黄金バット エンディング・テーマ

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 曲名:黄金バット数え歌
 作詞:第一動画
 作曲:田中正史
 唄 :鈴木やすし、コロムビアゆりかご会
    /コロムビア・オーケストラ

 アニメ版黄金バットではオープニングテーマの他に「数え歌」が作られた。一体なにを数えていたのだろう。常々疑問に感じていたのだが、ついに答えが得られる日がきたのだ。

 原盤を知る前、ただそのタイトルだけを聞いた時には『いなかっぺ大将』の「大ちゃん数え歌」をイメージしたものだった。そこで浮かんだ歌詞は《一つ人より高笑い、二つ不思議な高笑い、三つ皆で高笑い、四つ夜通し高笑い》である。さらに《五ついきなり高笑い、六つ無理から高笑い、七つナゾーも高笑い、八つやんごとなき高笑い》と続く。そして、バット研究の第一人者S氏により、バックコーラスは「ワハハハハハハハハ」が延々と流れ続けていると指摘を受け、我々の頭の中にある「黄金バット数え歌」は完成した。同時にまた、黄金数え歌だから、ひょっとすると単にちゃり〜ん、ちゃり〜んと黄金を数えるだけの歌かも知れないという見解も出された。しかし、おそらくはバットについて数えるのだろうという意見で決着を見たのである。

 そして今、その全貌が明らかになった。以下に記しておこう。


「ひとつ!」(ゆりかご会が元気よく叫ぶ)
一つ ひとっとび うちゅうを かける
黄金バットは きょうもゆく
黄金バットは きょうもゆく
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ
 (ゆりかご会合唱、以下おなじ)

 ひとっ飛びはよいが、バットは大空でも世界でもなく、宇宙を駆けていることに耳目が集まる。バットの住処の手掛かりになるだろうか。この「ソレ、ヒュッ〜」なる掛け声は以後十番まで繰り返されることになる。調子のよい合いの手だが、「一つ」と「六つ」以外は前の歌詞との脈絡がなく意味不明だ。

「ふたつ!」
二つ ふしぎな ちからをみろよ
かがやくドクロのたかわらい
かがやくドクロのたかわらい
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ

 見ろよ、と言われてもそうそう見られるものではないが、続く“輝く髑髏の高笑い”が不思議な力そのものなのか、不思議な力を見せつけて誇らしげなバットの様子を“輝く髑髏の高笑い”と歌ったのかで、注目すべき点が変わってこよう。一つ明らかになったのは、彼の笑い方は公式に“高笑い”であるということだ。

「みっつ!」
三つ みかただ せいぎのみかた
タケルよおまえも つよくなれ
タケルよおまえも つよくなれ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ

 たけるにとっては大きなお世話のお説教モードだ。正義の味方であることをことさらに強調されたのはバットのことだと推定されるため、続く歌詞ではその正義の味方ぶりが具体的に説かれると思うのが自然だ。しかし歌い手はくるりと向き直り、矛先をたけるに向ける。おそらくこの時、右手をたけるの肩に置いて諭すように歌いかけただろう。
 なぜ自分が強いとか弱いとかいった漠然とした評価を受けた上に公衆の面前で奮起を促されるのか、たけるにしてみれば得心のいかない展開であろう。

「よっつ!」
四つ よつめの ナゾーがきたぞ
かわいいマリーよ きをつけろ
かわいいマリーよ きをつけろ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ

 たけるには一方的に現状打破を訴えた歌い手だが、マリーには気遣いを見せている。しかもたけるの間接的な評価は「弱い」であるのに対し、マリーには直接的に「可愛い」と高い評価だ。三番の直後にこの歌詞が並べられたことで、たけるに対して歌い手が持つ感情が顕わになった。
 それにしてもナゾーが来たからどのように気を付けろというのか。もう来てしまってから言われたのでは、マリーは気を付ける前に得意の台詞(こうもりさん、お願い)で人任せにしてしまうに違いない。

「いつつ!」
五つ いっぱい かぜきるマント
きんのこうもり みちしるベ
きんのこうもり みちしるベ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ

 いっぱい風を切るとはやや苦しい表現だ。急に子供っぽくなってしまった。歌い手もそれを気にしたのか、マントの話は早々に打ち切ってこうもりさんに話題を移している。
 そのこうもりは道標だという。おそらくはバットにとっての道標に相当するのだろう。すなわちこうもりさんに座標をロックして実体化すれば、呼ばれた地点に現れることができるのだ。

「むっつ!」
六つ むらがる かいぶつなんか
シルバーバトンで やっつけろ
シルバーバトンで やっつけろ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ

 再度子供っぽく「怪物なんか」と歌うことで怪物の群れを格下に扱ってみせ、聞き手に脅威を感じさせないよう配慮する歌い手。さらにシルバーバトンでやっておしまい、と重ねて畳みかける。自分がやるんじゃないからって、簡単に言ってくれるよな、と苦々しく思うバットだが、そんな気持ちはおくびにも出さず高笑いを返すあたり、大人だ。

「ななつ!」
七つ なにくそ ダレオもおとこ
ヤマトネはかせの かたうでだ
ヤマトネはかせの かたうでだ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ

 だれおを誰だか知らない人でも、一行目を聞いただけで「彼は普段軽く見られているが、たまには根性を見せてやろうと意気上がっている」と思うだろう。同時に「そうか、だれおは軽く見られてしまう人なのか」と先入観を抱くかも知れない。だれおはそんな世間の冷たい目に反発して「なにくそ」と発奮して見せる。男であることの傍証には重要人物から頼られていることを示したい。そこで出してきたのが、やまとねの片腕というフレーズだ。虎の威を借る……だが、借りた虎がやまとねではどうだろう。だれおの評判がますます下がらないか心配だ。

「やっつ!」
八つ やるんだ スーパーカーよ
ナゾーとかがくの ちえくらべ
ナゾーとかがくの ちえくらべ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ

 スーパーカーは無機物なので、やるんだ、と励まされても動かないだろう。しかも生命体ナゾーとの知恵比べを奨励している様子だが、スーパーカーにはやや荷が勝ち過ぎていると思われる。本気でスーパーカーに「やる気」を求めているとすれば、関係者の猛省を促したい。

「ここのつ!」
九つ こどもは だれでもすきさ
黄金バットは ともだちだ
黄金バットは ともだちだ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ

 主語が曖昧なため、バットが子供なら誰でも好きなのか、子供は誰もがバットを好きなのか不明だ。後者であれば後半の歌詞からバットを慕う子供たちの笑顔がまぶたに浮かぶ。だが前者ならば、奇声を発する髑髏怪人に怖がり泣き叫ぶ子供たちをなだめる歌い手が、怖くないよ、バットさんはお友達だよ、と間に入っておろおろする様が浮かんでしまうのだ。

(歌い手)さあ、もうひとつ、みんなでいこう!」
「とお!」
ゆけよゆけゆけ 黄金バット
せかいのへいわが くるひまで
せかいのへいわが くるひまで
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ

 主題歌と違ってここまでなりを潜めていたバットにお任せ路線が、最後に炸裂。1999年4月現在でもいつ来るのか定かではない平和、しかも全世界の平和が来る日までゆけと叱咤する。ゆけゆけと激励する。ナゾーだけ倒しても全然ダメなんじゃないだろうか。もっとも1万年眠っていたバットのことだ、今後1万年起きていれば世界の平和を目にすることもあながち夢とは言い切れまい。その時人類が滅亡していてもよいのだ。世界が平和でありさえすれば。

 ※執筆時

 

 最後に気になる歌い手の素性を考えよう。レコードを吹き込みを担当した鈴木やすし氏のことではなく、真の歌い手、主格は誰か。わたしは次に挙げる理由からやまとね博士であると考える。

・やまとね博士を歌っていない
 バットはもちろんだが、たける、マリー、だれおのそれぞれについてひとつの数え歌で歌い上げているにもかかわらず、やまとねを歌った歌詞はない。これは歌い手自身がそうであるからだ。
・たけるを下げ、マリーを持ち上げている
 エピソード中の言動から、実の息子たけるへの情が薄いことで知られるやまとね。たけるよりもみなし子マリーを重用するやまとね。3番と4番の解説で見てきたそれぞれに対する態度は、まさにやまとねそのものである。
・破綻した論理と激しい思い込み
 全編を通じて感じられる破綻した論理。そして激しい思い込みからくる独特の話術。これらは正義の科学者やまとね博士の真骨頂ともいえる特質である。

 最後に歌い手やまとねに敬意を込めて、彼のために数えよう。原典の十番は「とお!」と言いながら全然数えていないので、ここにやまとねの歌詞を挿入することとしたい。
「とお!」
十で とうじょう やまとねはかせ
こんなことも あろうかと
こんなことも あろうかと
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ
 ソレ ヒュッ ヒュッ ヒュッ

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