ヤーマチカ通信 No.37

かもめ百年 …1999年2月10日号
モスクワ芸術座100周年とメイエルホリド生誕125周年。

アイ済みませぬ! 何度かヤーマチカ通信を書きかけてはみたのですが…モスクワへ来たら、エラク忙しくなってしまって… まず、下宿覚悟でやってきたら、ちょうど中国課の職員が帰国したばかりで、ラジオ局のアパートの空いた部屋に入れることになり、40平方メートルの住居費が下宿の1/20以下(去年夏のルーブル切り下げで約千円!という計算)で済むことになって大助かりなものの、ラジオ局の仕事にも責任ができ…(その代わり月給も5千円位になった…)11月には時ならぬ-20℃ほどの寒さが続いて、(その頃はまだ暖房が弱いので)部屋では毛布をひっかぶってふるえ、まだしも暖かいラジオ局で残業する事にしたら、非常食用のチョコレートを食べ過ぎて歯痛事件を起こし…

9月に集中講義した早稲田大と天理大の学生さんたちのレポートがドサリと届いて採点に追われ…

作家ソルジェニツィン80才記念のテレビシリーズや、記念コンサート、芝居も漏らさず追いたいし…

モスクワ芸術座創立百周年とメイエルホリド生誕125周年(100周年の時は、晴れて祝えない時代だった)が重なる今シーズンは、関連行事やテレビの特別番組が目白押しで…(それだけに、滞在することにしたのは正解でした)

結局この通信、本人と相前後して日本の皆様へ届くでしょうが、一口に言って、ロシアは国家のタガはガタガタ、でも経済危機が個人に与える打撃は日本の方がはるかに深刻という実感です。

2月4日 久しぶりの寒さ-18℃ モスクワにて記


メチャクチャでござりますがなロシアの経済
それなのに人は生き生き 芸術はとっても元気

テレビのニュースを見ていると、この国は新生どころかどんどん毀れていっているように見えます。

病気ばかりのお飾り大統領。殺し屋殺人の横行。日常的に贈収賄露見。町なかの市場で麻薬売買。給料は1年も2年も未払い。

孤児院、病院、刑務所で食糧や暖房が欠乏。酷寒地方の人は「-50℃なのにガスも暖房も止まったまま。自分たちがよくぞ生き延びているのが信じられないわ!」とわめき、いくつもの州で10ヶ月以上も未払いの給料支払いを求めて、教師たちがハンガー・ストや無期限スト。でも、税金を天引きすべき給料を渡していないのだから税収もなく、国庫はカラッケツのままのカラ回り。

それなのに、劇場はどこも満員。

時には暖房が止まったままのコンサートホールもあるけど、聴衆は、外套とマフラーにくるまり、素晴らしい演奏を楽しんでいる…

住居費、パン、ジャガイモなど生活必需品が安く抑えられたままなのが救い。輸入食料3-4倍。


昨年8月17日のルーブル切り下げ経済危機で最も痛手を受けたのは銀行や大手企業と、その従業員らニューリッチたち。市中の看板やテレビCMからそれらが撤退したあとの空白には、「我々自身以外にこのロシアを救える者はいません。税金を払いましょう!」という、税務署からの大看板やTV公報CMがやたら目につきますが、ほとんどの国民は、公務員か年金生活者なのです。税金を払え、と言われても、給料が出ていれば、もともとそこから天引きされています。そして、給料未払いで貰っていない人たちは、やはり公住宅である住居費は払わず(払いようもなく)、国庫も税収入を増やせぬどころか、住居費未納による新たな赤字をひきずり、の悪循環。

ロシア経済壊滅状態の元凶は、市場経済で潤った者たちが、国内に富を還元せず、外国の銀行に個人資産として持ち出していくから。(昨年だけで90億ドルが違法に国外に持ち出され、この額は、ロシアが国際金融機関に貸し付けを求めている額より多いのです)。

この国には愛国心というものがないのか!
経営者も、政治家でさえ、
自国の銀行を信用していない!

私が個人にとっての経済危機の打撃が日本人よりロシア人にとっての方が軽いと言うのは、ロシアの場合、給料の出どころも、住居費や税金の納め先も同じなので、給料が出なくても住居費を払わずに住み続けることはできる − つまり、つましく生活しつづけることはできるからです。しかもダーチャがある! 野菜類は自給できる! …社会主義経済の名残りが人々の生存を確保し、それが同時に、市場経済への完全移行を妨げているという皮肉な図式です。

11月、白タクの運チャン「日本も経済危機? エッ自殺する人もいるの? ロシアじゃこの50年間、飢えて死んだって話は聞かないナァ。給料はでてないけどね。ハッハッハッ」

12月、別の運チャン「政府庁舎(!)で運転手してるけど3ヶ月給料貰ってないから、こうやって公用車使って小遣い稼ぎさ」

地方では…
ペンザの州立博物館職員の給料は8月以降未払い。州の文化局長に「払ってあげて」と言ったら「僕も貰ってないんです」。自動車工場勤めの知人は、半年前の給料を半分魚(!)で支払われていた。ボロネジの教師は2年前の分を今頃ソーセージで!


ふたつの博物館

オクジャワ記念館

…モスクワ郊外 ペレジェルキノ別荘村

去年夏の経済危機後、資金集めはさらに困難を極めていますが、政局も混迷しているので、「既成事実を作るが勝ち」と、有志たちがオクジャワの別荘を保全し、手作りでロッジ風別棟も建てて資料を展示するとともに、毎土曜日に若い詩人たちの発表の場にし始めました。寄付のご送付をありがとうございました! (編者注:ここに寄付を寄せられた方々7名の名前があります)からのご送金に山之内の分を加え、ドルに監禁して、1320ドルをオクジャワ未亡人のオリガさんにお渡ししました。

メイエルホリドの部屋博物館

…モスクワ ブリューソフ小路12

メイエルホリドがジナイーダ・ライヒと住んでいた150平方メートルほどのアパート友人や俳優たちが出入りしていつも賑やかだったそうです。

メイエルホリドの逮捕、ジナイーダ惨殺の時14才だった孫娘のマリヤさんは、メイエルホリド復権の求心力となってきました。部屋が戻されてから、内装やピアノ、家具などの配置も復元。公式には演劇博物館の分室ですが、慢性的な資金不足。山之内は公私の援助を続けており、今回も、飛行機代、下宿代の浮いた分を有効利用できましたが、篤志の方のご協力は大歓迎です。

寄付は常時受付けます(通信欄に用途の別を明記して下さい)。郵便振替00180-9-653859 ヤーマチカ通信


かもめ100年

「新しい演劇」に命を賭けた男たち

ことの起こりは、1897年6月22日に、当時、すでに劇作家として有名で主に帝室マールィ劇場のための戯曲を書いていたネミローヴィッチ=ダンチェンコ(長いけれどどちらも姓)38才がアマチュア劇団の主宰者で俳優・演出家を兼ねるスタニスラフスキー34才に、スラヴァンスキー・バザールのレストランでの会見を申し入れたことです。「手あかのついていない、大衆向けの新しい劇場を作りたい」という夢に、たちまち意気投合。午後2時からの会食のあともモスクワ郊外のスタニスラフスキーの別荘に場を移し、翌朝8時まで、話しつづけました。

そして1898年10月14日に「モスクワ芸術座」が誕生しました。大口出資者は実業家のサッヴォ・モロゾフ38才。鉄道や銀行を営みながら、化学者として学位も持ちイギリス留学の経験もある熱血漢。

創立メンバーは、他に、スタニスラフスキーが率いていた「芸術・文化協会」の俳優たちと、ダンチェンコがフィルハーモニー協会付属の音楽演劇学校で教えていたクラスの卒業生たち。その、ダンチェンコの教え子の中に、のちにチェーホフと結婚することになるオリガ・クニッペル30才とメイエルホリド24才も含まれていました。二人はダンチェンコのクラスを同点主席で卒業すると同時に、モスクワ芸術座の創立に俳優として参加したのです。20世紀演劇の礎を築いたと同時に、メイエルホリドの、プロの演劇人としてのデビューだった点でも極めて重要です。

旗揚げ初日のA・トルストイ「皇帝フョードル」はまずまず好評だったものの、そのあとハウプトマン「沈鐘」、シェイクスピア「ベニスの商人」などは不評つづきで、このままでは早期閉鎖の危機に追い込まれていきました。ところが背水の陣で12月17日、七本目に上演したチェーホフ「かもめ」は、カーテンコールの回数も数え切れないほどの大成功。一挙にモスクワ芸術座の名を確立し、劇作家チェーホフを世に送り出しました。スタニスラフスキーとダンチェンコの共同演出。主な配役は、アルカージナ…クニッペル、トレープレフ…メイエルホリド、トリゴーリン…スタニスラフスキーでした。

実は「かもめ」の初演はその二年前、ペテルブルグにおいてでしたがその時はチェーホフをして「この先七百年生きるとしても二度と戯曲は書かない」と絶望させる失敗で、モスクワ芸術座への提供もチェーホフが渋りに渋るのを、ダンチェンコが「新しい劇場の誕生には同時代のレパートリーがどうしても必要」と食い下がったのでした。新聞評などでも、戯曲、演出、そして、メイエルホリドのトレープレフ役が絶賛されています。この時の「かもめ」の成功がなかったら、今日、私たちはチェーホフの名作を目にできなかったかもしれません。ユーモア小説作家としては名を成し、一幕喜劇は書いていたものの、本格的戯曲は「かもめ」上演が初めてでした。この時、チェーホフ38才。そのあと「叔父ワーニャ」(1899)、「三人姉妹」(1901)、「桜の園」(1904)と、次々名作がモスクワ芸術座の舞台から世に出ていきました。

その後の運命

・芝居が取り持つ縁でチェーホフとクニッペルは、1901年に結婚。病気がちでヤルタに住むチェーホフをクニッペルが訪ねるという不便さながら二人の往復書簡はのしのチェーホフ研究の大いなる助けになります。旅行中のドイツで、チェーホフ1904年7月に病没。44才。棺をモスクワへ移送した貨車には「牡蛎用」と大きな表示があり、駅に出迎えた群衆は、「最後までチェーホフ作品の皮肉さながらだ」と悲しんだそうです。妻のクニッペルはモスクワ芸術座の主要女優として長く演じ、1959年90才で没。

・劇場まで建ててくれた大株主のモロゾフは、ロシア第一次革命さなかの1905年5月、フランスで客死。自殺とも殺人ともいわれる43才の死。

・豪商の子で夢想肌のスタニスラフスキーと、地方軍人の質実な家庭に育ち、自活しながら劇作家の地位を築いた実務派のダンチェンコとは、演出や経営について不和と反目を繰り返しながらも不思議な絆で助け合い生涯二人三脚を続けました。(モスクワ芸術座のロビーに立っている二人の胸像もそっぽを向きあっている)。スタニスラフスキー、1938年75才で没。削除も翻訳も外国人エージェントに任せた未完の「スタニフラフスキー・システム」が金科玉条のように喧伝されたことには悔いが残ったでしょう。ダンチェンコ1943年没。84才。


メイエルホリドの生涯

「かもめ」で、新しい形式と内容が見いだせず悩み、恋人にも去られて猟銃自殺する新進小説家のトレープレフ役を演じたメイエルホリドが、その後の実人生では、小説家ではなく演出家として次々に新しいフォルムを打ち出し、世界演劇の頂点に立ちながら、スターリンの粛正で、自殺ならぬ銃殺刑に処されることになるとは、一体、だれが予想しえたでしょう!

メイエルホリドは、モスクワの南東ペンザ市で、裕福なウォッカ工場主の子として生まれ、両親はドイツ人。父の死後、21才でロシア国籍を取得し、モスクワ大学法学部に入学するも演劇への夢絶ちがたく、中退して音楽演劇学校のダンチェンコのクラスに編入学。幼少から兄弟と家庭演劇を楽しみ、青年時代にすでにアマチュア俳優として地元の注目を浴びていた点はスタニスラフスキーと似ていますが、メイエルホリドは自分でもバイオリンやピアノを弾く音楽好きの知性派で、後の舞台演出はどれも秀逸なリズム感と音楽性に溢れています。22才で結婚したオリガとの間に娘3人。

モスクワ芸術座でトレープレフ役の他、「三人姉妹」のトゥーゼンバフ役など18の役を演じたあと、自然主義的な演劇に疑問を抱き、1902年に退団して演出家に転身。

1906年にペテルブルグで演出したブローク「見世物小屋」は、入れ子細工のように舞台を二重にし、幕はなく、装置の転換を客の目の前に晒したばかりか、作家や演出助手役が茶々を入れたり抗議しに舞台にかけ上がるという、当時の常識のど肝を抜くもので、「20世紀演劇への爆弾を爆発させた」と言われました。

1911〜1917年、マリインスキーとアレクサンドリンスキー両方の帝室劇場の主席演出家。1917年の政治革命を、芸術革命の好機と捕えたメイエルホリドは、マヤコフスキー、マレーヴィチ、カンディンスキー、ショスタコーヴィチら、諸ジャンルの前衛芸術家たちと組んで写実を越えた名舞台を次々に発表。演劇工房の教え子からは映画監督のエイゼンシュテインやユトケーヴィチも生まれました。

生涯に360の作品を演出し、帝政・ソ連時代にかけ、30年余りもロシア演劇のトップを走り続けた男。躍動的な演技や、叙事的でリズミカルな舞台転換は、のちブレヒトやピーター・ブルックや、リュビーモフら世界の演劇人に多大な影響を与えました。

拷問・銃殺された天才演出家

メイエルホリドが目指したのは「せりふだけが語るのではなく、光が語り、音が語り、舞台上のあらゆる要素があいまって、<舞台が語る>」という演劇言語の拡大と、「劇場ならでは驚きと喜び」の探求でした。怒った男は相手の胸ぐらに飛び乗ってコブシを振り上げ、オートバイが客席から舞台へ走り、工事現場のような舞台装置が時により幾重もの意味で使われる…など、現代演劇のほとんどの手法がすでにメイエルホリドによって始められていたことに驚嘆します。

スターリン政権になり政権による芸術規範の押しつけと、知識人狩りの粛正が始まり、メイエルホリド劇場は閉鎖。翌年1939年6月20日、彼は逮捕され内務人民本部へ連行されたまま、生死もわからなくなり、「人民の敵」という罪状だけが示されました。同年7月14日、二番目の妻で主演女優だったジナイーダ・ライヒが自宅で惨殺され、連れ子のターニャとコースチャ(詩人エセーニンとの子供)は48時間以内の住居明け渡し命じられます。累が及ぶのを恐れる関係者が多い中で、エイゼンシュテインが大量の演出メモなどの資料を、自分の別荘に隠し、保存して、後世へ伝えてくれました。理想の劇場機構を夢みてメイエルホリドが設計し、工事途中だった新劇場は工事中止のあと、まもなく政府によってコンサートホールに作り変えられました(現在のチャイコフスキー・ホールです)。

スターリン死後の1955年、ショスタコーヴィチ、パステルナークら64名の請願書をもとに名誉回復はされたものの、ソ連時代はメイエルホリドの名を大っぴらには語れない年月が続きました。KGBの秘密資料が明るみに出、メイエルホリドが拷問の末、1940年2月2日に銃殺されていたことがわかったのは、ようなくペレストロイカ末期の1988年のことです。罪状とされたのは、演劇人の知人が多いための数ヶ国のスパイ(!)。

ジナイーダ殺害後、取り上げられていたアパートは、1991年に戻され、祖父の逮捕時に14才だった孫娘のマリヤさんが少しづつ当時のように復元し、資料も展示して、やっと昨年から「メイエルホリドの部屋博物館」として一般公開できるようになりました。モスクワ訪問の折には是非訪ねて下さい。市庁舎そばのブリューソフ小路12番です。


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Original by Shigemi Yamanouchi, (C) 1999
Last Update : 7, May, 1999
by The Creative CAT, 1996-