エピローグ

 フェニキアの民は、交易の民として歴史にその名を残している。古代にあってその特異性は同時代人たちが指摘する通りであり、おそらくはそれほどの敵意が無くても、ギリシャ人でなくても、そうした記録になったと考えられる。確かにギリシャ人が交易上の競争相手だったことも要因であろう。しかし、以上のように、彼らの素性を調べると、地中海世界にあって彼らが異質になり得る要素を潜在的に抱えていることを垣間見ることが出来るのである。
 まず、彼らが当時地中海世界に進出していった民族の中では、一人セム系であったことである。進出していった、というよりは非セム系民族と対面し彼らの記録に残されたと表現したほうがいいだろう。我々が学ぶ当時の歴史の多くはギリシャ人やローマ人の残した著作によるものである。まだ周囲に同じセム系の民族がいて彼らによって記録されていた時代は、彼らは地中海世界に打って出ていなかった。地中海世界では一地方に過ぎないパレスチナの地においてセム人同士で交流していたのである。地中海世界に出た彼らはいわゆる西洋人の目に晒された。結論を急ぐわけではないのだが、その異質さは、西洋から東洋を見たときの異質さに通じるものと言えるだろう。そういう意味ではカルタゴとローマの戦争は誇張気味の嫌いはあるが、地中海を挟んだ当時における西洋と東洋の戦争であったと言えないわけでもない。西洋が東洋を記録して残しているのだから、そこにある種の誤解は避けられないし、胡散臭い眼で眺めるのも仕方がないというものである。
 次は、その複雑な現実を経験した宗教という要素である。
 セム系諸民族の大きな共通項であるその宗教は、遊牧民だった頃の記憶に裏打ちされ、時代が経つに連れてその記憶は薄れるものの、基本的には一神教的な構成をとどめ、護るものと護られるもの、すなわち「極めて強力な神」と「保護が必要な人間」という軸を中心に据えている。ヘブライの宗教の十戒に「あなたは盗んではならない」という神の命令があるが、最近の研究で、この中の「〜してはならない」という助動詞は実は「〜するはずがない」という解釈が正しい、とするものがある。それに従うとすれば、あなた方はこれほどの神に護られているのだから「盗む必要がない」という意味になり、「〜してはならない」と神が命令している場合よりも、さらに神が極めて強大であったことを示していることになる。これはヘブライの例であるが、フェニキア系の神にも同様の強さがあったと考えられる。神々の怒りを招くような行動は慎み、神々に忠誠を誓うということをよしとする価値観が、人々を支配した。つまり、彼らの神は根本的に強力であった。神は文字通り主人であり、街の主であり、守護神であった。神に忠誠を誓っている限りにおいては街は護られ、繁栄するはずである。
 しかし、現実のフェニキアがたどった歴史はそうではなかった。フェニキア系諸都市は完全に外国の覇権下か入ることはなかったが、逆に真に独立であることも少なかった。完全な独立を勝ち取るのは「海の民」の侵入によって、レパント地域の帝国が弱体化してからのことである。それ以前は、献納の要請があれば彼らは交易に対する税金であるかのように支払い、当初はエジプトにその後はアッシリアに従属していた。その他にも、あの辺りにいた様々な集団と関わりがあったと考えられる。フェニキア系の諸都市にとって、外部からの侵略は恒常的な問題となっていたのである。フェニキアの諸都市が海に依存するようになるのはそのためであろう。アレクサンドロス大王がテュロスに軍を向けるときに、「堤がテュロスの住民にフェニキア人も大陸に属することを教えるであろう。」(*1)と語ったという逸話は、海とフェニキア人の関係を念頭に入れたとき、非常に印象的である。このように、現実の政治的状況として不安定な環境にあったことが、彼らの神々に対する態度に大きく影響したのではないだろうか。伝統的な一神教的な側面は退き、神々は様々に習合を繰り返した。神々の支配は人々の間にあって依然強力であったけれども、唯一神にすがりきれないという現実の問題があった。それを解決する方向として、宗教的な態度と現実社会の結果は全く異なるということを無意識ながらに記憶し、宗教に対する態度と現実的な態度を使い分けられるようになったのではないかと考えられる(*2)。現実の状況を神の所為にするのではなく、現実は現実として人間の行動の結果であって、それとは別個に共同体を維持する手段として神を信仰するという態度である。この態度は別に彼らが意識的に選択したわけではない。ただ、神々への期待を現実に持っていても、実際問題として侵略されることは大いにあったし、さらに言えば役に立たないことが自然とそうした態度に傾かせたのである。ここにおいて、彼らのこうした態度は商人として、彼らがより現実的になるのを容易にし、交易人として生きる彼らの大きな素質となったのではないだろうか。
 そして一方で、宗教的な側面を、取りあえず宗教として現実問題から分化させたことは、表面的には彼らをより「敬虔」にした。彼らの中で宗教上の儀式は、恒例の行事であり、自らの出自を確認できる鮮明な記憶となっていた。そうした中では儀式は儀式として独立し、現実の問題とは全く関係が無い分より堅固にその形式が守られるようになる。そうした側面が、フェニキア本国では行われなくなった幼児供犠をカルタゴ人が執拗に続けたという事実を引き起こしたのではないだろうか。
 その文脈において、交易に対する過剰な熱中も説明できよう。
 同時代同地域に生きる人々の中で、彼らほどに交易に過剰な集中力を見せた民族はいなかった。フェニキア人が各都市に政治的に分裂し、交易においても各都市間で時に激しい競争を繰り広げ、時に協力していたであろうことは想像できる。彼らが優れた交易者であったと同時に優れた技術者であったことは、象牙細工、金細工、あるいは島嶼部への街の建造技術、さらに有名な紫の布、そして造船技術、シドンからは歯槽膿漏を患っていた男性が歯に外科手術をしていた骨も見つかったこと、など枚挙にいとまがないし、既に繰り返し述べた。象牙細工、金細工などには彼ら独自の様式が顕著に見られないという点が指摘され、それがそのまま彼らの独自性の欠如につながるとされている。しかし、彼らは顧客がエジプト様式を好んだが故に模倣した、とは考えられないだろうか。『オデュッセイア』では、フェニキア人は、我々に伝わる通常のイメージ、陰険で、狡猾で、残忍で、というように描かれているが、ギリシャ人がまだそれほど地中海に進出していない頃に書かれたと考えられている『イリアス』では、ギリシャ人がまだ直接的に利害を争っていないためであろうか、フェニキア人は優れた工芸人として描かれるのである。こうした技術的な側面を交易に結びつけた点は無視できない。古代人にあって、そこまでして売ろうと考えるのは極めて特異なことである。そして、民族全体として商人であるのにも関わらず、個人的な欲望が極めて抑制された社会であったことは、カルタゴの例から推察される。さらに、あれほどの富を集めたにも関わらず、偉大な建築であるとか、巨大な墓のようなものは全く発見されていない。まさにこうした二面性に彼らの核心が潜んでいるのである。
 当初、単に地理的な状況から、あるいは、生活上の必要性から自然に始めたのが、彼らの交易であったであろう。しかし、前述のような宗教的な態度と現実問題の分離によって、交易活動そのものが、実際の宗教が担っていた役割を果たすようになったではないだろうか。全ての生活は交易に注がれ、密接に関連し、人々全体の中心的な目的となったのである。従って交易という目的のためには手段を選ばないし、個人個人の欲望のようなものも全て抑制されるのである。売れると分かれば何でも作る、売れると分かればどこでも行く、という態度は、交易自体が強力な目的であり、交易によって富を蓄積することが社会において非常に高く評価されていたことを示している。そうした社会が、交易に対する極めて強力なインセンティブとなっていたのではないだろうか、と考える。
 カルタゴ後期においては国力増強のために、つまり交易の維持のために植民地経営にも積極的に乗り出すが、それまではまさに交易さえ出来ればいいという体制を取っていた。夏冬別個の係留地(風向きが変化するため)、飲料水の確保、適度な後背地、墓を作るための石切場が「ポエニの風景」であった。それは、フェニキア人が沿岸に適当な船着き場を作る際の基準であり、その風景さえ見つければフェニキア人の遺跡が出てくると考古学者を確信させるほどの、明確な基準であった。そこで守られているものはまさに彼らの「交易」自体ではなかったか。第三次ポエニ戦争でローマに敗れ一度は講和条件を飲んだカルタゴが、海から離れるといった条件を提示されたとたんにヒステリックに最後の反撃を試みたというのは、その最後の反撃が絶対的に絶望的なものであっただけに、彼らの交易に対する思い入れを感じさせてやまない。あの時点でローマに再び反撃するのはどう考えても勝ち目はなかった。いわば自殺行為である。彼らも理解していたに違いない。しかし、自殺行為であると感じさせる以前に、彼らにとっては受け入れられない条件だったのであろう。そこまでの思い入れというのは一体何だったのであろうか。私は交易が既に彼らの精神的な支柱になっていたのではないかと思う。宗教という精神的支柱に代わるものとして、フェニキアの民は交易にすがったのではないだろうか。
 ある集団が異常なまでに経済活動に活路を見出す時、そこには、以前は精神的な支柱であったものが大きく崩壊し、経済活動自体がその代わりとなり強力な支えとなっているような側面は想定できないであろうか。そして、現実においてはそうした集団は「相対的な成功」を収めているように見えるのである。しかしそれは逆に言えば、周囲の他の集団はそこまで経済活動に入れ込む必要性がないし、実際入れ込んでいないのであるから当然である。カルタゴの場合は、最後の最後まで経済活動を目的としてそれを失うことは出来なかった。
 さて、カルタゴと酷似している日本が仮にそうした状況にあるとすれば、ここでは詳細に検討することは出来ないけれども、カルタゴのように支柱にすがって滅びるか、新たな活路を見出すことが出来るか、歴史的な選択の時代にあると私は考えるのである。

 とここまでが、執筆当時の結びであったが、執筆から5年を経たいまでも、この歴史的な選択がきちんとアナウンスされた形で行なわれていないのは、読者諸賢にも明らかであろう。むしろ、適切な選択のための準備期間を過ごしていると考えたいが、それは楽観的に過ぎるだろうか。民族的あるいは国家的な、然るべき前提や準備のない、いたずらな「経済性の追求」が一定の成功を収めてしまったことによる、悲劇というのはいかばかりか。人類史を通じてほぼ未経験な大きな難題に、われわれは足を踏み入れつつある。

注釈



(*1)マケドニア軍はこの後、テュロスまで陸づたいに進軍できるように堤を作る。その堤を渡ってマケドニア軍はテュロスを陥落させた。現在では、その堤の周囲に土砂が堆積してテュロスは島ではなくなっている。

(*2)北セム族の間では、アッシリア侵入時代は民族的歴史に対してと同じく宗教に対しても危機であった。なぜなら、そのときからずっと、この古い宗教は社会生活の現実性とはまったく接触を失い、ほとんどまったく有害無害なものとなってしまったからである。(永橋卓介、『セム族の宗教』上巻、p78参照)




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