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国 宝/普 勧 坐 禅 儀 (ふかんざぜんぎ) Twitter (
1 ~ 29/ 完 ) |
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2013年 | 上から ・・・下へ |
12月 6日 道元禅師 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(66) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(1) 『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)は1227年…入宋修行を終えて帰国した道元が、そ の年に撰述(せんじゅつ/著述・・・永平寺に伝わる本巻は、帰国から6年後に自らが清書したもの)した 書(/永平寺所蔵・・・国宝)。 28才の若き道元による帰朝第一声であり、具体的な坐禅の仕方について述べて いる。実質的な、道元の立宗宣言の書とも言われる。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(67) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(2) 〔 序 論 ・・・要 約 〕 仏道とは…まっすぐな只管打坐(しかんたざ/ひたすら坐禅すること)である。ただそのまま が…仏の命の現成(げんじょう/眼前に隠れることなく、ありのまま現れていること)である。本来、 全てに通じ、妙用自在(みょうようじざい/不思議な作用が自在であること)の絶対真実である。 嗣法せられた坐禅・宗旨・宗乗(しゅうじょう/宗派の教義)であって…支障なく自在に功 夫(くふう/工夫)は重ねられる。
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12月 7日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(68) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(3) 真実の全体は…無常現成(むじょうげんじょう/無常が現前している)の命の存在なるゆえ、 坐禅が絶対真実。 尽十方界真実人体(/宇宙・大自然ないし、その生命活動及びそれに伴うあらゆる事実)は、はる かに迷いを超出している。 今、結跏趺坐(けっかふざ/座禅するときの正しい姿勢)する当処は、現前の仏の命の現成 (げんじょう)。この事実を離れて、修行の行脚(あんぎゃ)を用いる者があろうか。
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12月 8日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(69) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(4) 毫釐(ごうり/ごくわずかなこと)も違いがあると、理に叶(かな)った端坐依行(たんざえぎょう /姿勢を正して座り、教えにしたがって修行すること)も天地の隔たりとなる。心に違順(いじゅん /逆境と順境)が生じれば、たちまち明心を失う。 道を会得し…わずかばかり仏法に通達しても…その境をも解脱、身心脱落の無 上の命の全現成には遠く及ばない。
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12月 12日 釈迦立像 月岡芳年画 『達磨図』 (木版画 1887年) |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(70) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(5) 釈尊が難行苦行せられ…菩提樹下に端坐六年(/釈尊がカピラ城を出、空前絶後の決死の 修行6年の後、悟りを開かれた)…只管(しかん/ただその事だけに心が向かうさま)に行じられた跡 形をこそ学べ。 また…正しい禅の仏法(/ヒンズー教と融合した密教ではなく、釈尊が修行した原始仏教に近いもの) を中国に伝えた第1祖師/達磨(ダルマ)尊者(/菩提達磨=ボーディダルマ)が、少林寺で 9年面壁した。この尊い伝えは、今なお声名が聞こえるではないか。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(71) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(6) 古(いにしえ)の聖者でさえ、端座修行に没入された。法を継ぐ今人が、参禅弁道せ ずということがあろうか。 言葉で探し求めるのを、休まねばならぬ。なすべきは、対象に向かう心を返し、 自己の本来の所(/内観)に返照される只管打坐(しかんたざ)である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(72) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(7) 身心は自然に脱落し、もとより <真実そなわれる・・・本来の面目> は、たち まち現前するであろう。 恁麼(いんも/かくのごとく)な真実、身心脱落(/道元は天童山の如浄のもと、“身心脱落”をもって 開悟)なることあらんとするなら、一刻の猶予なく、恁麼な真実修行の打坐につと めよ。
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12月 13日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(73) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(8) 〔 本 論 ・・・ 要 約 〕 坐禅するには、静かな所がよい。 飲食の量は節度が大切。 種々の縁を放ち、心ゆるやかに、万事のいとなみを休息。 善悪是非の分別にかかわらず…心が動くのを停め…思量をめぐらさず…仏に成 ろうと図らず…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(74) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(9) 作仏(/仏となること。悟りを開くこと)は…迷妄(めいもう)の日常生活上の坐臥(ざが/座っている ことと寝ていること)に拘(こだ)わるものでなく、<坐臥を・・・脱落すべし> である。 通常…不断に坐禅する処には、厚く敷物を敷き、その上に坐蒲(ざぶ/坐禅の際に使用
する座布団)を置いて坐る。 坐法は…結跏趺坐(けっかふざ)、あるいは半跏趺坐(はんかふざ)がある。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(75) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(10) 結跏趺坐は…右足を左腿の上に安じ、左足を右腿の上におく。半跏趺坐は…た だ左足を右腿の上におく。衣服は…きちんと整えよ… 次に…右手を左足の上に安じ…左掌を右掌の上に安じ…両手の親指をそっとつ け…円相(/悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したもの・・・また、禅における書画の ひとつで・・・円形を一筆で描いたもの。一円相、円相図などとも呼ばれ、解釈は見る人に任される)を作る。
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12月 14日 京都/広隆寺「宝冠弥勒」 (国宝) 奈良/中宮寺 木造菩薩半跏像 (国宝) 中宮寺は・・・法隆寺に隣接 する聖徳太子ゆかりの寺 院。広隆寺の弥勒菩薩半 跏像とよく比較される。寺伝 では如意輪観音だが、これ は平安時代以降の名称。 当初は弥勒菩薩像として造 立されたものと思われる。 国宝指定の際の官報告示 は単に木造菩薩半跏像。 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(76) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(11) そのまま、正身端坐する… 左右に傾いたり、前屈したり、後にそってはならない。 両耳と両肩とが対し、鼻と臍(へそ)と向かい合うようにせよ。 舌は上顎(うわあご)につけ、唇も歯を合わせる。 目はかならず…常に開くようにせよ…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(77) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(12) 出息入息は、鼻で自然に静にせよ… 体の形を整えたら…口を開き息を長く大きく吐き… 体を左右にゆっくり揺り動か す。(/中心が定まったところで止める) 兀兀(こつこつ/・・・たゆまず努め、励むさま)と…動かざること巌(いわお)のように不動の形 で坐し…この不思量底(/心の底から・・・何も考えないこと)を思量せよ。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(78) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(13) 不思量底で、どう思量なのであろう… 思量はない。超出しきっている。ありとあらゆるものは非思量… 人間界の是非、善悪等の思量分別を脱落し…ただ打坐のみである…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(79) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(14) 不思量に止まり居る処のみを任運(にんぬん/運命に任せること)に、そのまま不思量底 である所…本来相としての非思量。これが坐禅の要術である。 坐禅は禅定(ぜんじょう/精神を集中して三昧(さんまい)に入り、寂静の心境に達すること)に習熟する ことではない。落ち着くべき所に落ち着く・・・ この上ない安楽の法門である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(80) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(15) 坐禅は…仏の命の働きそのままで…修行即実証(修行が、即、悟り)の相である… 現に…あるあらゆるものが、普遍的な働きの事実になりきっている… 命としてかけがえのない、絶対の真実そのものの現成(げんじょう)である…
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12月 15日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(81) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(16) この打坐…即ち、命の現成にあって…身心の安らぎ/自由をさえぎる煩悩や妄 想は到ることがない。 この意を得、そのまま打坐となれば…龍が水を得たように、虎が山に依るように、 本来の有りっ丈(たけ)の在(あ)り相であろう。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(82) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(17) 知るべきである… 仏の命が現れ、自ずから現成・・・ 昏沈(こんちん/煩悩の1つで、沈み込んだ心・・・明るく 澄みわたっている瞑想の対象がぼけてきたら、心が沈みこんできた証拠。心がさらに沈み込むと眠くなります) 散乱(/煩悩の1つで・・・心が認識対象によって散り乱れ一箇所に止住しない。“掉挙/じょうこ”は・・・心 それ自体が落ち着かない状態)する心は、先より脱落・・・ 尽十方界真実の現前であ ることを・・・ 坐を解き、立つ時は…ゆるやかに上体を動かし、安らかに気をつけて起ち、荒 々しい振舞いをしてはならない。
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12月 16日 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(83) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(18) 〔 結 論 〕 古を見るに…凡夫は生死に流転、聖者は生死を解脱…こうした凡聖は2つなが らに超脱(/世俗にかかわらないこと)している。坐禅の相、立姿のまま…寂然(じゃくねん /ひっそり静かな様子)と涅槃(ねはん/さとり・・・証、悟、覚と同じ意味)に入る生死のあり方を見 せる。すべて、坐禅の力に一任されたからであった。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(84) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(19) いわんや…指頭(しとう/1指頭の禅・・・『無門関・第3則/倶胝竪指』)や竿頭(かんとう/『無門関・ 第46則・竿頭進歩)を用い、鍼(はり)を把(と)り鎚(つち)を拈じ…知解分別を超え真実を 悟らせる機微の働きとなし…さらに払子(ほっす/もとインドで蚊・ハエやちりを払うのに用いた が、のちに法具となった)や拳頭(こぶし)をふるい、棒(/徳山禅師の棒)で打ち、一喝(かつ/ 臨済禅師の喝)をあびせ、ピタリ真実にかなえさせた…という働きはすべて坐禅の 力であった。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(85) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(20) 決して…思量や分別で窺(うかが)い知れず、神通(じんつう/どんなことも自由自在になし得る、 計り知れない不思議な働き・力)の修行でもって分かろうはずもない。それは感覚的な現 実生活の外の、正しい身の行住坐臥(ぎょうじゅうざが/日常の振る舞い)、その威儀(いぎ/ 立ち居振る舞いに威厳を示す作法)と言うべきものである。知識とか認識とか言う以前の、 理にかなった法則である。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(86) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(21) 賢愚(/賢者と愚者) は問題でなく、利人(りじん/りこう)か鈍感かは関わりがなく…専一 に力をつくす。ただ、打坐のみの世界が、修証一如(しゅうしょういちにょ/修行は悟りのため の手段ではなく、修行と悟りは不可分で一体のものだということ)である。自らに染汚されず、本来 の面目の趣く所が、本来のあり方。平常心の行持(ぎょうじ/ 仏道の修行を常に怠らずに続 けること)になりきって、行くばかりである。
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12月 17日 道元禅師 |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(87) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(22) おおよそ、仏の現われとなる、この世界でも別世界でも… 西はインド、東は中国・日本に至る国土でも… 等しく仏祖の印証(/“証”とは・・・仏教用語で、正法を修得して真理を悟ること)を護持し…各々 みな非思量なるこの打坐の、仏の命現成を宗風とし…自在に実証(/悟りを実現)・ 体達(/実際に、理をきわめること)している。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(88) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(23) ただ打坐をつとめ兀兀(こつこつ/たゆまず努め、励むさま)と坐定…兀地(こつち/ただ1人・・・ ただひとつのことを頑張る)だけに礙(さ)えぎられ(/・・・無礙、無碍= 妨げのないこと)…他に一切 なく、少しも離れず。まさに自受用三昧に安坐。 この自らの修証(/修証一等・・・修行と悟りを区別しないこと)・接化(/接得心導の意で、師家が学人 を親しく教化し指導すること)において、千差万別様々であっても、ひたすらに坐禅し、真 実の道につとめるべきである。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(89) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(24) 仏性の自家としての… 自受用三昧(じじゅゆうざんまい/坐禅の外側の形が “正身端座” であり、中身を “自受用三昧” という 言葉で表現する・・・空なる器の無我に成り切り、それを楽しむこと) ・端坐弁道(/端坐し、仏道修行に精 進すること)の坐位(/・・・具体的には、僧堂の単=1人1畳)をなげうち…他国の塵境(じんきょ う)に迷い、仏性の自己を見失ってしまうことが、どうしてあってよかろうか。もし、 この初1歩をあやまると、目前の大道を踏み違えてしまう。
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12月 18日 薬師座像 行基の作/新薬師寺 薬師如来は左手に薬坪 を持つ 薬師如来(『図像抄』) |
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(90) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(25) 人は…すでに、受けがたき人身の、機(/はたらき)の肝要(/かなめ)が具わっている。 人は…むなしく光陰(こういん/月日)を渡ることが、あってはならない。 人は…仏道の肝要の機を用い保ち…それこそ、全うする器だからである。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(91) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(26) 誰が一体…生滅無常のこの日月をもって、あたら空しく、楽しみをこととするであ ろう。この肉体は草露のごとく、時運命数(じうんめいすう/めぐりゆくいのち)は稲光(いなび かり/稲妻)のごとく滅し去る。たちまちにして空に帰し、またたくまにして失し、畢 (おわ)ってしまう。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(92) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(27) 願わくは…ひとえに貴い志をもて発心修証(ほっしんしゅうしょう)し、参禅学道におもむ く方々よ… 久しく彫龍(/彫った龍)を愛する所から、すすんで真龍(/真の龍)を愛せよとの故事の ように、文字、知識の一端をもって、真実仏祖正伝の全道を見紛(みまご)うてはな らない。
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(93) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(28) 言葉や文字にわたらず… 端的に指し示す兀坐(こつざ/じっとすわっていること)それ自体に精進…自受用三昧、安 住の仏法に徹せられた方を尊貴…諸仏の菩提(ぼだい)に、ピタリと合致するととも に…諸祖の坐禅三昧の、正統を嫡嗣(ちゃくし/宗教・芸能で・・・流派の正統を継ぐ人)せよ…
岡田健吉@zu5kokd1 ( 禅・・・ 日本における展開 )・・・(94) 《道元・・・『普勧坐禅儀』》・・・(29) 久しく恁麼(いんも/かくのごとく)為すならば、必ず恁麼なるはずである。まさに宝蔵お のずから開け、仏の命の働きの全現成を、自受用し、他受用し、意のままに限り もないであろう。
【 完 】 |