大宝城跡

 常総鉄道下妻駅間の道を東に200m程進み信号のある交差点を左折します。多賀谷城跡である市役所の前を過ぎ、常総鉄道の踏切の直前の交差点を右折します。小貝川を渡って最初の信号を左折し、細い道をしばらく進むと、正面に大宝八幡宮の鳥居が見えてきます。この大宝八幡宮の境内周辺が、かつて南北朝の争乱において激戦が繰り広げられた大宝城の跡であり、国の史跡に指定されています。

 大宝城は南北に伸びる幅200m程の舌状台地の北端に位置しており、かつてはその北側に広がる大宝沼に突き出した半島の突端という自然の要害の地にありました。この写真は城の南端に相当する場所で、鳥居の右手に見えるのは土塁です。左側の民家の裏側にもほぼ同じ高さの土塁が残っており、鳥居の部分が大手門跡に当たるのでしょうか。民家と比較すると土塁の高さが良く分かると思います。

 こちらの写真は上の写真に見える交差点から右手、つまり東側を写したものです。台地の端まで同じ高さで土塁が続いている事が分かります。この土塁の北側は、雑木林、小学校、民家、大宝八幡宮の境内があります。城跡の東側、西側は、崖となっていますが、土塁等の明確な遺構は確認できませんでした。写真の道路の場所に堀が掘られていたと思われますが、現在ではその名残は見られませんでした。

 こちらは台地の北端、現在の大宝八幡宮裏手に見られる土塁跡です。現在は写真右手が八幡宮のアジサイ園、左側は雑木林になっています。写真中央の草が刈り取られた部分が高さ2m弱の外側の土塁で、その左手の茂みの中に空掘がありますさらに左は一段高くなって郭を形成しており、上部に1mほどの土塁が残っています。

 大宝城は1232年に下野の小山氏一族の下妻長政が城を築いてから、代々下妻氏の居城でした。4代目の政泰は小田城の小田治久、関城の関宗祐、伊佐城の伊達行朝、志築城の益戸国行、駒城の中御門実寛、真壁城の真壁幹重らと共に常陸における何丁方の中心勢力として、小田城に拠る興良親王や北畠親房、春日顕国らを守っていた。1341年に小田城が解放された後は、興良親王や春日顕国を迎え入れ、足利方の高師冬の大軍を迎え撃った。大宝城の北方1km程の所には南北に細長い大宝沼を挟んで関城が有り、船で互いに連絡を取り合いながら2年あまりに渡り攻防戦を繰り広げたが、ついに力つき、城は落城、政泰は自刀して果てた。この時に大宝城を脱出した春日顕国は兵を集め1344年に再び大宝城を奪い返したものの、すぐに捕らえられ斬殺された。

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