第一章 フェニキア


1. フェニキア人

 フェニキアの民は古代地中海世界にあって、航海者、技術者、交易人として名を馳せた民族である。その活躍ぶりは聖書その他数々の文献に記録され、非難されているか称賛されているかは別にして、とにかく彼らが目立った存在であったことを物語っている。紀元前に既にアフリカ大陸を周航したとか、ブリテン島にまで錫を探して回ったとか、フェニキアの植民都市カルタゴの話しでは、戦力として象を連れアルプスの山々を越えイタリアに攻め込んだとか、そうした逸話が残されていれば、否が応にも関心は高まる。さらに、彼らがアルファベットを創り出したというのは俗説で誤ったものだとされているが、それでもアルファベットを地中海世界に持ち込んで流布させたのは間違いなく彼らの功績である。
 フェニキア人とは、我々から遠く離れた古代にあっても、人種的な定義ではない。これから触れていく時代は全て紀元前に属し、我々の時代から遠く隔たっているので歴史学的な手法ではカバーしきれずに、考古学的な領域が支配的になるほどである。にも関わらず、「フェニキア人」とはむしろ民族的な用語と言える。
「フェニキア」とは、元来は暗赤色あるいは紫がかった褐色を意味する語であるギリシャ語の「phoenix」に由来している。彼らが交易で名を馳せる時に特産物として大いに貢献した、紫色に染色された布あるいはその技術(*1)自体から派生しているのか、それとも彼ら自身の肌の色が褐色であったことから派生しているのか、議論が分かれているところであり、定説はない。いずれにせよ、紀元前1200年頃(すなわち通説的にはフェニキア人が繁栄し始めた頃)から、東地中海沿岸地域に住み精力的に交易活動を行なったカナン人がフェニキア人と呼ばれるようになった。フェニキア人を外部から眺めた場合は、明らかに彼らは共通の言語、宗教を持っていたためそう呼ばれたわけであるが、彼ら自身は当時都市単位でアイデンティティを確立しており、テュロス、シドン、ビブロス(*2、地図1)といった都市はかなり独立的な性格を有し、それらが一つの国家として統合されることはなかった。事実、聖書などに見られる記述の中では、テュロスやシドンの住民はそのまま直接的に都市の名を冠して呼ばれている(*3)。さらに、例えばテュロスが後にアレクサンドロス大王軍に包囲された時、周囲のフェニキア系都市の中にはアレクサンドロス大王側に船舶を提供したという話し(*4)もあり、彼らの「フェニキア」としての同族意識は私たちが思うほどに強力でなかったのかも知れない。彼ら自身が自らをどのように呼んでいたかも定かではない。「Kena'nai」と呼んでいたと見る向きもあるが、もしそうであれば、この語はヘブライ語では第二義として商人の意味を含んでおり、フェニキアのその特性をよく表している。


2.民族的背景

 フェニキア人がセム語族に属していることは、まず言語学的な見地から指摘された(*5)。「セム語族」という用語は、18世紀の終わりにヨーロッパの言語学者が、創世記第10章の中に見られる表現(*6)を利用して民族として分類する際に用いたものである。いわゆる「セム・ハム語族」と言われるもので、「インド・ヨーロッパ語族」などがそれに対立する集団である。言語学からの指摘の他に、後の考古学的な発見によって、宗教的要素、文化的要素にも共通した点が見られるという事実が浮かび上がり、「セム語族」という用語の確度を高めるに至っている。セム語族に属する民族は、アッカド人、バビロニア人、アッシリア人、カナン人、アラム人、アラブ人、エチオピア人などであり、いずれも古代オリエントにあって重要な役目を果たしていた。また、そうした分類の元となった創世記に見られる記述と異なる場合(フェニキア人はハムの子孫としてその名が挙がっている(*7))でも、後世の研究によって修正が加えられているおり、全く聖書通りの分類というわけではない。フェニキア人の場合は、当時彼らがエジプトと密接な関係を持っていたという事実を反映した表現であろう(エジプト人はハム語族に属するため)。
 18世紀以前の言語学ではアジアに属する民族は全て、「東洋的な」というカテゴリーに一緒くたにされ、現在で言う所のセム語族間に見られる類似性も散発的に指摘されるに留まっていた。しかしながら、例えばスペインのユダヤ人が、イベリア半島に侵入してきたアラブ人の言語と自分たちの言語が似ているという点(両者ともにセム系である)に気付いたことなどから、その類似性の議論が高まってきたのである。「セム系諸語は、音韻組織、語形、統語、語彙においてかなり多くの共通性を持っている。その類似性は歴史的時間経過による借用という現象のみによって説明することは出来ない。共通した起源を持つという仮説に基づいて説明可能なことである。」(*8)とサバティーノ・モスカーティは著書の中で述べている。
 セム語族の出身地はアラビア半島と考えるのが有力である。セム種とされている民族のアラビア半島を中心とした地理的な拡散具合からもかなり可能性が高いと判断できよう。アラビア半島の大半は砂漠であるため、当初はほぼ完全に遊牧生活の形態を取っていたと考えられていた。しかし、それに必要不可欠なラクダの家畜化の開始時期に関して、以前よりも最近のことではないかという議論(*9)が主流になり、もしそうであれば、セム人の多くはラクダが必要のない、半遊牧半農耕的な生活を営んでいたと考えざるを得ない。つまり、当初は半遊牧半農耕的な生活を営んでおり、古代のある時期を境に、半島の砂漠地帯を出て周辺に拡散し始めたということになる。アラビア半島においては、厳しい自然環境である砂漠とその周辺の豊かな農耕地帯という地理的状況自体は、古代から現代に至るまで大きな変化はない。そして、砂漠に象徴される厳しい環境下で生活を送っている非定住民が、その周辺の豊かな地域に平和的にせよ略奪的にせよ侵入することは歴史上多く見られる現象である。中国北方の遊牧民の南下は中国歴代王朝を悩まし続けたし、遊牧民の例とは言えないが、ゲルマン民族もその源流まで遡れば、森林と沼沢が混在する自然環境の厳しい土地で生活していたのが、突如移動を開始したわけである。それと全く同じようにセム人も周辺の豊かな地域へ進出していったのである。考えて見れば、こうした事情は非常に論理的と言える。貧困な地に居住する民族が人口増加などの要因でその土地で生活を維持できなくなった場合に、豊かな土地への移動という必然性が生まれるからである。その中で成功裡に終わり、歴史上特筆すべき大規模なものが単に歴史として知られることになるだけである。ただ、セム人の場合はその移動が歴史的に非常に古いために、あるいは原セム人が記録する文字を持っていなかったために、記録が決定的に乏しいだけである。
 アラビア半島を中心に地図を描くと、我々があまり眼にすることのない地図を見ることが出来る。アラビア半島が灼熱の砂漠でそこに人が住んでいて、彼らが諸事情で砂漠に別れを告げなければならない状況がやってきた時に、彼らが進める方角が限られていることが一目瞭然である。ちょうど三方を海に囲まれ、袋小路のようになっていることが見て取れる。そのうち海と言ってもペルシャ湾と紅海は細長い形状のため、船があれば容易に渡ることが可能だが、民族単位の移動としては、陸地づたいに行くより相対的に適さないであろう。現実にアラビア半島からアフリカ大陸側へ渡る場合、その最短距離は数マイルに過ぎないため、セム人は紅海を越えてエチオピアへも進出していた(*10)。しかし、やはり自然に考えると、北を上にしてちょうど左上方、つまりカナンの地かメソポタミアの地が目標となるだろう。袋の出口にあたる方角である。彼らは、自然の地形によってそれが阻まれる(*11)まで、アラビア半島を中心に文字通り「拡散」したと言うことができるだろう。
 遊牧民族時代の彼らの記録が全くないという事情のために、その移動の時期を明確にすることは非常に困難である。しかしながら、結果的な記述、つまり、その後の周囲の国家の記述によって、彼らが少なくともある年代までにはそこにいた、というような特定方法は可能である。そのような考えに基づいて、カナンの地へは大体紀元前3000年前後に、相次いでメソポタミア地域へも進出したとされている。しかしながら、彼らの拡張は漸次的な性格があり、次々に砂漠から新しい血を補充していたような側面もあるため、一概に点として年代を定めることが困難である。ヘロドトスはテュロスの建設は2750年前後(*12)と比定しており、紀元前3000年前後という考えはかなり信用できると思う。
 このようにセム語族が遊牧生活に別れを告げ、アラビア半島を出て、カナンの地に定着しても、我々の言うフェニキア人が形成されたというわけではない。彼らが歴史の表舞台に立つのはまだまだ先のことである。フェニキア系諸都市自体の歴史は古いが、我々の知っている航海術に長けた交易の民として集団を形成するには、もう少し時間が必要であった。
 カナンの地に移住してきた彼らは、「原カナン人」とも言うべき土着の人々と混血を繰り返し、ビブロスをはじめとする後の「フェニキア」を形成する都市に進出していったのである。そして、「人種のるつぼ」としてのカナンの地に様々な民族が流入し(*13)、後のフェニキアにつながる集団が構成されたと考えられる。しかし、こうした「るつぼ的」な要素を正確に解明するのは非常に困難で、どの集団がどれほど支配的に、どれほどの量で、どれくらい時間を掛けて混ぜ合わさっているのか把握しきれない。さらにそうした集団の多くはいずれも同じセム系であり、後のフェニキア人の特徴となるような要素はいずれの集団も多かれ少なかれ持っていたと推察される。彼らの構成を論じる際に注目すべきは、フェニキア人を他の民族と大きく分かつ決定的な要素、すなわち航海術の導入であろう。突如として彼らの十八番となる航海術については、外部勢力による導入が最も蓋然性の高い説明であり、そのためには、何らかの民族との結合というような要素が必要である。
 フェニキア人の航海術が何に基礎を置いているかという議論は、「海の民」(*14)と呼ばれる集団との結合によって説明されるのがもっとも有力である。「海の民」は特に前13世紀に東地中海世界一帯を荒らし回った集団で、民族的にはギリシャ系と考えられている。彼らはエジプトまで攻め込んでそこでラムセス3世の軍勢に敗れ、拡大に歯止めが掛かった。同地域一体に非常に大きな影響を与え、特に当時の大国、ヒッタイトやエジプトの勢力を衰退に向かわせ、フェニキアの側から見れば、権力の空白地帯を生み出し彼らの活躍の場を与えた。荒らし回った「海の民」が沿岸部に定住し、原フェニキア人と結合して外洋航海術を彼らの与えたと考えると、フェニキアの航海術の起源について自然な説明を得ることが出来る。フェニキア人が勢力を拡散していく、すなわち地中海に進出していくのは、前述の通り、12世紀頃からであるため、時期的にも符合する。あるいはさらに、シドンからテュロスに覇権が移るのも、「海の民」によってシドンが破壊され、彼らがテュロスに逃げたためであると説明されることもある。彼らの出身がどこであったかなどは未だ定説がなく、詳細は不明であるが、「海の民」による侵略の影響は、レパント地域の歴史を、殊にフェニキアの歴史を考える際には、非常に大きかった。
 以上をまとめると、フェニキア人の民族的背景はこのように一応定式化されていると言っていいと思われる。つまり、
     紀元前3000年前後:レバノンへのセム系民族の移動
          ↓
     紀元前2000年前後:アモリ人の流入
          ↓
      カナン人の形成    「海の民」による航海技術
          ↓          ↓
     紀元前1200年前後:フェニキア人と呼ばれるようになる。
というような図式である。彼らの形成については大まかに以上のようにまとめることが出来ると思う。


3.政治

 フェニキアの政治と言っても、フェニキアは全体として国家形態を取っていたわけではないため、フェニキア諸都市それぞれについての言及が理想である。しかし、各都市が制度的に全く異なる制度を構築していたという事実はなく、大体似通った性質であり、それほど詳細に分かっていないので、まとめて概略的に記述する。
 フェニキア諸都市はその記録を追うと、いつの時代においても優越的な都市が存在していたことが見て取れる。その一番手はビブロスである。ビブロスがフェニキア都市の中にあって何らかの裏付けがあって優越的であったかどうかについては確証がないが、エジプトにおいてもメソポタミアにおいても、レパント諸都市の中で資料にその名が最も早い時期から表れるのがビブロスなのである。特にエジプトとの交易活動は非常に盛んだったことを想起させる記録が多数残っている。ビブロスの王は、「プリンス」、「族長の中の族長」といった意味のエジプト語の称号を与えられ、墓からは明らかにエジプトの影響を受けたと思われる装飾品が出土している。エジプトの影響を色濃く受けた時代であった。
 次にシドンがくる。そして、前10世紀頃からはテュロスという具合である(*15)。繁栄したテュロス王が「シドン人の王」という称号を用いて、自らが伝統あるシドンの流れを汲む者であると表現しているのは、そうした事情がある。先に見たように聖書の記述の中でも、ハムの子カナンの長子はシドンということになっている。そして、その優越的な都市が活躍した都市においては、外国の領主に船の建造や航海を依頼され、交易活動を行なったことが記録に登場するのである。しかしながら、そうした優越性は何らかの政治的制度に裏打ちされたものではない。おそらくは、多くの部分を商業的な繁栄に立脚していたと考えられる。また、一時的な同盟は存在したものの、各都市が連合のような形態を取っていたこともない。従って、各都市の独立はかなり強力に維持されたと言える。
 各都市は通常世襲の王一人によって統治されていた。現在まで残されたフェニキアの記録の中には、そうした王の名を系統的に並べただけのものが多い。記録の乏しいフェニキア人にあって、王の固有名詞はよく知られているのである。王の特徴は、その機能においてかなりの部分が宗教的な要素と関連している点である。フェニキアに関して言及している碑文の中には、王が寺院や像を建て、そのことが神々に評価されたという内容が多い。例として、ビブロスの王、Yehimilkの碑文の例を引用する。
 「神殿は、ビブロスの王、Yehimilkによって建立された。彼はこうした全ての神殿を修理したその人である。Shamim Baal、ビブロスのBaalat、さらにビブロスの全ての聖なる神々よ、Yehimilkのビブロスへの君臨を長きものにしたまえ。彼は、聖なるビブロスの神々に対して正しく、同時に正義の人である。」(*16)
 また、上の引用にも見られるように、王を形容する語として「正しい」という語は多く使用されていることが分かっている。神に対する態度として最も好ましい態度であったことが伺える。そうした事情を見るとき、彼らの中の宗教的な要素の濃さが伺える。


注釈



(*1)貝の身の部分を取り出し、塩水を入れた浅皿の中で太陽にさらし腐敗させ、貝の分泌腺から出る液体を抽出する。この時の悪臭がひどいらしく、作業場は街で風下に当たる場所に位置していた。それからその液体を濃縮するために長時間煮る。腐敗処理にかける時間と液体の濃縮程度で、淡いピンクから濃い紫色に至るまでの色合いが決まったという。この方法は現実に可能なことが確認されている。

(*2)いずれもフェニキア系の都市で、特定の時代において主導的な立場にあった。いずれも現在のシリア−レバノン地域に位置し、現在でも存続している。ちなみに、カルタゴの母市はテュロスである。

(*3)エゼキエル書第27章3節
「海の入り口に住んで、多くの海沿いの国々の民の商人であるツロに対して言え、主なる神はこう言われる、
ツロ(引用者注:=テュロス)よ、あなたは言った、
『私の美は完全である』と。」
同第27章8節
「あなた(=ツロ)のこぎ手は、
シドンとアルワデの住民、(以下略)」

(*4)ホルスト・クレンゲル、『古代オリエント商人の世界』、p300参照。

(*5)フェニキア語は、セム語系言語で現在のシリア−パレスチナ地域使用されていた。フェニキア人が地中海に乗り出して行くと当然その先々の植民都市でも使用されるようになり、広く地中海世界に広まった。カルタゴがある北アフリカなどでは、現地ベルベル人の言語の影響を受けながら紀元後6世紀頃まで一般に使用されたとされている。彼ら自身が多くの記録を残さなかったため、フェニキア語はギリシャ語やラテン語、さらにはヘブライ語などの文献に見られる方が多い。記述は、後のアルファベットとなる22文字によって母音を明記せずに表記される。また、セム系諸語の近似性については、永橋卓介氏は著書の中で、「セム系言語はいちじるしく近似していて、それらの間の近似性は、言語学的教養のない観察者によってすら認められるほどである。」(『セム族の宗教 上巻』p26)と述べている。

(*6)創世記第10章21節
「セムにも子が生まれた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であった。セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクサデ、ルデ、アラムであった。(以下略)」

(*7)創世記第10章6節
「ハムの子孫はクシ、ミツライム、プチ、カナンであった。」
同第10章15節
「カナンからその長子シドンが出て、またヘテが出た。」

(*8)Sabatino Moscati「Acient Semitic Civilizations」 p25 Elek Books 1957

(*9)ラクダの馴化時期については、以前は紀元前3000年前後であると考えられていたが、最近の研究ではもっと遅く、紀元前1500年前後であるとする主張がある。

(*10)古代、エチオピアはアビシニア(Abyssinia)と呼ばれ、奴隷、象牙といった魅力的な商品が進出の原動力となった。アフリカ大陸の中でもキリスト教が早い時期から浸透するなど、そのたどった歴史は特異と言える。

(*11)アラビア半島を中心にして、シリアパレスチナ方面に進むと山脈が連なりそれを越えると地中海によって遮られる。地中海と山脈に挟まれたフェニキアの細長い回廊をそのまま北上しても、再びアナトリアの高原に阻まれる。北東に進むと、豊かなメソポタミアに遭遇することになり、その豊かさに引きつけられる。残る方角は海である。

(*12)マドレーヌ・ウルス=ミエダン、『カルタゴ』、p30参照。

(*13)中でも、アモリ人の流入は特筆されるべきものとして扱われることが多い。アモリ人とは、セム系の民族で、エジプトの方からカナンの地を通って、2000年頃からメソポタミアに定着したと考えられている。その過程で一部がカナンの地に定着したと考えられている。ハンムラビ王で有名なバビロン王朝は、彼らが建てたものである。また、前14〜13世紀にかけて、フェニキア海岸地方に「アモリ」という国があったとされ、アッシリアの文献においては、その地方を指す地理的な名称となっていた。このため、フェニキアの形成においては重要視されているのである。

(*14)前13世紀頃、東地中海沿岸地域、アナトリア、シリア、パレスチナ、キプロス、エジプトを侵略した民族集団。その起源についてはいまだほとんど何も分かっていない。「海の民」を構成する諸民族の名は、地中海各地にその痕跡を残している。例えば、「Shrdn」はサルディニア、「Shkl」はシシリアの先住民シケル人、との関連が見受けられる。

(*15)テュロスはシドンの娘として表現されている。
イザヤ書第23章12節
「しえたげられた処女シドンの娘よ、あなたはもはや喜ぶことはない。」
この「娘」はテュロスである。

(*16)Sabatino Moscati、「The World of Phoenician」、p27参照。




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