊池容斎画/・・・江戸時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(857)


…分かりにくい所もあるのですが、次のように言われている様です…

<昔評判がよくて、今、魅力のない歌人も多いが、西行などは、生前・死後を問わ

ず、いや何百年後にも、愛される。数少ない民族詩人といえるであろう・・・>

…と賞賛しています…」



 3月 7日

岡田健吉‏@zu5kokd1   寂連法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(858)


【87番 → 寂蓮法師】(じゃくれん・ほうし/平安時代末から鎌倉時代初期にかけての歌人、僧侶。俗名は藤原

                   定長。

                   僧・俊海(しゅんかい/真言宗の僧で、藤原俊成の弟)の子として生まれ、叔父/藤原俊

                成の養子となる。長じて従五位上・中務少輔(なかつかさ・しょう/・・・禁中の役所の少輔             

                   (しょう)は次官)。

                   30歳代で出家、歌道に精進し、御子左家の中心歌人として活躍。<六百番歌合>での

                   顕昭(/亮阿闍梨(すけのあじゃり・・・藤原顕輔の養子となり、顕輔・清輔の没後は六条

                   家藤の中心的存在として、歌壇で活躍)との<独鈷鎌首論争>(どっこ・かまくび・ろんそ

                   う)は有名。

                   1201年(建仁元年)和歌所寄人となり、『新古今和歌集』の撰者となるが、完成を待た

                   ず、翌/1202年(建仁2年)没しました。

                   
『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に、117首入集。家集に『寂蓮法師集』があります。)


★ むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ



  <村雨が、通り過ぎた後…

        露もまだ乾かぬ、杉や檜(ひのき)の葉に…

              霧が、白く沸き上がっている…

                    秋の夕暮れの、深い静寂よ…>


岡田健吉‏@zu5kokd1   寂連法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(859)


「この歌は…『新古今集 - 卷5/秋歌下』に…<五十首歌奉りし時>として、載ってい

ます。

これは、建仁元年/1201年2月…<老若五十首歌合>が催された時の歌です。

その時は…当代の代表的歌人10人が、左右に分かれ、各人50首の歌を合わせまし

た。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   寂連法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(860)


うーん…

この歌は、当時から高い評価が与えられています。今も、『小倉百人一首』の中では、

最高と評価する人も、いる様ですね。

ともかく…<むらさめ/村雨>は、ザーッと降って、すぐに止む雨です。<まきの葉/

槙の葉>は、濃い緑色の杉や檜(ひのき)の葉ですよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   寂連法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(861)


その…暗い、<まきの葉>と…さらに黒々とした、針葉樹の幹と山肌…そこに、<む

らさめ>が、ザーッと降りかかり…その<露もまだひぬ/・・・乾ぬ>…その濡れた

森林に、霧が立ちのぼる…<秋の夕ぐれ>ということです…

まるで、墨絵の様に美しい、動的な、日本の秋の風景です…



 3月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1   寂連法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(862)


いずれも…

寂連の歌ですが…前に<三夕の歌>で、寂蓮の歌として紹介したものと比較してみて

下さい…


★ さびしさは その色としも なかりけり まき立つ山の 秋の夕暮     
(三夕の歌)


★ むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ 
(小倉百人一首)

 


岡田健吉‏@zu5kokd1   寂連法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(863)


寂蓮は…藤原俊成の弟/僧・俊海(しゅんかい)の子で、叔父である俊成の養子となりま

す。従五位・中務少輔(なかつかさ・しょう/・・・禁中の役所の、少輔(しょう)は次官)にまで昇進します

が、30歳で出家し、歌道に精進します。

俊成の養子ですから、当然、御子左家(みこひだりけ)の中心歌人として活躍し、<人麿影

供>(ひとまろえいぐ)の六条藤家(ろくじょうとうけ)の歌道と、競いました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   寂連法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(864)


<六百番歌合>(/鎌倉時代に藤原良経主催でなされた歌合。判者/藤原俊成の判詞(はんし/判者が優劣・

可否を判定して述べる言葉・・・<源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり>・・・などで知られ、後の<千五百番歌合>となら

び、歌合の最高峰と評されます。)での顕昭(けんしょう/亮阿闍梨(すけのあじゃり)とも呼ばれ、藤原顕輔の養子と

なった。顕輔・清輔の没後は、六条藤家の中心的存在として歌壇で活躍しました。)との、<独鈷鎌首論争>

(どっこ・かまくび・ろんそう/・・・<六百番歌合>の時、顕昭 が独鈷を手に持ち、寂蓮 が鎌首のように首をもたげて論争

したのを、女房たちが、“例の独鈷鎌首”、とはやした所からいう。)は歴史に名を残しています。

1201年/建仁元年に和歌所寄人(わかどころ・よりゅうど/・・・和歌所の場合は、召人(めしうど)とも呼

ばれます。)となり、『新古今集』の撰者となりますが、完成を見ずに翌年に没しています。

寂連は…『千載集』以下の勅撰集に117首が入集されていて、家集に『寂蓮法師集』

があります」

         (独鈷杵)       

(★ 独鈷杵(とっこしょ、どっこしょ)・三鈷杵(さんこしょ)・五鈷杵(ごこしょ)などと呼び、宝珠(ほうじゅ)をつけたものを宝珠

杵(ほうじゅしょ)と呼びます。金剛杵(こんごうしょ)の1種で、密教法具の1つです。

顕昭は・・・この法具を握っていました。もともとは武器でしたが、扇子のようなもので、これをひねくり回していたのでしょう

か・・・)
 


 3月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1 皇嘉門院別当     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(865)


【88番 → 皇嘉門院別当】(こうかもんいんの・べっとう/平安時代末期の女流歌人。父は源俊隆。大蔵卿源

                        師隆の孫。

                       崇徳天皇の中宮/皇嘉門院・藤原聖子(摂政藤原忠通の娘)に仕えた。皇嘉門院

                       聖子が忠通の子で兼実の姉であることから、1175年(安元元年)の<右大臣兼

                       実家歌合>や1178年(治承2年)の<右大臣家百首>など、兼実に関係する歌

                       の場に歌を残している。1182年(養和元年)皇嘉門院聖子が没した時には、すで

                       に出家していた。) 
 

★ 難波江(なにわえ)の 芦(あし)のかりねの ひとよゆゑ(え) 

                         みをつくしてや 恋ひわたるべき


< 難波の入り江の…

        芦を刈り根の一節ではないが…

               一夜の仮寝のために…

            澪標(みおつくし/舟の航路を示す標識)のように、身を尽くし…

                   恋い焦がれなければ、ならないのでしょうか… >


岡田健吉‏@zu5kokd1 皇嘉門院別当     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(866)


「この歌は…『千載集 - 卷13/恋』に…

<摂政、右大臣の時の家の歌合に、旅宿に逢ふ恋といへる心を詠める 皇嘉門院

別当>

…として載っています。摂政とは藤原兼実(ふじわらの・かねざね)です。藤原忠通(ふじわらの・た

だみち)/【76番 → 法性寺入道前関白太政大臣】の息子ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 皇嘉門院別当     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(867)


その兼実の邸で、歌合があったわけです。その時、<旅先の宿で契った恋>という題

で、歌を詠むことになりました。

歌の作者は…皇嘉門院(こうかもんいん)に仕える、別当/女官長です。そして、皇嘉門院

とは忠通の娘で、兼実の異母姉であり、第75代/崇徳天皇の皇后/聖子(せいし)です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 皇嘉門院別当     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(868)


聖子皇后は…兼実邸で歌合のある時は、彼女に仕える女房たちを大勢引き連れて参

加した様です。この歌の作者の女別当も、歌詠みとして名高く、常連の様ですね…

うーん…彼女の名前も生没年も不詳ですが…人物は特定できます。太皇太后宮亮(たい

こうたいごうぐうの・すけ)/源俊隆(みなもとの・としたか)の娘です。大蔵卿/源師隆(みなもとの・もろた

か)の孫にあたります。


 3月 10日

岡田健吉‏@zu5kokd1 皇嘉門院別当     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(869)


さあ…<難波江・・・の芦>までが序詞(じょことば/主として和歌に見られる修辞法で、特定の語の前

に置いて、比喩や掛詞、同音語などの関係に係る言葉)です。難波江は摂津国難波/大阪府大阪市

の入江で、芦の群生する所です。

そこの…<かりね/刈り根/仮寝>の…<ひとよ/・・・芦の一節/一夜の契(ちぎ)

り>を引き出します。

調べが美しく…相当に手練(てだ)れで、技巧を駆使しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 皇嘉門院別当     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(870)


<みをつくしてや>とは…<みをつくし/澪標/舟の航行の目印/・・・恋に身を

尽くし>…と掛詞(かけことば)です。

<恋ひわたるべき>の<わたる>は長く続くことですね。【19番 → 伊勢】の…


★ 難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや

…の歌と、よく似ています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 皇嘉門院別当     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(871)


この歌は…題詠/<旅宿(たびやど)に逢ふ恋といへる心>…を詠むものですから、机

上(きじょう)の歌です。おそらく、【19番 → 伊勢】あたりを思い浮かべて、詠んだのでしょ

うか…

古代の女性の旅は…地方官の赴任の折に、父や夫と共に、一族郎党を連れて下る、と

いう旅が主流です。あとは、無事に都へ帰る旅です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 皇嘉門院別当     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(872)


それから…様々な身分で、帝の行幸(きょうこう/天皇の外出。行先が2ヵ所以上にわたる場合は巡幸)

に付き従うという種類の旅も、多かったと思います。

個人的な旅は…男の風来坊はいざ知らず、西行法師の様に僧形で、寺から寺へ渡り

歩くのでなければ、危険であり、物理的にも不可能です。

日本に五街道(/徳川家康が整備した・・・東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道で、宿場も整備されま

した。でも、芭蕉の『奥の細道』でさえ、各地の俳諧の支援者たちのバックアップがあり、俳諧や連歌の会を催しながら

旅費を集め、細々と可能だったのです。)が整備されたのは、江戸時代ですし…鉄道が発達するま

では今日のような旅は不可能でした。ほとんどが、近場の旅でした。それでも、男衆が

必要ですし、大金のかかる贅沢です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 皇嘉門院別当     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(873)


そして旅宿といえば…

紫式部も行っている滋賀の石山寺(/滋賀県大津市)…そして奈良の長谷寺(/奈良県桜井市

初瀬)の観音や…歌枕の地/吉野(/奈良県南部)に入ることもあったのでしょうか?それか

ら、難波江の方向だとすると、住吉詣で(/すみよし・もうで)でしょうか…

ともかく…旅をするには、人数・お金・覚悟も必要で…軍事力の移動のようなものであり、

簡単に出来るものではなかったと思われます。

それが、できたのは…天皇や裕福な貴族だけで、下々の者は何かの役をもらい、それ

にくっ付いての旅だったのでしょう。

つまり…この題詠は、現代社会ならいざ知らず、古代の女性には難しいお題かも知れ

ません。でも、有名な歌ですし、この辺りを掘り下げてみるのも、面白いですね…」



 3月 11日

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(874)


【89番 → 式子内親王】(しきし(しょくし)・ないしんのう/平安時代末期の皇女、賀茂斎院。新三十六歌仙、

                      女房三十六歌仙の1人。後白河天皇の第3皇女。守覚法親王・亮子内親王(殷富

                      門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。第80代/高倉天皇は異母弟。10年間、賀茂

                      神社に奉仕、病により退下。                  

                      定家は・・・治承5年(1181年)正月にはじめて、彼女の母の実家である高倉三条

                      第に式子内親王を訪れ、以後折々に内親王のもとへ伺候した。内親王家で家司の

                      ような仕事を行っていたとも言われているが、詳細ははっきりしない・・・)


★ 玉の緒(お)よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする


  < 我が命よ…

        絶えるのなら、絶えてしまえ…

             このまま、生き長らえていると…

                   堪え忍ぶ心が、弱ってしまうと困るから… >


岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(875)


「この歌は…『新古今集 - 巻11/恋歌』に…

<百首歌中に 忍恋を 式子内親王>…として載っています。

伝説では…式子内親王と定家の噂(うわさ)が立ち、父/俊成が別れさせようと定家の家

に来たといいます。定家は留守で、部屋に内親王自筆のこの歌が残されていたそうで

す。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(876)


溜息を吐(つ)き…じっと歌を見た俊成は、2人の想いの真剣さを感じて、何も言わず帰っ

たと伝えられます。

式子内親王と定家の、息詰まる恋心ですが…簡単に2人が結ばれるというわけにはい

きません。皇女となれば、天皇家と繋(つな)がるわけで、そこに膨大な権力が生じ、騒乱

のもとになるからです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(877)


では…内親王は嫁げないのかと言うと、そんなことはなく、天皇が選んだ相手に嫁いだ

様です。でも…嫁がないのが、普通だったのでしょうか? 未熟者で、申し訳ございませ

ん…

ともかく、噂を耳にし…父/俊成が、一も二もなく、諌(いさ)めに、定家の家にやって来て

いるわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(878)


あ、でも…

実際には…この歌は詞書にあるように<題詠>(だいえい)であって、内親王自身の気持

ちを詠んだものではない、とされます。

うーん…<忍恋・・・という題詠>だとしても、この切迫感のある激情は本物ですよね。

『小倉百人一首』の中でも、1、2 を争う、人気の歌といいます。



 3月 12日

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王       

                                                               式子内親王/ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(879)


式子内親王は…第77代/後白河天皇の皇女ですが、10年間を賀茂斎院(かもさいいん/

平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した皇

女。伊勢神宮の斎宮と併せて斎王(斎皇女)という。)として過ごされ、16歳ほどで病を得て退下(たいげ

/斎宮が任を終えることを、奈良時代から平安時代中期までは退出と称し、それ以後は退下または下座と言いました。)

されました。

平安王朝末期の激動の中で、若き皇女/式子内親王にも、次々と不幸が襲います。

妹宮の死、母君の死、兄宮の横死…兄宮は以仁王(もちひとおう/後白河天皇の第3皇子。<以仁

王の令旨>を出して、源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉

宮と称された。)で、平家打倒の先駆けで戦死されます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(880)


宮廷の内外も…

平家の滅亡、京の兵乱、大火、大地震、大飢饉、はやり病と、惨憺(さんたん)たる状況で

す。『方丈記』(ほうじょうき/鴨長明(かものちょうめい)による鎌倉時代の随筆。中世文学の代表的な随筆とされ、

約100年後の『徒然草』、『枕草子』とあわせて、<日本三大随筆>とも呼ばれる。)にその描写があります…

<築土(ついぢ)のつら、道のほとりに、飢ゑ(え)死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取

り捨(すて)つるわざも知らねば、臭(くさ)き香(か)、世界にみちみちて・・・

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(881)


・・・変わりゆくかたち有様、目も当てられぬこと多かり>

…と、賀茂の川原などは馬や車も通れぬほど、捨てられた死体で埋まっていたと言い

ます。

<九相図>(くそうず)は屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく様を、九段階に描く仏教

画ですが、こうした死体が都に溢れていて、処理する術(すべ)もなかった様です。

 

  

                   (九相図・・・ネットより画像借用)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(882)


まさに、末法(まっぽう/仏教で・・・仏の教のみが存在し、悟りに入る人がいない時期のこと。または、釈迦の死後

1500年(または2000年)以降の時期のこと。)の世相の中で…

人々は争い、下々は飢え…そして、定家もそうですが、若き多感な式子内親王の感性

は、研ぎ澄まされていった様です。

式子内親王は、この時代/『新古今集』の時代の出色の歌人です。末法の世の片隅

で、ひっそりと、歌を支えに、気品高く、端正に、生きた歌人です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(883)


式子内親王の歌の師は、藤原俊成であり…俊成の歌学書/『古来風躰抄』(こらいふうてい

しょう/鎌倉時代初期に成立した歌学書。初撰本(1197年成立)と再撰本(1201年成立)がある。『万葉集』から191

首、『千載和歌集』までの勅撰和歌集から395首(再撰本では398種)を抄出し・・・和歌の歴史を述べるとともに、和歌

を詠むことは、<題材の対象の本性を明らかにするということである>・・・としている。)は、式子内親王に奉っ

たものです。

藤原定家の日記/『明月記』(めいげつき/定家が治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56

年間にわたり、克明に記録した日記)によると…

治承5年/1181年の正月3日…20歳の定家は、68歳の父/俊成に連れられ、式子

内親王の御所/母君の実家/高倉三条第(/待賢門院璋子に異母兄実行が提供してくれた、三条大

路南、高倉小路東の邸をいいます。)に…はじめて参上(さんじょう/(目上の人の所に)でかけること、うかがうこ

と)します。



 3月 13日

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(884)


その1年前…

治承4年1月5日…定家は従五位上に昇叙(しょうじょ/官位があがること)されています。そし

て、侍従如元とありますから…侍従(じじゅう)/君主のそばにお仕えするという役職は、

如元(にょげん)/元(もと)の如(ごと)し…という事ですね。

つまり…父/俊成に連れられて高倉三条第に参上した藤原定家は、従五位上侍従と

いう、身分のある青年貴族という事です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(885)


さて…式子内親王が御簾(みす/綾(あや)などで縁を取った、目の細かいスダレ。)の内に現れます。

室内は…香(こう)の匂(にお)いが濃密に立ち込めていて、定家は日記/『明月記』に…

<薫物(たきもの)ノ馨香(けいこう)芬馥(ふんぷく)タリ>…と書き残しています。

20歳の定家は…8、9歳ほど年長の、才たけた歌人/貴婦人に…敬意と私淑と憧憬

(どうけい/あこがれること)の情を募らせていました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(886)


うーん…

式子内親王は賀茂斎院でしたが…伊勢斎宮を退下された当子内親王(とうし・ないしんのう)

は、藤原道雅(ふじわらの・みちまさ)と恋に落ちています。【63番 → 左京大夫道雅】…で

すね。

その禁断の恋が…三条院(/第67代天皇・・・権力者/藤原道長と三条天皇の関係が中宮をめぐって悪化し、

道長は天皇の眼病を理由に譲位させた。御世変わりとなり、伊勢斎宮の内親王も退下となった。)の逆鱗(げきりん)

に触れ、お怒りは解けずに…両人にとっても、周囲の人々にとっても、大きな悲劇となっ

てしまいました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(887)


さあ…式子内親王と藤原定家の場合は、どうだったのか?

伝説では…内親王と定家は、恋仲だったという事になっています。その伝説を元に、創

作された謡曲/『定家』には…

<定家の卿(きょう、けい/政治をつかさどる大臣、宰相、三位(さんみ)以上の人)、忍び忍びのおん契り

浅からず・・・>

…とあります。

うーん…でも、これは創作話ですよね…


(★ 謡曲/『定家』・・・三番目物。古くは『定家葛(ていかかずら)』とも・・・

旅僧が京都千本付近のあずまやに雨宿りすると、式子内親王の霊が現れ、生前契った定家の執心が葛(かずら)となって

墓に絡んでいることを語るが、僧の回向(えこう)によって成仏する・・・というもの。 )


岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(888)


創作話は別にして…実際はどうだったのでしょうか?

少なくとも…当子内親王と道雅の様な、直情で幼稚ック な恋ではなく…2人とも自制の

きく出色(しゅっしょく/他より一段とすぐれていること、さま)の歌人です。

そこを深く勘案(かんあん/あれこれを考え合わせること)し…現代の学者も、意見が分かれている

様ですね。でも、それは…遠い古(いにしえ)の…2人の問題ですよね…


 

 3月 14日

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(889)


日記/『明月記』等によると…

病勝ちな式子内親王に対する定家の心痛と献身は、異常な程です。確かに、2人の間

には、強い精神的な絆があった様ですね。

『明月記』で見える定家の人物評は…文句や愚痴も多く、出世欲や自己顕示欲も強く…

ごく、普通のインテリの様ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    藤原定家    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(890)


でも…式子内親王に伺候(しこう/貴人のそば近くに居て仕えること。また、貴人の御機嫌伺いに行くこと・・・)

している時の定家は…

<詩人の魂の・・・純粋な塊となり・・・涼やかに響き渡る鐘>…と化していたのかも

知れません。

響き合い・高め合う…また、恋心を昇華する歌の応答も、あったのかも知れませんね。

同時にそれは…<忍ぶる恋>で、“あらねばならぬ”…ものでした。



 3月 17日

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(891)


2人の…鳥籠(とりかご)の中の恋は、互いの歌にある種の芳香を醸(かも)して行きます。

そして、式子内親王の歌には、リアルな嘆息も漂います…


★ はかなしや 枕さだめぬ うたたねに ほのかにかよふ 夢の通い路


                                            (
『千載集 - 677』 )

★ 我が恋は 知る人もなし せく床の 涙もらすな 黄楊(づげ)の子枕(をまくら)

                                                          ( 『新古今集 - 1036』 )

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(892)


次に…内親王と関係あるかは分かりませんが、定家の恋歌を2首並べてみます…


★ 面影も 別れにかはる 鐘の音に ならひ悲しき しののめの空

                                      ( 『六百番歌合 - 晩恋/789』 )

★ 白妙(しろたえ)の 袖の別れに 露おちて 身にしむ色の 秋風ぞ吹く

                                           ( 『新古今集 - 1336』 )   

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     式子内親王    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(893)


建仁元年/1201年…

式子内親王は…50歳に届かず…薨去(こうきょ/皇族・三位以上の人が死亡すること。)されます。

薨去の前月には…『明月記』に詳細な病状が…頻繁な見舞の記録と共に、記されてい

ます。

でも…薨去については、1年後の命日まで、まるで触れられていません。この事からも、

定家の心の傷は…相当に深かった様ですね、」



 3月 18日

岡田健吉‏@zu5kokd1   殷富門院大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(894)


【90番 → 殷富門院大輔】(いんぷもんいんの・たいふ/平安王朝末期の歌人。女房三十六歌仙の1人。父は、

                        藤原北家・勧修寺流・従五位下・藤原信成。母は、従四位・式部大輔・菅原在良の

                        娘。一説に、道尊僧正の母とされる。

                        若い頃から…後白河院の第1皇女/殷富門院(亮子内親王)に出仕。呼名の由来

                        となっています。それに伴い歌壇で長年にわたり活躍した。俊恵法師が白川の自坊

                        で主宰した歌林苑(宮廷歌人の集まり)のメンバー。藤原定家・寂蓮・西行・源頼政

                    など多くの歌人と交際があった。

                        文治3年(1187年)の百首歌等、自ら主催して定数歌や歌会の催しを行うこともあ

                        った。殷富門院出家に伴って、自らも出家した。私家集である『殷富門院大輔集』、

                        及び、『千載集』以降の勅撰集、その他、私撰集等に多数の作品を残した。) 


★ 見せばやな 雄島(をしま)のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず


  < あなたに見せたいものです…

         雄島(/宮城県の松島の1島、霊場、歌枕の地)の漁師の袖さえも…

               濡れに濡れても…

                     色は変わらないというのに…

                  私の袖は…

                        血の涙で、真赤に染まりました… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   殷富門院大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(895)


「この歌は…

『千載集/恋 - 884』 に載っていますが…源重之(みなもとの・しげゆき/【48番→源重之】)の歌

の本歌取りですよね。その、重之の歌とは…


★ 松島や 雄島の磯に あさりせし 海士(あま)の袖こそ かくはぬれしか


うーん…重之の本歌よりも誇張が大きく、より技巧的という事です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   殷富門院大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(896)


古来、和歌の伝統では…恋や哀傷に心を打ち破られると、<血の涙が流れる>とい

う、言い回しがあります。この歌は、袖が血の色に赤く染まる、という伏線にあります。

このコトも技巧的ですが…

さらに、袖の色を強調するために…<見せなばや>と…非常に強い歌い出し、になっ

ていますよね。



 3月 19日

岡田健吉‏@zu5kokd1   殷富門院大輔    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(897)


うーん…

彼女は技巧を駆使してスラスラと、雄島の<あま/海士/海人・・・漁師>の事を歌っ

ていますが、もちろん陸奥/松島(/宮城県の松島湾内外にある大小260余りの諸島)へは行った事

がありません。机上の歌です。

歌人でそんな旅ができたのは、西行ぐらいでしょうか。でも、奥州・平泉とは長い交流

(第50代/桓武天皇の・・・征夷大将軍/坂上田村麻呂以来、奥州/藤原3代で栄えた。)があるわけです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   殷富門院大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(898)


平安王朝末期の歌人は…

机上で…歴史と歌枕と歌を頼りに…一生行くこともない…奥州/松島の荒磯に思いを

はせ…ロマンを膨らませて行くわけですね。それは、楽しい文化事業です…

現在の様に…格安航空の旅、リアルタイムの海…を見るのでは、歌枕のロマンもあり

ません。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   殷富門院大輔    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(899)


殷富門院大輔(いんぷもんいんの・たいふ)は…生没年も名前も分かりませんが、例によって、

何処の誰かは、はっきりと特定できます。

彼女は…殷富門院(いんぷもんいん)に仕えた女房で、父親は従五位下・藤原信成(ふじわらの

・のぶなり/藤原北家・勧修寺流)です。母親は従四位・式部大輔・菅原在良(すがわらの・ありよし/和

泉守大学頭・菅原定義の子。『更級日記』の作者の菅原孝標女(すがわらの・たかすえの・むすめ)は叔母。)の娘で

す。

また1説に…道尊僧正(どうそん・そうじょう/以仁王(もちひとおう/第77代・後白河天皇の第3皇子で、<以

仁王の令旨>を出して・・・源氏に平氏打倒の挙兵を促し、戦死します。)の第2王子)の母親ともされています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   殷富門院大輔    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(900)


その殷富門院(いんぷもんいん)とは…

第77代/後白河天皇の皇女/亮子内親王(りょうし・ないしんのう)のことですね。あの藤原定

家の仕えた、式子内親王の姉君です。

式子内親王は賀茂斎院(かもさいいん)でしたが、亮子内親王は伊勢斎宮(いせさいぐう)となり

ます。そして後に、安徳天皇・後鳥羽天皇の准母(じゅんぼ/天皇の生母ではない女性が母に擬され

ること。また、母に擬された女性の称号。)として、院号を宣下されます。それで、殷富門院と称せら

れたのですね。



 3月 20日

   春分の日

岡田健吉‏@zu5kokd1   殷富門院大輔    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(901)


院号の宣下は特別なもので…全ての皇族女性に与えられるわけではありません。天皇

の生母、それに準ずる准母(じゅんぼ)、三后(さんこう/三宮ともいい・・・太皇太后(たいこうたいごう/先

々代の帝王の皇后もしくは、当代の帝王の祖母に対して用いる尊称)、皇太后(こうたいごう/先代の天皇の皇后)、皇

后の総称)、内親王(/現行の皇室典範では天皇からみて直系で、二親等以内の者に与えられる。かつては、親王

宣下を受けた皇族女子に与えられた。)などに、朝廷から与えられるものです。

院号が宣下されると…王朝での待遇は上皇に準じ、院司(いんし/上皇や女院の直属機関として

設置された院庁の職員。中流貴族が任命されることが多く、他の官職と兼任する兼官)が設けられ、昇級でも経

済面でも安定します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   殷富門院大輔    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(902)


この院号/称号には…王朝宮城の門号が用いられます。邸のある地名もある様です

ね。

『小倉百人一首』でも…待賢門院・堀河(たいけんもんいん・ほりかわ)や、皇嘉門院・別当(こうか

もんいんの・べっとう)がありますし…

入水(じゅすい、にゅうすい/水中に身を投じて自殺すること)した安徳天皇(あんとく・てんのう)の母/建礼

門院・平徳子(けんれいもんいん・たいらの・とくこ)、上東門院・藤原彰子(じょうとうもんいん・ふじわらの・

しょうこ/時の権力者・藤原道長の長女で・・・紫式部、泉式部、赤染衛門、伊勢大輔らを女房とし、華麗なサロンを形成

した。)、美福門院・藤原得子(びふくもんいん・ふじわらの・なりこ/鳥羽天皇の譲位後の寵妃。近衛天皇の生

母)なども有名ですね…」



 3月 21日

  振り替え休日

岡田健吉‏@zu5kokd1    後京極摂政前太政大臣   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(903)


【91番 → 後京極摂政前太政大臣】(ごきょうごく・せっしょう・さきの・だいじょうだいじん/九条良経/く

                     じょう ・よしつね/平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。従一位、摂政、

                     太政大臣。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく・せっしょう)。摂政関

                  白・九条兼実の次男。

                     同母兄の九条良通が早世したため兼実の嫡男となった。内大臣となった翌年、反兼実

                     派の丹後局と源通親らの反撃を受けて、父と共に朝廷から追放され、蟄居を余儀なくさ

                     れた。

                     左大臣として政界復帰を果たし後、内覧となる。建仁2年(1203年)、第83代/土御

                     門天皇の摂政となり、建仁4年(1204年)には従一位、太政大臣となった。しかし元久

                     3年(1206年)3月7日深夜に頓死(とんし/にわかに死ぬこと、急死)・・・享年38歳)


★ きりぎりす なくや霜夜の さむしろに 衣かたしき 独りかも寝む

  < コオロギが鳴いている…

         こんな霜の降る寒い夜に…

               私は寒い、小さな筵(むしろ)の上に…

            自分の衣の片袖を敷いて…

                   独りさびしく寝るのか… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    後京極摂政前太政大臣   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(904)


「この歌は…『新古今集 - 巻5/秋下』に

…<百首歌奉りし時 摂政太政大臣>…として載っています。

後京極摂政前太政大臣と…長ったらしい名前で、狸親父を想像しますが…実は、颯爽

(さっそう)たる貴公子/摂政関白・九条兼実(せっしょうかんぱく・くじょう・かねざね/・・・通称は、後法性

寺関白)の子です。若くして太政大臣となり…現職の時の歌ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    後京極摂政前太政大臣   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(905)


<きりぎりす>というのは…コオロギです。<さむしろ>は…小さな筵(むしろ)/狭い

筵という言葉に、寒いを掛けています。<むしろ/筵>は、ワラやイグサなどの草を編

んで作った簡素な敷物で、菰/こも、とも呼ばれます。

うーん…いかにも、寒々とした、殺風景な情景ですよね…



 3月 22日

岡田健吉‏@zu5kokd1    後京極摂政前太政大臣   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(906)


うーん…

ストイック(/禁欲的で、厳格に身を持するさま)な男の、独り寝ですが…わざわざそれを誇張して、

歌に詠む所に、わざとらしさ、気取りが、感じられます。

まさに、その通りです…ですよね。

これは…名門貴族の御曹司が、机上で陸奥の歌枕を詠むように…机上で寒さと孤独

を、美に昇華しているわけです。

岡田健吉‏@zu5kokd1    後京極摂政前太政大臣   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(907)


華やかな関白家の御曹司で…

若くして太政大臣になったような貴公子とは、およそ真逆な境遇を歌っているわけです。

実兄(/九条良通(くじょう・よしみち)/正二位・内大臣。九条内大臣、冷泉内大臣と号す)が早世(そうせい/早く世

を去ること)して九条兼実(くじょうかねざね/通称は後法性寺関白)の嫡子(ちゃくし)になった様ですが、

彼にとっては、その真逆な境遇に、美を結晶化させていたのでしょう。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    後京極摂政前太政大臣   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(908)


そうは言っても…

世は戦乱、巷(ちまた)は飢餓や疫病が社会に溢れ…名門貴族の御曹司でも、それは折

に触れ目撃したはずです。

人々が粗末な筵(むしろ)で寝、震えながら動物の様に夜を明かすコトも、知っていたはず

です。

でも…<衣かたしき>と、気取っている所が、いいのでしょうか?



 3月 23日

岡田健吉‏@zu5kokd1   後京極摂政前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(909)


藤原良経/九条良経(くじょう・よしつね)は…

早くから藤原俊成に歌を学び、漢詩文や書もよくすると言います。つまり、その家柄か

らも、当代きっての文化人でした。

第82代/後鳥羽天皇(/壇ノ浦で入水した安徳天皇の異母弟)の信任もあつく、『新古今集』の撰

者の1人(/源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の6人が、後鳥羽院の院宣により定められ

たのですが・・・その地位からして、当然、関与していたと思われます。)でもあった様です。

良経の家集に…『秋篠月清集』(あきしのげっせいしゅう)があります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   後京極摂政前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(910)


この歌は…ストイックと、私は言いましたが…さっぱりとした雄々しい風情でもあります。

他に早春の歌で、詞書に<余寒のこころを>として、次の歌があります…


★ 空はなほ かすみもやらず 風寒(さ)えて 雪げにくもる 春の夜の月

                                          (新古今集 - 春上) 

…これも、寒々とした清らかな詩情ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   後京極摂政前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(911)


この歌には…別の側面として、“伝統的な古歌の投影”があると言います。古(いにしえ)

の教養人としては、初歩的な常識として、次の歌は知っているはずだ、と言います…


★ さむしろに 衣かたしき 今宵もや われを待つらむ 宇治の橋姫
(はしひめ)

                                               (古今集)

あるいは…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   後京極摂政前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(912)


★ 吾が恋ふる 妹は逢はずで 玉の浦に 衣かたしき ひとりかも寝む

                                                             (万葉集-巻9)

つまり…古の名歌からの本歌取りです。当時の人々は…ああ、あの本歌取りだな、とす

ぐに理解できたわけです。この時代の空気感だけは、どうしようもありませんよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   後京極摂政前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(913)


そうなると…

名門の貴公子が…ストイックを気取ってという評価も、かなり違って来るのかも知れま

せん。この歌の背後に、古の名歌の光彩がさし、重厚さも加わります。

うーん…さすがに、歌人の家系であり、若くして俊成から歌を学んだという実績も、加わ

りますよね。



 3月 24日

岡田健吉‏@zu5kokd1   後京極摂政前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(914)


良経の…きりぎりすの歌は秋の歌ですが、本歌の方はいずれも恋歌です。

きりぎりすの歌は…女性を意識し気取ったものを感じさせるのは、こうした背景が纏(ま

と)わり付いていたからでしょうか。

むろん…古の教養人は最初から、この歌に艶(えん/色気がある)な風趣を感じ取っていた

はずですよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   後京極摂政前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(915)


良経は…太政大臣となりますが、38歳で頓死(とんし)します。建永元年3月7日深夜…

寝所で何者かに、天井から槍で刺し殺されたと言います。

原因は…『新古今集』に関わる恨みと言われますが、『百人一首一夕話』(ひゃくにんいっし

ゅ・ひとよがたり/江戸時代に学者である尾崎雅嘉(おざき・まさよし)によって書かれた百人一首の解説書)には<

伝説紛紜(でんせつ・ふんうん)としてその確かなる説を得ず>…とあります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   後京極摂政前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(916)


良経は…俊成を師とし、御子左家の良きパトロンでしたから…急逝(きゅうせい)を知らさ

れた定家の、悲しみと落胆は深かった様です。

ちなみに…『六百番歌合』は良経が主催し、『千五百番歌合』は、後鳥羽院が主催して

います。

また…良経の書はひときわ冴(さ)えて、<後京極流>(ごきょうごくりゅう/日本書道の流派の1つ。

絵巻の詞書を書くのに用いられた角の顕著なかたい書風。例えば、『紫式部日記絵巻』の詞書のようなものを、こう呼ん

だ。)と言われています…」



 3月 25日

岡田健吉‏@zu5kokd1  二条院讃岐      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(917)


【92番 → 二条院讃岐】(にじょういんの・さぬき/平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人。女房三十

                     六歌仙の1人。父は源頼政。母は源斉頼の娘。同母兄に源仲綱、従姉妹に宜秋門院

                     丹後(女房三十六歌仙の1人)。内讃岐、中宮讃岐とも称される。

                     九条兼実家に出仕、後に兼実の息女任子(宜秋門院)に仕え、多くの歌会・歌合に出

                     詠した。建仁元年(1201年)に出家。) 


★ わが袖は 潮干(しおひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾(かわ)くまもなし


  < 私の袖は…

        引き潮の時でさえ…

             海中に隠れて…

                  見えない沖の石のよう…

          他人は知らないが…

               涙に濡れて…

                    乾く間もない… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   二条院讃岐      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(918)


「この歌は…『千載集 - 巻12/恋』に…

題詠(だいえい/前もって題を決め、それについて詩歌を作ること)/<石に寄する恋といへる心を>

…として載っています。

うーん…相当に捻(ひね)った題詠ですね。でも、二条院讃岐もまた、それに劣らぬ見事

さで、虚構の恋心を歌いあげています。“涙で袖が乾く間もない”、というのは常套語

(じょうとうご/ある場合に、いつもきまって使う言葉)ですが…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   二条院讃岐      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(919)


…それが、<沖>に沈んでいる<石>に掛け、さらに<見えぬ>と、<人こそ知ら

ね>に掛かり…<乾くまもなし>と結びます。

<沖の石>ですから…<乾くま/間>もない、どころではありませんよね。

それにしても、<沖の石>とは…一体、何処で、思い付いたのでしょうか、ほほ…



 3月 26日

岡田健吉‏@zu5kokd1                      

                                   『京都 鵺(ぬえ) 大尾』/『木曽街道六十九次』の内・・・歌川国芳画、嘉永5年(1852年)10月)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(920)


王朝の才女/讃岐(さぬき)は…この歌によって、<沖の石の讃岐>と呼ばれるように

なります。あ…二条院讃岐というのは、第78代/二条天皇に仕えた、讃岐という女房、

という事ですね。

讃岐の父親は武人で、鵺(ぬえ/伝説上の怪獣、妖怪、物の怪・・・サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持

ち、尾はヘビ・・・とも)退治で有名な源頼政(みなもとの・よりまさ)です。三位(さんみ)に叙せられたこ

とから、源三位(げんさんみ)とも称された人物です。

 

(★ 源頼政・・・/<保元の乱>と<平治の乱>で勝者の側に属しました。戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央

政界に留まりました。平清盛から信頼され、晩年には、武士としては破格の従三位に昇り公卿に列しました。

しかし、平氏の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王(もちひとおう)と結んで平氏打倒の挙兵を計

画し、諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えた。しかし、計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、平氏の追

討を受けて、<宇治平等院の戦い> に敗れ自害します。=<以仁王(もちひとおう)の挙兵>=)


岡田健吉‏@zu5kokd1 讃岐の父/源頼政

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(921)


源三位/源頼政は…源氏の一門(/清和源氏頼光流 )ですが、その生涯は平氏全盛の世

の中で、進退には苦労した様です。

武人でも、都育ちであり、皇族や公卿にも仕え…精神性の半分は長袖者流(ちょうしゅうしゃ

りゅう)/公卿・僧侶の類…だった様です。そして、官位が進まない事ばかり苦にしていた

様子と言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 讃岐の父/源頼政

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(922)


でも…歌才はあったわけですね。

それで…政界トップ(/平清盛)の心を動かし、昇進を重ねていった様です。でも、それも、

四位(しい)まででした。そこで、頼政は、今度は歌を詠んで、同情を引いたと言います。


★ 登るべき 頼りなければ 木のもとに 椎
(しい)を拾ひて 世を渡るかな



 3月 27日

岡田健吉‏@zu5kokd1 讃岐の父/源頼政

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(923)


うーん…

<椎(しい)>と四位(しい)を掛けていますよね。この歌が功を奏し(/功績を天子に奏上する意から

・・・効果を現す)、頼政は75歳でやっと従三位に昇進をします。

その頼政が…どういう経緯があったのか、平氏の横暴を憤って以仁王(もちひとおう/第77

代・後白河天皇の第3皇子。<以仁王の令旨>を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した。)を奉じ、決起したわ

けです。結局、宇治/<平等院の戦い>で敗れ、自刃(じじん/刀剣を用いて自殺すること)して

います。

(★ 平等院・・・

左大臣で嵯峨源氏の源融(みなもとの・とおる)が営んだ別荘だったものが、宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を

経て、摂政/藤原道長の別荘<宇治殿>となった。道長没すると・・・長男/関白・藤原頼通は<宇治殿>を寺院に改め

た。これが<平等院>の始まりです。)

     

    

    京都府宇治市  平等院  鳳凰堂 (ほうおうどう/・・・国宝)


岡田健吉‏@zu5kokd1 讃岐の父/源頼政

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(924)


頼政の辞世歌は有名です…


★ うもれ木の 花咲くことも なかりしに みのなるはてぞ 悲しかりける



従三位の公卿/歌人と…武門/源氏としての立ち位置。平氏の台頭以来、源氏の頼

政もまた、この新時代の奔流に、呑み込まれて行ったのでしょうか。長袖者流(ちょうしゅう

しゃりゅう)でも、最後は武門の男して散ったわけですね。その男の辞世歌です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 讃岐の父/源頼政

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(925)


くり返しますが…

頼政は77歳にして…武人としての使命に殉じたわけです。これで平氏は都落ちし、壇

ノ浦に沈み…源頼朝の鎌倉幕府が成立して行くわけです。

一方、娘の讃岐は…頼政の歌才を受け継いだ様で、12世紀末~13世紀はじめの有

名歌人の1人になります。



 5月17日

岡田健吉‏@zu5kokd1   二条院讃岐      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(926)

                           (番号調整…925の所を、926に正しました )

才女/讃岐(さぬき)は…武家社会が勃興する発端となる、<保元・平治の乱>を見て育

ちます。<保元の乱>の後に、憤死して怨霊となられた崇徳院(すとくいん/第75代・崇徳天皇。

退位後は新院とも・・・また<保元の乱>の後、讃岐/(現在の香川県)に配流となったことから、讃岐院とも呼ばれました

。)にも同情した事でしょう。

さらに…驕(おご)る平氏一門と、その中で生き…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   二条院讃岐      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(927)


…歌が上手で、75歳で従三位(じゅさんみ/・・・従三位以上の者を公卿といいました。)となった父の姿。

やがて…その驕る一門に対する、<平氏追討の令旨(りょうじ)/以仁王(もちひとおう)の令

旨(りょうじ)>に呼応した…老父/頼政の、武門の男の夢と、敗死も…目撃したわけです。

うーん…治承元年(じしょうがんねん/1177年)の洛中(らくちゅう/平安京の京域内のこと)大火、養和(よ

うわ)の大飢饉、元暦(げんりゃく)の大地震も…讃岐は、洛中のどこかで見ていたわけですよ

ね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   二条院讃岐      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(928)


老父/頼政も、兄/仲綱(なかつな)も、その嫡男たちも、<宇治平等院の戦い/橋合戦

>で敗死します。

でも…讃岐は、彼らの想いを胸に美しい歌を詠み続け、生きて行きます。彼女の歌を幾

つか並べてみましょう呼…


★ 山たかみ 峯のあらしに 散る花の 月にあまぎる あけがたの空


岡田健吉‏@zu5kokd1   二条院讃岐      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(929)


★ 鳴く蝉(せみ)の 声もすずしき 夕暮に 秋をかけたる 杜(もり)のしたつゆ


★ 世にふるは 苦しきものを 真木
(まき)の屋に 安くも過ぐる 初しぐれかな



ええ…

讃岐は<沖の石の讃岐>と呼ばれましたが、彼女の従妹(いとこ)で、<異浦(ことうら)の

丹後(たんご)>

と呼ばれた、女流歌人がいました。



 5月18日

岡田健吉‏@zu5kokd1   二条院讃岐      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(930)


彼女は…宜秋門院(ぎしゅうもんいん)/第82代・後鳥羽天皇の皇后に仕え、宜秋門院の丹

後と呼ばれた女流歌人です。彼女は…


★ わすれじな 難波の秋の 夜半(よわ)の空 こと浦にすむ 月はみるとも


…という歌が持て囃(はや)されて、<異浦(ことうら)の丹後>…と呼ばれる様になったと言

う事です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   二条院讃岐      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(931)


うーん…

スンナリと心に通る…情感の深い…リズムの良い歌ですね。当時の人々に愛され、口ず

さまれたのが、よく分かります。

もう1人…

<待宵(まつよい)の小侍従(こじじゅう)>と呼ばれたのは…大宮/近衛(第76代・近衛天皇)・二

条(第78代・二条天皇)2代の后に仕えた、大宮の小侍従という女性がいます。彼女の歌は…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   二条院讃岐      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(932)


…「男を待つ宵(よい)と…男を送り出す朝の別れと、いずれが情趣(じょうしゅ)深いか、」

と問われて…


★ 待つ宵に ふけゆく鐘の 声聞けば 帰るあしたの 鳥もものかは


…という歌で示し、それが有名となり、<待宵の小侍従>…と呼ばれる様になったとい

う事ですね。」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(933)


【93番 → 鎌倉右大臣】(かまくらの・うだいじん/・・・源実朝(みなもと の さねとも)/鎌倉幕府・第3代征夷大

                  将軍。

                  鎌倉幕府を開いた・・・源頼朝の4男(/頼朝の子としては、第6子で4男・・・政子の子

                      としては第4子で次男 )として生まれ・・・兄/頼家が追放されると12歳で征夷大将軍

                  に就きます。

                      政治は・・・始めは執権を務める北条氏などが執りましたが、成長するにつれ関与を深め     

                      ます。官位の昇進も早く、武士として初めて右大臣に任ぜられます。でも、その翌年、

                      鶴岡八幡宮で、兄/頼家の子/公暁に暗殺されます。これにより鎌倉幕府の源氏将軍

                      は断絶します。

                      歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集、家集として
『金槐和歌集』があります。

                      『小倉百人一首』では・・・鎌倉右大臣とされています。

★ 世の中は 常にもがもな 渚(なぎさ)こぐ あまの小舟の 綱手(つなで)かなしも


  < 世の中が…

          こんな風に…

                 変わらずにあってほしいものだ…

       渚を漕ぐ漁師の小舟が…

               曳綱(ひきづな)で陸から引かれている…

                      この… ごく普通の風景が… 切なくいとおしい… >


 5月19日

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(934)


「この歌は…『新勅撰集 - 羈旅(きりょ/たび、旅行)』に、<題しらず>として載っています。

まず、特筆すべきことは…

鎌倉右大臣とは…鎌倉幕府の3代将軍/源実朝(みなもとの・さねとも)だという事です。鎌倉

幕府を開いた源頼朝の4男であり、兄/頼家が暗殺された後、12歳の若さで3代将軍

になった人物です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(935)


実朝は…武家の棟梁(とうりょう)の家に生まれ、若くして死ぬまで東国で暮しました。当時

の文化は京/都にしかなかったと言ってよく、弓槍よりも文学好きの若い3代将軍は、

京都歌壇に憧れつつも、東国/鎌倉を動けませんでした。

一方…将軍としての実権は、母/北条政子(ほうじょう・まさこ/源頼朝の正室/・・・伊豆国の豪族、北

条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡、)の、縁戚(正子の兄弟姉妹には・・・宗時、義時、時房、阿波局、時子

などがいます。 )の北条一族が握っていて…



 5月20日

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(936)


…実朝は、当然、操り人形。

それも、あれこれあり…若い実朝は、益々好きな文学方面に傾倒して行きます。

丁度…その頃に撰進された『新古今集』は、京の息吹きの宝庫であり、たちまち彼の座

右の書となって行きます。

その撰者の1人/藤原定家に師事したのは、18歳の時です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(937)


でも…

師事したと言っても、鎌倉と京/都との距離があります。師弟の交流はあっても、半分は

彼の独学でした。

都にいる師/定家には…

作歌法の書を送ってもらい、『万葉集』を教わり、<本歌取り>の手法などを習って行っ

た様ですね。そして、実朝はさかんに歌を作り始めます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(938)


最初の内は…

実朝は…古来からの歌枕に、その縁語を並べた模倣作ばかり作っていました。

でも、年月を重ねるうちに…

実朝の、天性の詩人の素質が開花し、彼独特の歌風を確立し始めます。東国という異

空間にあり…京の手垢(てあか)に染まらず、純真な水々しい感性が、開花して行きます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(939)


実朝は、京に憧れ続けていましたが、ようやく独自の座標軸が定まり、東国の身近な風

物の清新さを、享受できるまでになります。

新古今風な歌作の合間に、彼独自の、格調高い、凛(りん/態度・容姿・声などが、きびしくひきしまっ

ているさま)とした、調べの美しい歌を、詠み始めます。

実朝の、才能が開花して行く様子は…師/定家も目を見張ります。



 5月21日

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(940)


その、実朝の歌を…いくつか並べてみましょう…


★ もののふ
(武士)の 矢並(やなみ)つくろふ 籠手(こて)の上に

                          霰(あられ)たばしる 那須の篠原(しのはら)

    
    
<武士が箙(えびら/矢を入れて背に負う道具)の中の…

          矢並(やなみ/箙にさした矢の列)を整えていると…

               その籠手(こて/肩先から左右の腕や、手甲を防護する道具)の上に…

                    霰(あられ)が音をたてて飛び散る…

             勇壮な那須の篠原(しのはら/)の…

                 活気のたぎる狩場であることだ…

 

★ 箱根路を わが超えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ


     箱根路を越えてくれば…

          いよいよ伊豆の海だ…

                はるか沖の小島に…

                     白く波が寄せているのが見えるよ…

 

★ 大海の 磯もとどろに 寄する波 われて砕けて 裂けて散るかも


     大海原から磯へ…

         音をとどろかせて打ち寄せる波は…

               割れて、砕けて、裂けて、しぶきをあげて…

                     飛び散っていることだ…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(941)


うーん…

歌は新鮮で、青年将軍にふさわしく、優美でスケールが大きいですね…

新古今風の歌作(かさく)の合間に、こうした歌を作っていました。むろん、こちらの方に、

実朝の真実の姿があります。

まず、実際に見た、<真実の感動>があり…その情景が、生々とした叙景歌(じょけいか

/自然の風物を主観を交えず客観的に表現した歌)となっています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(942)


これらの歌は…江戸時代の国学者/歌人の賀茂真淵(かもの・まぶち)と、明治時代の正岡

子規がほめたたえたことで、評価が定まった様ですね。

ともかく…同時代の歌人と比較して、ずっと近代的であり、斬新性があります。

京/都の手垢のない…東国/異空間において…師/定家の良き指導もあり、武家の棟

梁の家の環境もあって、才能が純粋培養された感があります…



 5月22日

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(943)


さて…

この歌、『小倉百人一首』に採られている歌ですが…

<世の中は 常にもがもな>の…<常にもがもな>とは…

<常に>…つまり…常なり/永遠に変わらない、という意味ですね。

<もがも>…つまり…~が、あればいいなあ/~で、あってほしいなあ…という意味で

す。文法的には…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(944)


…<もがも>は願望の終助詞で、<な>は詠嘆の終助詞になる様です。現代の私た

ちには、難しい言い方ですよね。

つまり…

     <世の中が…こんな風に…変わらずあってほしい…>

…という願望ですね。

<あまの小舟>は、漁師の小舟です。<綱手>は、舟を曳く曳綱のことです。これは

陸から引っ張る綱のことです。

<かなしも>は、愛(かな)しも、という事ですよね。これは愛惜(あいせき/愛して大切にすること)

の情です…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   鎌倉右大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(945)


海を見つめる…青年将軍/実朝は、鋭敏な詩情をもつ歌人…

ブルーな青年の純真な心は…もの皆全てに…限りない愛惜の情が湧き起こります…

でも…

鎌倉幕府/3代将軍にして、天性の歌人は…

承久元年(1219年)1月、鶴岡八幡宮(つるがおか・はちまんぐう/鎌倉武士の守護神、 鎌倉初代将軍/源

頼朝ゆかりの神社)で、甥(おい)/兄の頼家の子/公暁(くぎょう)に暗殺されます。



 5月23日

岡田健吉‏@zu5kokd1   
                           北条政子(菊池容斎画、江戸時代) /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(946)


この時…師/定家は60歳に近く…

才能の開花しはじめた実朝の横死(おうし/不慮の死、非業の死)を、深く惜しみ、悲しみます。

実朝が、もし生き長らえていたら…和歌の歴史に、そして鎌倉幕府にとっても、もう一本

の凜とした明るい道が、開けたのかも知れません。

でも、歴史はもう戻りません…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   
                          後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵) /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(947)


一方…

実朝の死を…鎌倉幕府打倒の好機と見たのが、後鳥羽上皇(第82代・後鳥羽天皇)です。2

年後/承久3年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府・執権(しっけん/棟梁の、鎌倉殿を助け政務を統轄した)

/北条義時(ほうじょう・よしとき/源頼朝の正室・北条政子の弟。得宗家/北条氏惣領の家系の当主。)に、討

伐の兵を挙げます。これが、<承久の乱(じょうきゅうのらん)/承久の変>です。

でも…

日本史上、初めて…朝廷の勅(ちょく/天皇の言葉、みことのり)や院宣(いんぜん/上皇、または法皇が

出した宣旨(せんじ) )に、逆う軍事行動で…朝廷に反乱軍が勝利し…大事件となります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    鎌倉右大臣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(948)


敗れた後鳥羽上皇は…

隠岐(おき/隠岐の島/島根県隠岐郡にある島・・・平安時代以降は、佐渡島(さどしま、さどがしま/新潟県の西部)、

隠岐の島、伊豆大島、が代表的な流刑地です)へ流されます…

武家政権/鎌倉幕府成立後は…京都の公家政権との二頭政治が続きましたが、この

乱で幕府側が優勢となり、朝廷権力は制限される事になります。例えば、幕府は皇位

継承などにも、影響力を持つようになります…

乱の後…

定家は、第86代/後堀河天皇(ごほりかわ・てんのう)の勅命で、『新勅撰集』(しんちょくせんしゅう)

を単独で撰集しますが… 



 5月24日

岡田健吉‏@zu5kokd1    鎌倉右大臣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(949)


…その時に、実朝の<あまの小舟>の歌を入れました。また、『小倉百人一首』にもこ

の歌を入れ、実朝への愛惜の情と、隠岐に島流しにされた後鳥羽上皇への想いも示し

ます。<あまの小舟>の風景は、隠岐の風景とも重なるわけですね。

定家は…後鳥羽上皇/後鳥羽院をバックに、歌壇の第一人者になり、『新古今集』の撰

者にも任命されましたが…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    鎌倉右大臣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(950)


…こと、歌に関しては、院も定家も一家言(いっかげん/その人独特の意見や主張)を持ち、互いに

譲らず、激しく激突します。

院は18歳年下で、定家も折れることを知らず、それが院を憤慨させ、2人の関係が徐々

に険悪になって行きます。

そんな頃でしょうか…鎌倉3代将軍/実朝が暗殺されたわけです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    鎌倉右大臣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(951)


その2年後…後鳥羽院は<承久の乱>に敗れ、隠岐へ島流しにされます。一方、定家

の境遇は一気に好転します。

高い官位を得て…生活が安定し、自らの仕事に没頭して行きます。『源氏物語』、『土佐

日記』など、様々な古典を正確に後世に伝えるべく、書写にも専念します。



 5月25日

岡田健吉‏@zu5kokd1    鎌倉右大臣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(952)


71歳の時…

定家は、第86代/後堀河天皇より新たな歌集を作るよう勅命を受けます。定家は官位

を辞して出家し、撰歌に没頭します。3年後に、『新勅撰集』 を完成させます。

そして75歳の時…

歌集制作の総決算的な意味合いで、『小倉百人一首』 を撰出したのです。


岡田健吉‏@zu5kokd1    鎌倉右大臣    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(953)


ええ…

実朝と後鳥羽院の関係で…青年将軍/実朝には、次の歌があります…


★ 山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも



実朝は…公家文化に心酔した人でした。武家の棟梁として、<君にふた心>は持ち

ません、と歌で誓ったのは…後鳥羽院に対してでした…」


 5月26日

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議雅経砧/きぬた 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(954)


【94番 → 参議雅経】(さんぎ・まさつね/飛鳥井雅経(あすかい・まさつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期

                   の公家・歌人。刑部卿・難波頼経の次男。二条または明日香井を号す。飛鳥井家の祖。

                   侍従などを歴任するが・・・源頼朝・義経兄弟が対立した際に、義経と親しかった父・頼経が

                   配流され、雅経も連座して鎌倉に護送されました。

                   雅経は頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価され、頼朝の息子である頼家・実朝とも深く親

                   交を結びます。その結果、頼朝から猶子として迎えられ、更に鎌倉幕府政所別当・大江広元

                   の娘を妻とするなど重んじられた。

                   罪を許されて帰京する時には、頼朝から様々な贈物を与えられた。その後、後鳥羽上皇の近

                   臣として重んじられ、従三位に叙せられ、さらに、参議に任命された。)


★ み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり



  < 奈良の吉野の山に…

        秋風が吹きわたっている…

             夜がふけて…

          古(いにしえ)の都は、寒々とわびしく…

                衣を打つ砧(きぬた)の音が、淋しく響いている… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議雅経砧/きぬた 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(955)


「この歌は…『新古今集 - 巻5/秋』 に…<擣衣(とうい/砧で衣を打つこと)のこころを>…と

いう詞書で載っています。

砧(きぬた)          (ネットより、画像借用)

★ 砧(きぬた)とは・・・アイロンのない時代、洗濯した布を生乾きの状態で台にのせ、棒や槌でたたいて柔らかくしたり、皺を

のばしたりしました。砧とはそのための道具です。古代から伝承された民具で、古くは夜になると、あちこちの家で砧の音がし

たと言われます。

この民具は・・・昭和の戦後時代でも・・・稲藁で縄を手でよって作るとき、その下準備に藁をたたいて柔らかくするのに使って

いました。ボス/岡田も、見たことがあると言っていました。

この歌には本歌があり、<本歌取り>の歌ですね。本歌の方は…【古今集 - 巻6/坂上

是則】です…


★ み吉野の 山の白雪 つもるらし ふるさと寒く なりまさるなり



 5月28日

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議雅経砧/きぬた 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(956)


本歌は冬の歌です。この作者は、【小倉百人一首/31番 → 坂上是則】 ですよね。

その歌の方は…


★ 朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪


…でした。

さて…夜の静寂の中で砧を打つ音は、詩人の心を動かすものの様ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議雅経砧/きぬた 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(957)


唐の詩人/李白(りはく)に…秋の夜に、衣を打つ音の…有名な詩があります。雅経の歌

は、その詩趣をも背景としている様ですね。

<砧で衣を打つ>というのは…アイロンの無かった時代に、衣板や石台に衣をのせ、

木槌(きづち)で衣を打って柔らかくしたり、艶を出したりしていた様です。両手で打つ、棍棒

のようなものもあります。

          
     
砧/きぬた・・・・・ネットより、画像借用 


岡田健吉‏@zu5kokd1 参議雅経砧/きぬた 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(958)


藤原雅経は…

もう1つ、蹴鞠(けまり)の名人であり…蹴鞠の<飛鳥井流>の祖/飛鳥井雅経の方が、

通りが良い様です。サッカーの、リフティングの元祖の家柄といった所でしょうか。

刑部卿/難波頼経(なんば・よりつね)の子で…後鳥羽・土御門・順徳の3代の帝に仕え、参

議従三位まで昇進しています。和歌の方は、藤原俊成に学び、『新古今集』の撰者にも

なっています。



 5月29日

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議雅経   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(959)


雅経の『新古今集』の歌は…


★ 移りゆく 雲に嵐の 声すなり 散るか正木(まさき)の 葛城
(かつ゛らぎ)の山

<春日社歌合に、落葉といふことをよみてたてまつりし>・・・という詞書があり、 『新古今集-冬/561』 に載っていま

す。


現代訳:       葛城山を見わたせば、嵐に吹かれ、雲が移動してゆく・・・

                   その雲の中から、激しい風の音が聞えてくる・・・

                           岩に絡みつく正木の葛も散っているか・・・


★ なれなれて 見しは名残(なご)りの 春ぞとも などしら川の 花の下かげ

<最勝寺の桜は、鞠のかかりにて久しくなりにしを、その木年ふりて、風にたふれたるよし聞き侍りしかば、をのこどもに

おほせて、こと木をその跡にうつしうゑさせしとき、まづまかりて見侍りければ、あまたのとしどし、暮れにし春までたちな

れにける事など思ひ出でて、よみ侍りける>・・・という前書があります。


現代訳:      すっかり馴れ親しんで来て・・・

                   あの時見たのが、最後の別れとなる春だった・・・

                           どうして気づかなかったものか、白河の花の下陰で・・・

この歌の補記には…

<最勝寺(さいしょうじ/京都東山の白河にあった寺。鳥羽天皇勅願寺)の蹴鞠(けまり)場の四隅に植え

ていた桜の古木が、風に倒れた由(よし)聞いて・・・

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議雅経   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(960)


・・・自ら見に行き、毎春その場に立ち慣れたことを思い出して詠んだという歌。

作者は蹴鞠の名手>…とあります。

つまり…

京の最勝寺の桜は、蹴鞠(けまり)の時の<かかり>であったと言います。<かかり>と

は蹴鞠の庭に植える木で…東北のすみに桜…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議雅経   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(961)


…東南のすみに柳、西南のすみに楓(かえで)、そして、西北のすみには松を配する、とい

うことです。

その東北の桜が…年古(としふ)りて風で倒れたので、下僕たちに命じて新しい木を植えさ

せました。雅経はそれを眺めながら、倒れてしまった老木/桜の古木を愛おしみます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議雅経   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(962)


<歌>と<蹴鞠>…

この2つの道で…雅経は3代の帝と鎌倉の頼朝にも仕え…参議従三位(さんぎ・じゅさんみ)

にまで昇進しました。後鳥羽院は、雅経を蹴鞠のお師匠さんとされます。

蹴鞠は…10世紀頃、中国から伝来しましたが、源流はもっと西方の様ですね。最初は

朝廷や貴族の遊びでしたが… 



 5月30日

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議雅経   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(963)


…雅経の時代からは、勝負を争うゲームというより、蹴鞠は典雅な儀礼となり、色々な

決まり事ができてきた様です。

この蹴鞠場の…<かかり>/4隅の桜・柳・楓・松の配置というのも、そうした決まり事

の1つなのですね。

現代風には…サッカー場ですか…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(964)


【95番 → 前大僧正慈円】(さきの・だいそうじょう・じえん/平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。

                        歴史書/『愚管抄』(ぐかんしょう/<承久の乱>の直前、朝廷と幕府の緊張が高

                        まった時期の承久2年(1220年)頃成立したが、乱後に修訂が加えられている)を

                        記したことで知られる。通称は、吉水僧正(よしなが そうじょう)

                        父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀局、摂政関白・九条兼実は同母兄

                        にあたる

                         幼いときに青蓮院
(しょうれんいん/東山区粟田口三条坊町にある天台宗の寺院)

                        に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒。建久3年(1192年)、

                        38歳で天台座主になる。その後、慈円の天台座主就任は4度に及んだ。

                       『徒然草』には、一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがったとある。             

                        天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・九条道家の

                        後見人を務めるとともに、道家の子・藤原頼経が将軍として鎌倉に下向することに期

                        待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公

                        経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。)


★ おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に すみぞめの袖
(そで)


  < 身のほども、わきまえぬことだが…

           つらい浮世を生きる民たちを…

                   わが墨染の袖で、包みこんでやるのだ…

                比叡の開祖・伝教大師(でんぎょう・だいし)の御心のままに… >



 6月 11日

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(965)


「この歌は…『千載集 - 巻17』に、法印慈円(ほういん・じえん)で、載っています…

慈円は…関白・藤原忠通/【76番 →法性寺入道前関白太政大臣 】/俊成(しゅんぜい

/『小倉百人一首』を撰集した定家の父親)の師である藤原基俊(ふじわらの・もととし)に…「<しめぢが

原>だよ」、と言った人物の…晩年の子です。

10歳の時に、父/忠通と死別し、11歳で仏門に入っています。



 6月 12日

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(966)


この歌は…

慈円が30代の頃の作であり…若い僧職にある身の、堂々たる気概が満ち溢れている

歌ですよね。

関白を父にもつエリートですが…僧としての修行も順調に進み、凛(りん/態度・容姿・声などが、

厳しく引きしまっているさま)とした信念・抱負が示されています。後に、大僧正となるわけですか

ら、本物なのでしょう…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(967)


そして…

さらに、天台座主(てんだいざす/日本の天台宗の総本山/比叡山延暦寺の貫主(かんじゅ、かんす/住職)で、

天台宗の諸末寺を総監する役職。)の座に昇りつめますが、政変に巻き込まれて辞し…後に復座

し…4度(よたび)、座主となっています。

この歌の背景としては…

伝教大師(でんぎょうだいし)/最澄(さいちょう)の歌があると言います。それが借景(しゃっけい/造

園技法の1つで・・・遠くの山などの景色を、その庭の一部であるかのように利用してあること。)となって、歌の姿が

いっそう大きくなり、格調高くなっています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(968)


ええと…

<慈鎮和尚自歌合>(じちんおしょう・じかあわせ/・・・慈円は九条家歌壇の中枢を担う一人で、『新古今集』へ

と至る中世和歌の基盤となった俊成歌論の、精髄が展開されています。)で、藤原俊成(/・・・定家の父)が、この

歌を評し…

「はじめの五文字より、心おほきにこもりて、末の匂(にほ)ひまでいみじくをかしくは侍

(はべ)る」

…と言っています。借景となる伝教大師の歌というのは、昔から名高い歌で…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(969)


★ 阿耨多羅(あのくたら) 三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)の 仏たち 

                   わが立つ杣(そま)に 冥加(みょうが)あらせたまへ


…というものです。

伝教大師は比叡山延暦寺(えんりゃくじ)の根本中堂(こんぽんちゅうどう)を建立(こんりゅう)する時

に、この歌を詠んだと言われます。

<阿耨多羅 三藐三菩提>は…梵語(ぼんご/古代インド発症の文字・・・サンスクリット語)であり、

“最高の真理・知恵”という意味だそうです。



 6月 13日

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(970)


伝教大師は…

根本中堂を建立するため、材木を切り出す山に立ち、御仏の加護を念じられたと言われ

ます。力強い、情熱の漲(みなぎ)る、意志的な歌ですね。

慈円は、この歌をふまえ…

自らも、天台をになう壮年の僧として、衆生を救おうという、理想に燃えていますよね。


 6月 15日

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(971)


藤原忠通/法性寺入道/・・・例の<しめぢが原>(【75番→藤原基俊】/藤原俊成の師匠・・・に対

して言いました。)と言った人物ですが…

この藤原忠通以後…彼の直系子孫のみが、<五摂家>(ごせっけ/・・・鎌倉時代に成立した藤原

氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(/近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと )として、原則的に明

治維新まで摂政・関白の職を独占する事となります。

忠通の6男が…九条兼実(くじょう・かねざね/月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる)/九条家の祖です。

九条家の人々は歌をよくしますが…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(972)


…慈円も、忠通の晩年の子で…『新古今集』の代表的歌人の1人という事ですね。彼も、

九条家に属したのでしょうか。

慈円は…若い頃、西行法師に私淑(ししゅく/尊敬する人に、直接には教えが受けられないが、その人を模範

として慕い、学ぶこと。)しますが、西行は彼にこう言います…

「密教を学ばれるなら、和歌をおならいなさい。

和歌をよまなければ、密教の奥深いことわりは、会得できませぬぞ・・・」



 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                                                 
九条兼実像 『天子摂関御影』 より/パブリック・ドメイン=著作権フリー
 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(973)


前に触れましたが…

慈円は大僧正となり、天台座主になりますが…九条家は親幕派だったので、倒幕の志の

ある後鳥羽院の元で、当主/九条兼実は失脚します。

(/当時は、朝廷と幕府の2重政治でした。<承久の乱>の後・・・後鳥羽院は隠岐に流され、勝者/幕府の権力が増大し

ます。ただし、この乱は、<錦の御旗>のあった官軍が敗北した戦で・・・日本史上の大事件と言われます。)

一方…後鳥羽院は、慈円の歌才と剛直な人柄を愛された様です。慈円も、政治的立場を

異にして、後鳥羽院にまことを捧げますが…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(974)


…院の無謀な志を知って、ひどく心を痛めた事と思われます。

親幕派/九条家として…慈円の元にも、鎌倉幕府の情報が豊富に入ります。独自の見

識を持つ慈円は、世の流れを達観し、<皇室のあるべき姿>を『愚管抄』(ぐかんしょう)に

まとめます。

この書は…それとなく…



 6月 17日

岡田健吉‏@zu5kokd1     
                 
天孫降臨の・・・瓊瓊杵尊
(ににぎのみこと)   三種の神器 (/ネットより・・・画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(975)


…院に倒幕の企てを放棄して欲しいという…慈円の、真心からの熱意で書かれたもの、

と言われています。

慈円は…<源平の騒乱>で、<三種の神器>も幼帝/第81代・安徳天皇と共に、壇

ノ浦(だんのうら/山口県・下関市周辺の海域。源平騒乱最後の<壇ノ浦の戦い>の舞台)に沈んだ事を記して

います。

また…<神鏡(/しんきょう・・・三種の神器の1つである八咫鏡(やたのかがみ))・神璽(/しんじ・・・三種の神器

の1つである八尺瓊勾玉(やさかにの・まがたま))>は、後に引き上げられますが…


(★ 三種の神器 /(みくさの・かむだから・・・さんしゅのしんき(じんぎ、しんぎ))

『日本神話』 において・・・天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大神から授けられたという<鏡・玉・剣>の

ことです。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(976)


…<神剣(/しんけん・・・三種の神器の1つである天叢雲剣(あまの・むらくもの・つるぎ)、草薙剣(くさなぎの・つるぎ

))>は、ついに見つからなかった事も、記しています。

<今ハ宝剣モ無益ニナリヌルナリ>

…と、<神剣>か戻らなかったことは…“鎌倉の武”に対し、“朝廷の武は無益”になった

ことと示すものだと…僧身でありながら、『愚管抄』(ぐかんしょう)で、上奏しているわけですよ

ね。慈円には、それが“無謀な戦い”であることが、“よくよく見えていた”わけです…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(977)


さて、慈円は…

<坊さんのくせに・・・歌に熱中しすぎる>と咎められますが、<これは大目に見てく

れ>と、歌で答えています。


★ みな人の 一つの癖(くせ)は あるぞとよ 我には許せ 敷島の道



<敷島の道
(しきしまのみち)>
とは、日本古来の道の意から、和歌の道/歌道という意味

です。うーん…慈円・大僧正も、なかなか腕白ですよね。


(★ 敷島の道・・・

和歌は、敷島とも、また敷島の道とも呼ばれました。敷島とは大和国や日本のことを意味し、また枕詞のひとつでもあり、

倭(やまと)という言葉にあわせて使われています。すなわち・・・<敷島のやまとうた>、<敷島のやまとうたの道>という

つもりで、用いられた言葉だとか・・・)


 6月 22日

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(978)


ええ…慈円は、鎌倉幕府を開いた源頼朝とも親しく、歌を贈答しています。

その源頼朝も…なかなかの歌人であり、3代将軍の4男/源実朝(みなもとの・さねとも/【93番

→鎌倉右大臣】)の歌才も、父譲りと、うなづけますよね。

ええ…慈円の歌は…

『新古今集』に多く入っているわけですが…最後に…2首、並べておきましょうか…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(979)


★ わが恋は 松を時雨(しぐれ)の 染めかねて 真葛(まくず)が原に 風さわぐなり


   < わたしの恋は…

           時雨が松を紅葉させない様に…

                  あの人の心を動かすことができない…

               真葛が原(/現在の京都市東山区の円山公園一帯)に風が騒いで…

           葛が葉の裏を見せる様に…

      あの人のつれなさに、わたしの恨み心が、騒いでいることだなあ… >



 6月 23日

岡田健吉‏@zu5kokd1 前大僧正慈円 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(980)


★ 有明の 月のゆくへを ながめてぞ 野寺(のでら)の鐘は 聞くべかりける


うーん…僧/慈円としての、雰囲気がよく伝わる歌ですね。

<野寺の鐘>の音は、寂しさと孤独の中で、凛(りん)として響き渡ります…

慈円は…71歳で没しています。<慈鎮>(じちん)は…死後の贈り名です、」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 入道前太政大臣        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(981)


【96番 → 入道前太政大臣】(にゅうどう・さきの・だじょうだいじん/藤原公経(ふじわらの・きんつね)/西園寺

                          公経(さいおんじ・きんつね)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿

                          ・歌人。西園寺家の実質的な祖とされています。

                          鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父・・・

                          四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍/藤原頼嗣の、曾祖父となった稀有

                          な人物です。また・・・姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもあります。)

★ 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり


  < 桜の花を誘って….

        吹き散らす嵐の日の庭は…

             花びらがまるで雪のように降っている…

                   実は、それは老いさらばえて、古(ふ)りゆく…

                わが身の事なのだなあ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 入道前太政大臣        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(982)


「この歌は…『新勅撰集 - 巻16/雑』に、

<落花(らっか)を詠み侍(はべ)りける 入道前太政大臣>…として載っています。

『新勅撰集』は…<承久の乱>の後、定家が若き第86代/後堀河天皇の勅命で撰進

した歌集です。鎌倉時代の第9勅撰和歌集で、20巻、 1374首を集めています。

ええと、まず…<入道前太政大臣>というのは、藤原公経(ふじわらの・きんつね)のことです

ね。



 6月 24日

岡田健吉‏@zu5kokd1   入道前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(983)


庭で…

桜の花吹雪の中に立ちつくし…老いゆく我が身を感じている…寂しい老人の姿が浮か

びます…

何という事のない、平凡な情景…

何という事もない、我が身の重なり…

でも…平凡な日常の中で…共に老いていく機微を感じる者には、淡い共感が漂います…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   入道前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(984)


入道前太政大臣/藤原公経(きんつね)は、稀有(けう)な経歴の人物です。鎌倉期の動乱

時代に生きながら、最後の王朝の栄華を一身に具現し、74歳の長寿をまっとうした、ま

さに、稀有な強運の持ち主です。

公経は、閨閥(けいばつ/政略結婚による家族関係)関係から鎌倉側と親しく、妻は頼朝の妹婿(い

もうとむこ)/一条能保(いちじょう・よしやす)の娘でした。



 6月 25日

岡田健吉‏@zu5kokd1   入道前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(985)


そのため…

反鎌倉の後鳥羽院には疎(うと)まれますが、<承久の乱>では鎌倉方につき、勝利し

た側として、大いに権勢を振るいます。

公経は…京都/北山に西園寺を建て、自身がその寝殿に住んだ事から、西園寺家の祖

とされます。

西園寺は善美(ぜんび/物事がよく、しかも美しいこと)を尽くし、安置された仏像も見事で…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   入道前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(986)


…僧たちの法衣も輝くばかり、と言います。

藤原道長の建てた法成寺(ほうじょうじ/京都市左京区にあった藤原道長建立の寺。 摂関家全盛期を象徴する

大寺で、その壮麗さは地上の極楽といわれたが、藤原氏の勢力後退に伴って衰微、1333年に廃絶した。)も立派だっ

たが、それよりは西園寺の方が…

「都はなれて眺望そひたれば、いはんかたなくめでたし」

…と自ら、記している様です。公経(きんつね)は…太政大臣にまで登り、娘の婿の道家は

関白、孫娘は…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   入道前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(987)


…第86代/後堀河帝の中宮です。さらに、鎌倉将軍に据えられた頼経も彼の孫です。

公経は…娘婿の九条道家と並び、政界の大立者となったわけですね。

うーん…

<承久の乱>以後…朝廷/京都政界は、公経によって再構成されます。でも、それは、

鎌倉の武力を背景にしたものであって、実力ではありません。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   入道前太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(988)


かつての藤原道長の様に…権謀術策に長け、実力で天下の富と朝廷を牛耳り…<望

月の欠けたることなき・・・>…と、言うものではないですよね。

はからずも…“巨大な権力が・・・転がり込んで来た・・・凡人”…といった所でしょうか?

さあ…

その人物を知った上で…

この歌を詠み返すと、どうでしょうか…どこか、コミカル(喜劇的)な感じもしますよね。



 6月 27日

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                       西園寺公経像 ( 三の丸尚蔵館蔵 『天子摂関御影』 より )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(989)


この<承久の乱>を境に…朝廷/天皇・公家は単なるシンボルと化し…幕府は実力組

織として変貌して行きます。

別の側面から眺めると…

武士/大名の群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代でも、天皇・公家が何百年も生き残ったの

は…単に、シンボル的・文化的存在だったから…とも言えますよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                       西園寺公経像 ( 三の丸尚蔵館蔵 『天子摂関御影』 より )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(990)


あ…そうそう、西園寺の事ですが…

現在の京都/上京区にある寺は、公経の建てた寺ではないという事です。公経の創立

した西園寺は、衣笠山の麓にあった様ですね。現在の金閣の地です。それが西園寺家

の衰退とともに、市中へ移転したという事です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1         

                       絵師: 勝川春章 (春章は葛飾北斎の師にあたります )   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(991)


うーん…

その衣笠山の麓の西園寺の跡地を、足利義満(あしかが・よしみつ/室町幕府・第3代将軍)が譲り

受け、鹿苑寺(ろくおんじ)/金閣を建てた様ですね。金閣を含めた寺院全体を金閣寺と言

います。

それから…

藤原定家の後妻(ごさい/のちぞい)が公経の姉だった事から…定家は、大いに西園寺家の

庇護を受けています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1         

                       絵師: 勝川春章 (春章は葛飾北斎の師にあたります )   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(992)


それ以前…<承久の乱> の前は…

後鳥羽院と定家は歌論の事で対立を深め…定家も1歩も引かず…後鳥羽院の勘気(かん

き/主君・主人・父親などの怒りに触れ、とがめを受けること。)に触れて、定家は逼塞窮乏(ひっそく・きゅうぼう

/逼塞は、八方ふさがりになって方法のたたないこと。窮乏も、貧乏に苦しむこと。)していました。

それが、<承久の乱> 以後は立場が逆転し、西園寺家や九条家という定家のパトロン

が、大いに、羽振りが良くなるわけですね。



 6月 28日

岡田健吉‏@zu5kokd1         

                       絵師: 勝川春章 (春章は葛飾北斎の師にあたります )   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(993)


定家は…

西園寺家や九条家との関係から、鎌倉の人々とも交流があり、鎌倉3代将軍・源実朝/

【93番 → 鎌倉右大臣】の、歌の師にもなります。

そして…隠岐に島流しとなった後鳥羽院と定家との関係は、益々険悪となり、直接の文

の交流なども、絶えていたのでしょうか…?」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  権中納言定家   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(994)


【97番 → 権中納言定家】(ごんの・ちゅうなごん・ていか/ 藤原北家・御子左流(みこ・ひだりりゅう)で、藤原俊

                       成の2男。最終官位は正二位権中納言。京極殿または京極中納言と呼ばれた。歌人

                       /寂蓮は従兄であり、太政大臣/西園寺公経は義弟にあたる。

                       平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、御子左家の歌道における支配

                       的地位を確立し、日本の代表的な歌道の宗匠として、永く仰がれてきた歴史がある。

                       2つの勅撰集、
『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。ほかにも秀歌撰に、『定家

                       八代抄』がある。歌論書に『毎月抄』、『近代秀歌』、『詠歌大概』があり、<本歌取り>

                       などの技法や、心と詞との関わりを論じている。家集に『拾遺愚草』がある。       

                       宇都宮頼綱に依頼され、
『小倉百人一首』を撰じた。

                       
『源氏物語』、『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった。(この際に用いた仮

                       名づかいが、定家仮名づかいのもととなった。)

                       18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記/
『明月記』(平成12年(2000年)

                   国宝に指定)を残した。このうち、建仁元年(1201年)に後鳥羽天皇の熊野行幸随行時

                       に記した部分を、特に『熊野御幸記』(国宝)と呼ぶ・・・) 


★ 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ



  < 松帆の浦の夕なぎに…

         浜辺で焼いている藻塩のように…

                私の身は…

             来てはくれない人を想い…

                    恋い焦がれているのです… >


岡田健吉‏@zu5kokd1  権中納言定家   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(995)


「この歌は…定家が55歳の時の作、と言われます。

『新勅撰集 - 巻13/恋』 に…<建保六年、内裏の歌合、恋歌>として、載っていま

す。ただし、これは誤りで、<建保四年 潤(うるう)六月 内裏歌合>の時の作、だと言

います。

うーん…

ともかく…定家は、この歌を自信作(/自信のある作品のこと)としていた様です。



 6月 29日

岡田健吉‏@zu5kokd1  権中納言定家   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(996)


ええ…この歌には、<本歌>があります。『万葉集 - 巻6/笠金村の長歌』から採ってい

ます。

<名寸隅(なきすみ)の 船瀬(ふなせ)ゆ見ゆる 淡路島(あはぢしま) 松帆(まつほ)の浦(うら)

に 朝凪(あさなぎ)に 玉藻(たまも)刈(か)りつつ 夕凪(ゆうなぎ)に 藻塩(もしほ)焼きつつ 

海(あま)未通女(をとめ) ありとは聞けど 見にゆかむ よしの無ければ・・・

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  権中納言定家   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(997)


・・・ますらをの 心はなしに たわやめの 念(おも)ひたわみて たもとほり 吾(われ)

はぞ恋ふる 船梶(ふねかぢ)を無(な)み>

…から、採(と)っているそうです。

この長歌は、現代風に訳すと…


   < 松帆の浦に…

          藻塩焼く…

                あまの乙女が…

                      待っていると聞く…

       逢いにゆく方法もなくて…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  権中納言定家   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(998)


      男らしい心もなく…

             自分は思い屈して…

                    ゆきつもどりつ…

                            恋うている… 〉


…という様な、意味ですね。

定家は、これを、<男を待っている女の相聞に仕立てている>…のだそうです。

そして…定家は、女の気持になって、<本歌取り>し…この歌を詠んだ、という事です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                           藤原定家の肖像画 /伝・藤原信実 筆    鎌倉時代

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(999)


うーん…

『万葉集』から<本歌取り>した、壮大な背景と、豊富な技巧の歌です。

ともかく…

<まつほの浦/松帆の浦>は、淡路島(兵庫県に属し、瀬戸内海の東部に位置する)の北端の歌

枕です。この歌では、<まつ/待つ>に掛かります。

<焼くや藻塩の/・・・藻塩を焼く>は、<恋に焦がれる>を連想させる古来よりの常

套語(じょうとうご/ある場合に、いつもきまって使う言葉。常套句と同じ)ですね。


 6月 30日

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                           藤原定家の肖像画 /伝・藤原信実 筆    鎌倉時代

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1000)


さて…

定家は何故、この歌を『小倉百人一首』に選んだか…という事です。定家には、他にもっ

と良い歌はいくらでもあります。例えば、<秋の夕暮れ/三夕の歌>の1つになる…


★ 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                           藤原定家の肖像画 /伝・藤原信実 筆    鎌倉時代

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1001)

…などは、何度も取り上げていますが、いい歌ですよね。でも、あえてこの歌を選んだの

は、隠岐に配流となっている後鳥羽院への、深い思慕の念があったからと言われます。

定家の方は…

<承久の乱>以後…鎌倉方とつながりのある九条家と、西園寺家をパトロン(経済的な後

援者、保護者)に、御子左家(みこひだりけ/・・・藤原氏北家の嫡流道長の6子/長家が祖。長家の曾孫/藤原俊

成、その子/藤原定家は歌人として名高く、和歌の家柄となった。定家の孫の時に、二条家・京極家・冷泉家の3家が分

出した。)は、和歌の家柄として家勢を盛り上げて行きます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                           藤原定家の肖像画 /伝・藤原信実 筆    鎌倉時代

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1002)

一方…

後鳥羽院は…隠岐に流される直前に出家、上皇から法皇になっています。定家の日記

/『明月記』によれば、文暦2年(1235年)の春頃には、摂政/九条道家が後鳥羽院と順

徳院(じゅんとくいん/第84代・順徳天皇・・・後鳥羽院の第3皇子で、父/後鳥羽上皇の討幕計画に参画し、佐渡島へ

配流となった。)の還京を提案しています。

でも…鎌倉幕府・第3代執権/北条泰時(ほうじょう・やすとき)は、これを受け入れていません。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                           藤原定家の肖像画 /伝・藤原信実 筆    鎌倉時代

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1003)

北条泰時は…

『御成敗式目』(ごせいばい・しきもく/・・・源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに、

制定された武士政権のための法令(式目)。貞永元年に制定されたため、『貞永式目』(じょうえい・しきもく)ともいう。)を

制定した人物ですよね。鎌倉幕府・北条家の中興の祖とされています。

再度、後鳥羽院ですが…

壇ノ浦で入水(じゅすい)した、あの安徳天皇の異母弟に当たります。藤原定家よりは18歳

年下と言われますから…<承久の乱>を起こしたのは41歳頃でしょうか。その時から

配流の身となります。

現代では…

都/京都と隠岐の島はヘリでひと飛びの距離ですが、当時は街道すら整備されていな

い時代です。さらに歌に詠まれるように、広大な海原の中に隠岐はありました。都育ちの

後鳥羽院にとって、その心細さは計り知れません…



 
 7月  3日

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                           藤原定家の肖像画 /伝・藤原信実 筆    鎌倉時代

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1004)


つまり…

41歳で隠岐に配流となり、配所の隠岐で、59歳で崩御されています。でも、その4年前

には還京の提案もなされていたわけですね。それも、かなわず、怨霊になられたとか…

でも…ご自分が、兵を挙げたのであり、3大怨霊の菅原道眞や崇徳院ほどではないです

よね。


 7月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1              

                           百人一首  かるた  権中納言定家     /ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1005)


あ…3大怨霊のあと1人は、平将門(たいらの・まさかど)です。平安時代中期の関東の豪族で

す。<平将門の乱>を起こし、東国の独立を標榜(ひょうぼう)して、朝敵となった人物です。

さて、話を戻しますが…

定家が…この歌を『小倉百人一首』入れたのは、後鳥羽院の有名な歌に対応している、

と言われています。その歌は…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              

                           百人一首  かるた  権中納言定家     /ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1006)


★ 我こそは 新島守(にひじまもり)よ おき(隠岐)の海の あらき波風 心して吹け


  < 我こそが…

           新しく来た、島番人である…

                   隠岐の海の、荒い波風よ…

               今日からは、心して…

                       穏やかに、吹くのだぞ… >


後鳥羽院が…<承久の乱>で敗れ…隠岐に島流しにされた時の歌です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              

                           百人一首  かるた  権中納言定家     /ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1007)


時代背景のドラマがあり…院の力強さにあふれた歌ですが…その後の、島での寂しい

生活が偲ばれます。

この歌に対し…

.定家は自分の歌の中からこの歌/<来ぬ人を・・・焼くや藻塩の 身もこがれつつ>

を選び…院への愛慕の思いを伝えた様です。

現代のネット社会とは違い…当時の歌壇は、都を中心とした顔の見えるサイズの社会

です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              

                           百人一首  かるた  権中納言定家     /ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1008)


定家が、『小倉百人一首』を撰集したとなれば、歌の玄人(くろうと)である後鳥羽院の元へ

は、それが大海原の中の隠岐島であろうと、必ず伝えられます。

定家は、それを見越して熟慮の末、この歌を、入れたという事でしょう。歌人は、歌で思

いを伝えるに限りますよね。でも、これしか、思いを伝える方法も、無かった様です。


 7月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1              

                           百人一首  かるた  権中納言定家     /ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1009)


でも、その思いは伝わったのかどうか…やがて後鳥羽院は隠岐で崩御します。

そして、定家も…

仁治(にんじ)2年/1241年に、80歳という高齢で世を去っています。官位は正二位権中

納言…勅撰集/『新古今集』 『新勅撰集』の撰者であり…和歌史上の巨魁(きょかい/首領、

親玉)的存在です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              

                           百人一首  かるた  権中納言定家     /ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1010)


また…定家は『源氏物語』の心酔者であり、『源氏物語』や『土佐日記』などの古典の書

写・注釈も行っています。

そして…

<定家の歌風>とは…まず『古今集』の歌風を尊重し…その上に父/俊成の唱えた

<幽玄>(ゆうげん/奥深くて、はかり知れないこと)を合わせ…定家自身の<有心>(うしん)の美

を説くと言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              

                           百人一首  かるた  権中納言定家     /ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1011)


うーん…ともかく<有心>は…定家の歌を作る上での、理念と言われますよね。

つまり…歌に深い心があることであり…高い風姿(ふうし/なりふり、すがた)/高い風体(ふうて

い/風姿)があることだ…と言います。

定家は、『近代秀歌』(きんだいしゅうか/定家の歌論書)の中で…

<ことばは古きを慕ひ、心は新しきをもとめ・・・

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              

                           百人一首  かるた  権中納言定家     /ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1012)


・・・及ばぬ高き姿を願ひて寛平(くわんぴやう/平安前期・・・宇多天皇・醍醐天皇の時の年号。)以住

の歌に習はば、おのづからよろしきこともなどか侍(はべ)らざらむ・・・>

…と言っています。

つまり、『古今集』前夜の時代より、更に古い時代の歌の品高きを理想とした、と言いま

す。『古今集』は、平安時代前期の勅撰集で、第60代/醍醐天皇の…


 7月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1             

                    『住吉の名月』 (月岡芳年『月百姿』) 住吉明神の神託を受ける定家/ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1013)


…勅命によるものですね。ちなみに、その『古今集』の撰者は…

<紀友則(きの・とものり/【33番 → 紀友則】)、 紀貫之(きの・つらゆき/【35番 → 紀貫之】)、 凡

河内躬恒(おおしこうちの・みつね/【29番 → 凡河内躬恒】)、 壬生忠岑(みぶの・ただみね/【30番 →

壬生忠岑】)>

…であり、その時代とそれ以前の歌です。

定家は…和歌の家の血脈として、才能と自負もあり、時に傲然(ごうぜん/尊大でたかぶった様子)

としていた様です。後鳥羽院をバックに、歌壇の第一人者となり…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                 

                            藤原定家墓 (相国寺) /パブリック・ドメイン

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1014)


…蜜月の2人の関係も、互いの個性が激突し、確執に変わりました。でも、定家の後鳥

羽院への思慕は、終生変わらなかったのでしょう。ただ、立場が2人を断絶したのだと思

います。

2人の断絶は…院の配流(はいる/島流し)の前ですが、その後は鎌倉方への気兼ねもあり、

歌人として後鳥羽院に<侍る>(はべる/貴人のそばにつつしんで控える、または仕える。伺候する。)こと

も、出来なかったのでしょう…」


(★ 後鳥羽院・・・定家に蟄居を命じる!

定家は順徳天皇の内裏歌会で<野外柳>という題を述懐ふうに取り成して、<禁忌の詞>を含んだ歌を詠んだと言います。

    ☆ 道のべの 野原の柳 したもえぬ あはれ嘆きの けぶりくらべに

この歌が、後鳥羽上皇の逆鱗に触れた様で・・・後鳥羽院が怒り、定家に蟄居を命じたということの様です。でも、定家ほどの

歌人ですから、<禁忌の詞> はこじつけで・・・実際には、それまでの確執がそうさせたものと思われます。 それで定家は困

窮したようですが、<承久の乱>が勃発するわけですね。それで縁戚関係もあり、立場が逆転してしまいます。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   従二位家隆     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1015)


【98番 → 従二位家隆】(じゅにい・いえたか/藤原家隆(ふじわらの・いえたか)/・・・は、鎌倉時代初期の公卿

                     であり歌人。壬生二位と号する。中納言・藤原兼輔の末裔で、権中納言・藤原光隆の次

                     男。官位は従二位・宮内卿。『新古今集』の撰者の1人です。

                     病を得て79歳で出家します。 出家後は摂津国四天王寺に入り、夕陽丘より見える<ちぬ

                     の海(大阪湾)>に沈む夕日を好み、その彼方にある極楽へ行くことを望んだと言います。)


★ 風そよぐ ならの小川の 夕暮は みそぎぞ夏の しるしなりける



  < 風がそよそよと吹いて…

          楢(なら)の木の葉を揺らしている…

               上賀茂の…

                     なら(/奈良)の小川の夕暮れは…

                   秋の気配となっているが …

                          みそぎは夏の証なのだなあ… >



 7月10日

岡田健吉‏@zu5kokd1   従二位家隆     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1016)


「この歌は…『新勅撰集 - 巻3/夏』に…

<女御(にうょご/かつての、高い身分の女官。中宮の次に位し、天皇の寝所に侍した)入内(じゅだい/中宮・皇

后となるべき人が正式に内裏(だいり)にはいること)の御屏風(ごびょうぶう)に 正三位(しょうさんみ)家隆>

…として載っています。

つまり、これは<屏風歌>(/屏風絵の主題に合わせて詠んだ歌)ですね。<ならの小川>は、

古都/奈良に流れている小川ではなく、京都/上賀茂神社境内の奥に流れる、浅い清

らかな川だそうです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   従二位家隆     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1017)


昔、この境内に奈良社という社(やしろ)があって、その前を流れていたので<ならの小川

>と呼んだそうです。

深山の趣(おもむき)のあるこの川では、古い昔から<夏越(なごし)の祓(はらえ)>が行われ

ていました。そのための<みそぎ/禊(みそぎ)>が、<夏越のみそぎ>です。現代でも

その神事はあるそうです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   従二位家隆     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1018)


でも、昔は陰暦ですから…6月の終りは、現在の陽暦では8月10日過ぎで、そろそろ秋

の気配もただよう頃です。この歌は、それを詠んでいるわけですね。

うーん…涼しげな中に…身の引き締まる…いい歌ですね!

ええ…従二位(じゅにい)家隆(いえたか)とは、藤原家隆(ふじわらの・いえたか)のことです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   従二位家隆     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1019)


家隆は…<家隆/かりゅう>が通称の様です。<定家/ていか>の通称と、同様と

言います。

定家よりは4歳年上で、俊成の門下です。後鳥羽院にも愛され、定家と同様に、『新古今

集』の撰者の1人です。定家と違う所は、院が隠岐配流の後も、文の便りを…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   従二位家隆     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1020)


…絶やさなかった事でしょうか。

定家も蟄居(ちっきょ/中世から近世(/特に江戸時代)武士または公家に対して科せられた刑罰の1つです。閉門の

上、自宅の一室に謹慎させるものです)を命じられ…院御自身が、さっさと隠岐配流などということ

にならなければ、いずれ蟄居も解け、仲直りの手立てもあったわけです。

これは、歴史の皮肉でしょうか。定家の方は院とは逆に、身分と経済的安定を得て、『源

氏物語』や『土佐日記』の書写・注釈など、数々の歴史的業績を重ねたわけですよね…

さて…

家隆の歌ですが…分かりやすく、品もよく、格調も高い、と言われています。



 7月 12日

岡田健吉‏@zu5kokd1   従二位家隆    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1021)


後鳥羽院も『御口伝』(/『後鳥羽院御口伝』/ごとばいん・ごくでん/・・・初心者のための心得や、一般的知識を

述べ、源経信以下当代歌人を批評したもの。)の中で…

<たけもあり、心もめづらしくみゆ>…と褒(ほ)めておられます。

定家と家隆は、同時代で藤原俊成を師とするライバル同志です。互いに認め合い、尊敬

していた様です。

面白いのは…家隆は4歳年上の同門…後鳥羽上皇は18歳年下の激情家です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   従二位家隆    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1022)


この定家と上皇が、好みの歌を巡って大激突します。歌では互いに一家言(いっかげん/そ

の人独特の意見や主張、ひとかどの見識のある意見 )を持ち、定家も年下の院に折れる事を知りませ

ん。

院は憤慨し、2人の関係はしだいに険悪化…ついに、定家は蟄居(ちっきょ)をを命じられる

のですから、笑えますよね。でも、この躓(つまづ)きで、定家は実際に貧窮(ひんきゅう)します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

奈良の小川  /・・・上賀茂神社本殿の西側を流れる御手洗(みたらし)川と、東側を流れる御物忌(みものいみ)川が合流

し、舞殿の下をくぐって、境内を北から南に流れているそうです。                   (/・・・ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1023)


重ねて言いますが…そんな折に<承久の乱>が勃発し、立場は逆転するわけです。

さて…

この家隆の<屏風歌>ですが…寛喜元年(かんぎ・がかねん/1229年)に藤原道家(/九条道家

/・・・通称は光明峯寺関白(こうみょうぶじ・かんぱく)。東福寺を建立した。)の娘/竴子(しゅんし、よしこ/藻璧門

院(そうへき・もんいん))が、第86代/後堀河天皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい)しますが、

ご婚礼道具の1つとして、お持ちになった屏風に書かれた歌です。


 7月 13日

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                            屏風絵とは・・・国宝・彦根屏風     (/・・・ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1024)


屏風は長く、36首の歌が書かれていたと言います。歌人は各テーマを受け持って詠む

わけですね。

72歳の家隆は、<晴れの屏風歌>の作者に抜擢(ばってき)され、大変な名誉となって

います。定家は4歳年下ですから68歳ですね。当然ここには、定家の歌も入っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1        

                                                              藤原家隆  /菊池容斎・画    明治時代  (パブリック・ドメイン/著作権フリー)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1025)


家隆が抜擢された歌は…

<網引(あびき)> <納涼(のうりょう)> <六月祓(みなづきはらえ)> などのテーマで、7首で

した。家隆は同門の<和歌の家>の大御所である定家に、事前に歌を見せ、批評を仰

いでいた様です。

何故、こんなことが分かるかというと、定家の日記/『明月記』に、次の下りがあるからで

す…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1        

                                                              藤原家隆  /菊池容斎・画    明治時代  (パブリック・ドメイン/著作権フリー) 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1026)


<・・・どうもみな、ぱっとしないようだ。ただ、六月祓(みなづきはらえ)の歌だけはましだ

な。ご本人は、どの歌も自信まんまんのていだが・・・>

さらに…

<前院(/・・・後鳥羽院)の御時(おんとき)、天下第一の歌を用ひらる。時移り事去る>

…と書いています。つまり、これが、当時の家隆の実力だった様ですね。



 7月 14日

岡田健吉‏@zu5kokd1        

                                                              藤原家隆  /菊池容斎・画    明治時代  (パブリック・ドメイン/著作権フリー) 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1027)


定家は…享年79歳。80歳ともありますから、それは数え年なのでしょうか。家隆も同様

に79歳まで生きた様です。

家隆は…晩年は難波(なんば/大阪府大阪市中央区・浪速区の地域名称)に移り住みました。難波に

はゆかりの深い歌人だった様ですね。

嘉禎(かてい)2年(/1236年)、79歳の時に病気を得て、出家します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1        

                                                              藤原家隆  /菊池容斎・画    明治時代  (パブリック・ドメイン/著作権フリー) 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1028)


家隆は阿弥陀如来(あみだにょらい)を信仰していたと言います。浄土教(じょうどきょう)の教え

では、<日想観>(にっそうかん)といって彼岸の落日を拝むと、<西方浄土>(さいほうじょう

ど)を目(ま)の当たりに拝む事が出来ると言います。

難波の上町台地(うえまちだいち)では、海に沈む夕日が美しかったのでしょう。家隆はそこ

に小さな庵をむすび…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                                                             家隆塚 /藤原家隆の墓  (大阪市天王寺区)   (/・・・ネットより画像借用) 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1029)


…<夕陽庵>(せきようあん)と命名し、歌を詠んでいます…


★ 契(ちぎ)りあれば 難波(なんば)の里に やどりきて 波の入日を 拝みつるかな


以後…

この辺りは、美しい落日の名所となり、夕陽丘(ゆうひがおか)と呼ばれるようになった様で

す。現在も、大阪市天王寺区に夕陽丘町の地名があるそうです…」



 7月 18日

   
海の日

岡田健吉‏@zu5kokd1   後鳥羽院      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1030)



【99番 → 後鳥羽院】
(ごとばの・いん/・・・平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代/後鳥羽天皇。

                    第80代/高倉天皇の第4皇子。母は坊門信隆(藤原信隆)の娘・殖子(しょくし/七条院)。

                   第77代/後白河天皇の孫であり、安徳天皇の異母弟に当たる。

                   後白河法皇の崩御後、自ら親政及び院政を行ったが、<治天の君>として第83代/土

                   御門天皇を退かせて、寵愛する第84代/順徳天皇を立て、その子孫に皇位継承させた事

                   には、貴族社会からは勿論、他の親王達からの不満を買った。また<三種の神器>を欠い

                   た即位の経緯も不評を買った。

                   専制的な暴政や無謀な討幕計画に対しては院の側近以外の貴族達は冷ややかな対応に

                   終始した。このため、<承久の乱>後においては、幕府の政治的影響力の拡大を差し引い

                   ても後鳥羽院に同情的な意見は少なく、『愚管抄』、『六代勝事記』、『神皇正統記』などは、

                   いずれも院が<覇道的な政策>を追求した結果が招いた、自業自得の最期であったと手

                    厳しいものがある。)


★ 人もをし
(愛し) 人もうらめし(恨めし) あぢきなく 

                  世を思ふゆゑ(え)に 物思ふ身は


  < 人間が愛おしくも…

        また、人間が恨めしくも思われる…

              あじきない世の中だと…

                   それを思うために悩んでしまう…

                          この私は… >


「この歌は…まず、後鳥羽院の歌ですよね。欝々
(うつうつ)として…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   後鳥羽院      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1031)


…意味のよく分からない様な歌です。院が隠岐に流された日々を連想させますが、実は

そうではなく…30歳の頃の述懐(じゅっかい/考えている事や思い出を述べること)です。<承久の乱

>よりも、9年も前の歌です。ちょっと驚きですよね。

ええ…ともかく、この歌は…『続後撰集(しょく・ごせんしゅう/10番目の勅撰和歌集) - 雑』 に載って

います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   後鳥羽院      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1032)


後鳥羽院は…

第80代/高倉天皇の第4皇子です。6歳で壇ノ浦で入水(じゅすい/水中に身投げして自殺するこ

と)した、第81代/安徳天皇の異母弟に当たられます。

平家が木曽義仲の軍に追われ…安徳天皇(/一緒に、<三種の神器>(みくさの・かむだから、さん

しゅのじんぎ・・・日本神話において、天孫降臨の時に、瓊瓊杵尊(ニニギのみこと)が天照大神から授けられたという<鏡

・玉・剣>)を奉じて西海へ逃げた後…祖父/後白河法皇は4歳の第82代/後鳥羽天皇

を即位させます。


(★ <三種の神器>なき即位 ★

安徳天皇が動座された過程で・・・

木曽義仲や源頼朝への恩賞問題や、政務の停滞を解消するために、安徳天皇に代わる<新主践祚(せんそ)>問題が

浮上していました。8月に入ると、後白河法皇は<神器無き新帝践祚>と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占(ぼくせん

/うらなうこと)に託します。

結果は・・・安徳天皇に期待を賭けるでしたが、既に平氏討伐のために<新主践祚>の意思を固めていた法皇は、再度

占わせ・・・“吉凶半分”の結果を、ようやく得たと言います。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   後鳥羽院      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1033)


まさに…武家政権が誕生する平安王朝末期の動乱の中で、譲位なくして、第82代天皇

に即位されたわけですね。

しかも…帝位にあったのは19歳までであり…譲位されて…幼い第83代/土御門天皇

が即位します。そして、ご自分は上皇となり、院政を敷きます。



 7月 19日

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                                                             後鳥羽院像     ( 伝藤原信実筆、 水無瀬神宮蔵 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1034)


さあ…鎌倉幕府との2重権力構造とはいえ、エネルギッシュな後鳥羽院の派手な院政

が始まります。

後鳥羽院は多芸多才な芸術家で、豪宕(ごうとう/ 気持ちが大きく、細かいことにこだわらず、思うままに

振る舞うこと)な好事家(こうずか/風流なことを好む人)でした。歌・蹴鞠(けまり)・.囲碁・双六(すごろく)

は古来から王侯貴顕(おうこう・きけん/・・・貴顕とは、身分が高く名声のあること)の教養ですが、院は

力持ちでもあり、武辺(ぶへん/戦で勇敢に戦うこと。その者。転じて、武道に関係する事柄)好みの帝王で

した。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                                                             後鳥羽院像     ( 伝藤原信実筆、 水無瀬神宮蔵 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1035)


刀剣も…コレクションされるだけでなく、自らも鍛(きた)えられています。備前一文字派の

則宗(のりむね/福岡一文字派の祖で、備前国の刀工)をはじめ諸国から鍛冶を召して月番を定めて

鍛刀(たんとう)させたと伝えられています。

自らも焼刃(やきば/切れない刀にハガネの焼き刃をつけ足したもの)を入れ、それに十六弁の菊紋を

毛彫りしたと言います。これを<御所焼> <菊御作>…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                                                             後鳥羽院像     ( 伝藤原信実筆、 水無瀬神宮蔵 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1036)


…などと呼ぶそうです。これが天皇家の菊文の始まりです。今も…<菊一文字>と呼

ばれるお作が伝えられているそうです。

さらに…旅好きという点でも、熊野御幸(くまのごこう/・・・白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇の院政期が

中心で、この4上皇の度数がとりわけ多い。全体で100度を数える。)は、30数回にも及びます。上皇の行

幸(ぎょうこう)ですから、おびただしい人々を引き連れ…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                                                             後鳥羽院像     ( 伝藤原信実筆、 水無瀬神宮蔵 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1037)


…泊まりで酒宴を重ね、豪奢(ごうしゃ/非常にぜいたくで、はでなこと)を極めた様ですね。人々は

何かお役をもらって旅について行き、そうした宴にあづかり、上皇と共に折々の季節を過

ごしていたわけです。

また…こうした折でないと、旅は経済的にも警備上も難しく、上皇の旅には軍事力/北

面の武士(/上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。西行法師も出家する前は、鳥羽院の北面の

武士でした。)が同行した様です。特に、高貴な女性などは、こうした折に出かけたわけです

ね。

定家も行幸・巡行(じゅんこう/方々をめぐり歩くこと)の供(とも)をしていて…定家の、『熊野御幸記

/熊野道之間愚記(後鳥羽院熊野御幸記)』(くまのごこうき)は、国宝に指定されています。

あ、定家の日記/『明月記』も国宝ですよね。


      

      国宝/ 熊野御幸記 藤原定家筆 1巻 鎌倉時代・建仁元年(1201年) 三井記念美術館蔵



 7月 20日

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                                                             後鳥羽院像     ( 伝藤原信実筆、 水無瀬神宮蔵 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1038)


また…ギャンブル好きで、色事も当代きっての粋人(すいじん/風流を好む人)でした。身分の低

い遊女も憚(はば)らずに召され、白拍子(しらびょうし/平安朝末期に起こった歌舞。また、それを舞う遊女。)

/亀菊(かめぎく)をご寵愛(ちょうあい)されたのは有名な話とか。

そんな院は、善美(ぜんび/ 善と美。善いことと美しいこと)を極めた水無瀬離宮(みなせりきゅう/かつて

大阪府三島郡島本町に所在した、後鳥羽天皇が避暑のため造営された離宮。現在は跡地に、水無瀬神宮があります。)

を造営されて住われます。譲位されフリーの身になっての、究極の浪費家と言えます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                                                             後鳥羽院像     ( 伝藤原信実筆、 水無瀬神宮蔵 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1039)


さあ…

そんな後鳥羽院は20歳前後から、和歌に情熱を噴出させます。定家はずっと、院のお

目に止まりたいと願って来たわけですが、ついに蜜月状態となります。

歌壇は…後鳥羽院を中心に、ルネッサンス(/14世紀末から16世紀の初めにかけて、全ヨーロッパに広

がった芸術・学術の革新運動。文芸復興。)の時代となります。

『新古今集』はこの時期の、歴史的な芳醇(ほうじゅん/かおり高く味のよいこと)な果実となります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                                                             後鳥羽院像     ( 伝藤原信実筆、 水無瀬神宮蔵 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1040)


くり返しますが…

『新古今集/新古今和歌集』 は…鎌倉時代・初期に編纂(へんさん)された<勅撰和歌集

>(ちょくせん・わかしゅう/天皇や上皇の命により編集された歌集)であり、全20巻、<八代集>(はちだい

しゅう/勅撰和歌集のうち最初の『古今集』から8番目の『新古今集』までをいう・・・『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和

歌集』『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』『千載和歌集』『新古今和歌集』の8集。)の最後を飾るもので

す。

撰者は、後鳥羽院の院宣(いんぜん/院司が上皇や法皇の意志を奉じて出す奉書。宇多法皇に始り、院政の発

展とともに次第に重要性を増した。一般政務のほかに、私的な面にも使われた。)により…次の6人です。


★ 源通具
(みなもとの・みちとも/七朝にわたり奉仕し、村上源氏の全盛期を築いた父・通親の代理という意味合い

が強い・・・日本曹洞宗開祖の<道元禅師>は、通具の子であるとする説がありますが、道元は異母弟であり、通具はそ

の養父であったという説もある)

★ 六条有家(ろくじょう・ありいえ/藤原有家で、和歌所の寄人)

★ 藤原定家

★ 藤原家隆(/和歌を藤原俊成に学んだ。【98番→従二位家隆】)

★ 飛鳥井雅経(あすかい・まさつね/飛鳥井家の祖・・・【94番→参議雅経】)

★ 寂蓮(じゃくれん/僧・俊海の子として生まれ、叔父の藤原俊成の養子となる。30歳代で出家、歌道に精進。御子

左家の中心歌人として活躍。和歌所の寄人・・・【87番→寂蓮法師】)


     

      新古今和歌集  〈自巻第一至巻第十五/〉                   ( ネットより画像借用 )         



 7月 21日

岡田健吉‏@zu5kokd1  後鳥羽院     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1041)


ただ、寂蓮は撰集途上で没していて、実際の撰集作業は寂蓮以外の5人で行われたと

言われます。

さて…後鳥羽院の歌の方ですが、本来はこの歌の様に鬱々(うつうつ)としたものではあり

ません。美しく、大らかで、王者の風格の漂うものです。

幾つか並べてみましょう…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  後鳥羽院     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1042)


★ ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし 天の香具山 霞(かすみ)たなびく


★
見わたせば 山もと霞(かす)む 水無瀬川(みなせがわ) 夕べは秋と なに思ひけむ


★ み吉野の 高嶺
(たかね)の桜 散りにけり 嵐も白き 春のあけぼの


★ 寂しさは 深山
(みやま)の秋の 朝ぐもり 霧にしをるる 槙(まき)のした露

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  後鳥羽院     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1043)


★ 難波江(なにわえ)や あま(海人)のた(焚)くな(菜)は 燃えわびて 

                      煙にしめる 五月雨(さみだれ)のころ


★ さびしさを いつより馴れて ながむらん まだ見ぬ山の 秋の夕暮



やがて…院と定家は、歌の評価をめぐって関係が悪化…定家は蟄居(ちっきょ)を命じられ

て貧窮(ひんきゅう)…院の情熱は政治へと向います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  後鳥羽院     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1044)


後鳥羽院は天皇親政(てんのうしんせい)に目覚め、倒幕の志(こころざし)を抱かれるようになり

ます。思い通りにならない、幕府が許せなかったのでしょう。古(いにしえ)の、第40代/天

武天皇のカリスマ的な親政を、夢見ていたのでしょうか?


★ 奥山の おどろが下も 踏み分けて 道ある世ぞと 人に知らせむ



 7月 22日

岡田健吉‏@zu5kokd1  後鳥羽院     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1045)


<承久の乱>の時…後鳥羽院は42歳…官軍はあっけなく敗れ、院の王権は断絶、そ

して、隠岐へ配流の身となります。

官軍は正規軍であり…天皇及び朝廷に属する軍です。後鳥羽院は鎌倉幕府打倒のた

めに、<北条義時を朝敵とする・・・義時追討の宣旨(せんじ)>が全国に発布され…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  後鳥羽院     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1046)


…<諸国の守護人(しゅごにん/鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮

官・行政官)・地頭(じとう/荘園で、租税徴収・軍役・守護に当たった管理者。後に権力を増して領主化。)に・・・

上皇の元に馳(は)せ参じるよう命>が出されました。

しかし…北条義時(ほうじょう・よしとき)の嫡男(ちゃくなん)/北条泰時(やすとき)の幕府軍が、京

都を制圧…<官軍は・・・あえなく敗北> します。


<後鳥羽上皇・・・隠岐に配流、所有していた荘園はすべて没収>

                                          (/・・・配流の直前に出家し法皇となります。)

<順徳上皇・・・佐渡に配流>

(じゅんとく・じょうこう/・・・後鳥羽天皇の第3皇子。父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、子の懐成親王

(かねなり・しんのう/第85代・仲恭天皇・・・ちゅうきょう・てんのう)に譲位。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的だ

った。)

<土御門上皇・・・土佐に配流>

(つちみかど・じょうこう/・・・後鳥羽天皇の第1皇子。後鳥羽院に譲位させられ、順徳天皇が即位。<承久の乱>の折

には、土御門上皇は何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったが、父/後鳥羽院が遠流であるのに、

自分が京にいるのは忍びないと、自ら申し出て、土佐国に配流となった。後に、より都に近い、阿波国に移された。)



 7月 28日

岡田健吉‏@zu5kokd1  後鳥羽院     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1047)


後鳥羽院は…42歳で隠岐に島流しになって、18年間過ごされ…隠岐で60歳で崩御し

ています。

後鳥羽院は…中世における屈指の歌人であり、歌作は後の時代にまで大きな影響を与

えています。『新古今集』でも、定家の日記/ 『明月記』 の記録から、院御自身が撰歌

から配列まで…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  後鳥羽院     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1048)


…深く関与し、実質的に撰者の1人となっているそうです。

あ、それから…エピソードを1つ…

後鳥羽院は…御忍びで、地下連歌の席に出向いて…当時、自らお出しになった<銭禁

令/宋銭禁止令(そうせん・きんしれい/・・・宋銭とは、大陸の宋の貨幣)>に反して銭を賭け、勝利し

たコトがある様ですね。…後日、この事を…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                             島根県隠岐郡の・・・海士町 /後鳥羽院資料館

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1049)


…<見苦し>としながらも、再び連歌で賭け事をされたことが、後鳥羽院の宸記(しんき/

・・・後鳥羽院宸記/日記)に記されている様です。どうも、院はギャンブルがお好きだった様で

すね。院のお人柄や…当時の生活ぶりが偲ばれますよね…


さて…

定家は、貞永元年(じょうえい・がんねん/1232年)に、第86代/後堀河天皇の勅命を受け…



 7月 29日

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                           後鳥羽院歌碑      鴨川畔/京都市左京区下堤町  (ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1050)


…『新勅撰集/新勅撰和歌集』 を撰進する事になります。これは定家1人が撰者となる

もので、歌人として大きな名誉でした。

定家は、そこに…

優れた歌人として、後鳥羽院のお作を、是非、入れたいと思いました。でも、院の配流は

解かれず、鎌倉幕府は院に厳しい態度を取り続けます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

         水無瀬神宮拝殿/大阪府三島郡島本町/ 後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る  (ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1051)


うーん…

ここには…政治的な思惑が絡(から)んでいて、定家は後鳥羽院やその関係者のお作を、

『新勅撰集』 に入れる事ができませんでした。

そのかわりに、定家は…『小倉百人一首』 の方に、後鳥羽院と、佐渡に配流になった順

徳院(/後鳥羽院の第3皇子)のお作を入れたわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                   大原陵(おおはらの・みささぎ)/京都府京都市左京区大原勝林院町  (ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1052)


うーん…古来、そう見る人が多ということですね。

定家は院の後半生の述懐として…33歳の時の物憂(ものう)いこの歌を選びました。配流

の時の….


★ われこそは 新島守
(にいじまもり)よ おき(隠岐)の海の 荒き波風 心して吹け

…と好対象です。定家の、深い想いのこもった…1首です…」



 7月 30日

岡田健吉‏@zu5kokd1   順徳院  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1053)

【100番 → 順徳院】(じゅんとくいん/第84代・順徳天皇(じゅんとく・てんのう)/・・・後鳥羽天皇の第3皇子。母

                   は藤原範季の娘・重子(修明門院)。第83代/土御門天皇の皇太弟となる。

                   穏和な土御門天皇とは対照的に激しい気性の持ち主だと言われていて、後鳥羽上皇から大

                   きな期待を寄せられていた。

                   摂政/九条良経が自分の娘(立子)を土御門天皇に入内させようとすると、後鳥羽上皇はそ

                   れを中止、東宮(/順徳天皇)の妃にするように命じ、更に長年朝廷に大きな影響を与えてき

                   た後白河法皇の皇女で歌人として名高かった式子内親王を東宮の准母にしようとした。彼女

                   の急死で失敗に終わると、代わりとして上皇自身の准母であった殷富門院(式子の姉)を准

                   母として、上皇の後継者としての地位強化が図られた。

                   さらに承元2年(1208年)8月、莫大な八条院領を相続人である異母姉の昇子内親王(春華

                   門院)を准母とし、建暦元年(1211年)11月の昇子内親王の死後には八条院領を相続した。

                   承元4年(1210年)11月後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚。

                   譲位した土御門上皇には権力は無く、後鳥羽上皇による院政が継続される。)


★ ももしき
(百磯城)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり


  < 宮居(みやい)の古き軒端に…

           しのぶ草が生い茂る…

                  私がしのぶのは…

                        そのかみのこと…

                     しのんでも…

                しのびつくせないほど…

           思い慕われてくるのは…

       古きよき時代のことだよ… >


岡田健吉‏@zu5kokd1   順徳院  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1054)


「この歌は…『続後撰集 - 雑』 に、<題しらず>として載っています。

<ももしき>とは…内裏(だいり)や宮中のことです。“百磯城”という字を当て、“沢山の石

でもって築いた城”、という意味だそうです。

<しのぶ>は…“忍草”と、思い出を“偲ぶ”に掛けていますよね。



 8月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1   順徳院  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1055)


すでに触れていますが…順徳院は後鳥羽院の第3皇子です。後鳥羽院には異母兄の

第1皇子/土御門院/第83代・土御門天皇がいます。

『増鏡』(ますかがみ)によれば土御門帝は…<父みかどよりは、すこしぬるくおはしまし

けれど、情け深う>…とあり、温厚な方だった様ですね。


(★ 『増鏡』(ますかがみ)

歴史物語・・・成立は南北朝時代と推定。作者は未詳。<「四鏡>の成立順では最後に位置する作品です。

<四鏡>は・・・『大鏡』、『今鏡』、『水鏡』、『増鏡』の4つの歴史物語(/歴史書)。平安時代後期から室町時代前期まで

に成立した<鏡物(かがみもの)>です。)


岡田健吉‏@zu5kokd1   

                                                             順徳天皇像  ( 宮内庁蔵 『天子摂関御影』 より )       ( /パブリック・ドメイン)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1056)


そして、異母弟の第3皇子は兄君より…<少しかどめいて、あざやかにぞおはしまし

ける>…と、才気があり、活発明朗だったご様子です。

和漢の学に長じ、父院ゆずりの歌才があり、歌論書/『八雲御抄』(やくもみしょう)を著(あらわ)

すほどの歌学者です。後鳥羽院は温厚でおとなしい…


(★ 八雲御抄 (やくもみしょう)

順徳天皇/編著。六巻。鎌倉初期の成立。正義・作法・枝葉・言語・名所・用意の六部より成る。それまでの歌学・歌論を

組織的に集大成したもの。承久の乱 (1221年) 以前に稿本はできていましたが、乱に敗れて佐渡に配流後改訂を加え、

院の最晩年に完成したと考えられます。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   

                                                             順徳天皇像  ( 宮内庁蔵 『天子摂関御影』 より )       ( /パブリック・ドメイン)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1057)


…兄皇子よりも、御自分似(ごじぶんに)で文武両道に秀(ひい)でた、弟皇子を愛されたので

しょう。

そして、ついに…土御門帝を譲位させ、弟皇子を即位させます。これが第84代/順徳

天皇です。

土御門帝は16歳で退位させられた様ですね。でも、土御門院は温厚な方で、内心はと

もかく…



  8月 6日

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                                                             順徳天皇像  ( 宮内庁蔵 『天子摂関御影』 より )       ( /パブリック・ドメイン)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1058)


…柔和に従ったご様子です。

やがて…後鳥羽院が倒幕の志を持たれた時、最大の協力者は順徳天皇でした。お2人

は味方となる公家や武士を糾合し、着々と謀(はかりごと)を進められますが…<保元の乱

→ 平治の乱→ 源平の争乱> と続いた、武家の実力/時代の流れを見誤っておられ

ました。

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                                                             順徳天皇像  ( 宮内庁蔵 『天子摂関御影』 より )       ( /パブリック・ドメイン)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1059)


結局…

<承久の乱> は官軍/後鳥羽院・順徳天皇側の、あっけない敗退となり、思いもしな

かった新時代の幕開けとなります。

“幕府の実力が・・・天皇/官軍よりも強くなった事”を、天下に知らしめたわけです。以

後、この関係は<明治維新/大政奉還>(たいせいほうかん/江戸時代末期・・・慶応3年10月14日

(1867年11月9日)に、江戸幕府第15代将軍/徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅

許した)まで、646年間も、続くことになります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                                                             順徳天皇像  ( 宮内庁蔵 『天子摂関御影』 より )       ( /パブリック・ドメイン)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1060)


<承久の乱> 後の鎌倉幕府の戦後処理は、容赦の無いものでした。後鳥羽院は隠岐

へ、順徳院は佐渡(さど/新潟県佐渡市/人口約5万6000人で、東京都の半分ほどの面積があります・・・奈良

時代から流人の島として知られ、後の江戸時代には、金銀の採掘で徳川幕府の経済基盤を支えました。)へ島流しに

なります。

天皇・上皇そろっての島流しなど、前代未聞の事です。後鳥羽院が42歳、順徳院は25

歳の若さでした。順徳院の母/修明門院は、悲しみのあまり尼となられました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                             順徳天皇像  ( 宮内庁蔵 『天子摂関御影』 より )       ( /パブリック・ドメイン)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1061)


一方…土御門院(つちみかどいん)は乱には無関係で、幕府の咎めはありません。でも、父

君・弟君が配流となり、我1人が都で暮らすわけにも行かないと、自ら進んで土佐へ移

られます。後に、より近い阿波に移ります。

鎌倉幕府は、傍流の皇族から第86代/後堀河天皇を即位させます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                             順徳天皇像  ( 宮内庁蔵 『天子摂関御影』 より )       ( /パブリック・ドメイン)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1062)


実は、<承久の乱> の前…

順徳天皇は乱に備えて譲位し、ご自分の4歳の第4皇子の、第85代・仲恭天皇(ちゅうきょ

う・てんのう)を即位させています。

でも…鎌倉幕府は仲恭天皇も廃されます。仲恭天皇は幼児であり、鎌倉将軍/九条頼

経(くじょう・よりつね/鎌倉幕府の第4代征夷大将軍。摂家から迎えられた摂家将軍。 両親ともに源頼朝の同母妹/坊

門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは血縁関係にある。)の従兄弟であることから、その廃位は予想

外であった様です。

これには…後鳥羽院の挙兵を非難していた慈円/【95番 → 前大僧正慈円】さえも…

幕府に復位を願う願文を納めています。



  8月 7日

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1063)


順徳院は…

20年間…佐渡で悶々と暮らされました。後鳥羽院同様に幕府は順徳院を許さず、つい

に還京(かんきょう/都へ帰ること)はかなわず、この遷幸(せんこう/天皇・上皇が他の場所に移ること)の

地で崩御されます。

佐渡では…仏道修行に専心されていた様ですが、いずれは沙汰(さた)があると、一縷(い

ちる)の望みを繋(つな)いでおられた様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1064)


隠岐に配流の父院とも…ごくまれに、かすかな文を交わす事もあった様です。

くり返しますが…

『小倉百人一首』 のこの歌は…佐渡の地で宮廷の栄華の日々を偲んでいる様ですが、

実は、院が20歳の時のお作と言うことですね。まさに、父院とともに倒幕/天皇親政へ

の、熱い血潮で謀(はかりごと)を始めた頃でしょうか…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1065)


<承久の乱> から10年後…

まず、土御門院が阿波で崩じられます。咎(とが/他人が非難する・・・もっともな欠点、過ち、けしからぬ

行い)の無い土御門院に対しては、幕府は阿波の守護(しゅご/鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家

の職制)に命じて宮殿を造営するなど、厚遇振りを見せています。

そして、<承久の乱> から18年後…

後鳥羽院が、隠岐で60歳で崩御(ほうぎょ)されます。

順徳院の崩御は…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1066)


…21年後で、46歳と伝えられます。仁治3年(1242年)9月12日、病気は重くなかったの

ですが…

<還京の望みがない以上の存命は無益>

…として、断食を行った後、最期は自らの頭に焼石を乗せ、亡くなったと伝えられます。

都では…

土御門院と順徳院の母君が、それぞれお手元に孫宮を育てられていましたが、折しもそ

の時…後堀河帝(/第86代・後堀河天皇)の皇統が絶えてしまわれます。時の天皇も、同じ頃

に、崩御されたわけです。

さて…次の天皇は、幕府の指示待です。それで、都/宮殿は、騒然としていた様子です。



  8月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1067)


土御門院の母は承明門院(しょうめいもんいん/源在子(みなもとの・ありこ、ざいし)・・・父は法勝寺執行能円

で母は藤原範兼の娘の藤原範子。源通親の養女)、順徳院の母は修明門院(しゅうめいもんいん/藤原重子

(ふじわらの・じゅうし、しげこ)。 藤原南家高倉流・藤原範季(のりすえ)の娘。母は平家一門の平教子)です。

お2人の祖母君は我が孫宮(まごみや)こそ…と御悲しみを乗り越えて、胸をときめかせま

す。ギャンブル好きの後鳥羽院の霊も…隠岐の海原か、難波の水無瀬離宮(みなせりきゅう)

の辺りからか…心ときめかせて、ご覧になっていたのでしょうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1068)


やがて…

東国/鎌倉からの使者が都に駈け込み、声高(こわだか)く叫びます…

<承明門院のおわします御所はどこだ!>

かくして…

土御門院の忘れ形見の皇子が皇位につかれ、長く皇統を伝えることになります。順徳

院が佐渡で崩じられたばかりですが、幕府は討幕の首謀者の1人の順徳院の皇子を…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1069)


…次の天皇として即位させる気は無かった様です。

うーん…

定家は…『小倉百人一首』 の冒頭に…

第38代/天智天皇と第41代/持統天皇という御父子(/持統天皇は・・・第40代・天武天皇の后

で、天智天皇の皇女の鸕野讚良(うののさらら、うののささら)・・・大海皇子/天武天皇は、中大兄皇子/天智天皇の実

弟であり右腕で、共に<大化の改新>を遂行するも・・・皇位継承で争い、<吉野への逃避行・・・吉野出兵>を経て、<

壬申の乱>(じんしんのらん)となった。)の御歌をすえ…

末尾にも、後鳥羽院と順徳院という御父子の御作を置いて、『小倉百人一首』 を締めくく

っています。



  8月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1070)


後鳥羽院のお作も、順徳院のお作も…

隠岐や佐渡で配流中のお作の様な、悶々とした、陰鬱な響きがあります。でも、ともに、

意気軒昂(いきけんこう/意気込みが盛んで、元気いっぱいなさま)な若かりし時のお歌ですよね。

両院とも…一家言(いっかげん/その人独特の、意見や主張)を持つほどの歌人であり、優艶・典

雅(ゆうえん・てんが/あでやかで美しいこと・整っていて上品に美しいさま)なお作は数多(あまた)あります。

定家は、何故、この様な歌を選ばれたのか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1071)


おそらく…

定家は、熟慮に熟慮を重ねた末に…この2首を選び…そして、『百人一首』 の締めくくり

として、後鳥羽院と順徳院の御父子の、この様なお作を据えたのだと…思われます。

それ以前に…

定家は、第87代/後堀河天皇の勅命(ちょくめい/天皇の命令、みことのり)を受け、『新勅撰集』

を撰進しています。1370首強の編纂が完成したのは…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1072)


…第87代/四条天皇の時代の文暦2年(1235年)になりますが、当代の卓越した歌人と

して、どうしても後鳥羽院のお作は、外せませんでした。

でも…

<勅撰集>は勅命による公的な歌集です。咎人(とがにん/罪を犯した人)であり…いまだ許

されず、配流中の…後鳥羽院と順徳院のお作を入れることは…鎌倉幕府の威圧がか

かり…どうしても、『新勅撰集』 に入れる事がかないません。


(★ 隠岐の後鳥羽院と・・・都の定家の関係・・・    <・・・響子談・・・>

『後鳥羽院御口伝』 (ごとばいん・ごくでん/後鳥羽院の著書・・・初心者のための心得や、一般的知識を述べ、源経信以

下の当代の歌人を批評したもの )

・・・には、“骨をさすばかりの痛烈な定家批判”があるといいます。<承久の乱>以後の、逆転したお立場の浮き沈みもあ

り、釈明の文を交わすことも、ままならなかった様子ですね。

・・・後鳥羽院は配流の直前に出家し、法皇となられた様ですが、その折にも定家の<蟄居>をお解きになることは無かっ

たものと思われます。また定家も、その折にでも、無理にでも後鳥羽院と接していたなら、<仲直り>がかなったのかも知

れません。

・・・さらに、『新勅撰集』 に後鳥羽院ら3上皇(/後鳥羽院、土御門院、順徳院)の歌が入っていないことには、後鳥羽院

の旧臣からだけではなく、定家自身の周辺からも、強い批判を受けていた様子です。

・・・ということは、<広い・・・和歌の伝統の流れ>から、入れることも可能だったのでしょうか?確かに、過去には、そうい

う流刑地での歌もあった様ですが・・・それは王朝時代のことであり、<新しい武家社会> の開闢(かいびゃく)においては

許されなかった・・・という事でしょうか。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1073)


そこで、定家は…

私的な 『百人一首』 ならば、誰の歌を入れようが構(かま)わないという事で、後鳥羽院と

順徳院のお作を並べてみます。

さあ…ここからは、パズルの組み合わせになるわけですね。第38代/天智天皇以来の、

<膨大な・・・歌/歌人/時代・・・のデータの山>です。そして、思う事は…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1074)


…定家の、後鳥羽院への、深い思慕(しぼ/思い慕うこと、恋しく思うこと)の誠(まこと)です。

それを…隠岐の後鳥羽院へ、どうお伝えする事ができるか…

希代(きたい/稀代/世にまれなこと)の歌人にして、大歌学者が…京/嵐山の小倉山荘におい

て…日々、深い想いを巡らせたわけですよね。

当時の、小倉山荘は…どの様な佇(たたず)まいだったのでしょうか?ほほ、そんな事を思

うと…



  8月 10日

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                              順徳天皇      ( /ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1075)


…日々の食べ物はどんなだったのか、と色々と想像してしまいますよね。

ともかく…<定家という・・・お人>は…

後鳥羽院と、良き歌のことでくい違い…主張を貫いて、院に折れる事を知らず…逆鱗(げ

きりん)に触れて、<蟄居! >(ちっきょ)とは…?…

かたや…後鳥羽院は、多才多芸の天下の大浪費家。あげくに、倒幕に…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

     水無瀬神宮(大阪府)/後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。かつて水無瀬離宮の場所/ネットより画像借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1076)


…情熱を移され、<承久の乱>であえなく敗退とは…

ほほ…お2方とも、<いい気な・・・オッサン>、の観がありますよね。その上で、後鳥

羽院は、<やるかたない・・・定家批判>を行います。

定家には…後鳥羽院・旧臣や、自身周辺からの批判…そして、幕府からは氷の刃の様

な体感的な威圧が加わります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                 

                                                             藤原定家    伝藤原信実筆/鎌倉時代      ( /パブリック・ドメイン)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1077)


そうした都の空気の中で…『小倉百人一首』のパズルが出来上がって行きます。

定家は…

『万葉集』の様に、身分・性別・政治を超え、俗人も出家者も、幕府が忌避する咎人の後

鳥羽院も順徳院も、万遍なくちりばめ、個人的信念のもとに配置して行きます。問題にな

るのは…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原定家墓(相国寺)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1078)


…やはり、後鳥羽院と順徳院です。そこで、両院の憂悶(ゆうもん/思い悩み、苦しむこと)やるか

たなきお作を選び、<晴れやらぬ・・・両院の胸中>を、代弁して参らせたわけですね。

ええ…これで、天智天皇から順徳院までの…100首を完了とします。

あと…【まとめ】 を…少し付け加えます…」


 8月 11日

 

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                           京都/嵐山/時雨殿・・・百人一首ミュージアム    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1079)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (1)  


「うーん…」響子が手をかざし、猛暑の日差しの眩(まぶ)しい窓に目を投げた。「それは…

嘉禎(かてい)元年/1235年の…夏の日の事と言われます。

嘉禎元年は、文暦2年と同年/1235年ですが、この年、3月12日に 『新勅撰和歌集』

が完成し…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                           京都/嵐山/時雨殿・・・百人一首ミュージアム    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1080)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (2)  


…第87代/四条天皇に上奏されています。その年の、夏のことです。

74歳の定家は、息子/為家(ためいえ)の嫁の父/宇都宮入道蓮生(うつのみや・にゅうどう・れ

んしょう/宇都宮頼綱(うつのみや・よりつな)/鎌倉時代前期の武士・御家人・歌人。藤原姓宇都宮氏5代当主。官位

は従五位下越中守・・・)に…

<別荘の襖(ふすま)に、和歌の色紙を貼りたいと思いますが、ひとつ撰歌して揮毫

(きごう/筆をふるって、字や絵をかくこと。)して下さらぬか>と…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                           京都/嵐山/時雨殿・・・百人一首ミュージアム    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1081)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (3)  


…頼まれました。

蓮生(れんしょう)は、元は関東の豪族ですが、京の嵯峨(さが)/小倉山に中院山荘と呼ば

れる別荘を持っていました。定家の<小倉山荘>とも近い所でした。

入道蓮生は、僧名(そうめい/出家得度とた時にもらう名前)ですが、定家も2年前に出家(法名: 明静)

しています。



 8月 12日

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                           京都/嵐山/時雨殿・・・百人一首ミュージアム    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1082)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (4)  


息子/為家は、定家よりも順調に出世し、歌道の家を不動のものとしています。定家と

しては、隠岐の後鳥羽院の事はあるにしても、まずまず、安泰な老後でした。その定家

が…

<撰歌はともかく、揮毫(きごう)とは・・・

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                           京都/嵐山/時雨殿・・・百人一首ミュージアム    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1083)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (5)  


・・・私は書家ではないから、見苦しいことでございましょう>

…と辞退します。

しかし、蓮生は切にと懇願し、定家はやむなくその様にします。定家の日記/『明月記』

によれば…5月27日(/旧暦)のくだりはこうです…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                           京都/嵐山/時雨殿・・・百人一首ミュージアム    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1084)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (6)  


<予(よ)、本(もと)より文字を書くことを知らず。嵯峨中院障子の色紙形、故(ことさら)に

予(よ)書く可(べ)き由(よし)、彼(か)の入道懇切(こんせつ)、極(きわ)めて見苦しき事と雖(い

へど)も、憖(なまじい)に染筆(せんぴつ)して之(これ)を送る。古来の人の歌各一首。天智天

皇自(よ)り以来、家隆(かりゅう、いえたか)雅経(まさつね)に及ぶ>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                           京都/嵐山/時雨殿・・・式子内親王    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1085)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (7)  


…これが『百人一首』 について、定家が書きしるした文章です。百首あったとは明記され

ていません。この文章から、様々な説が打ち立てられて来たわけです。

ともかく…

蓮生に送ったものとしては、天智天皇・持統天皇で始まり、藤原家隆(/【98番→従二位家隆】)

・藤原雅経(/【94番→参議雅経】/飛鳥井雅経)で終わっていたのでしょうか?その600年間に

及ぶ和歌の歴史を、シンメトリックに配していた様ですね。

うーん…

ともかく定家は、その年、彼1人が撰進した…







 8月 13日

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                           京都/嵐山/時雨殿・・・百人一首ミュージアム    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1086)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (8)  


…『新勅撰和歌集/新勅撰集』 には、満足していませんでした。

歌道家/文学者としての定家は…当代を代表する歌人の1人であられる、後鳥羽院の

お歌を<勅撰集>に入れなかった事は、歌道史上の片手落ち、末代まで響く、と考え

たのでしょう。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                           京都/嵐山/時雨殿・・・百人一首ミュージアム    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1087)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (9)  


さらには…

土御門院と順徳院のお歌も、<勅撰集>に入れてしかるべきです。でも、定家はよほ

ど鎌倉幕府の意向というものを恐れたのでしょう。

そして…入れることも可能、と見たからこそ、周囲の批判が定家に集中した…とも思わ

れます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                            京都/小倉百人一首誕生の地 小倉山    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1088)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (10)  


そこで、私/響子は…

氷の刃の様な、体感的な威圧があったと見ています。公家の威圧ではなく、新興の武家

の威圧です。

この時点(/『新勅撰和歌集』の第87代四条天皇への上奏の時点)では…

もちろん…後鳥羽院も順徳院も健在であられます。ただ…土御門院は、4年前に阿波で

崩御されています。

定家は…蓮生に頼まれた…



 8月 14日

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                            京都/嵐山/時雨殿・・・百人一首ミュージアム    (ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1089)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (11)  


…百首を撰歌しながら思ったのでしょうか…

<・・・公的な勅撰集では、幕府の意向には逆らえなかったが・・・私的な別荘の襖

(ふすま)に貼る色紙ならば・・・配流中の後鳥羽院と順徳院のお歌を入れて、何の不

都合があろうか・・・>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                            京都/嵐山/時雨殿・・・百人一首ミュージアム    (ネットより画像借用)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1090)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (12)  


定家は…

撰歌を改めて並べ直し、今度は躊躇(ちゅうちょ)なく後鳥羽院と順徳院のお歌を入れます。

しかも、両院の憂悶(ゆうもん)やるかたなきお歌を選び、晴れぬ両院の胸の内を、代弁し

て参らせました。

そして、百枚の色紙をあれこれ按配(あんばい/ほどあい、程よく並べること)しているうち…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                            京都/嵐山/時雨殿・・・百人一首ミュージアム    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1091)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (13)  


…パズルの様な意図/暗喩(あんゆ/隠喩(いんゆ)ともいい・・・比喩の一種でありながら、比喩であることを

明示する形式ではないものを指します )を込める事を、思い付いた様ですね。

ともかく…

この『小倉百人一首』 は、定家から息子/為家(ためいえ/別称は中院禅師・冷泉(れいぜい)禅門・

民部卿入道・・・順徳院が佐渡に配流されることになると、その供奉者の1人として院から同行を希望された為家は、手の

ひらを返すように、これを辞退しています。)と受け継がれ、完成して行ったと考えられている様です

ね。定家が撰歌したのは、間違いないのですが…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                            京都/小倉百人一首誕生の地  桂川    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1092)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (14)  


…歌の作者名が嘉禎(かてい)元年当時のものではなく、後の時代の呼び名もあり、為家

が手を加えたと考えられています。

あ、この為家も、後鳥羽院の近習(きんじゅう/主君のそば近くに仕える者)の1人でした。したがっ

て父/定家の意を受け、『百人一首』の体裁(ていさい/外から見える・・・物の形、様子、外見 )を整

えた様ですね。



 8月 15日

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                           京都御所/右手前が承明門で、奥が紫宸殿    (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1093)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (15)  


後鳥羽院は…

延応元年/1239年…

『新勅撰和歌集』が上奏されてから4年後…

還京(かんきょう/都への還幸)がかなわぬまま、隠岐で、60歳で崩御されました。

その2年後…定家も後を追うように…80歳で亡くなっています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

 京都御所/南正面にある建礼門(正門)  ここから入り、上の写真の承明門を抜け紫宸殿に至る。  (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1094)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (16)  


順徳院は…

さらに、その翌年になるのでしょうか。仁治3年/1242年に…前に触れたように…佐

渡で、非業のご最後と伝えられています。

『小倉百人一首』 は、当初の…定家の予想をはるかに超え…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

    京都御所/清涼殿  紫宸殿の北西部に東面して建つ。天皇が日常生活をおくった場所。   (ネットより画像借用)  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1095)

【★ 小倉百人一首・・・成立の由来】 (17)  


…600年に及ぶ和歌のエキスをまとめた…“1000年の輝きを持つ至宝”に、変貌した

様ですね。

さあ…“これ以上の評価”は…浅学・若輩者の私が、アレコレと言うことではない様です

ね。

《響子の…小倉百人一首》 は…これで完了とします…」

 

   【 《響子の・・・小倉百人一首》/完 】