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         響子の・・・ 小倉百人一首  

     第 1 巻  < 1 ~ 20 > (2015年/1月11日~2月12日)
 

 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/37/Hyakuninisshu_004.jpg        http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/95/Hyakuninisshu_002.jpg          

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【1番 → 天智天皇】  秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
【2番 → 持統天皇】  春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
【3番 → 柿本人麿】  あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
【4番 → 山部赤人】  田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
【5番 → 猿丸大夫】  奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きくときぞ 秋はかなしき
【6番 → 中納言家持】  かささぎの わたせる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞふけにける
【7番 → 安倍仲麿】  天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
【8番 → 喜撰法師】  わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と ひとはいふなり
【9番 → 小野小町】  花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
【10番 → 蟬丸】  これやこの 行くも帰るも わかれては しるもしらぬも 逢坂(あふさか)の関
【11番 → 参議篁】  わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟
【12番 → 僧正遍昭】  天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
【13番 → 陽成院】  筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
【14番 → 河原左大臣】  みちのくの しのぶもぢずり たれ故に 乱れそめにし われならなくに
【15番→光孝天皇】  君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ
【16番→ 中納言行平】  たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む
【17番→ 在原業平朝臣】  ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
【18番→ 藤原敏行朝臣】   住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢の通い路 人目よくらむ
【19番→ 伊勢】   難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を すぐしてよとや
【20番→ 元良親王】   わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ

 

             上から ・・・下へ   



★ はじめに・・・★

























岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原定家       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(1)


★ …はじめに… ★

「《 HP - 人間原理空間 》 の里中響子です。

HP では  《危機管理センター》  と“短歌”を担当しています。今回、ボス/岡田の

代理で、Twitter で 『小倉百人一首』/藤原定家・撰集 を考察します。

 “参考文献” は主に、『田辺聖子の小倉百人一首』 を使います。百首を、夏頃までに、

と考えています」


 1月 11日

岡田健吉‏@zu5kokd1   天智天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(2)

【1番 → 天智天皇】(てんちてんのう 、てんじてんのう/第38代天皇、中大兄皇子、大化の改新を行う)


★
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ


< 実りの秋の田の番小屋に、私は泊まっている…

           屋根を葺いた苫は粗く、漏る露に私の袖は、しとどにぬれた…>


「有名な巻頭歌ですが、実は天智天皇の御製(ぎょせい/天皇の作る詩文や和歌)ではない

ようですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   天智天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(3)

…ともかく、天智帝(てい、みかど、/天皇の尊称)の7世紀頃の歌風ではない様です。

ええ、ちなみに 『万葉集 - 巻10』 に…


★ 秋田かる 仮庵を作り わが居れば 衣手さむく 露ぞおきにける


…という歌
(/そうした経緯で・・・『後撰集 - 秋の部』に、「題しらず 天智天皇御製」として載せられていて、定

家もそこから採った様です)があります。これがいつしか、平安朝の歌風(/新古今風)に変えら

れ、天智帝が擬(ぎ)せられた(/みなされた)様です。」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 持統天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(4)

【2番 → 持統天皇】(じとうてんのう/第40代天武天皇の皇后、第41代天皇・・・飛鳥浄御原令の制定。

                  藤原京の造営。)


★
春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山


< 早も、春は過ぎゆき、夏が来たらしい...

      天の香具山には、夏のならわしとして、真白な衣が干されているという…>


「ええと…この歌は、『万葉集 - 巻1』 に原歌がありますね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 持統天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(5)

★ 春すぎて 夏きたるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山  (『万葉集 - 巻1』 )


…というものです。

この原歌の方が、目にした情景をそのままに歌っていて、力強く、改悪しているとの

声が高いとか。

つまり、『新古今集 - 夏の部』 で、平安朝の新古今風に変えられています…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 持統天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(6)

…そもそも…

百人一首とは、100人の歌人の和歌を、1人1首ずつ選んで作った秀歌撰です。そ

うした中でも、藤原定家が京都/小倉山の山荘で選集した 『小倉百人一首』 が有

名です。通常、百人一首といえば、この 『小倉百人一首』 を指しています…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 持統天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(7)

…藤原定家は、鎌倉時代/初期の公家・歌人です。父は  『千載和歌集』(せんざいわ

かしゅう) を撰集し第77代/後白河天皇に奉じた、歌人/藤原俊成です。

幼少から父に歌の指導を受け、西行法師とも親交があったと言われます。

18歳の時/1180年に、源氏が挙兵し、<源平の争乱>が勃発(ぼっぱつ)していま

す。

岡田健吉‏@zu5kokd1 持統天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(8)

…この18歳の時から、定家は日記/『明月記』 を書き始めています。73歳まで56

年間にわたり書き続けました。享年は80歳です。

日記の最初の年に、こう刻んだ様です。

<世上乱逆追討耳ニ満ツトモ、 之ヲ注ゼズ。 紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ>

うーん… 立派ですね!

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 持統天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(9)

…現代風に訳すと…


< 世間では…反乱者/平家を追討せよなどと騒いでいるが…そんな事はどうだっ

ていい! 紅旗/朝廷の旗を掲げて戦争しようが…俺の知ったこっちゃない!>


…だそうです…

うーん… 歌の道を究めようとする若者の…血気が溢れています!

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 持統天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(10)

…さあ、持統天皇の御歌に話を戻します。

万葉歌人である持統天皇の御歌を、新古今風に変えるなど、ケシカラン事をするも

のですが、確信犯ですよね。

それを 『万葉集』 から採らず、『新古今集…夏の部』 から採った、定家も確信的です

ね。自信に満ちた改変です!

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 持統天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(11)

…この持統天皇ですが…

彼女は天智天皇の第4皇女/鸕野讚良(うののさらら)皇女で…天智天皇の実弟/大

海人皇子(おおあまのみこ)に嫁いでいます。

皇位継承をめぐり…天智天皇と大海人皇子の確執が<壬申の乱>(じんしんのらん)に

発展し…大海人皇子(/第40代/天武天皇)が勝利します。その後に、第41代/持統天

皇が即位します…」



 1月 12日

岡田健吉‏@zu5kokd1 柿本人麿        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(12)
 

【3番 → 柿本人麿】(かきのもとのひとまろ/人麻呂、平安時代からは人丸とも・・・飛鳥時代の歌人、

                   歌聖、三十六歌仙の1人)

★ あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む


< 山鳥の、長々しいしだれ尾のように、まことに長き秋の夜を、

        山鳥の雄と雌が離れて恋い合うに似て、

               あなたを恋いつつ、ひとり寝をすることよ >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 柿本人麿        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(13) 


「この歌は、『拾遺
(しゅうい)集 - 巻13 恋・・・ 題しらず 人まろ』 と出ています…

でも、もともとは、詠み人知らずの歌であり…何故、何時、人麿作となったのかも、

詳細は不明なのだそうです。

あ、柿本人麿の作かどうかも…資料が少な過ぎる様ですね…



 1月 13日

岡田健吉‏@zu5kokd1 柿本人麿        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(14)

柿本人麿は、持統朝とその孫の文武朝において…

皇族讃仰(こうぞくさんぎょう/皇族をほめたたえること・・・天武天皇の<壬申の乱>以降、天皇と皇族を中心と

した政治は皇親政治と呼ばれる。カリスマ性の権化であった天武天皇の後、皇后/持統天皇はそれを創出する必

要があった。そのため、天皇礼賛の歌が多く詠まれている。)の歌や、挽歌の秀作を、『万葉集』 に多

く残しています。いわゆる白鳳時代の宮廷歌人です。

さて、歌の方ですが…

<あしひきの(/足引きの)>は…山や山を含む言葉にかかる枕詞(まくらことば/特定の語

の前に置いて語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉のこと。『万葉集』の頃に始まっている。)です。ここで

は<山鳥>にかかります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 柿本人麿        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(15)

<山鳥>はキジぐらいの大きさの鳥で、尾が非常に長く、体の2倍もあるそうです。

ネットで検索して見て下さい。

<しだり尾(垂り尾)>とは、長く垂れた尾のことです。これらは全て<ながながし

夜>にかかります。そして、<ひとりかも寝む>、よいしょ…という事です。」

 


 1月 14日

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/37/Hyakuninisshu_004.jpg  山部赤人       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(16)


【4番 → 山部赤人】
(やまべのあかひと/奈良時代の歌人。聖武天皇時代の宮廷歌人。同時代の歌人に

                  は山上憶良や大伴旅人がいる。柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ、三十六歌仙の1人)


★ 田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ


< 駿河の国の、田子の浦にたたずんで、はるかにみれば…

                       真白き富士の高嶺に、雪は降りつむ >


「この歌も、2番/持統天皇の歌同様、新古今風に変えられています…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/37/Hyakuninisshu_004.jpg  山部赤人       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(17)

…『万葉集 - 巻3』 の元歌は…


★ 田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける

この歌は、実は長歌に合わせた反歌です。赤人はまさに田子の浦を通っていて、

雪の富士を目撃した感動を、<雪は降りける>と力強く言い切っています…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/37/Hyakuninisshu_004.jpg  山部赤人       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(18)


…<真白にぞ>を、<白妙の>と飾った言い回しをしたり、<雪は降りつつ>と

いう新古今風に改竄(かいざん/特に、悪用するために、勝手に直すこと)したり…後世において

甚だ悪評です。

何故、こんな改竄をしたかというと…『新古今集』 に転載する時に、新古今風に調べ

を重視し、優美にするために変えたのです。」

(/定家は・・・『小倉百人一首』を撰集するに当たり、『万葉集』から採らずに、『新古今集』から採ったわけですね。

したがって、確信的な共犯者でする

ちなみに・・・『新古今和歌集』 略称で『新古今集』/全二十巻は、鎌倉時代初期に編纂された勅撰和歌集(天皇や

上皇の命により編集された歌集のこと)です。撰者は 源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮

の6人が、後鳥羽院の院宣により定められました。寂蓮は、撰集のための和歌を集めている時点で没しています。)


 

 1月 15日

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cd/Hyakuninisshu_005.jpg  猿丸大夫        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(19)


【5番 → 猿丸大夫】(さるまるだゆう/三十六歌仙の1人。生没年不明。「猿丸」は名、大夫とは五位以上

                  の官位を得ている者の称。)


★
奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きくときぞ 秋はかなしき


<秋もたけた山の奥ふかく、散り敷く紅葉をふみわけて、鹿は鳴く…

         妻恋うて哀々(あいあい)と鳴く鹿よ、ああ、その声を聞くとき、

                  秋のあわれは深く身に沁(し)む…>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cd/Hyakuninisshu_005.jpg  猿丸大夫        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(20)

「この歌は、『古今集 - 秋の歌』 …是貞親王(これさだのみこ)の家の歌合(うたあわせ)の歌、

詠み人知らず…としてあります。

歌の解釈は2通りあることが知られています。紅葉を踏み分けているのは鹿とする

説と、人とする説です。でも、鹿の鳴く声を人里で聞いている、とした方が絵になりま

すね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cd/Hyakuninisshu_005.jpg  猿丸大夫        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(21)


…明治時代に、鹿鳴館
(ろくめいかん/・・・中国最古の詩集『詩経』(『万葉集』より、千年以上も古い)に

鹿鳴の詩があり、そこから採られた)という官営の社交場がありました。鹿の鳴く声は、それ程

に情緒深いものなのでしょうか。

ともかく今も昔も、鹿の鳴く声など滅多に聞くことはないですよね。でも、秋深い山里

で鹿の鳴く声を聞くのは、余程、心に沁(し)みるものだったのでしょう。



 1月 16日

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cd/Hyakuninisshu_005.jpg  猿丸大夫        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(22)

…猿丸大夫は三十六歌仙の1人、大夫(たゆう/たいふ/だいぶ)という官位もありのます

が、実在の人物ではない様です。正体不明は、版画の世界では写楽が有名です

が、和歌の世界のそうした人物の1人という事でしょう。当時は明白な事実でも、歴

史的な時間の中での、迷い人でしょうか…」


岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fe/Hyakuninisshu_006.jpg  中納言家持       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(23)

【6番 → 中納言家持】(ちゅうなごんやかもち/大伴家持。奈良時代の歌人で、『万葉集』を編纂。大伴

                     旅人の子。三十六歌仙の1人)

★ かささぎの わたせる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞふけにける

< 冬の夜空に凍りきらめく星々…

           七夕の夜には、カササギが翼をうち交わして…

                       天の川に橋をかけるというが… 

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fe/Hyakuninisshu_006.jpg  中納言家持       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(24)

         おお、ここ地上の橋にも白く霜が下りている…

                      それを見れば夜も更けたことが思われる… >



「うーん…

天も地も凍る冬の夜更け…橋の欄干には霜が真っ白に下りている…

そんな中に一人たたずみ、この世の存在と対峙している…そして、夜も更けていく… 

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fe/Hyakuninisshu_006.jpg  中納言家持       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(25)

…さあ、<かささぎの><わたせる橋に><おく霜の>とは何の事でしょうか?

中国の 『七夕伝説』 では…1年に1度、7月7日に織女(しょくじょ)と牽牛(けんぎゅう)が天

の川を渡って逢(あ)う日、カササギが羽を並べて橋を作るとか…

壮大な虚構と霜の現実が…凛冽(りんれつ/寒さが厳しく身にしみいるさま)な世界を創出して

います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fe/Hyakuninisshu_006.jpg  中納言家持       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(26)

…一方で、

江戸時代中期の国学者で歌人の賀茂真淵(かものまぶち/本居宣長ら多くの門人を養成した。)

は、この橋は宮中の階段と言っています。様々な連想を呼ぶ橋ですね。

作者の中納言家持は『万葉集』 を編纂した1人といわれる大伴家持です。でも、こ

の歌は 『万葉集』 にはなく、『家持集 - 夜はふけにけり』 としてあります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fe/Hyakuninisshu_006.jpg  中納言家持       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(27)

…あ、このカササギという鳥ですが…

スズメ目カラス科の1種です。うーん…黒いカラスに比べて一回り小さく、胸と腹が

白い様です。カチカチという鳴き声から、カチガラスとも呼ばれているそうです…」



 1月 17日

岡田健吉‏@zu5kokd1 安倍仲麿        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(28)

【7番 → 安倍仲麿】(阿倍仲麻呂・・・あべのなかまろ/養老元年(霊亀3年/717年)の遣唐使の留学生

                  として入唐。唐の太学に学び、科挙に合格、唐朝の諸官を歴任。李白・王維らの文人

                  と交流した。 在唐54年、73歳にして唐の都長安で没した。)

★ 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも


< 大空はるかにふりあおげば、明るい月がかかっている…

           あれはその昔、私が故郷の日本で見た月だ…

                     奈良の春日にある、三笠山にさし出た月だ…>

 

『古今集』の左註・・・

この歌は、昔、仲麿を、もろこしに物習はしに遣はしたりけるに、あまたの年を経て帰りまうで

来ざりけるを、この国よりまた使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、

明州といふ所の海辺にて、かの国の人、うまのはなむけしけり。夜になりて、月のいとおもしろ

くさし出でたりけるを見て、よめるとなむ、語りつたふる。

(左註の現代語訳・・・

この歌は、昔、仲麿を唐へ留学生として派遣したのだが、何年経っても帰国しないので、日本からまた使者が到着

したのに連れ添って帰国しようと出発した。その時、明州という所の海辺で、唐の国の人が餞別の席を設けた。夜に

なって、月が大変趣深く昇ったのを見て詠んだ、と語り伝える。)


岡田健吉‏@zu5kokd1 安倍仲麿        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(29)

「中国/唐で没した安倍仲麿が、故郷の月を偲んで詠んだ歌ですね…

『古今集-巻9/覉旅(きりょ)歌に…“唐土(もろこし) にて月を見てよみける”』 として載っ

ています。

左註(左注とも・・・本文の左側に付ける注。和歌では、詞書(ことばがき)に対するもので、詞書や内容についての、

異説や補足の説明などを記すこともある。)に、ことの様子が書かれています。

仲麿は17才の時…遣唐留学生として、養老元年(霊亀3年/717年)の遣唐使船に乗り

ました。



 1月 18日

岡田健吉‏@zu5kokd1 安倍仲麿        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(30)

養老元年の遣唐使船/4艘(そう)には…他に若き留学生/吉備真備(きびのまきび/奈良

時代の学者。帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、帰朝後に急速に昇進する。橘諸兄が右大臣に任ぜられ

て政権を握ると、真備と同時に帰国した僧・玄昉とともに重用された。)、留学僧/玄昉(げんぼう/聖武天皇の

母(藤原宮子)の病気を祈祷により回復させ賜物をうけた。橘諸兄政権の担い手として出世したが、人格に対して人々

の批判も強く、藤原広嗣が玄昉を排除しようと九州で兵を起こした<藤原広嗣の乱>。)も乗っていました。

天皇は…第44代/元正天皇・女帝(元明天皇の皇女で、聖武天皇の姉)で…第45代/聖武

天皇(/聖武天皇の発願で天平17年(745年)に東大寺大仏の制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供

養会(かいげんくようえ/魂入れの儀式)が行われた。)に続く時代。

中国/唐も…最盛期を迎える第9代玄宗皇帝の時代。そして、絶世の美女/愛妃

(あいき、あいひ)・楊貴妃(ようきひ/古代中国4大美人(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の1人・・・<安史の乱>

を引き起こした、傾国の美女)の時代へ下って行きます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 安倍仲麿        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(31)

…国際都市・長安の繁華は、如何ばかりだったでしょうか。仲麿は、巨大なダイナミ

ズムの中に呑み込まれつつも勉学に励み、それらを吸収し、優秀な人材として頭角

を現して行きます。大学で学び、科挙(かきょ/中国の官吏採用試験制度)に合格して唐朝に

出仕。玄宗に仕え高級役人となって行きます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 安倍仲麿        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(32)

…これはえ大変な栄光だった様です。

詩才のあった仲麿は、同年輩の詩人/李白(りはく/盛唐時代の詩人)や王維(おうい/李白

が詩仙、杜甫が詩聖と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれた。南朝より続く自然詩を大成

させた。)らとも親交を結び、唐での成功が面白くなって行った事でしょう。中国名は

<朝衡(ちょうこう)>と名乗っていました。

17歳で入唐(にっとう)し…36年の月日が流れた時…遣唐使船がやって来ます。



 1月 19日

岡田健吉‏@zu5kokd1 安倍仲麿        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(33)

天平勝宝5年(753年)…藤原清河遣唐大使の一行です。仲麿は帰国を決断します。

それが、左註の下りです。

李白らは、親友との別れを惜しみます。そして、いよいよ遣唐使船に乗り込む明州

で、餞別の宴(せんべつのうたげ)を張ってくれました。その時、海辺に出た月を見て、

1首詠んだ歌が、この歌になります。


 

岡田健吉‏@zu5kokd1   安倍仲麿        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(34)

この時の仲麿の気持ちは…

ああ、奈良の三笠山に昇る月だ…

故郷の山河は如何にありや…

この離別の後には…懐かしい故郷に相見(あいまみ)える…

…でしょうか。

さあ…清河と仲麿の乗った遣唐使船は暴風に流され、ベトナムの安南(あんなん/ベト

ナム中部地方・・・唐代に安南都護府が置かれて以来の呼称・・・唐の領内。)に漂着。命からがらに、都

/長安に戻ります。

(2年がかりで、天平勝宝7年(755年)に、長安に帰着。この年、<安禄山の乱>(/このために、楊貴妃(ようきひ)

は傾国の美女といわれる)が起こった。清河らの身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝

は渤海への行路が危険である事を理由に、帰国を認めなかった。

清河は帰国できないまま在唐十余年に及んだ。宝亀8年(777年)に次回の遣唐使が入唐したが、その翌年に唐で

客死。唐から路州大都督の官が贈られた。清河は唐の婦人と結婚し、喜娘という娘を儲けていて、喜娘は宝亀の遣

唐使に伴われて来日している・・・という。

仲麻呂は、帰国を断念して唐で再び官途に就き・・・6年間もハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)

安南節度使を授けられた。最後は潞州大都督(従二品)を贈られている。) 

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   安倍仲麿        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(35)

ところで…

この時の遣唐使船は2艘(遣唐大使/藤原清河の船と、副使/大伴古麻呂の船)で…副使船の方

で、鑑真(/奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。)が密航(/大使の清河は・・・玄宗皇帝にクギを

刺されているために、鑑真一行の密行の願い出を拒否。それを知った副使/大伴古麻呂が、極秘で乗船させた。)し

ています。

天平勝宝5年(753年)11月17日に出航…12月20日に薩摩坊津の秋目に漂着。す

ぐに太宰府に連絡が届き、鑑真の到着に大騒ぎとなります。1月には平城京に入り、

聖武上皇以下(/光明皇后-光明子、孝謙天皇・・・)の大歓待を受けます。」

(/聖武天皇は長い闘病の末、阿倍内親王に譲位し・・・第46代/孝謙天皇が即位。女帝で、天武系からの最後の

天皇になります。聖武天皇の崩御の後は、皇后だった光明子が実験を握り、女帝を支えます。東大寺の正倉院には、

この時代の品々が多数収められています。)

 

  1月 20日


岡田健吉‏@zu5kokd1 喜撰法師        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(36)

【8番 → 喜撰法師】(きせんほうし/平安時代の歌人。六歌仙の1人・・・6歌仙は『古今和歌集』の序文の

                  ひとつ「仮名序」において、紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として挙げた6人

                  の歌人の総称・・・僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主、

                  の6人) 

★ わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と ひとはいふなり


<わが庵は都の東南宇治山です…

         鹿の鳴く里に、私は心も澄み、気もはればれと住んでいます…

                それを世の人は、私が世を憂(う)しとみて…

                         隠れ籠(こも)っているように言います…>


岡田健吉‏@zu5kokd1 喜撰法師        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(37)

「うーん…

軽い諧謔(かいぎゃく/おもしろさと共感とが混り合った状況を描写する言葉、動作。しゃれ、冗談、ユーモア)

の歌で、『古今集』 的 です…

この軽みは… 『古今集』 の尊重する1つの境地という事ですね。洒脱(しゃだつ/俗気がな

く、さっぱりしていること)な口ぶりも、さえずっていて楽しいですね。

『小倉百人一首』 を撰集した藤原定家が生きた時代は、平安時代末期 ~ 鎌倉時代

初期…後鳥羽天皇の時代です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 安徳天皇      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(38)

平安時代末期は…

西国には、平家の血を引く第81代/安徳天皇…都には、神器なき即位の第82代

/後鳥羽天皇が存在します。そして、安徳天皇は平家と共に<壇ノ浦の戦い> に

敗れ、入水(じゅすい/・・・水中に飛び込んで自殺すること)。

(/・・・ 最期を覚悟して、神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子・・・清盛の後妻で正室)に抱き上げられ、

「この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせ、「波の下に

も都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じます。安徳天皇は満6歳4カ月の崩御で

した。

 母/建礼門院(平徳子・・・高倉天皇の中宮で、安徳天皇の国母。父は平清盛、母は平時子。 院号が建礼門院)も

入水しますが、熊手に髪をかけられ引き上げられています。この時、三種の神器のうち神璽と宝剣が海底に沈んで

います。)

ええ…

2年間、天皇の在位期間が重複しているようです。以後…後鳥羽天皇が1人となり

ますが…武士の時代が始まり、鎌倉幕府/源頼朝の治世となります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   藤原定家      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(39)

さあ…

歌人と天皇の関係は、死活的に重要です。

定家が若干40歳、後鳥羽天皇が20歳の頃… 『新古今和歌集』 の撰進を定家ら6

人(/源通具、六条有家、藤原定家、藤原家隆、飛鳥井雅経、寂蓮、の6人)に命じられます。この頃か

ら、後鳥羽天皇と定家は急接近したといいます。でも、どちらも個性が強く、やがて

定家は疎(うと)んじられ…経済的にも苦しくなって行きます。

 

  1月 21日

岡田健吉‏@zu5kokd1   後鳥羽天皇      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(40)

後鳥羽天皇は…

源氏の血筋が絶えたのを好機に、執権/北条義時に追討の声を上げます。

<承久の乱>(1221年/この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承など

に影響力を持つようになる。)ですが…あえなく敗退、隠岐(おき/隠岐諸島/島根県隠岐郡/・・・後鳥

羽院は隠岐に流される直前に出家して法皇となった。)に流されます。

(定家の日記/『明月記』の記録によると・・・文暦2年(1235年)の春頃には、摂政・九条道家が後鳥羽院と順徳院

(後鳥羽院の皇子で、第84代順徳天皇・・・佐渡院。<承久の乱>後、佐渡へ配流となった。在島21年の後、佐渡

で崩御。)の還京を提案したが、北条泰時は受け入れなかった。)

定家は親幕派(/親戚筋が親幕府派)に傾き…家運を盛り返しますが、幕府の目を恐れ、

隠岐(後鳥羽上皇・・・隠岐の院)とは文通もしません。これが、2人の関係です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 順徳天皇     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(41)

後鳥羽院の憎しみは、定家に向かって絶える事がありませんでした。

すでに老いた定家は、その誤解を解く術も無く… 『百人一首』 に喜撰法師の歌を採

り、隠岐の院(/後鳥羽上皇)への思いを託したとも言われます。<都のたつみ>とは、

隠岐からは京都はまさに巽/南東なのです。」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   小野小町       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(42)

【9番 → 小野小町】(おののこまち/平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十

                  六歌仙の1人。) 


★ 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに


< 花の色はうつろうてしまった…

        長雨に桜も散り色がわりした…

               同じように、私自身、物思いに屈しているうちに…

                       いつか…盛りの若さも過ぎてしまった…>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   小野小町       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(43)

「うーん…

有名な小野小町の歌です…

“世に降る長雨(ながあめ)”と“世に経(ふ)る眺め(ながめ)…詠嘆(えいたん)”を掛詞(かけこ

とば)とした、伝統的技巧の歌です。

小野小町の真実の叫びが、技巧臭を覆い尽くしています。素晴らしい歌ですね。女

性の深い物思い、溜息とともに…唇から漏れ出る様な歌です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   小野小町       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(44)

古来、小野小町は日本の美女の代表格。現代でもその名が巷に散見されます。で

もその生涯は定かではありません。6歌仙(/僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、

大友黒主)の…僧正遍昭、在原業平、文屋康秀などと歌の交流があり、仁明・文徳・清

和の帝の頃/9世紀の中頃の人の様です。仁明朝の女房(/宮中や貴族に仕える女性で、自

分の部屋(房)を邸内に与えられている者をいいます。 妃や妻ではありません。主人の“お手つき”になることもありま

すが、その場合も召人(めしうど)であって、妻の数には入れません。)だった様ですね。



 1月 22日

岡田健吉‏@zu5kokd1   小野小町       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(45)

うーん…

小町は美女だったという伝説が、『玉造小町壮衰書』(たまつくりこまちそうすいしょ)という本

を生みました。この中では小町は、美人を鼻にかけたイヤな女で、晩年は落ちぶれ

て乞食になって死んだ、となっています。

何か根拠があるのでしょうが、何故こんな事になったのでしょうか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   小野小町       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(46)

『ドクロ小町の説話』 もあります。

在原業平が東国を放浪した時、野中(のなか)で不思議な声を聞きました…


★ ・・・ 秋風の 吹くにつけても あなめあなめ ・・・


声の主
を探すと、荒野にドクロが転がっていました。その目の穴からススキが1本

生え、風になびいていたそうです。 

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  小野小町        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(47)

土地の人にわけを聞くと…

「小野小町が、ここへ下って死んだので、小町のドクロかも知れません」

…と言う。

かつては言い寄り、肘鉄砲を食らった色男で聞こえた業平は、涙を流し…


★ ・・・小野とはいわじ ススキ生ひけり・・・


…と下の句をつけた、と言うことです。





 1月 23日

岡田健吉‏@zu5kokd1      
 
                                                      北野天満宮絵馬堂の小野小町 :  写真借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(48)

小野小町には 『百夜通い』 (ももよがよい/世阿弥(ぜあみ/室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽

師。父は観阿弥)などの能作者たちが創作した小野小町の伝説)の伝説もありますね…

小町のもとに深草少将(ふかくさのしょうしょう/小町の美しさに魂を奪われた深草の少将は、小町の愛を

強要するが、小町は百夜通って満願の日、晴れての契りをむすぶことを約した。少将は99日まで通い、最後の晩、

大雪のため途中で凍死してしまう・・・)が百夜通って口説いてもなびかず、ついに少将は落胆

して死んだと言うものです。

少将の屋敷は欣浄寺(ごんじょうじ/清涼山と号する曹洞宗の寺院・・・ 京都市伏見区)にあったとさ

れます。欣浄寺の池の横には、“少将の通い道”と呼ばれるものもあるとか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      
                                                           通小町(月岡耕漁『能楽図絵』)  : パブリックドメイン/著作権フリー

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(49)

小町は本当に、美人を鼻にかけたイヤな女だったのでしょうか?

『古今集 - 仮名序(かなのじょ)』で、紀貫之(きのつらゆき/平安時代前期の歌人。『古今集』の撰者

の1人。三十六歌仙の1人。)は彼女の歌をこう評しています…

<あはれなるやうにてつよからず。いはば、よき女のなやめるところあるに似

たり>

うーん…貴婦人が病んでいる様な風情(ふぜい)と言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1               
                   
小野小町(『前賢故実』菊池容斎画、明治時代) : パブリックドメイン/著作権フリー

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(50)

小町の歌を取り上げてみます…


★ 思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを

★ うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふものは たのみそめてき

★ 秋の夜も 名のみなりけり あふと言へば ことぞともなく 明けぬるものを

 

岡田健吉‏@zu5kokd1               
                   
小野小町(『前賢故実』菊池容斎画、明治時代) : パブリックドメイン/著作権フリー

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(51)

そして…


★ 今はとて 我が身時雨(しぐれ)に ふりぬれば 言の葉さへに うつろひにけり


さらに…


★
花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる さがめせしまに


…となって行くわけですね。さあ小町は、美人を鼻にかけたイヤな女でしょうか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  小野小町        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(52)

それから…

晩年は落ちぶれ乞食になって死んだ、というのはどうなのでしょう?

そうした痕跡があったとしたら、在原業平と同様に、東国を放浪したくなったのかも

知れませんね…

西行(さいぎょう/西行法師)、宗祇(そうぎ/室町時代の連歌師・・・和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに連

歌を代表する漂泊の人)、芭蕉(ばしょう/松尾芭蕉)の様に放浪しても、女はこんな風に言われ

てしまうのでしょうか…」



 1月 24日

岡田健吉‏@zu5kokd1   蝉丸          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(53)

【10番 → 蟬丸】(せみまる/宇多天皇の皇子敦実親王(あつざねしんのう)の雑色(ぞうしき/日本の律令

               制下の令外官の1つである蔵人の職位の1つ・・・雑役の従者)、醍醐天皇の第四皇子な

               どと諸伝があり、後に皇室の御物となった琵琶の名器/無名を愛用していたと伝えられる)

★ これやこの 行くも帰るも わかれては しるもしらぬも 逢坂(あふさか)の関


< これがかの有名な逢坂の関よ…

         東くだりの旅人も、都へ帰る旅人も…

                  知る人も知らぬも行き交う…

              人の世の別れと出会いを暗示するのか…

                       その名も逢坂の関… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   蝉丸          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(54)

蟬丸は伝説的な人物で、生涯は神秘のベールに包まれています。

『今昔物語』(こんじゃくものがたり)では…

蟬丸は敦実親王(あつざねしんのう)の雑色(ぞうしき/雑役の従者)という事になっています。

親王は音楽家として有名で、琵琶(びわ)をよく弾かれました。蟬丸はその音色を覚

え、いつしか自分も、名手と言われる様になりました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   蝉丸          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(55)

後に…

蟬丸は盲(めし)いて法師となり、逢坂の関に庵を結びました。この蟬丸の琵琶を聞き

たいと熱心に望んだのが、源博雅(みなもとのひろまさ/安時代中期の公卿・雅楽家。醍醐天皇の孫。

博雅三位(はくがのさんみ))という有名な音楽家です。琵琶の流泉・啄木(りゅうせん・たくぼく)と

いう名曲は、今はもう蟬丸しか知らないと言います。蟬丸が亡くなれば名曲は絶えて

しまいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   蝉丸          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(56)

博雅は人を介し、蟬丸に京に住まないかと誘います。蟬丸はそれには答えず、歌を

返しました。


★ 世の中は とてもかくても 過ごしてむ 宮もわら屋も 果しなければ


博雅は、いよいよおくゆかしく思い、蟬丸の琵琶を聞きたくなったそうです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  蝉丸           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(57)

博雅は逢坂の関まで出向き…夜、庵の外からこっそり蟬丸を窺(うかが)ったそうです。

蟬丸が秘曲を弾くことを期待したのです。

博雅は、毎夜毎夜、逢坂の関まで通い…はや3年が過ぎました。

その3年目の8月15日の夜…月が翳(かげ)り、風が吹き、哀れ深い夜となりました。

 

 1月 25日

岡田健吉‏@zu5kokd1  蝉丸           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(58)

はたして蟬丸は…

見えぬ目に月を仰ぎ、物思いにふけりつつ、琵琶を掻(か)き鳴らす。そして歌を詠み

ます…


★ 逢坂の 関のあらしの はげしきに 盲(し)ひてぞゐ(い)たる 世を過ごすとて


哀々たるたる琵琶の音色に添え、悲痛な寂しい歌に、博雅は涙を流します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  蝉丸           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(59)

蟬丸は独り言(ご)ちます…

「…ああ、もののあわれというものは、こんな夜のことを言うのか。

 誰ぞ、もののあわれのわかる人は、いないものか。音楽好きな人でもいたら、

 どんなに面白う、話も弾むことか…」

これには、博雅も名乗り出ずにはいられなかった。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  蝉丸           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(60)

「私は都に住む博雅と申すもの。そなたの琵琶を聞きたさに、3年通いつめた

 者です」

蟬丸は博雅の熱意と、音楽に対する愛情をめで、心を開いて博雅を招き入れた。

そして乞(こ)われるままに、流泉・啄木(りゅうせん・たくぼく)の名曲を弾いた。博雅はよく

よく聞き取り、教わったと言う。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   醍醐天皇           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(61)

『平家物語』 や世阿弥の謡曲では…蟬丸は第60代/醍醐天皇(だいごてんのう)の第

4皇子です。謡曲/『蟬丸』 は…盲目のため逢坂山に捨てられた皇子蟬丸の宮を、

姉の逆髪(さかがみ)の宮(/髪が逆さまに生え上がって、撫でつけても下がらないという・・・2人とも、不幸

な身の上です。)が訪れて互いの運命を嘆き、別れて行きます。浄瑠璃や歌舞伎にも脚

色され、蟬丸のイメージが広がります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  蝉丸           

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(62)

…さあ、蟬丸の実在性はいよいよ曖昧になります。

多数いた芸能集団を、蟬丸という1人の人物に集約し、象徴としたのかも知れない

と言います。

うーん…謎の多い人物では、写楽(/東洲斎 写楽・・・江戸時代中期の浮世絵師。約10か月の短い

期間に役者絵その他の作品を版行し、忽然と画業を絶って姿を消した謎の絵師)もこんなことが言われま

すよね。古代ミステリーは、どんどん想像を膨らませます。」


 1月 26日

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議篁          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(63)

【11番 → 参議篁】(さんぎたかむら/小野篁・・・島流しになるが2年後に許されて、その後順調に出世し、

                  参議にまでなった。参議は閣僚クラス。遠祖に遣隋使/小野妹子がいる。書家の小野

                 道風は孫。1説では小野小町は道風の従弟)

★ わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟


< はるけき大海原に、あまたの島々は点々と浮かぶ…

        その島から島へ漕ぎめぐりつつ、私は流人島へ追われて行ったと…

              つり舟の漁師たちよ、伝えておくれ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議篁          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(64)

「『百人一首』 には流人(るにん)の歌が多いわけですが、この歌もそうですね。

『古今集 - 巻9/覉旅(きりょ) 』に…

< 隠岐の国に流されける時に、

           舟に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつかわしける >


…として載っています。小野篁は、才気をもてあまし、暴れたようです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議篁          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(65)

漢詩文に優れ、書も非凡、性格は気骨があって、恐れを知らなかった様です。第54

代/仁明天皇(にんみょうてんのう)の承和5年(838年)、遣唐副使に任ぜられました。とこ

ろが、遣唐大使の藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)の船が破損していたので、常嗣は篁(た

かむら)の船と交換する事を、天皇に願い出ます。天皇は許可します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議篁          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(66)

篁(たかむら)はこの沙汰に腹を立て、仮病を使って乗船しませんでした。しかも、遣唐

を諷刺する詩文を書きました。これが咎(とが)められ、官位を剥奪されて、隠岐の島

に流刑になったのです。

後に後鳥羽上皇も流される隠岐の島は、京からは遠くなく、近からず、といった距離

です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   参議篁                                                                           『孝子の月』(月岡芳年『月百姿』)両親のために薪を集める小野篁

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(67)

でも…現代とは距離感が違います。そして、篁も歌に詠んでいるように、はるけき

大海原を、島から島へと漕ぎめぐって行くわけです。その侘(わび)しさは計り知れま

せん。

篁はこの時、37歳…子供が悪戯をして、コツンとされた光景です。処分は厳しくも、

笑みがこぼれます。

 

 1月 27日

岡田健吉‏@zu5kokd1   参議篁                                                                           『孝子の月』(月岡芳年『月百姿』)両親のために薪を集める小野篁

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(68)

篁(たかむら)は…“野狂”(やきょう)とアダ名されるほど直情径行(ちょくじょうけいこう/自分の感

情のままを言動に表すこと)の性格で、筋の通らぬことが大嫌いな男でした。だから島流し

の沙汰も、原因は遣唐大使/常嗣の理不尽な要求と、朝廷の措置と思っていたの

でしょう。

多情多感な才人の気合が、歌の高揚した悲壮美を引き出しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   参議篁                                                                           『孝子の月』(月岡芳年『月百姿』)両親のために薪を集める小野篁

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(69)

2年後…

許されて都へ帰るのですが、篁には古くから奇怪な伝説がつきまといます。異母妹

と愛し合ったとか、地獄の冥官(みょうかん/冥界の官人)であったとも、言われます。

京都の六道の辻(ろくどうのつじ)の珍皇寺(ちんこうじ)は、六道詣で(ろくどうもうで)で有名です

が、ここは冥界へ入って行く通路でもあると言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議篁                                                                       小野篁像(『集古十種』より)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(70)

篁はその六道の辻から冥界へ入って行ったとか…

そして、閻魔大王(えんまだいおう)の下で地獄の冥官として罪人をさばき、嵯峨(さが)に

ある“生の六道”から現世へ還ったと言います。あの世とこの世を自在に往復し、

人々に恐れられたそうです。何故、こんな噂がたったのかは不明です…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 参議篁                                                                       小野篁像(『集古十種』より)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(71)

ともかく、篁は変わり者でしたから逸話も多く、様々な風説も呼び集めた様です。で

も変わり者と言っても、イヤ味な人間ではなく、大男で友情にあつく、母や妻にも優

しかった様です。篁の、人間的な純粋さの幅が大きすぎて、様々な説話を醸(かも)し

出したのでしょうか。」

 

 1月 28日

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Hyakuninisshu_012.jpg  僧正遍昭              

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(72)

【12番 → 僧正遍昭】(そうじょうへんじょう/平安時代前期の僧・歌人 第50代/桓武天皇の子である大

                   納言・良岑安世の八男。 子に素性法師(百人一首の21番)がいる。六歌仙および

                   三十六歌仙の1人)

★ 天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ


< 天空を吹く風よ、雲の中のかよい路を、吹いて閉ざしておくれ…

            天へ帰る少女たちを、もうしばらく、とどめておきたいから… >


「『古今集 - 巻17/雑』 の歌です…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Hyakuninisshu_012.jpg  僧正遍昭              

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(73)

ええ…<五節の舞姫をみてよめる>…という詞書(ことばがき/・・・『古今集-巻17/雑』)

があります。

宮中での…

大嘗祭(だいじょうさい/天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。)や新嘗祭(にいなめさい/毎年11月に、

天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀)に行われる豊明節会(とよあ

かりのせちえ/大嘗祭、新嘗祭の最終日に行われた宮中儀式。天皇臨席の、いわば宴席で、白酒(しろき)・黒酒

(くろき)が振る舞われた。直会(なおらい/神事の最後に、神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌を食する行事)

的要素が強い。平安時代では主に豊楽院、後に紫宸殿にて行われた。)で、五節の舞(ごせちのまい/大嘗祭

や新嘗祭に行われる豊明節会で、大歌所の別当の指示のもと、大歌所の人が歌う大歌に合わせて舞われる、4~5

人の舞姫によって舞われる舞。大嘗祭では5人。)が舞われますが、その折の舞姫を天女にみた

てて詠んでいます。

<天つ風>は覚えやすく…カルタ取りでも人気のカードですよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Hyakuninisshu_012.jpg  僧正遍昭              

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(74)

この歌は…僧正遍昭が、出家以前に詠んだものです。

遍昭は、俗名を良岑宗貞(よしみねのむねさだ)といい、左近の少将だったところから良少

将(りょうしょうしょう)と呼ばれ、人柄は洒脱明朗(しゃだつめいろう)、美男で容姿にも恵まれ

ていたそうです。仁明天皇にも寵愛(ちょうあい)され、社交の場でも、非常にもてはやさ

れた(/桓武天皇の孫という高貴な血筋もあり・・・)、と言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Hyakuninisshu_012.jpg  僧正遍昭              

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(75)

嘉祥(かしょう)3年(850年)…仁明帝が崩御…御大葬の夜、良少将は忽然(こつぜん)と姿

を消します。34歳の時です。

妻の他に愛人が2人いましたが、2人には出家を打ち明けていました。妻は恨みま

すが、愛すればこそ、告げられなかったのです。血の涙を流し、俗界の縁を断ち切っ

たのです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Hyakuninisshu_012.jpg  僧正遍昭              

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(76)

小野小町のもとへ“百夜通い”(ももよがよい)する深草少将は、良少将がモデルという

説もあり、彼女とは知己(ちき/自分のことをよく理解してくれている人)の仲です。

良少将が姿を消してから後…小町が正月の清水寺に参詣し、聞き覚えのある声で

読経する乞食僧を見ます。

良少将/宗貞のようだと思い、一計を案じます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Hyakuninisshu_012.jpg 僧正遍昭              

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(77)

小町は小僧を介し、読経する乞食僧に、こう言わせます…

「この寺に御籠もり(おこもり/神仏に祈願するため一定の期間、神社・仏寺にこもること)するもので

すが、寒いので衣をお貸し下さい」

…と。

すると、僧が歌で返事をよこします。


★ 世をそむく 苔
(こけ)の衣は ただひとへ かさねばうとし いざニ人寝む

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1c/Sanj%C5%ABrokkasen-gaku_-_8_-_Kan%C5%8D_Tan%E2%80%99y%C5%AB_-_S%C5%8Dj%C5%8D_Henj%C5%8D.jpg 僧正遍昭         
                           
僧正遍昭 (狩野探幽 『三十六歌仙額』 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(78)

< 私は世にそむいて、出家した身、衣は一枚しかありません…

     といって、貸さないのも無情、よろしい、二人で寝ようじゃありませんか… >


機知
(きち/その場その場に応じて、活発に働く才知)と洒脱(しゃだつ/俗気がなく、さっぱりしていること)は

宗貞のもの。世を捨てても失っていません。小町は人を呼び寄せます。でも彼は、す

でに姿を消していました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1c/Sanj%C5%ABrokkasen-gaku_-_8_-_Kan%C5%8D_Tan%E2%80%99y%C5%AB_-_S%C5%8Dj%C5%8D_Henj%C5%8D.jpg 僧正遍昭         
                           
僧正遍昭 (狩野探幽 『三十六歌仙額』 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(79)

こうした苦しい修行の甲斐あって、ついに最高位の僧正(/僧綱の最上位。初めは1人であっ

たが、のちに大僧正・僧正・権(ごん)僧正の3階級に分かれ、員数も十余人に増えた。)の位にまで登りつめ

ます。そして、京都山科の花山に元慶寺(がんけいじ/京都府京都市山科区にある天台宗の寺院。

藤原高子の発願により建立。僧正遍昭を開基とし、元慶元年(877年)に建立された。)を創設して座主(ざす)

となります。花山僧正(かざんそうじょう)とも号します。

『古今集』 の序では…<歌のさまは得たれども、まこと少なし>…と評されていま

す。」

 


 1月 29日





岡田健吉‏@zu5kokd1  陽成院         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(80)

【13番 → 陽成院】(ようぜいいん/・・・第56代/清和天皇の第1皇子。母は藤原高子。生後3ヶ月で立

                 太子。、父の譲位をうけて九歳で践祚(せんそ/天子の位を受け継ぐこと)したが、父

                 上皇が崩御すると、摂政藤原基経と母高子が対立し、朝政は混乱、17歳で退位に追

                 い込まれた。 この直前に、清涼殿で乳母子・源益が殺害される事件が起こり、陽成天

                 皇が殴殺したとの風聞があった。退位後も、様々な乱暴な振る舞いがあり、都を震え

                  上がらせた。 )


★ 筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる


< 東国の歌枕、筑波山…

         その峰々から滴り落ちる小さな流れも…

     積もり積もれば男女(みな)の川となるのです…

             私の恋もしだいに積もって、いつしか深い淵となりました… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  陽成院         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(81)

「この歌は…『後撰集 - 巻11/恋の部』 に、<釣殿(つりどの)のみこにつかはしけ

る>として載っています。陽成院の妃となった、綏子(すいし)内親王に捧げられた恋

歌です。

のどかな響きの恋歌ですが…実は、第57代/陽成天皇は風変わりな帝で、悲劇的

な生涯を送られた方です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  陽成院         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(82)

御脳を病み、物狂おしいお振舞いがあったと言われます。それも凶暴性がおありに

なったと言うから、周囲は困った事でしょう。

藤原氏は…

仁明・文徳・清和と3代の天皇の後宮に、一族の姫を送り込み、生んだ皇子を強引

に皇位に即けています。(/平清盛と同様に・・・天皇家の血脈に一族の血を入れることにより、藤原氏の

繁栄をはかった。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  陽成院         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(83)

特に…

第57代/陽成天皇の父・第56代/清和天皇は…生後3カ月で皇太子に、9歳で

即位。しかもこの幼帝に、18歳の藤原高子姫がめあわされます。

高子姫は…在原業平との恋愛関係が有名ですが…藤原氏には適齢の姫がなく、悪

ノリもあります。10年後に…陽成院が生まれます。



 1月 30日


岡田健吉‏@zu5kokd1  陽成院         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(84)

ところが皇子/陽成院は…長ずるに及んで矯激(きょうげき/言動などが並はずれて激しいこと。

また、そのさま。)な性格があらわになりました。温和な父/帝より、奔放な母/高子の

血を多く受け継がれた様です。

そもそも…藤原一族の姫には、奇怪な血の流れがあります。清和の母も並ぶ者な

き美貌でしたが、精神を病んでいました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  陽成院         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(85)

そもそも藤原氏は…

<大化の改新>(/蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした<乙巳の変/いっしのへん>の後に行わ

れた)の折の中臣鎌足が、中大兄皇子 - 第38代/天智天皇から、藤原姓を賜った

ことに端を発します。

そして、第41代/持統天皇の崩御にともない、文武天皇が即位すると同時に…藤

原不比等の長女/宮子が夫人として後宮に送り込まれます。(/そこから・・・聖武天皇が

誕生し、藤原氏の歴史的な大繁栄が始まります。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1            
                                                           藤原不比等 (菊池容斎・画、明治時代)    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(86)

後宮での身分は…

皇后・妃=皇女(/天皇の娘)、夫人=大臣の娘…の順ですが、宮子は夫人として後宮に

入っています。皇后は天皇に即位することもあり、皇女に限った様です。(/聖武天皇の

皇后/光明皇后=光明子が、皇女以外での史上初の皇后で、宮子とは異母姉妹です。台頭してきた藤原氏の力を

反映しています。)

その宮子ですが…玄昉(げんぼう/安倍仲麿、吉備真備と共に入唐した留学僧。藤原仲麻呂が勢力を持つ

ようになると、筑紫観世音寺別当に左遷されます。)の看病を受けて正常な精神状態に戻り…幼年

以来はじめて、聖武天皇に相まみえています。(/たまたま偶然に皇后宮に行幸していた聖武天

皇と、36年ぶりに対面しています。物心がついて以後の天皇が・・・病気の平癒した母と対面を果たしたのは37歳の

時です。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  陽成院         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(87)

つまり…

陽成天皇の心的障害は、そうした血脈と無関係とは思われないと言う事です。帝

は馬好きで、禁中(きんちゅう/禁裏・・・中国の皇帝が居住する宮殿。 日本の御所・皇居)で馬を飼い

ましたが、動物虐待の趣味もあったようです。また、宮中で殴殺事件(/宮中で天皇の

乳母であった紀全子(きのまたこ)の子、源益(みなもとのすすむ)が殴殺されるという事件)を引き起こし、

17歳の時、ついに摂政(せっしょう)の藤原基経によって皇位を逐(お)われます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  陽成院         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(88)

陽成院は17歳で退位後も、様々な乱暴な振舞いで、都人(みやこびと)を震え上がら

せます。

廃帝の後を継いだのは…【小倉百人一首/15番】の第58代/光孝天皇です。

陽成院の皇子ではなく、第54代/仁明天皇の皇子/時康親王まで遡り、55歳で

即位しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源経基           
                          『貞観殿月』(月岡芳年『月百姿』)鹿を仕留める源経基

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(89)

あ、ちなみに…

陽成院の父 - 第56代/清和天皇は…

部門の棟梁(とうりょう)/清和源氏の始祖になります。第6皇子/貞純親王の子であ

る経基王が、臣籍降下により源姓(みなもとせい)を賜り、源経基(みなもとつねもと)と名乗

った事に遡ります。こんな所に、次の鎌倉時代/東国武士団の芽があり、歴史の

歯車が動きます。

 


 1月 31日

岡田健吉‏@zu5kokd1                  
                          宇多法皇像(仁和寺蔵、15世紀)      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(90)

話を戻します…

陽成院は17歳で退位…悲劇はその欲求不満の生涯が、皇室関係者には滅多に

ない82歳という長寿だったこと。皇位を継いだ第58代/光孝天皇の次が、第59

代/宇多天皇ですが…

「フン! あれはかつて、わしに仕えていた者ではないか!」

…と、吐き捨てる様に言われたという逸話が残っています。

(・・・父/光孝天皇は即位後に、関白/藤原基経の外孫であり、陽成天皇の弟であった貞保親王をはばかり・・・

26人の皇子皇女を臣籍降下させた 定省王(さだみおう)/宇多天皇もその一人。この臣下時代、殿上の間の御

椅子の前で在原業平と相撲をとり、2人の体が椅子にぶつかったため手すりが折れたという話が残っている。この

時代・・・陽成天皇の臣下だったことになる。

光孝天皇は、後継指名をしないまま重体に陥る。実力者/関白/藤原基経は、天皇の内意が定省王にあるとして、

朝議を一決。定省王は皇族に復帰、親王宣下を受け、皇太子に立てられた。立太子したその日のうちに、光孝天皇

が崩じたため践祚(せんそ/天子の位を受け継ぐこと)、宇多天皇が即位した。)


岡田健吉‏@zu5kokd1                  
                          醍醐天皇像(醍醐寺三宝院蔵)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(91)

こんな調子であり…

退位後65年間もの間…光孝・宇多・醍醐の諸帝の警戒感は強かった様です。

その間、何度か歌合わせを催しています。でも、陽成院の歌として伝わるのは、

 『後撰和歌集』 に載り、『小倉百人一首』 に採られた、この1首のみのですね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  陽成院         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(92)

稀代(きだい/世にもまれなこと)の暴君ですが…

歌は素朴で、深く充足した恋心を詠んでいます。相手の釣殿(つりどの)は、後に妃と

なる綏子(すいし)内親王。実は、皇位を継いだ光孝天皇の皇女で、若くして亡くなり

ます。

彼女のほうが幸せで…82歳の長寿だった陽成院は…周囲を巻き込み悲劇の生涯

でした。

(・・・82歳という長寿だった陽成院は・・・第60代/醍醐天皇=醍醐上皇よりも長生きし・・・さに第61代/朱雀天

皇、第62代/村上天皇と、光孝天皇系の皇統継承を見届けたのも・・・歴史の皮肉と言えます。)

 

 2月 1日


 

岡田健吉‏@zu5kokd1  陽成院         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(93)

あ、もう1つ言っておきます…

釣殿(つりどの)/綏子(すいし)内親王は…陽成院の父/清和天皇のいとこにあたり、

陽成院より年上だったかも知れません。そして、幼心に何となく好きだったお姉さん

の様な女性へのあこがれが、成長するに連れて恋になり、成就した、という恋歌の

推測です…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 河原左大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(94)

【14番 → 河原左大臣】(かわらのさだいじん/源 融(みなもとのとおる/・・・第52代/嵯峨天皇の12

                      男。侍従、右衛門督、大納言などを歴任し、従一位左大臣に至る。六条河原院

                      を造営したことから、河原左大臣と呼ばれた。『源氏物語』の主人公/光源氏

                      の実在モデルの1人、といわます。)

 
★ みちのくの しのぶもぢずり たれ故に 乱れそめにし われならなくに


< 陸奥
(みちのく)の信夫(しのぶ)の里の名産品…

          もじずりの衣の模様は、おどろに乱れていますが…

                   私の心もそれに似て、あやしく乱れ初めました… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           
                          山藍(やまあい)ネットから写真を借用/・・・カット加工

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(95)

「まず…<しのぶもぢずり>の語は、定説がないと言います。

“信夫(しのぶ)の里”は現在の福島県福島市です。

しのぶ草/のきしのぶの葉を…布に摺(す)りつけて染めた物を<しのぶもぢずり>

というとも言い…模様を彫った石におしあてた布を、山藍(やまあい/トウダイグサ科の多年

草。山地に群生し、高さ約40センチほど。地下茎は白く、乾くと紫色になる。昔、葉から染料をとったといわれる。)

で染めた…とも言いいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           
                          松尾芭蕉像(葛飾北斎画)パブリック・ドメイン/著作権フリー

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(96)

その模様を彫った石を、“しのぶもぢずりの石”と言うそうです。

芭蕉が 『奥の細道』 で訪ね、

 <はるか山かげの小里に、石なかば土に埋れてあり>

として…


★★ 早苗とる 手もとや昔 しのぶずり   (芭蕉/・・・俳句)


…と詠んでいます。すでに廃
(すた)れていた様ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 河原左大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(97)

<もぢずり>の<もぢ/もじ>は、“文字”ではなく、“よじる、ねじる”という意味で

しょう。

福島県の信夫(しのぶ)では、信夫布として布も産出しました。その布に“のきしのぶ”

の葉を摺りつけて染めた柄は、乱れ模様です。そこから、“乱れる”を引き出してい

ます。









 2月 2日

岡田健吉‏@zu5kokd1           
                                             
「風流錦絵伊勢物語」 勝川春章画。第9段の東下り隅田川の景を描く。

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(98)

この歌は古(いにしえ)から愛され…平安時代(794年~1185年/1192年頃)に成立した

『伊勢物語』(いせものがたり/歌物語・・・1巻、作者不詳/主人公は在原業平がモデルで、業平の歌を多用

していますが、史実の業平そのものではありません。)にも出て来ます。冒頭の一段…


<むかし、おとこ、うゐかうぶりして、平城の京、春日の里にしるよしして、狩に

往にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり…>


の後…

その…在原業平とおぼしき初々しい少年が、奈良の里で美しい姉妹の姫たちを見

かけ…あやしく心を乱す下です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           
                                              
「風流錦絵伊勢物語」 勝川春章画。第82段の 「ちればこそ いとどさくらは 

                           めで たけれ…」の歌にあわせた景を描く。 パブリック・ドメイン/著作権フリー

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(99)

少年は<しのぶずり>の狩衣(かりぎぬ)の裾(すそ)を切り、歌を書いて贈りました。


★ 春日野の 若むらさきの すりごろも しのぶの乱れ かぎり知られず


< 春日野の、若い紫草のように美しいあなたたち…

         ぼくの気持ちは、この紫のしのぶずりの衣の様に…

                 千々に乱れてしまったよ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 嵯峨天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(100)

河原左大臣は源融(みなもとのとおる)の通称です。第52代/嵯峨天皇(さがてんのう)の皇

子が臣籍降下での源姓です。臣籍に下った皇族の中で、左大臣にまで登り詰てい

ます。(/源融は・・・『源氏物語』の主人公/光源氏の実在モデルの1人・・・と言われます。)

権勢欲も強く…陽成天皇の廃位で次の帝を決める会議で、摂政/藤原基経に対

し…

「近き皇胤(こういん/天皇の血統)をたづねば、融(とおる)らも侍(はべ)るは(/自分も皇胤の

1人なのだから、天皇の候補に入る・・・と主張。)」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 河原左大臣     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(101)

…と発言しています。62歳だが、自分もいるという事です。結局、人望のあった時

康(ときやす)親王/光孝天皇/55歳が即位します。

源融は…同時に莫大な富もありました。東六条に河原院という前代未聞の豪邸(陸

奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営。塩釜を模すための塩は、難波の海(大阪湾)

の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられます。別邸の栖霞観(せいかかん)の故地は今日の嵯峨釈

迦堂清凉寺。)を造り、河原左大臣と呼ばれるようになったわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1            
                           平等院/鳳凰堂(ほうおうどう・・・ 国宝)京都府宇治市宇治蓮華116

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(102)

京都/宇治にも、大そうな別荘を持っていました。

この地は、後に平等院(びょうどういん)が建てられますが…10円玉の裏にある建物で

すね。

こちなみに…の恋歌は、誰に送ったのかは不明と言うことです。歌は 『古今集 - 巻

14/恋の部』 に“題しらず”として載っています…」






 2月 3日

岡田健吉‏@zu5kokd1 光孝天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(103)

【15番→光孝天皇】(こうこうてんのう/・・・第58代天皇で、第54代/仁明天皇の第3皇子。時康親王

                  (ときやす・しんのう)時代に相撲司別当を務めていた関係か、即位後に相撲を奨励

                   しています。)


★ 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ


< あなたにと思って…

         まだ寒い早春の野に私は出て…

                 やっと生いそめた、みどりの若葉をつみました…

                         その私の袖に、雪がちらちら… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 光孝天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(104)

「<若菜つむ>というのは、古(いにしえ)からの習わしですよね。早春の若菜の生命エ

ネルギーを、滋養として取り込むという事でしょう。

『古今集 - 春の部』 にこの歌があり、詞書(ことばがき)に…

<仁和(にんな)のみかど(帝)、みこ(皇子)におはしましける時、人に若菜賜ひける

御歌>

…とあります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 光孝天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(105)

仁和(にんな)の帝(みかど)の仁和は…第58代/光孝天皇の年号(/年につける称号。西暦

645年の“大化”が日本最初の公式の年号・・・645年は<大化の改新>の端緒となる<乙巳の変>(いっしのへ

ん・・・蘇我入鹿を、中大兄皇子と中臣鎌足らが暗殺。中臣鎌足は藤原姓を賜り、後の藤原氏の繁栄につながりま

す。)の年。)です。

光孝天皇が、親王の時代の御歌と言います。歌には高貴な気取りが漂いますが、

それが、奥ゆかしい雅(みやび)を感じさせます。先行する歌に…

★ 君がため 山田の沢に 恵具(えぐ/クワイのこと)つむと 

     雪消(ゆきげ)の水に 裳(も/古代、腰から下にまとった衣服の総称)の裾(すそ)ぬれぬ

                                              『万葉集 - 巻10/1839』

…があります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 光孝天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(106)

『万葉集』 のこの歌は…対極にあり、野趣(やしゅ)を感じさせますね…

光孝天皇は…第54代/仁明天皇の第3皇子です。幼い時から学問を修め、人柄は

謙虚で温厚、思いやりがあって心が広かったと言います。身内の皇族にも受けが良

く、父帝ゆずりの人柄の良さと言います…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1          
                                                            藤原基経・・・菊池容斎 『前賢故実』 より パブリック・ドメイン/著作権フリー

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(107)

光孝天皇は…親王の慣例となる官職は、ほぼ全て歴任しています。社交はともかく、

政界とは無縁で、野心がなく…摂政・関白/藤原基経とはいとこの関係でした。

そして、陽成天皇の廃帝…摂政/基経は、すったもんだの末…源融(みなもとのとおる・・・

河原左大臣)ではなく、時康親王(ときやすしんのう/光孝天皇)で事態を収拾します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 光孝天皇       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(108)

陽成天皇にも皇子はいました。

でも、稀代(きだい)の暴君にうんざりした朝廷は、仁明天皇の皇子にまで、血脈を遡っ

たという事でしょう。時康親王は55歳、意欲を示した源融は62歳でした。

1説には…この光孝天皇も、『源氏物語』 の光源氏のモデルではないか…とも言いま

す…」


 2月 4日

岡田健吉‏@zu5kokd1 在原行平       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(109)

【16番→ 中納言行平】(ちゅうなごんゆきひら/在原行平・・・在原業平の兄。平安時代前期の歌人・公

                     卿。第51代/平城天皇の第1皇子/阿保親王(あぼしんのう)の次男(または

                     三男)。官位は正三位・中納言。)


★ たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む



< さあて、いよいよお別れ…私は因幡 (いなば/かつて日本の地方行政区分だった令制国の1つ。

  山陰道に属する。鳥取県の鳥取市・岩美郡・八頭郡。)へいにまする…

      因幡の国は松の名所の稲羽山…峰の松ではないけれど…

                    私をマツというなら、じきに帰ってくるわいな… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 在原行平       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(110)

「中納言行平/在原行平は…当時のスーパースター/在原業平の兄です。

彼は斎衡(さいこう)2年(855年)、因幡守(いなばのかみ/国司は古代から中世の日本で、地方行政単

位である国の行政官として中央から派遣された官吏。四等官あり・・・守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さか

ん)等を指す。)に任ぜられます。その時の送別の宴の歌でしょうか。

『古今集 - 巻8/離別』 に“題しらず”で載っています。離別の歌でも悲しみは無く、

宴席に相応(ふさわ)しく陽気です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1             
                                                           藤原俊成  (菊池容斎・画、明治時代)  パブリック・ドメイン/著作権フリー

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(111)

この歌は…“松”に“待つ”をかけ…“因幡(いなば)”に“往(い)なば”をかけています。

定家の父/藤原俊成(ふじわらのとしなり/しゅんぜい・・・『小倉百人一首』 を編集した藤原定家は、藤原

俊成の2男。)が 『古来風躰抄』 (こらいふうたいしょう/歌学書、歌論書)で…

<この歌あまりにぞくさりすぎたれど姿おかしきなり>

…と評しています。俗っぽいが口調のよろしさに堕さず、風趣(ふうしゅ)高きところが

見所…と。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 在原行平       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(112)

行平には、『古今集 - 巻18/雑』 に…


★ わくらば
(病葉)に 問う人あらば 

        須磨(すま)の浦(/兵庫県の明石海峡の東口にあたる海岸線一帯)に

                藻塩(もしお/海藻からとった塩)たれつつ 詫(わ)ぶと答へよ


があり、詞書(ことばがき)に…

<田村御時(たむらのおほんとき)に、事にあたりて、摂津国(つのくに)の須磨といふ所に

こもり侍りけるに、宮の内に侍りける人につかはしける>

…とある。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 文徳天皇          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(113)

行平は…第55代/文徳天皇の時に事件に連座し、自ら身を引いて僻地(へきち)に籠

(こ)もった。


< ひょっとして…あいつはどうしているかと、尋ねる人があったら…

  須磨の浦でしょんぼりと落ち込んで、世を儚(はかな)んでいると伝えて下さい… >


この歌の方が、人々には愛されています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                
                                                           『石山月』 (月岡芳年『月百姿』)
『源氏物語』を執筆する 紫式部

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(114)

この歌と、行平の蟄居(ちっきょ/武士または公家に対して科せられた刑罰のひとつで・・・閉門の上、自宅

の一室に謹慎させるもの。)から…

『源氏物語』 の作者/紫式部が… 須磨に流された光源氏の君の構想を得た、と推

測されています。そういうわけで在原行平も、光源氏のモデルの一部を形成してい

る様子ですね。

謡曲/『松風』 では…<たち別れ・・・>(/『小倉百人一首』の方)の歌の方が、使われて

います。




  2月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1 桓武天皇        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(115)

行平は…

須磨の浦で蟄居の歌を詠んでいますが…順調に出世しています。中納言は、政界

のトップメンバーの1人です。

業平とは異母兄弟で、容姿も性格も同じと言うわけではありません。業平の母は第

50代/桓武天皇(かんむてんのう/平安京に遷都をした天皇。坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北地方

を平定した天皇)の皇女ですが…行平の母は身分が低かった様子です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 在原業平      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(116)

【17番→ 在原業平朝臣】(ありわらのなりひら・あそん/朝臣は平安時代、五位以上の人につける敬称。

                        /当時のスーパースター在原業平/ 平安時代初期の貴族・歌人。第51代

                       /平城天皇の第1皇子の阿保親王(あぼしんのう)の5男・・・六歌仙、三十六

                        歌仙の1人。別称の在五中将は在原氏の5男であったことによる・・・『伊勢物

                        語』は在原業平の物語であると、古くからみなされてきた。) 


★ ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは



< 竜田川の水の面
(おも)…

          まるで紅(くれない)のしぼり染め…

                   紅葉の錦(にしき)の唐(から)くれない…

               神代にもこんな美しさがあったとは、聞いたこともない…

                           なんと見事な美しさ… >


岡田健吉‏@zu5kokd1           
                                                                在原業平と二条后   (月岡芳年画)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(117)

「うーん…

業平には…他にもっといい歌がたくさんあります。定家の 『百人一首』 の選歌基準

が分かりません。それがまた、面白いのかも知れませんが…

この歌は…二条の后(きさき)/清和帝皇后・高子の屏風絵に寄せて詠んだ歌…と言いま

す。暴君/陽成院の母ですよね。

(/高子は・・・日本史上初の関白に就任した実力者/藤原基経とは同母妹。国母/高子と摂政/基経の権力闘

争があります。『伊勢物語』 『大和物語』などから、入内する以前、高子と在原業平とは恋愛関係があったと推測さ

れます。 )



 2月 6日

岡田健吉‏@zu5kokd1 在原業平      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(118)

<ちはやぶる>は神の枕詞(まくらことば)ですよね。<みずくくる>は“水潜(みずくぐ)

る”ではなく、“くくり染め/絞り染め”のことです。

<からくれない/・・・唐紅>は鮮かな濃い紅色のことで、深紅を指します。

うーん…業平は屏風(びょうぶ)を眺めて…なんと見事な美しさ、と詠んでいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 在原業平      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(119)

屏風を眺めて詠んだわけで…技巧が目立ち、洒落(しゃれ)ています。

業平は歌の名人で…

紀貫之(きのつらゆき/平安時代前期の歌人。『古今集』の選者の1人。三十六歌仙の1人。『土佐日記』の作者)

が 『古今集』 で…<その心あまりて、ことば足りず>と評している歌人。詩情がほ

とばしり出るのに、言葉が足りず、という歌人です。省略と飛躍が多く、難解な歌も多

い様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  業平         
                          「風流錦絵 伊勢物語」 勝川春章画。第9段の東下り 隅田川の景を描く

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(120)

さて、在原業平という人物です…

業平は古(いにしえ)から、美男の代表として伝承される有名歌人…

『伊勢物語』 の<むかし男>はほぼ業平。<むかし男>が一世一代の恋をする

のが、例の屏風の持ち主/二条の后/高子姫。史実とはズレもある様ですが、伝

説の美男歌人のロマンスです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 在原業平       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(121)

…栄華を誇る藤原一族は…

9歳で即位した清和帝にめあわせる適齢の姫がないため、高子姫を後宮へ入れる

画策をします。でも…15、6の高子は、31、2歳の業平と恋し合っています。裂かれ

るほど恋は燃え上がり、ついに業平は深窓の姫を背負って逃げます…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           
                                                                在原業平と二条后   (月岡芳年画)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(122)

『伊勢物語』 では…

野には、一面の露がキラキラして…姫は

「あれは何なの?」

…と聞きます。

暗くなり、雨も降って来ます。男は鬼の住処とも知らず、荒れた蔵に姫を入れ、弓

と、矢入れを背負い、戸口に陣取ります。蔵の中では…鬼が姫を食べてしまいま

す。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 在原業平     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(123)

…男は地団駄(じだんだ)を踏んで泣きますが、あとの祭りでした。

鬼というのは…本当は、追っ手である姫の兄君たちのことだったのでしょうか?とも

かく、遠い昔の物語です。



業平は…あまり出世はしていません。高尊(こうそん/身分が高く尊いこと)の生まれですが、

反体制的な貴公子のイメージですよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   業平          
                          「風流錦絵 伊勢物語」 勝川春章画。
                           第82段の「ちればこそ いとどさくらは めでたけれ…」の歌にあわせた景を描く。

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(124)

第55代/文徳天皇の第1皇子/母が藤原氏ではなく帝位につけなかった惟喬親王

(これたかしんのう)との交流は…清和帝(文徳天皇の第4皇子・・・母は藤原良房の娘・明子)には煙た

かったかも知れません。

二条の后/高子姫、惟喬親王の妹/伊勢斎宮(いせさいぐう)恬子内親王(てんしないしんの

う)など…高貴な女性との禁忌(きんき)の恋も語られ…放縦不拘(ほうじゅうふこう/奔放で物事

にこだわらないこと)のイメージが広がったためでしょう…」


 2月 7日

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原敏行        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(125)

【18番→ 藤原敏行朝臣】(ふじわらのとしゆき・あそん/平安時代初期の歌人、書家。藤原南家、藤原

                        巨勢麻呂の後裔。陸奥出羽按察使・藤原富士麻呂の子。従四位上・右兵衛

                        督。三十六歌仙の1人。在原業平とは相婿(あいむこ/妻どうしが姉妹)。)


★ 住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢の通い路 人目よくらむ


< 住ノ江の、岸にヨル波…そのヨルの夢路にさえ…         

         きみは人目を避けて、ぼくと会ってはくれないのか…  

                 夜の夢にさえ、きみは訪れてくれないじゃないか… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原敏行        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(126)

「この歌は…『古今集 - 巻12/恋の部』 に載っています。

<住の江>の岸は、大阪市住吉区の住吉大社あたりの海岸…歌枕(うたまくら/和歌

に多く詠み込まれる名所・旧跡)です。歌枕は、この歌では夜を引き出すための序ですが…

ヒタヒタと寄せる波音は、恋しい人の足音の様です。夜の海は、恋の深い嘆きに通

(かよ)います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原敏行        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(127)

この歌は…調べがなだらかで美しいですね。好きだという人は多い様です。

敏行は…清和・陽成・光孝・宇多・醍醐の5人の帝に仕え、右兵衛督(うひょうえのかみ)

/皇居警備の長官になっています。母方に紀貫之(きのつらゆき)・紀友則(きのとものり/

紀貫之の従兄弟。官位は六位・大内記。三十六歌仙の1人。)らの縁戚があり、歌人として有名で…

三十六歌仙の1人です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原敏行        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(128)

敏行は…紀有常(きのありつね/平安時代の貴族。刑部卿/紀名虎の子。官位は従四位下・周防権守。)

の娘を妻にし、在原業平とは相婿(あいむこ)。妻どうしが姉妹です。ところがこの相婿、

色好みという点では、双方引けを取らなかった様です。

敏行はまた、能書家(のうしょか/書の名人)でもあり、人々に頼まれて法華経(ほけきょう)を

よく写経しましたが…女への懸想文(けそうぶみ/恋文)の方も忙しかった様です。

 

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原敏行       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(129)

敏行の…不浄写経(ふじょうしゃきょう/経を書く時に不浄の行いをした・・・魚を食い、女に触れたこと。)や

閻魔大王(えんまだいおう/仏教・ヒンドゥー教における地獄の君主、死者裁判官。)との可笑しいやり

取りが…『今昔物語集』(/平安時代末期に成立した説話集。全31巻。ただし8巻・18巻・21巻は欠け

ている。)や『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり/13世紀前半頃に成立した、中世日本の説話物語

集)にある様です。そこから…敏行という好人物が偲ばれます。

あ…でも、この有名な歌も、敏行の作です。」


★ 秋来ぬと 目にはさやかに みえねども 風の音にぞ 驚かれぬる


< 秋が来たのだと、はっきりと目には見えないれれど…

                   風の音に…ハッと、秋の到来を感じたのです…>



 2月 8日





岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(130)

【19番→ 伊勢】(いせ/平安時代の女性歌人。三十六歌仙、女房三十六歌仙の1人。伊勢の御(ご)、伊勢

               の御息所(みやすんどろころ)。) 


★ 難波潟(なにはがた) みじかき芦(あし)の ふしの間(ま)も

                   逢(あ)はでこの世を すぐしてよとや


< 難波潟に生い茂る芦…

     そんな節の間の短い逢瀬(おうせ)の機会さえ、あなたは作ってくれない…

          私にこのまま過ごせというの…これっきりだと、あなたは言うの… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(131)

「この歌は… 『新古今集 - 巻11/恋』 に、“題しらず/伊勢”で載っています。彼女

の家集(かしゅう/個人または一家の和歌をまとめて収めた歌集を指す。) 『伊勢集』 には詞書(ことばが

き)に、

<秋のころうたて人の物言ひけるに>

とあります。心変わりしたつれない恋人の手紙に対する返事です。王朝の女流歌人

で、恋と歌に生きた才媛(さいえん/高い教養・才能のある女性)ですよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(132)

恋と歌に生きた女性と言うと…

小野小町や和泉(いずみ)式部を思い浮かべますが、伊勢もそれに劣らず、女性として

劇的な人生を歩みました。

ただ彼女の歌は、あまりに技巧的で、受け容れ難い所がある様です。でも、この歌

は、ほとばしる様な焦がれる思いが、強く人の心を打ちます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(133)

伊勢は…伊勢守(いせのかみ/律令制時代の伊勢国の国司の官職の1つ・・・地方長官。律令制が崩壊して

からは、伊勢国とも国司とも無関係な名目だけの官職になった。)/藤原継陰(つぐかげ)の娘で、その関

係で伊勢と呼ばれた様です。

はじめは宇多天皇の中宮温子(ちゅうぐう・おんし/摂政の藤原基経の3女/・・・伊勢は温子と仲は睦

まじかった様です。)に仕えていました。

伊勢は、美しく、魅力的な女性だった様ですね。才たけ気立ても良く、言い寄る男は

多かったのですが、相思相愛となったのが、青年武官の藤原仲平(なかひら)でした。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(134)

仲平は摂政/藤原基経の次男…権門の貴公子です。こちらは伊勢守/一介の受

領(ずりょう/地方長官)の娘。身分が違い過ぎる、と父は言います。しかし娘を愛してい

る父は、一言、こう言いました…

「若い者は、あてにならないよ・・・」

そして…この歌です。仲平は彼女を捨て、大臣の姫と結婚しました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢          

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(135)

傷心の伊勢は…仕える中宮のもとを離れて、その頃の父の赴任地/大和へ去り

ます。その時でも、魅力的な伊勢には、仲平の兄の時平(ときひら)や、色好みで評判

の平中(へいちゅう/平貞文・・・歌物語/『平中物語』 は平中が主人公。)などが付きまとった様です。

1年ほどして…都の中宮温子から、また出仕してはどうか…とお招きがありました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                           佐竹本三十六歌仙絵巻より伊勢像

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(136)

泣き暮らす伊勢に…父親も、その方が気も晴れようと勧め、都へ戻ります。仲平は

再び文を送りますが、伊勢はキッパリと拒絶します。

一方で、しだいに歌人としての名声が上がります。歌合の席や公的な屏風歌(びょう

ぶうた/屏風絵の主題に合わせて詠んだ歌。)で活躍し…

<躬恒(みつね/凡河内躬恒(おおしこうちの・みつね)/平安時代前期の歌人・官人。三十六歌仙の1人。)、

貫之(つらゆき/紀貫之・・・躬恒とともに、『古今集』の撰者。)にも劣らぬ>

との評判を取ります。



 2月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                           佐竹本三十六歌仙絵巻より伊勢像

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(137)

そうした歌人として活躍する伊勢に、心ひかれた人がいました。伊勢が、唯一、拒む

ことができない人…宇多天皇です。

これは、お仕えする中宮温子に対しても心苦しい事ですが、天皇には背けません。

絶対的なジョーカー/番外の札を握るのが…天皇です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                           佐竹本三十六歌仙絵巻より伊勢像

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(138)

…かつて女性歌人/額田王(ぬかたのおおきみ)は…大海人皇子(弟40代/天武天皇)との

間に皇女(/十市皇女(といちのひめみこ)・・・<壬申の乱>で大海人皇子の敵側大将となる、大友皇子(/

第39代/弘文天皇)の正妃。)もいましたが…実兄/第38代/天智天皇に取り上げられま

した。また、皇位継承をめぐり大海人皇子は都落ち…それが<壬申の乱>(じんしん

のらん)につながり、天武・持統朝の展開になりますが…1説では、額田王を取り上げ

られた恨みが、伏線にあるとも言われます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                           佐竹本三十六歌仙絵巻より伊勢像

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(139)

でも伊勢の場合は…それほどの障害ではありません。中宮温子も心の広い寛容な

女性だったらしく、その後も伊勢に優しく、伊勢も変わらずに仕えた様です。

一方…宇多天皇は遊び人で、たくさんの妃があられましたが、伊勢は寵愛(ちょうあい)

され、行明(ゆきあきら)親王を生んでいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                           佐竹本三十六歌仙絵巻より伊勢像

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(140)

それで、“伊勢の御”(いせのご)とか、“伊勢の御息所”(いせのみやすんどころ)と呼ばれるよ

うになりますね。

それから、宇多天皇は譲位・落飾(らくしょく/高貴な人が髪をそり落として仏門に入ること。)…そし

て皇子も幼くして亡くなられました。また、中宮温子も薨(こう/薨ずる・・・皇族や三位以上の人

が死ぬこと。)じられます。

さあ…憂いに沈む伊勢はますます美しく、いっそう男心を誘った様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    
                           佐竹本三十六歌仙絵巻より伊勢像

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(141)

そこで…今度は宇多院の第4皇子/敦慶(あつよし)親王の求婚を受けます。親王は

25、6歳…伊勢は30歳を過ぎていました。

『今昔物語』 に、宇多院の退位後、実家に下がった頃の伊勢の消息があります。醍

醐帝(だいごてい)が伊勢に歌を作るようにと、使者を遣(つか)わされています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1              
                                                            中務(なかつかさ・・・伊勢の娘/三十六歌仙  狩野安信  『三十六歌仙額』 )

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(142)

使者に遣わされたのは藤原伊衡(これひら/ 【18番→  藤原敏行朝臣】の3男。)です。ほのか

に伊勢の気配に接して、その気品とゆかしい魅力に…


<世の中には、こんなすばらしい女人もいるのかと感じ入った>


…と書いています。

伊勢と敦慶親王との間には娘が生まれ...彼女も歌人(/中務(なかつかさ)・・・平安時代中

期の女流歌人。三十六歌仙、女房三十六歌仙の1人。父は、宇多天皇の皇子敦慶親王で、親王が中務卿であった

ことから、この名がついた。母は女流歌人の伊勢。)になります。」



 2月 10日

岡田健吉‏@zu5kokd1 元良親王         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(143)

【20番→ 元良親王】(もとよししんのう/陽成天皇の第2皇子。父帝の譲位後に誕生。色好みの風流人

                   として知られ、『大和物語』や『今昔物語集』に逸話が残る。三品兵部卿にまで昇っ

                   た。)


★ わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ



<人は私を不倫の恋に狂う、痴れ者とそしる…

         もはや、逢うこともできない世のおきて…

                  難波のみおつくしではないが…

                           身をつくしても、あなたに逢いたい…>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 元良親王         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(144)

「この歌は…『後撰集 - 恋の部』 に…

<事いできてのちに、京極・御息所(きょうごく・みやすんどころ)につかはしける>

…として載っています。

京極御息所は…宇多天院の妃/褒子(ほうし)です。伊勢もそうでしたね。遊び人の宇

多院は妃が多く、その愛妃と恋愛沙汰を起こす強者もいたわけです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 元良親王         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(145)

激越な感情が、美しい調べに詠み込まれ、勢いのある歌です。

ネットの投稿写真の様に、歌に詠んで公表したのは、恋多き美男として有名な元良

親王。稀代の暴君/陽成天皇の第2皇子で、廃帝後の誕生です。父ゆずりの奔放

な情熱を、もっぱら恋愛沙汰に注ぎ込んだ様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1            
                                                            『集古十種』 「 天武帝御影 」

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(146)

宇多天皇に妃が多かったとはいえ…院(/宇多天皇は退位して落飾し、法皇になっている)の妃と

恋愛沙汰を起こすことなど、何処まで許されたのでしょうか。

当時、天皇の権力は…私たちの想像が及ばないほど絶大なものでした。象徴的な

のが、実弟の大海人皇子(おおあまのみこ/<壬申の乱>の後、第40代/天武天皇)の妃/額田

王(ぬかたのおおきみ/女性歌人)を、第38代/天智天皇が取り上げ、自分の妃としている

風景です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1            
                                                            『集古十種』 「 天武帝御影 」

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(147)

また、天智天皇は…

自らの皇女を4人も妻としてくれてやった実弟/大海人皇子を、皇位継承の不安材

料として、首を落とそうとします。戦略に長けた大海人皇子は、かろうじて虎口(ここう)

の都を脱出。未明の内に奈良から吉野へ逃れます。

つまり…それほどの、絶対権力があったわけです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 元良親王         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(148)

では…その元良親王を宇多院(/退位・落飾して法皇)が処罰できるかというと…

前科一犯では、厳重注意と言ったところでしょうか?

処罰しようにも…

父親の、要注意人物/暴君 - 陽成院は健在ですし…京極御息所は藤原時平/摂

政・関白太政大臣(/初の関白太政大臣・・・天皇が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行する

のが摂政。関白の場合は、最終的な決裁者はあくまでも天皇です。) - 藤原基経の、長男の娘…ですよ

ね。



 2月 11日

  
( 建国記念日 )


岡田健吉‏@zu5kokd1 元良親王         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(149)

もちろん…

王朝の空気や、時代背景でも異なりますし、人物レベルでも異なります。でも概して

古代王朝時代は、『源氏物語』 や様々な恋歌でも伝わるように、男女のロマンスは

自由だった様子です。

ただ、これは…あくまでも豊かな宮廷や貴族社会周辺の事です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 元良親王         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(150)

古典が…

王朝中心の文化になるのは、まだ庶民文化が育っていなかったからです。庶民文化

が力を持つのは、江戸時代になってからの様です。

うーん…

ともかく、元良親王が…

噂の立った逢瀬(おうせ)を見事に歌い上げたのは…まさに、ドン・ファン(/17世紀スペイン

の伝説上の放蕩児・・・ドン・フアンこと。プレイボーイの代名詞。フランス語ではドン・ジュアン、イタリア語ではドン・

ジョヴァンニ。)の極み(/きわまるところ)と言うことでしょう。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 元良親王         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(151)

この歌の<難波なる>は…<みをつくし>を引き出す掛詞(かけことば)です。

かつて難波の入江には、水脈(みお)を計る杭(くい)が立てられていました。“水脈つ

串”(みおつくし)はそれを言います。ここでは、“身を尽(つ)くし”にも掛けられています。

元良親王の歌は…『元良親王御集』(もとよししんのう・ぎょしゅう)に編集されています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 元良親王         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(152)

『元良親王御集』 は…

全篇が、女性との恋のやり取りで埋まっています。冒頭には…

<陽成院の一宮元良親王、いみじき色ごのみにおはしければ、世にある女の、

美しと聞ゆるには、あふにもあはぬにも、文やり、歌よみつつやりたまふ>

…とあり、片っ端から口説いた…様ですね。



 2月 12日

岡田健吉‏@zu5kokd1 元良親王         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(153)

『徒然草』(つれづれぐさ/卜部兼好(うらべのかねよし/・・・兼好法師、吉田兼好は江戸期の俗称)が書いたと

される随筆。)によると…

元良親王の元旦の奏賀(そうが/元旦に、大極殿において、殿上人(てんじようびと)のうち四位以上の諸

臣が天皇に年賀の事を申し上げること。また、その役をする人。)の声は音吐朗々(おんとろうろう)と、大極

殿からはるか遠くまで聞こえ、見事だったとあります。堂々の男ぶりです。

かつての好色は…現代より広範囲の情緒を指していました。男女の中で風流を解し、

恋の駆け引きも楽しんだ様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 元良親王         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(154)

元良親王は…人気者だった様ですね。女房・人妻・姫君と手を出し、ついに宇多院

の京極御息所にまで懸想(けそう/異性に思いをかけること)し、想いを遂げます。

褒子(ほうし)/京極御息所(きょうごくみやすんどころ)には、もう1つ、エピソードがあります。

もともと父/時平は、醍醐天皇の後宮に入れるために褒子姫を入内(じゅだい/皇后・中

宮・女御になる人が、儀礼を整えて正式に内裏に入ること。)させました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 元良親王         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(155)

それを、褒子姫がよほど美しかったらしく…落飾(らくしょく/高貴な人が髪をそり落として、仏門

に入ること。)して法皇の身(/日本においては・・・出家して仏門に入った上皇(太上天皇)のことを指します。)

の宇多院が…

「これは老法師賜はりぬ」

…と言って、連れて帰って自分の妃にしてしまいます。宇多院は褒子を溺愛され、常

におそばから離されなかったのですが…猫が狙っていたわけですね…ホホ…」