白い人々

アーサー・マッケン著 The Creative CAT訳

プロローグ

「魔法と神聖、これらこそが現実だ。どちらも恍惚であり、日常の生からの脱出だ。」アンブローズは言った。

コトグレーヴは興味深く聞いていた。彼は友人に連れられて、北の郊外にあるこの朽ちた家へとやってきたのだ。古い庭があり、そこを通って辿り着く部屋では隠遁者アンブローズが本を読みながら居眠りしたり夢を見たりしている。

彼は続けた。「そうだ、魔術は彼女の子供らによって正当化される。私が思うに、堅いパンの耳を食べ水を飲むだけで、『現実的な』美食家が経験するものよりあらゆる面で無限に鋭い喜びを得られる人々がたくさんいる。」

「聖人のことを言っているのか?」

「そう、加えて罪人(*1)もだ。君は精神界を極めて善なるものに限るという、実に一般的な誤謬に落ち込みつつあるな。そこには極めて邪悪なるものもまた当然あるべきなのだ。物質的な肉欲に溺れるだけの者は聖人にはなれないが、それ以上に罪人にもなれないのだよ。我々の多くは取り立てて違いのない、単なるごたまぜの生き物で、物事の意味と内なる観念を理解することのできない、混乱した輩に過ぎない。その結果として、我々の邪悪さも、我々の善良さも、結局は第二義的なものでしかない。重要ではないのだ。」

「ということは、大罪人も大聖人と同じく苦行者だとでも思っているのか。」

「偉大な人々はそれがどんな偉大さであれ、不完全な模造品を見捨てて完全な原形に向かう。疑いもなく、至高の聖人の多くは(普通の意味での)『良い事』をしたことがないと思っている。一方で、罪の深淵に沈み込んだ者でなんら『悪い事』をしないで生きた者もあったはずだ。」

彼はしばらく部屋から出た。コトグレーヴは大いに嬉しがり、友人に向かって紹介の労をとってくれた事を感謝した。

「尊大な奴だな。こんな手合いのキ印は見たことがない。」彼は言った。

アンブローズは更にウイスキーを持ってきて、二人の男に鷹揚にすすめた。彼は強硬派の絶対禁酒主義者なので、自分用には炭酸入りのミネラルウォーター(*2)を取ってコップに一杯注いだ。アンブローズが一人語りを再開しようとしたとき、コトグレーヴが割り込んだ--

「ちょっと、それは我慢できないな。酷過ぎる逆説だ。罪を一切犯さないで偉大な罪人になれるとは。さあ、どういうことだ!」

アンブローズは答えた。「君は完全に間違っている。残念ながらどこにも逆説などない。私は高級な酒(*3)を大変飲みたがり、一方では四つのエール(*4)すら嗅いだ事のない人間を言っているだけだが。逆説ではなく公理と呼ぶ方が相応しくはないかね? 私の注釈に対する君の驚愕は、君自身が罪というものが何か理解したことがないという事実によるのだよ。おお、そうだ、大文字のと、一般に犯罪行為と呼ばれるものの間にある種の関係はある。殺人や窃盗や姦通といった行為だな。『あ、い、う』と立派な文学との間の関連と同種だが、『あ、い、う』の方がもっとはっきりしているな。こういったほとんど一般的と言っていい程広範囲に広まっている全くの誤解は、我々が社会的な眼鏡を通して見てしまうことに多くの部分を負うているのではないかと思う。自分達や隣人に悪いことをした人は我々にとって大変悪い。社会的見地に立てばその通りだ。しかし、純粋な悪というものはひとりぼっちなもの、孤独で、独立した魂が持つ情熱だ、ということを君は判っていないのではないかな。実際、並の殺人犯は、殺人犯であることそのものでは、言葉の真の意味での罪人にはなれない。それは単に野獣なのだから、我々はそれを除去して自分達の首筋をそのナイフから守らなければならない。罪人より虎の部類に入れるべきだろう。」

「少し変だと思うが。」

「そんなことはない。殺人者はポジティブな性質でなく、ネガティブな性質から殺人を犯す。殺人者以外の人がもっている何かが彼には欠落しているわけだ。邪悪は間違った方向にのみ向いているが完全にポジティブだ。真の意味での罪は極く希なのだよ。聖人より罪人の方が遥かに少ないだろう。そう、君の立脚点は現実的で社会的な目的には好都合だ。自分達にとって酷く嫌な相手は大変偉大な罪人だと自然に考えがちだからな! ポケットの中身を掏られるのは非常に気に食わない、そこで窃盗犯を大罪人と呼ぶ。正しくは、彼は単なる未開人に過ぎないのだ。もちろん彼は聖人ではあり得ないのだが、それでも数千の只一つも戒律を破った事のない人々より、はるかに良い人物であり得、実際にしばしばそうだ。私も同意するが、彼は我々にとって不快な存在であり、捕まえて牢屋に繋ぐのは非常に適っている。しかし彼が厄介物であること、反社会的な行動をすることと、邪悪であることは、おお、最も弱い関連性しか持たない。」

夜も大分更けてきた。コトグレーヴを連れてきた男はこれらの話を全部以前に聞いたことがあるのだろう、穏やかで賢い笑みを浮かべてうなずいて(*5)いたからだ。しかしコトグレーヴはこのキ印が実は賢人なのではないかと考え始めた。

「君の言うことは随分興味深いな。すると、私達は邪悪というものの真の性質を理解し得ない、と考えているのだね。」

「そうだ。我々にはできないと思う。過大評価するか過小評価するかだ。我々は社会の『法に依りて』多くの事を違法としていて--大変必要なことで、人間が共同生活する上で実に適切な制限だ--、『罪』や『悪』が犯されるとおびえる。しかし、これは実はナンセンスなんだよ。例えば窃盗を考えよう。ロビン・フッドや17世紀のスコットランド山賊団(*6)や国境の無法者(*7)や、現代の会社のプロモータに君は恐怖を感じるかね?

「次に、一方では我々は邪悪を見くびっている。自分のポケットの中身(や女房)に手を出す『罪』をこれ程重要視しているせいで、真の罪がいかに恐るべきものかを忘れ果てているのだ。」

「それでは、罪とは何だ。」とコトグレーヴ。

「君の質問には別の質問で答えるべきだと思う。真面目な話だが、もし君の飼っている猫や犬がしゃべりだし、人間と同じアクセントで君と論議するようになったらどう感じるね? どう考えても恐怖に圧倒されるだろうな。あるいは、庭の薔薇が妙な歌を歌ったらどうだ。気が狂いかねないな。それとも道の石が目の前で芽吹いて育ったり、夜に見たら小石だったのに朝には石の花を付けていたりしたら?

「うん、こういった例で少しは真の罪という観念がわかるのではないかな。」

「見ろよ、君ら二人はすっかり意気投合しちまったようだな。でも私は帰るぞ。路面電車が終わってしまったから、歩いて帰らなにゃならん。」 これまで静かだった三人目の男が言った。

その男がまだ明けやらぬ払暁の霧と青白い街灯の中に消えた時、アンブローズとコトグレーヴは一層論議の深みにはまって行くようだった。

「君には驚かされた。」 コトグレーヴが言った。「そんな事は考えたためしがなかった。それが本当に正しいなら、万事を逆さまにしなければならないな。それで、罪の本質とは----」

「嵐によって天に至ろうとする事に思える。私には、それは単純に、禁じられたやり方で、別のもっと高次の天球(*8)へと分け入りたいという企てに見える。なぜそれがこれ程希(まれ)か判るな。他の天球に貫き入りたいと願う人はいるが少ない。それが高次の領域であろうと低次の領域であろうと、許された方法であろうと禁じられた方法であろうと。総じて言えば人間というものは、人生はこんなものだと思い、十分満足している。従って聖人も(本来の意味での)罪人も数が少ないし、天才は往々にして彼等と似た性質を持っているが、同じく少ない。そう、全体として、多分、大聖人になるより大罪人になる方が難しいのではないか。」 アンブローズは言った。

「何かには重大な不自然さがあると? どう言う意味だ?」

「まさに。聖たることも同程度の、ほとんど同程度の偉大な努力を必要とするが、それは嘗ては自然であった道筋に沿っている。堕落以前の恍惚を取り戻すための努力だからだ。しかし罪は天使にのみ似合う恍惚と知識とを得ようとする努力であって、そのような努力は人を悪魔にしてしまう。確かに、単なる殺人者は殺人者であるというそのせいだけで罪人であるのではないと言ったが、罪人は時として殺人者になる。ジル・ド・レーのように。さてこれで、善も邪悪も今の人間--社会的で文化的な存在--にとって不自然なものだが、邪悪は善より遥かに深い意味で不自然だというのが君には分かったな。聖人は失われた贈り物を取り戻そうと努める。罪人はもとより自分のものでない何かを得ようと試みる。短く言えば、堕落を繰り返すのだ。」

「しかし君はカトリックなのか」 コトグレーヴが言った。

「そうだ。虐げられた聖公会の信者だ。」

「だとすると、罪を単なる些末な怠慢とみなしかねないような文言はいかがなものか。」

「ああ。しかし、『魔法使い』という言葉を一緒にしているだろう? これが鍵になると思えるのだ。無垢の人の命を救うために発された偽りの言葉を考えてみてくれ。それは罪だと一瞬でも思えるだろうか? 違うと。よろしい。ならば、そのような言葉のせいで除け者にされてしまった人は単なる嘘つきではないわけだな。肉体としての生命(*9)を扱う『魔法使い』はなによりもそうだ。肉体としての生命故の欠陥を、この上なく邪悪な結果を得るための道具として使う者だ。この事を言わせて欲しい:我々の高次感覚はかくも鈍ってしまった。我々はかくも物質主義漬けになってしまったので、真の邪悪性に出会ってもそれと認識する事ができそうもないのだ。」

「しかし、邪悪な者はごくわずかしかいないのだから、私達が本物の--君がほのめかしたように薔薇の木が歌うような--恐怖を経験する事はなさそうだが。」

「我々が自然な状態だったら、あるはずだ。子供や女性は君の言うような恐怖を感じる。動物さえそれを経験する。しかし慣習や文明や教育が自然の理性を曇らせ、我々のほとんどは盲目になり聾になっているのだ。いや、時々は我々にも善を憎むものとして邪悪を認識する事ができる--キーツについて全く無意識の内に『ブラックウッド』レビューが述べているような影響の下では、それ程貫入しなくでも邪悪について考えられるのだ--しかしそれは付帯的で、偶然というものだよ。通常は、トペテの高僧(*10)も全く気付かれないままか、多分場合によっては善良だが誤解した人物として見のがされるだろう。

「今君はキーツのレビューの著者について、『無意識』という言葉を使ったが、邪悪性は常に無意識なものなのか?」

「常にそうだ。そうでなければならない。この点でも聖なることと天才とは似ている。それは魂のある噴出ないし恍惚だ。通常の限界を超えようとする、魂と肉体を超越した(*11)努力だ。その壁の向こう側は理解の果てでもある。理解というのは、壁のこちら側を捉える機能に過ぎない。否、人が恐ろしい程無限に邪悪であって、しかもそれに気付かないことはあり得る。だが、このような真の意味での邪悪はめったにないし、しかもますます少なくなっていると思うよ。」

「なんとか君の言うことを把握しようと試みているのだが、元来、真の邪悪とは所謂邪悪とは違うのだね?」

「まさにそうだ。その両者の間に類縁性があることには疑いがないが。そのような類似のおかげで『山懐(*12)』や『テーブルの脚』といった表現がもっともなものになる。もちろん、時としてその二つがあたかも同じ言葉であるかのように表されることもある。荒くれた炭鉱夫や泥こね野郎(*13)や教養のない未開の『虎野郎(*14)』が1升2升ばかりいつもよりメートルを上げ(*15)、家に帰って気に食わないわからず屋の女房を蹴り殺したりする。彼は殺人者だ。ジル・ド・レーもまた殺人者だ。しかし、この二人の間には大きな溝があるだろう? 言ってみれば、両者の『単語』はたまたま同じだが『意味』は全く異なる。二つを混同するのは、悪名高い『Hobson Jobson』(*16)のようなものないしは、むしろジャガノートとアルゴノート(*17)の間に語源的な関係があると仮定するようなものだ。また、疑いなく、全ての『社会的』犯罪と真の精神的な罪の間には、弱い類似性ないしは類推が成立する。一部の事例では、恐らく、劣った一方が大いなる一方を導く--影から実体へと至る--『教師』になっているのであろう。もし君が神学をかじったことが少しでもあるなら、これら全ての重大性がわかるだろうな。」

コトグレーヴは言った。「申し訳ないが、神学にはほとんど時間をかけなかった。彼等は『科学の科学』の研究をしていると好んで言うが、その基盤が一体何なのかわからないことがしばしばだった。『神学』の本を開いてみても、意志の弱い者と明らかに敬虔な者、あるいはイスラエルの王とユダ(*18)、そういう話題しかなかったからね。そんな王の話なんて聞きたくもないな。」

アンブローズはにやりと笑った。

「神学談義は避ける事にしよう。その手の論議の相手として君は辛口のようだな。しかし、殺人泥こね野郎の靴の鋲と邪悪との間には、『王の時代』と神学の関係ほどの関係もないよ。」

「では本題に戻ろう。君は罪というものを秘儀めいた、オカルトなものだと考えているのだね?」

「そう。神聖さが天国の奇跡であるように、それは地獄の奇跡だ。それが余りに地下深い所にあるので、時として我々はその存在を全く想定できなくなるくらいだ。低音過ぎて聞こえない、巨大なパイプオルガンのペダルノートに似ている。別の場合には、癲狂院かもっと変な所に落ち着く事になる。しかしそれを単純な社会的に不適当な行動と混同してはいけない。使徒が『反対側』(*19)について言及した際、『博愛精神に富んだ』行動と博愛とをいかに区別しているか思い出すべきだ。貧乏人に全財産を施そうとも、そこに博愛がなければ、全く犯罪を犯さない罪人となりうるのだ。」

コトグレーヴは言った。「君の心理学は変わっているな。しかし白状するが、気に入った。君の言う前提からはこんな結論が容易に演繹できそうだな。つまり、真の罪人は大変に無害な登場人物として観客に一撃を与える可能性が大きいのではないかと?」

「まさにその通り。真の邪悪は社会生活や法律と何ら関係のないものであり、もし関係があったとしても偶発的なものに過ぎないから。それは魂の孤独な情熱だ--孤独な魂の情熱と言ってもいい、好きな方を選んでくれ。偶々このことを理解し、重要性をきっちり把握したなら、間違いなく我々は震え上がらんばかりの畏怖に満たされることになろう。しかしこの情動は通常の犯罪がもたらす怖さと嫌悪感からは大きく区別されるべきものだ。というのも後者はその多くないし全てが我々自身の皮膚や財布に対する心配を基盤とするからだ。我々は殺人者を憎む。それは我々や我々の好きな誰かが殺されることを憎むからだ。その『反対側』だが、我々は聖人を崇拝するものの、友人のように『好き』になることはない。君は自分自身をして、聖パウロとの交際を『楽しむ』ことや、ガラード卿と『つるむ』(*20)ことをせしむるかね?

「罪人についても同じだ。極めて邪悪な男と会い、彼の邪悪さを認識したとしよう。君は震え上がらんばかりの畏怖に満たされることになろう。しかし、君が彼を『嫌う』理由は何もない。逆に、もし罪のことを君の心から追い払えるなら、君が恐怖に立ち戻ることになるまでの短い間、罪人と深く付合う事もできるだろう。それでもなお、明日の朝、薔薇や百合が突然歌い出したり、モーパッサンの話にあるように、家具が行進を始めたりしたら、なんと恐ろしい事だろうね!」

コトグレーヴは言った「その比較に戻ってきてくれてありがたい。そういった無生物の想像上の妙技と、人間性との間に何の関連性があるのか聞こうと思っていたんだ。一言で言おう。罪とは何だ? 君が提示したのは抽象的な定義であって、私が知りたいのは具体的な例なんだよ。」

「それは非常に希だと言ったはずだ」 アンブローズは答えた。直接答えるのを避けたい色が見えた。「現代の物質主義は聖なることを多分に抑圧しているが、邪悪は更に抑圧されていると思われる。地上がかくも快適であるからして、天にも地にもわざわざ行こうという気にならないわけだ。トペテの『専門家』たろうとする学者も単なる好古家に堕すかのようだ。古生物学者に生きた翼竜(*21)を見せろと言っても無駄だろう。」

「君もそうだな。君の研究も『専門化』して現代風に身を落としている。」

「わかった。本当に興味があるのだな。よかろう。すこしふざけ過ぎたようだ。もし君が望むなら、あるものを見せよう。これまで論議してきた極めて奇妙な主題についてそれは何かしらの意味を持っている。」

アンブローズはロウソクを持って、その部屋の離れた暗い角に行った。コトグレーヴが見ている前で、彼はそこにある古びて立派な書き物机を開け、隠れた凹みから包みを取り出すと、これまで座っていた窓に戻った。

アンブローズが包み紙を取り除くと、緑のポケット版の本が出てきた。

「丁寧に扱ってくれるだろうな。どこかに放っておいてはいけない。これは私のコレクションの中でも選り抜きのものだ。絶対に無くして欲しくない。」

彼は色褪せた表紙を愛撫した。

「私はこれを書いた少女を知っている。これを読めば、今夜我々が話してきたことがいかに描き出されているかわかるだろう。その続きもあるのだが、それについては話したくない。」

「数ヶ月前出たある総説の中に、一つの変わった論文が紹介されていた。」 彼は主題を変える風に再度話を始めた。「ある医師--確かコーリン博士(*22)という名前だと思う--が書いたものだ。それによると、ある母親が応接間の窓際で遊んでいる小さな娘を見ていた所、突然重いサッシが外れて子供の指の上に落ちて来た。思うに母親は失神したのだが、ともかく医師が呼ばれた。彼が子供の傷付き不具になってしまった指を治療した直後に今度は母親から呼ばれた。痛みで呻いている。彼女の三本の指、ちょうど子供が受傷した指にあたる部分が腫脹し炎症を起こしていた。医師が言うには、その後それらの指は化膿し壊死したそうだ。」

アンブローズはまだ緑の本を撫でていた。

宝物を手放すのが辛そうに、遂に言った。「ああ。ほらこれだ。」

「読み終わったらすぐに返してくれ。」玄関に向いながらそういった。古い庭に出ると、白百合のにおいに気が遠くなった。

コトグレーヴが去ろうとした時、東の空には朱色の帯が広く伸び、彼の立つ高台からは夢の中に眠るロンドンの恐ろしい光景が見えた。

緑の本

モロッコ革の装丁はやれ、色が薄れていたが、汚れも傷もなく、使用感がなかった。あたかも『ロンドンみやげ(*1)』に七、八年前買ってきて、そのまま忘れられ放置されていたかのようだった。世紀を越えた家具に染み付いたのをよく見る、古くて繊細な匂いがそこには残っていた。装丁の内側の見返しは彩色された図形と褪せた金色で奇妙に飾られていた。小さいが上質の紙を使った本だった。何頁もあり、細かく辛そうに書かれた文字でびっしり埋まっていた。

私はこの本を(と手稿は始まっていた)踊り場にあった古い書き物机の引き出しで見つけました。その日は雨がひどくて、外に行けなかったので、午後になったら蝋燭を持って書き物机を隅から隅まで探してみたんです。引き出しはほとんど全て古着で一杯でしたが、小さいのが一つ空みたいでした。その背中側の右に、この本が隠れていたのをみつけました。こんな本が欲しかったので、取り出して書き込んでいます。内緒なことで一杯です。これまでも沢山の大きな本に秘密の出来事を書いて、安全な所に隠してありますが、ここには古い秘密を沢山書こうと思っています。新しい秘密も少し。でも、全然書けないものもあります。数年前に見つけた、何月何日という<日>や<月>の本当の名前、アクロ文字の作り方、キアン語、大いなる美しき円環、マオゲーム、長(おさ)の歌、などです。何かこれらに関する事を書くのは良いのですが、楽しくない理由があって、それらのやり方を書くわけにはいきません。ニンフが誰なのか、ドールスやィエーロやヴォーラスがどんな意味なのか、そんなことも書くわけにはいかないのです。こういったことは全部秘密のなかの秘密です。私は彼等が何者か思い出したり、どんなに沢山の不思議な言葉を知っているのか考えたりするとうきうきします。でも、秘密中の秘密中の秘密と呼んでいるんですが、それを考える気になれるのは、一人きりの時だけです。そこで、目をつむった上に手で目かくしして、ある言葉を囁くと、アラーラ(*2)が来ます。これができるのは夜自分の部屋にいる時か、私の知っているある森の中にいる時かですけれど、その森については書けません。秘密の森だからです。お祭りがあります。どれも大事なお祭りですが、楽しいのもあればそうでないのもあります-- 白い祭、緑の祭、緋色の祭があります。緋色の祭が一番ですが、ある決まった一つの場所でしかうまくできません。それにとても良く似たのを他の場所でしたことがあります。他にも踊りと喜劇があります。私も喜劇をしました。時々は他の人の見ている所でしたんですが、全然判ってもらえませんでした。こういったことを知った頃、私は本当に小さかったんです。

今でも覚えていますが、私がとっても小さくてお母さんが生きていた頃に、もっと昔のことを思い出せました。何かごちゃごちゃしていますけど、五つか六つの時に、誰かが私が聞いているの気付かないで話していたことを覚えています。その話では一、二年前の私はとても変だったそうです。保母(*3)がお母さんを呼んで、私が独り言を喋っているのを聞かせたのですが、私は誰にも判らない言葉を話していたそうです。私が話していたのはクシュー(*4)語でした。言葉としてはあまり覚えていないのですが、それは揺りかごに寝ている私をいつも見ている白い小さな顔のことでした。彼等とはいつもお話をして、言葉を覚えてしまいました。話したのは彼等の住む何か大きな白い場所のことでした。そこでは木も草もみんな白くて、月まで届くような白い丘がいくつかあって、寒い風が吹いていました。後になってもよくその夢をみますが、彼等は私が小さい頃にいなくなってしまいました。 でも、五つくらいの時に素敵な出来事があったんです。保母が私を肩車して連れ出してくれたんです。黄色い小麦畑があって、その中を通って行きました。とても暑い日でした。そうして、森の中の小道にでました。私達の後ろからのっぽの男の人がついてきて、深い水溜りがある所まで一緒に来ました。その小池はとても暗くて影だらけでした。保母は木陰の柔らかい苔の上に私を置くと言いました。『この子はまだ池まで行けないわね。』 そうして彼等は私をそこに置いて行き、私はじっと静かに座って見ていました。水の中から森の中から不思議な白い人達がやってきて遊び踊り歌うのです。クリームみたいな白さで、大きな応接間にある古い象牙の像のようでした。一人は美しい女の人で、黒い瞳で厳粛な顔をした、黒髪の長い人でした。もう一人の人が笑ってやってくると、彼女は、悲しそうな何か不思議な感じで微笑みかけました。彼等は一緒に遊び、池の周りを何回も何回も踊って回り、ある歌を歌いました。それを聞いている内に私は眠くなって、寝てしまいました。保母が帰ってきて私は目がさめました。彼女は何かさっき見た女の人に似ていて、それで私は見た事を全部話して、どうしてそんなに似ているのと聞きました。最初、彼女は叫び、次にとっても驚いたようで、真っ青になりました。彼女は私を草の上に置いて、睨み付けました。私には彼女が震えているのがわかりました。彼女は、あなたは夢を見ていたのですよ、といいましたが、そんなことはありませんでした。そこで、彼女は今見た事は誰にも決して話さないように私に約束させました。そうしないと黒い窖に落とされるわよと。保母と違って私は全然驚きませんでしたし忘れもしませんでした。静かな場所で一人きりになって目を閉じると、その事をまた見ることができるからです。とてもかすかにとても遠くに、でもとても輝いて。彼等が歌っていた歌も少し思い浮かびますが、私には歌えません。

めったにない経験をしたのは、十三の頃でした。もうすぐ十四になる頃です。不思議なことに、それは白の日といつも呼んでいた日に起こりました。お母さんは一年も前に亡くなり、午前中は勉強がありましたが、午後は好きなように散歩に行かせてもらえました。 その日の午後、小川に沿って別の国に行く、これまで通ったことのない道に入ったんです。でも、いくつか道の悪い所があってフロックを破いてしまいました。やぶの中を通り抜けたり、低い木の枝の下をくぐり抜けたり、丘の上の棘だらけの雑木林に上がったり、這う生き物でいっぱいの暗い森を通ったりしました。長い長い道のりでした。どこまでもどこまでも遠くまで行くみたいでした。小川だった所が涸れていて、トンネルのようになっていて、そこをくぐらないと行けませんでした。川の床は石だらけで、頭の上は茂みで全部覆われていて、とっても暗かったんです。暗い所をどんどん進んで行きました。長い長い道でした。すると、見たことがない丘に出ました。私は暗くて嫌な雑木林の中にいて、そこには黒い枝がくねくねしているので通って行く時に怪我だらけになりました。痛くて泣いてしまいましたが、気が付けばずっとずっと上まで登っていて、雑木林が終わると、てっぺんの大きな更地に出ました。私は叫びながらそこに飛び出しました。そこには灰色の気持悪い岩が草の上のあっちこっちに転がっていて、岩の下からちぢくれた、捩じれまがった木が生えていて、まるで蛇みたいでした。そうして、私は真直ぐ上に登りました。長い道でした。こんなに大きくて気持悪い岩は見たことがありませんでした。地面から生えてきたようなのも、そこまで転がってきたようなのもありました。遠く遠くまで見渡す限り岩だらけでした。私はそこから国をみましたが、奇妙でした。冬のことで、黒くて怖い木が丘の周り一面から垂れ下がっていました。黒いカーテンの架かった大きな部屋を見ているみたいで、木の形もこれまでに見たことがないほど変わっていました。私は怖くなりました。木々の向こうには他の丘がいくつもあって、大きな環を描くようになっていたのですが、どの一つもそれまで見たことがなかったんです。どれも黒くてvoor(*5)がその上にかぶさっていました。動くものは何一つなく静かでした。空は重たい灰色で、寂しい感じでした。深きデンドー(*6)にある悪くてvoorな(*7)ドームに似ていました。私は恐ろしい岩の間を進みました。何百も何百も岩がありました。恐ろしいにやにや笑いをした人のような岩がいくつかあり、岩から彼等が飛び出して私を捕まえ岩の中に引きずり込んで閉じ込めるんじゃないかと思うくらいでした。他にはいろいろな動物に似た岩もありました。這いまわって舌を突き出してくる怖い動物でした。他の岩が似ていた動物のことは話せません。死んだ人が草の上に倒れているようなのもありました。それらの岩に驚かされながら、私はその中を進みました。それらの岩から送り込まれる悪い歌で心が一杯になって、私はそれらのような顔をしたくなり、それらのようにくねくねと身体を捩りたくなりました。長い道をどんどん進んでいって、しまいにはそれらの岩が好きになりました。そうするともうそれらは私を驚かさなくなりました。私は自分で思い付いた歌を歌いました。その歌は、話すことも書くこともできないような言葉でいっぱいでした。そうして、私は岩のような顔をして、身をくねらせて、死体のように地面に横たわって、にやけた岩に登って腕を回して抱き着きました。そんな風に岩の間を進んで行って、まん中にある丸い塚まで来ました。それは土塁というより高く、私の家の高さくらいありました。なだらかで丸くて緑で、ボウルをひっくり返したみたいでした。てっぺんには石が一つ、柱のように刺さっていました。その塚に登ろうとしましたが、斜面が急過ぎて、途中で止っては転げ落ちるばかりでした。下の方の岩にぶつかって死んじゃうかと思いました。でも、この大きな丸い塚のてっぺんに登りたかったので、這いつくばって、草を両手で掴みながら少しづつ登りました。やっとまん中の岩に座って、周りを見まわせました。こんなに遠くまで来たのかしら、家から何百キロも離れたみたいね、と感じました。他の国というか、精霊のお話(*8)やアラビアンナイトで読んだ不思議な土地というか、海を渡って何年もずっと遠くへ行って、誰も見たことも聞いたこともない別の世界を発見したというか、お空を飛んでどこかの星に落ちたというか。本で読みましたが、そのような星では全てのものが死んでいて、冷たくて、灰色で、空気もないし風も吹かないのですね。私は石に座って、周りを見回し、下を見て自分の周りを見ました。周りは全部灰色の岩とその下の地面だけだったので、大きな無人の都市のまん中にある塔に座っているみたいでした。形ははっきりしないけれど、遠くまでずーとずーっと続いている岩の列は何かパターンというか形というか図というか、そんなのを作っているかのようでした。そんなことはあり得ないんです。これまで見た多くの岩は直接地面から真直ぐ立ってましたし、下の深い方の岩は互いに繋がっていました。そう思って見直してみても、やっぱり環の形をしているようにしか見えませんでした。大きな環の中に小さな環が、ピラミッドが、ドームが、尖塔があって、私の座っている場所をぐるりぐるりと取り巻いているようでした。もっとよく見れば見る程、岩でできた大きな環が見え、どんどん大きくなっていきました。じっと長く見つづけたので、それらが全部大きな車輪のように回転しているように感じました。私はまん中でやっぱり回っているんです。私はめまいがして頭がくらくらしてきました。皆ぼんやりとして、はっきり見えなくなり始めました。そうして青い小さな閃光が見え、岩が身をくねらせて、ぐるぐるぐるぐる跳ねて踊っているみたいになったんです。私はまた怖くなってきて、大声で叫んで石から飛び下り、墜落しました。気が付いた時には皆止って見えてほっとして、塚から滑り降りて、もっと先に行きました。歩きながら私はさっきくらくら来た時に岩が踊っていたような奇妙な踊りを踊りました。とても上手にできたので、嬉しく思い、踊って踊り続けました。頭に入って来る普通じゃない歌を歌って。最後に、大きくて平べったい丘の縁に出ました。そこにはもう岩はなくて、何もない暗い雑木林をまた通ったんです。登るのはやっぱり大変だったけれど、またとない踊りを見てそれを上手に真似できたのが嬉しくて、全然気になりませんでした。私は茂みを這いながら下りました。背の高い刺草(イラクサ)が脚をさして、腫れて痛かったのですが気になりませんでした。枝や茨でひりひりしましたが、私はひたすら笑って歌っていました。雑木林を抜けると、狭い谷に出ました。そこは小さな人目につかない場所で、誰にも知られていない暗い通路のようでした。そのくらい狭くて、深くて、周りの森が深かったんです。傾斜の急な土手には木々が垂れ下がり、冬でも緑なシダがありました。シダは丘の上では冬になると枯れてしまうんです。谷のシダは甘い豊かな香りがして、樅の樹液のようでした。谷を下る小さな流れがあって、あまり小さいので簡単に飛び越えられるくらいでした。手で水を掬って飲むと、明るい黄色のぶどう酒のような香りがしました。水は美しい赤や黄や緑の石に飛沫をあげながら流れて行くので、生きているように見え、あらゆる色に見えました。私は手で水を何度も飲みましたが、いくら飲んでも飲みたりないんです。そこで、腰をかがめ頭を下げて、流れに唇をさし入れて、水を吸い上げました。こうして飲む方がずっとよい味でした。小さな波が唇までやってきて、私にキスしてくれます。私は笑って、また水を飲み、家にあった古い絵の通りにニンフごっこをしました。それは水の中に住み、私にキスするんです。そうして私は流れに向かって低く屈んで、唇をそっと水にあわせ、囁きました。ニンフさん、私はまた帰ってきますよ、と。私はその水は間違いなく普通の水じゃないと感じたんです。起き上がって出発したときは嬉しくて、また踊りながら覆いかぶさる丘の下、谷を登りました。一番上にまで登ると、私の目の前に地面がせりあがり、それは高くて急で、まるで壁のようでした。そこには空と緑の壁しかありませんでした。『永久に永久に世は果てることなし、アーメン(*9)』 そんな言葉が頭をよぎり、きっとこれが世界の果てなんだと思いました。全てのものの終焉にみえたから、この先には何もない、ただVoorの王国があるように見えたからです。その国では光も消えてしまい、水も太陽が持って行ってしまいます(*10)。私はここまでにしてきた長い長い旅のこと全てを考え始めました。小川を見つけてそれを辿った時、茂みや茨の雑木林を抜けた時、這う生き物が一杯だった森。次に私は木の下のトンネルをくぐって、雑木林を登り、灰色の岩だらけの場所に出て、その中央で岩が回るのを見て、灰色の岩の間を通り、棘のある雑木林を通って丘を下り、暗い谷を登って、こんなに長い長い道でした。本当に家に帰れるのかしらと思ったんです。道をみつけられるかな、まだ家があるのかな、家があっても『アラビアンナイト』のように全部灰色の岩になってたりするのかな。それで、私は草に座って次にどうしたらいいんだろうと考えました。疲れてましたし、歩き回ったので脚は棒のようでしたし(*11)、見回していると、不思議な井戸があります。高くて急な草の壁のすぐ下に。その周りの地面は、明るくて緑の、湿った苔で覆われていました。いろんな種類の苔がありました。綺麗なシダのような苔、樅の木や手のひらに似たの、全部が宝石のように緑でした。そこに滴る水滴も金剛石のようでした。そのまん中に大きな井戸がありました。深くて輝いていて綺麗で、とても清らかだったので、底にある赤い砂に触れそうなくらいでした。でもそれはずっと底にあるんです。井戸の脇に立って中を覗くと、まるでグラスの中のように見えました。底のまん中には砂の赤いつぶつぶがあって、いつまでもくるくる舞っていました。そこから水が湧いているんだとわかりましたが、表面は本当に平らで、縁まで一杯になっていました。お風呂のように大きな井戸で、その周りにはギラギラと輝く緑の苔があるので、まるで緑の宝石の中に白い大きな宝石があるようでした。脚がとても疲れてぱんぱん(*11)になっていたので、私はブーツとストッキングを脱いで、水の中に脚を入れました。水は柔らかくひんやりして、目が覚めた時はもう疲れは全然なく、出発しなきゃ、もっともっと先に行って壁の反対側を見なきゃと感じたんです。私はとてもゆっくり登り、いつも横向きに(はすかいに)進みました。頂上に出て見遥かすと、そこにはこれまで見たこともないほど変わった国がありました。灰色の岩の丘よりももっと変わっていました。私は土の子供たち(*12)が踏み鋤で遊んだんじゃないかと思いました。それ程丘や窪地や、土でできていて草に覆われたお城や城壁だらけだったんです。大きな蜂の巣のような半球の山が二つあって、丸くて大きくて荘厳でした。空っぽな窪地があり、急に立ち上がる壁がありました。これに似たのを昔海辺に行った時見たことがあります。そこには大砲があり兵隊さんがいました。丸い窪みがあって、急に地面が凹んでいたのであぶなく落ちそうになりました。斜面を駆け降りて底に立って見上げました。見上げると奇妙で荘厳な感じがしました。灰色の重たい空と窪みの斜面しか見えないのです。その窪みが全世界でした。私は、真夜中に(*13)、月がこの底を照らし、風が上空で泣叫ぶ時、ここは幽霊や動く影や青白いもので一杯になるに違いないと思いました。それほど奇妙で荘厳で孤独で、死んだ異教の神を祭る虚ろなお寺に似ていたのです。それは私がとても小さかった頃、保母がしてくれた話を思い出させました。綺麗な白い人達を見た森に私を連れて行ってくれたのがその保母です。私はある冬の夜、保母がどんな風にその話をしてくれたか思い出しました。風が木々を壁に打ち付け、保育室の中でも風の泣き声や悲しいうめきが聞こえました。彼女は言いました。ある所に空っぽの穴(私が今立っているような)があります。そこはとても悪い所なので誰もが恐れて近付こうとしませんでした。ところがある時貧しい女の子がいて、その空っぽの穴に行くんだと言いました。皆で女の子を引き止めましたが、彼女は行きました。彼女は穴に降り、戻った時は笑っていました。そこには緑の草と赤い石、白い石と黄色の花、それだけしかなかったわ、というのです。さてその後すぐに、皆は、彼女が一番美しいエメラルドのイヤリングをしているのを見て、どうやってそれを手に入れたのか聞きました。彼女の母親はとても貧しかったからです。でも彼女は笑って、このイヤリングはエメラルドなんかじゃないの、ただの緑の草なのよ、と言いました。そうしてある日、彼女は胸に誰も見たことのない程真っ赤なルビーを飾りました。ニワトリの卵くらいあるとても大きなものでした。それを見て、皆はどうやってそれを手に入れたのか聞きました。彼女の母親はとても貧しかったからです。でも彼女は笑って、これはルビーなんかじゃないの、ただの赤の石なのよ、と言いました。今度はある日、彼女は首に誰も見たことのない程美しいネックレスをつけました。六月の夜空に輝く星に似た、何百もの大きな輝く金剛石でできていて、お妃様の持っている一番良いものより良いネックレスでした。それを見て、皆はどうやってそれを手に入れたのか聞きました。彼女の母親はとても貧しかったからです。でも彼女は笑って、これはダイヤなんかじゃないの、ただの白の石なのよ、と言いました。保母はお話を続けてくれました。そうしてある日、彼女は宮廷に行きました。頭には王様自身の冠より見事な、太陽のように輝く純金(*14)の冠をつけ、耳にはエメラルドを、胸には大きなルビーのブローチを、首には大きな金剛石のネックレスを煌めかせて。王様とお妃様は、彼女は遠くからはるばるやってきたどこかの偉い王女だろうとお考えになり、玉座から降りて彼女に会いに行かれました。ところが誰かが彼女が誰なのかを教え、とても貧乏なのだと伝えました。でも彼女は笑って、髪に飾っているのは金の冠ではありません、ただの黄色の花なんです、と言いました。王様はとても不思議なことだとお思いになり、彼女に宮廷にとどまるべしと言い渡されました。次にどうなるのか、皆見たかったのです。彼女はとても美しく、その眼はエメラルドより緑、その唇はルピーより紅、その肌は金剛石より白、その髪は金の冠より明るいと皆がいいました。彼女がそのように美しかったので、王子様(*15)は彼女と結婚したいと言い、王様もそれをお許しになりました。僧正の手で結婚式が行われ、夕方には大披露宴がありました。その後の事です、王子様は自分の妻の部屋に行きました。ところが、扉に手をかけた時、恐ろしい顔をした背の高い黒い男の人が扉の前に立っているのが見えました。こんな声が聞こえました--

あだに汝 命危うくすることなかれ
こは床を 契りたりける吾妻なれ(*16)

王子様はひきつけをおこして地面に倒れました。人がやってきて部屋に入ろうとしましたが、駄目でした。そこで手斧で扉を破ろうとしましたが、木が鉄のように固くなっていたのです。部屋から聞こえる叫びや嘲笑や悲鳴や嗚咽に驚いてついに皆逃げ出しました。ところが、翌日入ってみると部屋の中には薄くて黒い煙があるだけで、新妻は黒い男が連れ去っていってしまったのです。寝台の上には二つに結んだ枯れ草と赤い石と何か白い石と枯れた黄色の花がありました。深い穴の底に立っている時、私はこの話を思い出しました。そんなに奇妙なところで、独りぼっちで、心配でした。石も花も見えませんでしたが、それでも知らず知らずにそれらを持ち帰ったりしたらどうしようと心配で、頭に浮かんだおまじないを使って黒い男の人から逃げようと思いました。そこで、穴の中心に真直ぐ立って、それらの物を身に付けていないことを確かめて、歩いて回りながら、自分の目、唇、髪にある変わったやりかたで触り、保母が教えてくれた悪いものをよけるための奇妙な呪文を囁きました。それで安心して穴から出て、塚や穴や壁で一杯の所を進みました。おしまいに一番高い場所に着きました。そこからは地面のいろいろな形がパターンを作っているのが見えました。灰色の岩のに何か似ていて、パターンだけが違うんです。もう遅くなって、あたりがぼんやりしてきましたが、私の立っている所からは、何か二つの、草の上に横たわる大きな人の姿に見えました。私はもっと進みました。最後に辿り着いたのはある種の森でした。それは書き記すことができないくらい秘密な森です。そこへの道は誰も知りません。私がその道を見つけたのは、とても変わった経緯でした。小さな動物が走って森の中に入って行ったので、私はそれを追いかけて、とても狭くて暗い道を抜け、茨と茂みの下を通り、森の中の空き地に出た時はほとんど真っ暗でした。そこで、見たこともない不思議な光景を見ましたが、一分もすると私はそこから真直ぐ逃げ出しました。やってきた通り道の森を這い、精一杯速く走って。見たものがあまりにも不思議で、奇妙で、美しかったので怖かったんです。でも私は家に帰ってそれを考えたかったんです。私は、森の中に入ったために起きてしまったことが何なのかわかりませんでした(*17)。全身が熱くなり、震えました。心臓がどきどきして、森から走って逃げる間どうしても奇妙な叫び声をあげてしまいました。大きな白い月が丸い丘の上に昇って道を照らしてくれたので嬉しく思い、塚や穴を抜けて狭い谷を下って灰色の岩のある所にかぶさっている雑木林を抜け、やっと家に帰れました。お父さんはお仕事で忙しくて、召し使い達も私が帰っていないのを報告していませんでした。でも召し使い達はとても驚き、どうしたらいいか途方に暮れていたのです。私は道に迷ったの、と言っておき、実際に通った道はわからないようにしておきました。寝床で横になっても、一晩中目を覚ましたままで、何を見たのか考えました。狭い通り道を抜けた時、全てが輝いていました。あたりは暗かったのに、そんなにはっきり見えたのです。家に帰る道の間も、それを見たのは間違いないと思っていました。そこで、自分の部屋で一人きりになって、喜びたかったのです。目を閉じて、今そこにいるつもりになって、あんなに怖がらなければ最後までしただろうあの事をするつもりになりました。でも目を閉じても景色が浮かんできません。そこで、出来事をぜんぶおさらいして、最後の出来事がどんなに暗くて奇妙だったか思い出しました。とてもありそうなことではなかったので、全部間違いだったのかも、と心配になりました。まるで保母が話してくれたあるお話みたいでした。私はそれを本当は信じていなかったんですが、穴の底で震えていた時、小さい頃に聞いたそのお話が浮かんできました。自分で見たと思うものが本当に起きた事か、それとも大昔に起きたお話なのか、自分でも判らなくなりました。そんなに変だったんです。私が寝ている自分の部屋は家の裏にあって、月が照らしているのは反対側、川の方でした。それで、壁にも明るい光はあたっていませんでした。家はとても静かでした。お父さんが階段を登ってきて、時計が十二時を打つと、家は静かで空虚になって、まるで誰もいなくなってしまった感じでした。私の部屋は真っ暗でものが良く見えなかったのに、白いブラインドを通して、青ざめたちらちらする光が入ってきました。私は一旦起き上がって外を見ました。黒くて大きな家の影が庭に覆いかぶさって、人を吊るす牢屋のように見えました。その向こうは全部白。木が白く光り、木と木の間には黒い溝がありました。空に雲が全然かからない、静かで清明な夜でした。自分が見たものについて考えたかったのですが、それができず、保母が遠い昔に話してくれた全てのお話のことを考え始めました。もう忘れてしまったと思っていたのに、全部思い出しました、それは雑木林や灰色の岩や地面の穴や秘密の森と混じりあって、どれが新しいものでどれが古いものか、それとも全部夢だったのか、ほとんどわからなくなりました。そうして、保母が自分の手で私を日陰に置いて、白い人達が水の中から森の中から出てきて遊び、踊り、歌った、昔昔の暑い夏の午後を思い出しました。私は、自分でそれを見る前に、もしかして保母が似た事を話してくれたのかな、それをちゃんと思い出せないだけなのかな、と想像し始めたんです。そうして、私はもしかして彼女が白い女の人だったのかしら、と迷いました。彼女は同じように白くて綺麗で、同じ黒い瞳と髪をしていたからです。時々彼女は白い女の人のように微笑みました。『昔昔のお話です』とか『妖精がいたころのお話です』と言ってお話をしてくれた時に。でも私は彼女が白い女の人だったとは思えませんでした。森に行くやり方が違うようだったからです。私達の後から来た男の人も相手の人だとは思えませんでした。私もあのような不思議な秘密を秘密の森で見たはずがなかったんです。私は月のことを考えました: でもそれは私が荒れ地のまん中にいた時より後でした。荒れ地では、大地が大きな人の姿になって、壁だらけで、神秘的な穴があって、滑らかで丸い塚があり、そうして大きな白い月が丸い丘の上に昇るのを見たのです。私にはこれらのことが全て不思議な素晴しいことに思えましたが、しまいには本当に怖くなりました。何か自分に起こってしまったのではないかと。保母が話してくれた、からっぽの穴に入って行った貧しい女の子の話が思い浮かびました。女の子は最後には黒い男の人に連れ去られてしまったのです。私もからっぽの穴に入ってしまいました。それは多分同じ穴です。私は何か取りかえしのつかない(*18)ことをしてしまったかもしれないと。そこで、もう一度おまじないでなんとかしようと思い、奇妙なやりかたで目に唇に髪に触れ、妖精の言葉からできた古い呪文を唱えました。私は間違いなく何も持ち出さなかったのだ、と言い聞かすために。私は秘密の森を見ようともう一度試してみました。通り道を這い上がり、そこで見たものをもう一度見ようと。でも何故かできませんでした。私は保母のお話のことを考えつづけました。昔狩に行った、若い男の人のお話を思い出しました。一日中、猟犬と一緒に狩りをして回り、川を渡り森の中のどこでも行き、沼じゅうを歩いても何も捕まえられず、一日経って山の後ろに陽が落ちそうになりました。若い男の人は獲物がないのに怒って、帰ろうとしました。お日様が山に丁度触れた時のこと、目の前に突然美しい白い牡鹿が現れたではありませんか。犬をけしかけましたが、クンクン鳴いて追おうとしません。馬を遣りましたが震えて棒立ちのままです。若い男の人は馬から飛び下り、たった一人で牡鹿を追い始めました。すぐにあたりは真っ暗になり、空も星一つ見えない程真っ黒になりました。牡鹿は暗闇を逃げて行きました。男の人は鉄砲を持っていましたが、撃とうとしませんでした。生け捕りにしたかったのです。夜のことですから、牡鹿を見失うんじゃないかと心配しましたが、空は真っ黒、辺りは真っ暗なのに、一度もそんなことはありませんでした。牡鹿はどんどん逃げ、若い男の人は自分がどこにいるのかさっぱり判らなくなりました。彼等は沢山の木々の間を通り抜けました。そこは辺り一面囁きが聞こえ、青白い死の光が地面を這う腐った木の根っこからやってきて、男の人が牡鹿を見失ったかと思った時には、それは目の前で白く輝くのでした。彼はそれを捕らえようと疾走しました。でも牡鹿はいつももっと速く走りました。彼等は一塊になって、地面がぶくぶく泡立ち鬼火で一杯の湿地を抜けていきました。牡鹿は地下納骨堂の匂いがする岩だらけの狭い谷に逃げこみ、男の人も後を追いました。彼等は大きな山々を越え、空から吹き下ろす風の音が聞こえ、牡鹿は先に行き、男の人が後から行きました。ついに陽が昇り、男の人は見知らぬ国に来てしまった事がわかりました。美しい谷があり、キラキラと水が流れていて、まん中には大きな丸い丘がありました。牡鹿は谷を下り、丘に向かって行きました。疲れたかのようにどんどん遅くなっていきました。男の人も疲れていましたが、いっそう速く走り、今度こそ間違いなくあの牡鹿を捕まえられるぞと思ったのです。ところが、丘の真下に来て、男の人が手を延ばして牡鹿を捕まえようとした時、牡鹿は地面の中に消えました。男の人は長い間追いかけてきた獲物を逃してしまい、がっかりして泣き出しました。しかし、泣き出した時、丘に扉があるのが見えました。ちょうど目の前でした。真っ暗でしたが、男の人はここを探せば牡鹿が見つかるだろうと思って、どんどん中に入って行きました。すると、本当に急に辺りが明るくなりました。空が見え、お日様が光っていて、木では鳥が鳴いて、そこには綺麗な泉がありました。泉のほとりに美しい女の人が座っていました。その女の人は妖精の女王だったのです。彼女は男の人に、私は牡鹿に姿を変えて貴方をここに連れてきたのです、それは貴方を大変愛しているから、と教えました。そうして自分の妖精の宮殿から宝石で覆われた金の大きな盃を取り寄せ、ぶどう酒を注いで彼に勧めました。彼はそれを飲みました。飲めば飲む程、もっと飲みたくなりました。そのぶどう酒には魔法がかかっていたからです。彼は美しい女の人にキスして、奥さんにしました。その日とその夜、彼は女の人の住む丘にとどまって、目が覚めた時には地面の上に倒れていました。そこは彼が牡鹿を見つけた場所のそばでした。馬も犬もそこで待っていました。彼が見上げると陽は山に落ちました。彼は家に帰り、それから長生きしましたが、もうどんな女の人ともキスしませんでした。妖精の女王とキスしたことがあるからです。また、もうどんな普通のぶどう酒も飲みませんでした。魔法のぶどう酒を飲んだことがあるからです。保母は時々、曾祖母さんから聞いた話だといって話をしてくれることもありました。曾祖母さんはとても歳をとっていて、山の小屋にたった一人で住んでいるのだそうです。その話はほとんどがずっと昔の夜、人々が集まっていろんな遊びやゲームや保母が話してくれたような変わった事をした丘のことでした。でも私には判らなかりませんでした。今ではね、と保母が言いました。今では、私のひいばあちゃんしかこういった事を覚えていないの。その丘がどこにあるのかは誰も、ひいばあちゃんも、知らないのよ、と。それでも、保母は丘にまつわるあるとても変わったお話をしてくれました。それを思い出すと私は震えます。彼女はいいました。その人達が集まるのは夏のことです。とっても暑い頃です。とてもたくさん踊らないといけません。もともと真っ暗ですが、木があちらこちらにあって、もっと暗くなります。その人達は一人一人、あちらこちらから、他の人は誰も知らない秘密の道を通ってやってきます。二人の門番が門を守っています。そこを通るには、一人一人あるとても変わった合図をしなければいけません。保母は本物じゃないけどね、といってできるだけその合図を真似てくれました。いろんな種類の人が来ます。紳士も村びとも、年寄りも子供も、座って見ているだけの本当に小さな子供まで。彼等が集まる所は真っ暗やみです。ただ、一つの隅だけは違っていて、そこでは強くて甘い匂いのするものが焚かれていて、そのせいで誰もが笑ってしまいます。砕いた石炭がぎらぎらと燃え、もうもうと上がる煙を赤々と照らします。皆が揃うと扉が締められ、そうすると入り口はなくなってしまい、何か向こうにあるぞと思っても、もう誰も入ってこられなくなります。昔、ある他所ものの紳士が遠くから馬でやってきて、夜、道に迷いました。馬が停まった所は荒れた土地のただ中でした。全てのものがひっくり返っていて、恐ろしい沼地や大きな岩や足元の穴がそこらに転がっていました。木々は大きな黒い腕を道に突き出していて、まるで絞首台のようでした。他所ものの紳士は震え上がり、馬もがたがたと震え、それ以上動けなくなりました。紳士は馬を降り、引いて行こうとしましたが、馬は動こうとしないばかりか、汗をだらだら流して死にそうにしていました。そこで紳士は一人で行きました。荒れた国を遠くに遠くにと。すると、暗い場所に着きました。叫び声や歌う声や泣き声が聞こえます。これまで耳にした事のないようなものでした。それらの声は直ぐそばで聞こえるのに、彼はそこに入って行けませんでした。それで、彼は声を出して呼んでみました。するとその時、何かが後ろにやってきて、あっという間に口と腕と脚をしばってしまいました。彼は気を失いました。気が付くと彼は道を見失った辺りの道ばたに倒れていて、枯れて幹が黒くなったオークの下にいました。馬もその脇に結ばれていました。彼は馬に乗り街まで行くと、町の人に何が起きたか話しました。不思議そうにする人もいましたが、他の人は知っていました。そう言う風に、一旦皆が集まると、扉が無くなって、他の誰も入れなくなるのです。そうして、互いに触りながら輪になります。誰かが暗闇の中で歌い出します、他の誰かが道具を使って雷のような音をたてます。静かな夜に、遠く、荒れ野のずっとかなたに雷鳴のようなものが聞こえることがあります。真夜中(*19)、山の雷に似た、恐ろしく深い物音に目覚めたとき、それが何か分かっている人達は胸に十字を切った(*20)ものです。物音と歌はずっとずっと長く続き、輪の中の人はゆらゆらと少しずつ行ったり来たりします。歌は、今となってはもう誰も知らない古い古い言葉で、奇妙な調子です。私のひいばあちゃんは小さい子供の頃、その歌を少し知っている人に会った事があると保母はいいました。保母は少しそれを歌ってみてくれました。とても変わった調子だったので、とても寒くて自分の肉が全部凍ってしまうように感じました。何か死んだものに触れたみたいでした。男の人が歌う事も女の人が歌う事もありました。歌がとても上手だと、地面に金切り声をあげて倒れ、自分の手で地面を引き裂き出す人も出るのです。歌は続き、輪になった人達は行ったり来たりをずっと続けます。すると、ついに彼等がTole Deolと呼ぶ宮殿の上に月が昇ります。月は高く昇り、歌いゆらめく彼等を隅々まで見せます。燃える石炭から立ち上る濃い煙が人の輪を取り巻いています。そこで夜食が始まります。男の子と女の子が一つづつそれを運んできます。男の子はぶどう酒の入った大きな盃を、女の子はパンでできたお菓子を。それらは次々に手渡されて、ぐるぐると回ります。それは普通のパンやぶどう酒とはまるで違った味がして、食べたり飲んだりした人を皆変えてしまいます。次に彼等は全員起き上がって踊り、隠れた場所で秘密の事が行われて、普通ではないゲームを楽しみ、月の光の下、ぐるぐるぐるぐるぐるぐる踊って回ります。時には誰かが突然消えてしまい、姿を二度と表さない事もありますが、彼等に何が起きたのかは誰も知りません。彼等は不思議のぶどう酒を更に飲み、像を作って崇拝します。保母がある日散歩に出ていて湿った粘土が沢山ある場所を通りかかった時、どうやって像を作るのか見せてくれました。保母は丘で彼等がしているのがどんなことか知りたい?と聞き、私ははいと答えました。次に彼女は生きた人には誰にもこのことを喋らない?と聞き、もし喋ったら死者のいる黒い穴に放り込まれるわよ、といいました。私はうん誰にも話さないわと答えましたが、彼女は何度も何度も念を押して、私に約束させました。そうして、彼女は私の木の踏み鋤を取って、大きな粘土の塊を掘り、私のブリキのバケツにいれました。誰かと会っても、家に帰ったらパイを作るつもりなの、と答えるのよ、と言いました。少し行くと下の道に向かって真直ぐ延びた草むらがありました。保母は立ち止まって、道の上り下りを見て、縁から反対側の畑を伺い、言いました、「急いで!」 私達は茂みに駆け込み、やぶの中を出たり入ったり這って行き、道からかなり離れた所まで来ました。そうして私達は茂みの下に座りました。私は保母が粘土で何を作るのかしら、早く知りたいと思いましたが、彼女は始める前にまた一言も喋らないと私に約束させて、また茂みからあたりを全部覗きました。その小道はとても狭くて深いので、誰かが入ってくるような所ではなかったのに。そうやって私達は座りました。保母は粘土をバケツから取り出して、手でこね始めました。同時になにか変なことをそれにして、ぐるぐる回し始めました。それからそれをギシギシの葉の下に一、二分隠して、また取り出しました。彼女は立ち上がり、座り、奇妙なやり方で粘土の周りを歩いて回りました。その間ずっと何か詩のようなもの(*21)を優しく歌い、顔を真っ赤にしました。もう一度座って粘土を手に取り、人形の形を作り始めました。でもそれは私が家に持っているような人形には似ていませんでした。彼女が湿った粘土で作ったのは見た事もない変な人形だったんです。彼女はそれをやぶの下に隠して乾かしました。その間ずっとあの詩のようなものを歌い、顔はますます真っ赤になっていきました。そうして私達は人形を誰にも見つからないように茂みの中に隠したまま帰りました。何日かたって、私達はもう一度同じ所に散歩しました。小道の暗くなっている所、土手に向かって茂みが落ち込んでいる所に来ると、前と同じように、保母はまた約束をさせ、周りを見回して、茂みの中に潜り込んで小さな粘土人間を隠した緑の場所まで来ました。その時私は八つでしたが、こういったことを良く覚えています。それはこれを書いている今から八年前のことでした。空は紺碧で、私達が座っていた茂みのまん中には花を沢山付けた古い大きな木がありました。反対側はシモツケソウが集まっていました。あの日の事を考えると、シモツケソウのにおいと古い木の花のにおいが部屋の中いっぱいになるような気がします。目を閉じれば、青く輝く空と、それを横切ってわずかに浮かぶ雲と、ずっと昔にいなくなってしまった保母が見えます。保母は私の向いに座って、まるで森にいた美しい白い女の人のように見えました。そんなふうに私達は座って、保母は粘土の人形を内緒の場所から取り出して私達は「我らが敬意を払うべし」といいました。彼女がどうやったらいいか私に教えてくれるので、私は彼女をずっと見つめていなければいけませんでした。そうして彼女は小さな粘土人間にいろんな奇妙なことをしましたが、とてもゆっくり歩いたのに、彼女が汗だくになっているのに気付きました。次に「我が敬意を払うべし」といい、私は彼女がした全ての事をしました。彼女が好きだったからです。こんな変わったゲームだったんです。彼女は言いました。もし誰かを物凄く好きになったら、粘土人間はとても役に立つ。それを使ってあることをすればいい。もし誰かを物凄く憎むことになっても、粘土人間はとても役に立つ。それを使って違うことをすればいい。私達はそれで長いこと、いろんなごっご遊びをしました。保母は、こういった像のことはひいばあちゃんから全部聞いたの、今したことはただのゲームで、なにも危ない事はないからね、といいました。でも彼女が教えてくれた像のお話はとても怖いものでした。あの夜、自分が見た事やあの秘密の森の事を考えて、青白いうつろな暗闇のなかで眠れずに横になっていた時に思い出したのは、このお話だったんです。昔位の高い若い女の人が大きなお城に住んでいました。彼女は大変美しかったので、紳士は誰もが結婚したいと思いました。彼女程美しい女性を誰も見た事がなかったからです。また彼女は誰にも親切でしたし、誰もが彼女をとても良い人だと思いました。しかし彼女はどの紳士にも優しく礼儀正しくする代わりに、本当に結婚したいか、まだ心が決まっていないのですと言って、誰との結婚も断りました。彼女のお父様は偉い王様で、彼女のことが大変好きでしたが、怒って、なぜハンサムで若い独身の男性がこれだけ城に来ているのに、その中から一人を選ぶ事ができないのかと質問しました。それでも彼女はただ、本当に大好きな人がいないのです、と答えるだけでした。時間を下さい、もし彼等がせがむなら私は修道院に行って尼になってしまいます、と言いました。そこで、紳士は皆、それならば私達は出て行こう、一年と一日の後に戻ってきて、誰と結婚するかを聞く事にする、と言いました。このように約束の日を決めて、皆去って行きました。女の人は一年と一日後がその中の誰かと結婚する日だと約束したのです。ところが本当は、彼女はあの丘で夏の夜に踊る人達の女王だったのです。特別な夜には、部屋の扉に鍵を掛けて、自分達だけが知っている秘密の通路を通ってメイドと一緒に城を抜け出し、荒れ野の国の丘に上るのです。彼女は他の誰よりも秘密な事を知っていました。彼女の前にも後にもこれ程秘密な事を知っている人はいませんでした。それというのも、彼女は一番秘密な秘密を誰にも教えなかったからです。彼女はどんな恐ろしいことでもやり方を知っていました。若い男の人を滅ぼす方法も、人々に呪をかける方法も、私には良く判らない他のいろんな事も。彼女の本名はアヴェリン姫でしたが、踊る人達の間ではカッサプ(*22)と呼ばれていました。それはとても賢い人という意味の古い言葉です。彼女は他の誰より色白で背が高く、彼女の目は暗い中でも燃えるルビーのように光りました。他の誰にも歌えない歌い、その時は他の人はみんな頭を下げて彼女をあがめました。彼女はshib-show(*23)と呼ばれるものをすることができ、それはとても魅力的でした。彼女は偉大な王である父親に、森に行って花を摘みたいのですと言っては、見張り番をするメイドと共に、誰も行かない森に行きました。(*24)木の下に横たわり、ある特殊な歌を歌い出し腕を延ばすと、森のあらゆる所から大きな蛇がやってきます、木の中から外からしゅうしゅう音を立てては滑り寄ってきて、先が割れた舌を差し出しながら女の人に這い上がりました。全ての蛇がやってきて彼女に巻き付きました。胴に、腕に、首に。彼女は頭だけ残して体中蛇で覆われてしまいました。そうして彼女は蛇に囁き、歌いかけ、蛇もぐるぐる、速く速くと巻き付くのでした。彼女がお行きなさいと言うと蛇はすぐさま自分たちの穴まで逃げて行きました。その時、女の人の胸にはこの上もなく変わった、何か卵のような形で、深い青、黄、赤、緑に彩られ、蛇の鱗のような模様がある美しい石がありました。魔法の石(*25)というものです。それがあれば、どんな不思議なことでもでき、保母がいうには、曾祖母さんも魔法の石をその目で見た事があるのだそうです。それはそれは蛇のようにキラキラした、鱗の模様がついたものだったそうです。女の人は他にもいろんなことができましたが、結婚は絶対にしないと決めていました。本当に沢山の紳士が結婚して欲しいといいましたが、主な人達は五人でした。サイモン卿、ジョン卿、オリヴァー卿、リチャード卿、ローランド卿の五人です(*26)。他の人は皆、彼女は本当の事を言っていて、一年と一日たったら自分達の一人と結婚してくれると信じていましたが、サイモン卿だけは違いました。この人は大変ずる賢く、彼女は皆を裏切ろうとしているんだと考え、彼女を見張って何かあったらそれを探し出してやろうと思いました。彼は賢かったのにも関わらず、若くて、女の子のような滑らかな顔をしていました。他の人と同じように、一年と一日たつまでは海の向こうの遠くに行っていると言い、それまでは城に戻らないふりをしました。でも本当はちょっと離れただけで召し使いの女のような格好で帰ってきて、城の中で皿洗いの仕事についたのです。彼は聞くだけで一言も喋らず、待ち、見張りを続けました。夜も起きて、暗い所に隠れて注意しました。彼が見聞きしたのは大変奇妙なものでした。そこで、彼は大変ずる賢かったので、女の人の侍女に、私は実は若者だがお前をとても愛しているので同じ家にいたい、それでこうして娘の格好でいるのだよと騙し、侍女はたいそう喜んでいろいろなことを彼に話してしまいました。彼はますますアヴェリン姫が自分達を裏切るつもりであることを確信しました。彼はとても頭が回ったので、侍女に沢山の嘘をついて、ある晩アヴェリン姫の部屋のカーテンの後ろに隠れるようはからってもらいました。彼は本当にじっと待ちました。ついに女の人がやってきました。彼女は寝台の下に屈み込んで、一つの石を持ち上げました。するとその下には穴が開いていて、彼女はそこから蝋でできた像をとりだしました。保母が私と茂みのなかで作った粘土の像にそっくりなものでした。その間ずっと彼女の目はルビーのように燃えていました。彼女は小さな蝋人形を胸に抱き、低く囁いて、高く持ち上げ、また降ろしました。高く、また低く。そうして言いました。『幸いなるかな最初の者よ、彼は僧正を孕ませ、僧正は書記に命じ、書記は男を結婚せしめ、男は妻を持ち、妻は巣箱を作り、巣箱は蜜蜂を住わせ、蜜蜂は蝋を集め、蝋は我が真実の愛人を作る元となりし。(*27) 』 彼女は食器棚から大きな金のボウルを取り出し、戸棚から大きなぶどう酒のかめを取り出し、ボウルにそのぶどう酒を注ぎました。とても大事そうに人形をそのぶどう酒の中に漬け、丁寧に隅々まで洗いました。次に、カバードに行って小さな丸いお菓子を一つ取ってきて、像の口の所に置きました。優しく人形を抱いて、上を覆いました。それをずっと見ていたサイモン卿は、怖くてたまりませんでしたが、彼女が屈んで腕を広げ、囁き、歌うのを見ました。すると、その時、彼女の傍らに美しい若者がいて、彼女とくちづけを交わすではありませんか。二人はあのボウルのぶどう酒を一緒に飲み、あのお菓子を一緒に食べました。太陽が上る時、そこにあったのはただのちいさな蝋人形だけで、女の人はまたそれを寝台の下の穴に隠してしまいました。それでサイモン卿には彼女が何者なのかがわかったので、例の刻限が近くなり一年と一日まであと一週間というときまで見張りを続けました。ある夜、部屋のカーテンの後ろで彼が見張っている時、彼女がもっと沢山の蝋人形を作るのが見えました。彼女は五つ作り、隠しました。次の夜、彼女は一つの人形を取って、金のボウルに水をいっぱい入れ、人形の首をつかんで水の中に浸しました。そうして彼女は言いました(*28)--

ディコンさん、ディコンさん、貴方の日々は終わりです、
水に流され終わりです。
次の日城に、リチャード卿が浅瀬で溺れたという知らせがやってきました。その夜、彼女は別の人形を取って、紫の紐を首に巻き付け、釘で吊るしました。そうして彼女は言いました--
ローランドさん、貴方の命は尽きました、
木に高く、かかる姿が見えました。
次の日城に、ローランド卿が山賊に吊るし首にされたという知らせがやってきました。その夜、彼女は別の人形を取って、ヘアピンを心臓の所に真直ぐ刺し込みました。そうして彼女は言いました--
ノールさん、ノールさん、貴方の命はばっさりと、
心の臓をばひとつきに、哀れナイフがぐっさりと。
次の日城に、オリヴァー卿が旅籠で戦い、他所ものに心臓を刺されたという知らせがやってきました。その夜、彼女は別の人形を取って、木炭の火にかざし、融かしてしまいました。そうして彼女は言いました--
ジョンさんは、も一度土に還りなさい、
全てを融かす熱のなか、流れはかなくお逝きなさい。
次の日城に、ジョン卿が燃えるような高熱で死んだという知らせがやってきました。そこでサイモン卿は城を抜け出し、馬に乗って僧正の所にいき、全てを話しました。そのため、一年と一日たった日、彼女が結婚するはずだった日の翌日に、彼女はスモックのまま街を引きずり回され、マーケットの大きな火刑柱に縛り付けられました。彼女はあの蝋人形を首に掛け、僧正の前で生きたまま焼かれてしまいました。人々の間で、炎に焼かれる前蝋人形が叫んだという噂がたったのです。私は寝台に横になっている間、このお話のことを繰り返し繰り返し考えました。マーケットにいるアヴェリン姫が見えるようでした。黄色い炎が彼女の美しい白い身体を舐めていくのが。私はお話にのめり込んでしまい、まるで私自身がその女の人になったみたいな感じがしました。人がやってきて私を引き回しにして火あぶりにします。それを街の人が皆で見ています。いろんな不思議なことをした後、彼女はどれほど心配して、火あぶりの刑で焼かれる時はどれほど痛かったことでしょう。私は何度も何度も保母のお話を忘れて、午後に見た秘密の事、秘密の森の中にあった物の事を考えようとしましたが、見えたものは暗闇と、青白いちらちらした光だけでした。私は逃げ出し、自分が走って行く姿だけが見えました。そこに大きな月が暗くて丸い丘から上り、昔聞いた話と、保母が歌ってくれた奇妙な韻文が甦って来るんです。その詩のようなものは、たとえば『Halsy cumsy Helen musty(*29)』という言葉で始まって、私を寝かし付けたい時にとても優しく歌ってくれたものです。私はその歌を自分のために頭の中で歌いはじめ、眠りに付きました。

次の朝、私はとても疲れていて、眠くて、勉強するのがとても大変でした。それが終わって昼食を食べ終わったときは本当に嬉しくなりました。外に出て一人になりたかったからです。暖かい日で、川のほとりにある素敵な芝生の丘に行きました。用意してきたお母さんの古いショールを敷いて、その上に座りました。空は昨日と同じように灰色でしたが、何か白い光が後ろの方に見えました。私が座っている所からは街を見下ろす事ができて、全部おだやかで静かで白でした(*30)。まるで絵のように。思い出したのですが、保母が『トロイの街(*31)』という名前の古いゲームを教えてくれたのもこの丘でした。そのゲームでは一人が踊らないといけませんでした。草の上を縫うように、あるパターンを作って踊ります。十分踊り回ったら、他の人が質問をします。それにはそうしたくてもしたくなくても、答えないといけません。どんなことでも、あることをするように言われると、それをしなければいけない気分になるんです。保母は、こういうゲームがもっと一杯あって、それを知っている人達がいたのよ、と言っていました。ゲームの中にはどんな好きなものにでもなってしまえるのもあって、ひいばあちゃんが会ったことのあるお年寄りは、そうやって大きな蛇になってしまった娘を見たことがあるのよ、と。もう一つのとても古いゲームでも踊って、縫うようにして回るのですが、それをすると、ある人からその人自身を取り出して、好きなだけどこかに隠してしまうことができました。その間その人の身体は空っぽになって、何にも感じないで歩き回ります。でも、私が丘に来たのは、昨日起きたことを、森の秘密を考えたかったからです。街の向こうに私が座っている所から裂け目が見えます。そこの小川を辿って知らない国にいったのでした。私はもう一度その小川をさかのぼるつもりになって、心の中で全部の道を辿りなおしてみました。最後に森をみつけました。薮をかきわけそこに這って行って、私が見たのは何か暗闇の中で私を炎で満たすかのようなもの、踊って歌って空に舞い上がりたくなるようなものでした。私はそこで変わって、不思議な感じになったのですから。でも、私が見たものは全然変わらず、歳をとってもいないようでした。何度も何度も、どうしてこんなことが起こることってあるんだろう、保母のお話は本当に正しかったのかしらと不思議に思いました。それというのも広々とした空と太陽の下ではどんなものも夜とは違って見えたからです。夜には私は震え上がり、生きたまま火あぶりにされるのかと思ったのです。一度お父さんに彼女のお話で短いのを話したことがあります。幽霊の話でした。お父さんにこれは本当のことなのと聞いても、全く違う、そのような愚劣な話を信じるのは無知蒙昧の輩だけだといい、そんな話をするなと保母を叱りつけました。その後で、私は彼女にもう二度とお話のことを漏らさないと約束しました。もし少しでも話したら森の池に住む大きな黒い蛇に噛まれちゃうと。一人で丘の上に座って、何が正しいんだろうと悩みました。何かとてもびっくりするような、とても綺麗なものを見たんです。私はあるお話も知っています。もし私が見たのが本物だったら、暗闇と黒い枝と大きな丸い丘から昇った明るい輝きとをそれと取り違えた(*32)んじゃなかったら、それは考えるだけでもとても不思議で美しくて恐ろしいものだったんです。そうであって欲しいなと思い、同時に恐れに震えました。自分が燃えるような気がして、同時に寒々としました。静まりかえった白い絵のような街を見下しながらそんなことがあり得るのかと何度も何度も思いかえしました。どんなことでも、決心するのには時間がかかりました。心臓のあたりが奇妙にぶるぶるして、ずっと囁いてくるんです。それはお前の頭がでっちあげたものじゃないと。でもあんなことってやっぱりありそうもないし、お父さんも皆も馬鹿馬鹿しい話だと言うだけだろうし。お父さんや他の人に話すなんて夢にも思いませんでした。そんなことをしても無駄だろうと分かっていたからです。きっと笑われるか、怒られておわりです。それで長いことじっと黙って歩き回って、迷いながら考えました。夜になるといつも不思議なものの夢を見ました。時々は朝早く目覚め、腕を抱えて泣いた事もありました。同時に私は怖かったんです。もしお話が真実ならば、危険があったから、とても用心していないと何か恐ろしいことが私に起こりそうだったから。こういった古いお話は夜と朝にいつも頭に浮かびました。繰り返し繰り返し自分に話して聞かせ、保母がそのお話を聞かせてくれた場所に散歩に行きました。夕暮れ時、子供部屋で暖炉の側に座っていると、今でも保母がもう一つの椅子に腰掛けて低い声で不思議な物語を聞かせてくれるような気分になったものです。私以外の誰にも聞かれないように低い声でした。彼女が一番よく話してくれたのは家から遠く離れて、田舎(*33)に出た時でした。彼女がしてくれたのは秘密のお話だったから、家の壁には耳があったからです。本当の秘密のお話をする時には、茂みや森に隠れなければいけませんでした。縁にそってそおっと這って行くのはとても楽しみでした。そうして茂みの陰に入ったり、誰も見張っていないことを確認した後でいきなり森に駆け込んだりしたんです。ですから、私達の秘密は私達だけの物、誰にも知られていない物だと分かっていました。そんな風に隠れて、彼女は時々、いろんな種類の変わったことをしてみせてくれました。覚えています、ある日、小川を見下ろすハシバミの茂みの中でした。四月というのに暖かくて気持がよくて、お日様がさんさんと照って、草木が芽吹いていました。保母はあなたが笑っちゃうようなとても面白いことをしてみせるわよ、と言い、誰にも判らないようにして家中を逆さまにするやり方を見せてくれました。急須やお鍋が飛び回って、瀬戸物が割れて、椅子が折り重なってひっくり返ってしまいます。ある日それを台所で試してみたら、とてもうまくいきました。食器棚のお皿が一列全部落っこちて、コックさんの小さな作業机が持ち上がって真直ぐになりました。それこそ『私の目の前まで』と保母が言うように。でも彼女はとても驚いて真っ青になったので、もう二度としませんでした。彼女が好きだったからです。後になって、ハシバミの中で、今度はいろんなものをひっくり返したり、コツコツ(*34)いわせたりするやり方を見せてくれました。これもすぐできるようになりました。いろんな場面で唱えるべき韻文や、他の場面で作るべき変わった合図(*35)や、小さい頃曾祖母から聞いたという他の色んなことも教えてくれました。大いなる神秘を見たと思ったあの変な散歩の後、何日か考えつづけた事はこういったものでした。保母がいてくれたら、質問させてくれたらなあ。でも彼女は二年以上前にいなくなってしまい、どうなってしまったのか、どこに行ってしまったのか、誰も知らないみたいでした。でも、私はたとえおばあさんになるまで生きられてもこの数日の事を忘れないでしょう。その間ずっと奇妙な感じがして、迷って疑って、一旦は確かな事だった間違いない、と思い決心もつくのですが、次にはもう絶対こんな事ってあり得ないよと感じて、振り出しに戻ってしまうのですから。それでも、私はとても危険なものになりかねないある種のことをしないよう、とても注意していました。それで、長い時間待ち、迷うだけで、はっきりしなかった物事をもう一度探ってみようとはしなかったんです。ところがある日、保母のお話は全部本当だったと確信できました。それが分かった時はたった一人でした。喜びと恐怖でぶるぶる震えて、二人でよく行った茂みに大急ぎで駆け込みました--そこは小道の脇にあって、保母が小さな粘土人間を作った所です。そこに駆け込み、這って行き、昔と同じ所に着いた時、私は両手で顔を覆って草の上に倒れ込みました。そのまま二時間も動かずにいて、とても気持ちよく同時に恐ろしい事を自分自身に囁いて、繰り返し繰り返しある言葉(*36)を唱えました。全てが真実で不思議で素晴しかったのです。あるお話を思い出し、自分が本当に見たものを思い出したら、身体が熱くまた寒くなりました。大気にも香りと花と歌が満ちているようでした。私はさっそく昔保母が作ったような小さな粘土人間を作りたくなりました。計画をねり戦略をたてる必要がありました。私がしようとしていることが何か、誰も夢にも思わないように隠す必要があり、ブリキのバケツで粘土を運ぶには私は大きくなりすぎていたからです。ついに計画を思い付き、湿った粘土を茂みに運び込みました。そこで保母がしたのと同じことをしましたが、像の形はもっと細かく作りました。その後思い付く全部のことをしましたが、保母が作った人形に比べずっと似せて作ったので、彼女以上のことができました。数日後、勉強が早めに終わった時、あの小川に行ってもう一度不思議の国への道をたどりました。小川を遡り、茂みを抜け、低い木の枝をくぐって、茨の雑木林を丘まで登り、這う生き物で一杯の暗い森を抜け、遠くに遠くに。涸れ沢に石が転がっている暗いトンネルを這って行き、やっと丘に登る雑木林に着きました。葉が芽吹いていましたが、それ以外はこの前行った時と同じ真っ黒な所でした。雑木林も同じようで、木のない大きな丘までゆっくり登りました。不思議な岩の周りを歩いて、その上にある恐るべきvoorを再び見ました。空は明るくなったのに、荒れた丘の周りの環はやはり暗いままで、凭れ下がった木々は暗く恐ろしく、岩は灰色一色でした。大きな塚の上、石に座って、素晴しい環がぐるぐると取り巻くのを見ました。静かに座って、環が私の周りで回りだし、全ての岩がその場で踊って、何度も何度も、大きな車輪のように回るのです。まるで私は星星のまん中にいて、星星が全て息をきらして回る声が大気を通して聞こえるようでした。岩の所まで降り、一緒に踊って奇妙な歌を歌い、別の雑木林に入りました。ひっそりとした秘密の谷で明るい流れに口を付け、弾ける水に唇を合わせました。次にギラギラする苔に囲まれた深く輝く井戸のところに座りました。私の前には谷の秘密の暗黒が、後ろには草で覆われた高い壁がありました。周りは一面木が垂れかかってきていて、谷を隠していました。誰もそばにはいないし、私を見ることもできないのがわかったので、ブーツとストッキングを脱いで、覚えた言葉を唱えながら足を水に入れました。思っていたのとは違い、水は全然冷たくなくて、暖かくてとても愉快でした。足を入れるとまるで絹に触れているような、ニンフがくちづけしてくれているような感じがしました。他の言葉を唱えながら、ある合図をつくりました。そういったことが済んだら、足を用意してきたタオルで拭き、ストッキングとブーツを履きました。次に急な壁を登って、穴が沢山あり、二つの綺麗な土塁が、丸い変わった形をした稜線がある場所に来ました。今度は穴には入らず、その先まで行きました。今度はあの人の姿をとても簡単に見分けることができました。それは明るくなったみたいでした。私はそれまでずっと忘れていたあるお話を思い出しました。そのお話ではアダムとイヴという名前の二つの姿が出てきます。その名前の意味は、お話を知っている人にしかわかりません。どんどん進んで、秘密の森の所まできました。その森のことは書くことができません。私はこの前見つけておいた道を這って進みました。半分まで行ったところで、立ち止まって後ろを向いて、準備をしました。ハンカチをきつく巻き付けて、両目を隠したんです。これで何も見えなくなりました。枝も葉っぱの先も、空の光も。それは古い赤いハンカチで、大きな黄色の点々がついていました。二重に巻き付けて眼を覆ったので、何も見えなくなったんです。そうしてまた進みました。一歩一歩、とてもゆっくりと。心臓はどんどんどんどん速く打つようになり、喉になにかが上がってきて息がつまり、叫びそうになりましたが、唇を噛み締め進みました。進むに従い髪の毛が枝にひっかかり、大きな棘で怪我をしましたが、私はその通路の終わりまで進みました。そこで立ち止まり、腕を延ばし頭を下げて、まず一回歩き回りました。何か触らないかと集中して。何もありませんでした。二度目に歩き回りました。何か触らないかと集中して。何もありませんでした。三度目に歩き回りました。何か触らないかと集中して。あのお話は本当に正しかったのです。早く年月が過ぎ去ってくれればいいのに、私が永遠に幸せになれるまで、長い時間がかからなければいいのにと願いました。

保母は聖書で読んだ預言者に違いなかったんです。彼女の言ったことが全部実現しはじめました。それより後に彼女が言った他のことも起きたんです。こんな風に彼女のお話は真実で、秘密は私自身の頭で作り出したものじゃないと判りましたが、その日の内に他のことも起こりました。秘密の場所に二度目に行きました。それは深い輝く井戸で、苔の脇に立って水の上に屈み中を見下ろした時に、遠い昔私が本当に小さかった時に森の中で水から出てくるのを見た白い女の人が誰だったのかを知りました。私は本当に震えました。それと言うのも、そのことから別のことがわかったからです。私は思い出しました。私が森で白い人達を見た後、保母はその人達のことを何度も何度も私にきいて、私も繰り返し繰り返し答えました。その後長い長い間黙ったと思うと、最後に言いました『あなたはその女の人をまた見るわ。』 それで、私には何が起きたのか、これから何が起きるのか判りました。私はニンフのこともわかったんです。私はいろんなところで彼等と会って、彼等はいつも私を助けてくれて、私はいつも彼等を探さなければならなくて、彼等はいろんな変わった形や姿をしているんだと。ニンフがいなければ、私は秘密を見つける事もできなかったし、他のことも起きなかったでしょう。保母はずっと昔に彼等のことを全部話してくれましたが、他の名前で呼んでいました。私には彼女が言っていることや、彼等の話が一体何についてなのかが判らず、ただ変な人達なんだなあと思っただけだったんです。二種類のニンフがいました。明るいのと暗いのです。どちらもとても綺麗で、とても不思議で、片方しか見えない人も、もう一方しか見えない人も、両方見える人もいました。でも普通は暗い方が先に現れて、明るい方が後に来ます。彼等については普通じゃないお話があるんです。最初にニンフのことが本当に分かったのは、秘密の場所に行って帰ってきた次の日か次の次の日でした。保母は彼等をどうやって呼ぶか教えてくれていました。試した事もありましたが、それがどんな意味か判らず、ただのナンセンスだと思っていました。でももう一度やってみようと決心したんです。それで白い人達を見た、あの池のある森に行って、もう一度やってみました。暗いニンフ、アランナ(*37)がやってきました。彼女は水の池を炎の池に変えて……

エピローグ

「随分変わった話だな」 隠遁者アンブローズに緑の本を返しながらコトグレーヴは言った。「だいぶくらくらきたよ(*1)。しかしこの中には全然把握できない事が沢山ある。例えば最後の頁で、彼女の言う『ニンフ』というのは何なのだろう。」

「うん、この原稿全体を通じてある種の『過程(*2)』が参照されている。それは伝統の形で世代を越えて受け継がれているものだ。その種の過程のあるものは、今や科学の視野に入りつつある。全く異なった道を辿る事になるが、科学によって、その種の過程に達したり--あるいはそのための一歩一歩を踏み出したり--することができる。『ニンフ』はそういった過程の一つを参照しているのだと解釈している。」

「それで、こんな事が起きると信じているのか?」

「ああ、そう思っている。その点については、信頼できる証拠を示す事ができると信じている。もしや君は錬金術の研究を無視しているのか。それは残念なことだな。いずれにせよ象徴主義(*3)は極めて美しいものだからね。そればかりでなく、もし君がそれを扱った書籍に精通していれば、君が読み終えたばかりのこの原稿のかなりの部分を説明すると思われるフレーズを想起させてあげられるのだが。」

「確かに無視していたな。しかし、君は本当に真面目に、これらの幻想のもとには何でもいいがきちんとした基盤があると考えているのかな。全部がとは言わないが、詩の領域に入るのではないか。人が耽溺する奇妙な夢だ。」

「ほとんどの人にとってはそれを全て夢として無視する方が疑いなくましだ、としか言えない。だが、君が私の確たる信念について問うているなら--答は全く異なる。いや、信念ではないな、むしろ知識と言うべきだろう。君には話していいと思うのだが、本当に偶発的にこの種の『過程』に気付き、まるで思いもよらぬ結末を迎え驚いた、という事例を私は知っているのだ。それらの事例では『暗示』(*4)や無意識の関与はあり得なかったはずだと考えている。学校の生徒がこつこつと語形変化を勉強する間に機械的にアイスキュロス(*5)の実在を『暗示』するようなものだ。」

アンブローズは続けた「君は文のあいまいさに気付いたわけだ。この例では、著者は自分の原稿が他人の手に落ちるとは思っていなかったのだから、記述は直感的だ。だが教訓(*6)は普遍的なもので、立派な理由がたくさんある。効能の高い薬や、必要があればだが猛毒も、施錠したキャビネットにしまわれる。少女がたまたま鍵を見つけて、毒を飲んで死ぬかもしれない。しかしほとんどの場合、探索というものは教育的で、自分でしんぼう強く鍵を作った人には、貴重な化金石(*7)が入ったアンプルが見つかることになる。」

「詳細に立ち入ろうとは思わないのだな。」

「そう。そのつもりはない。率直に言って君は確信できないままでいるべきだ。しかし、その原稿が先週の話を描写していることが分かったろう?」

「この女の子は存命なのか。」

「いや。私は彼女を発見した一人だよ。父親を良く知っているが、弁護士で、娘のことを放りっぱなしだった。証書と賃貸権のことしか頭になかったのだな。知らせを聞いて恐ろしく驚いていたよ。彼女はある朝失踪していた。君が読んだものを書いた約一年後だと思う。召し使いが召集され、話し合ったのだが、自然な解釈に落ち着いた。完全に誤った解釈に。

「この本が彼女の部屋のどこかで見つかり、私は彼女が実に恐ろしくも描写した場所で彼女を見つけた。像の前に倒れていた。」

「偶像なのだね?」

「そう。周りを囲む茂みと厚い下生えに遮られて見えなかった。荒れた、孤独な土地だった。どういう様子だったかは彼女の記述でわかっただろう。無論、想像の通り、潤色はあったよ。子供の想像の中ではものは実際より高かったり低かったりするからね。本人にとって不幸な事に、彼女には想像力以上の何物かがあったのだ。多分、彼女の心に浮かんだ絵はある想像力豊かな芸術家の描いたような場面だったのだね。それを彼女は幾分なりと文章にすることができた。ともかく、変わった、荒廃した土地だった。」

「彼女は死んでいたのか。」

「そうだ。自分で毒を飲んだのだ--時宜を得て。いや、通常の意味で非難する言葉ではない。あの夜君に話した女性のことを思い出すだろう? 自分の子供の指が窓で潰れてしまった女性だ。」

「その像というのは何物だったのだ?」

「ああ、ローマ時代の職人芸だった。何世紀も経っているのに黒くなるどころか白く光り輝くばかりになっていた。雑木林がその上を覆って隠してしまっていた。中世では非常に古い伝統を守る人々の間でそれの使い方が知られていたのだ。実際の所、サバトの醜い神話体系(*8)の中で使われていたのだよ。君にはわかってもらえると思うが、その手の人々にとってあのような輝く白さは天賦のものと、むしろ見せかけの天だが、あがめられたのだ。彼等が第二のアプローチをなす時に、目くらましとして必要だった。それは非常に重要なことだった。」

「それはまだ残っているのか?」

「私は道具を取ってこさせた。皆でハンマーを持ち粉々になるまで叩き壊したよ。」

アンブローズは一呼吸おいて続けた。「伝統が生き長らえていることは私にとって驚きではない。この少女が小さい頃に聞いたような伝統が今だ隠秘ながら衰える事なく存在している地域の名前を、英国の中でも数多く挙げる事ができる。いいや、私にとってこれは『物語』であって『結末』ではない(*9)。奇妙でおそるべき。というのも、私は常に不思議なものは魂の内にあると信じているからだ。」

Notes

This is a Japanese translation of Auther Machen's 'The White Poeple'. The English full texts were found at Gaslight, Fiction Hub at Dowse.com, and Treat. Great thanks to webmasters of these sites.

2004年の年末から05年の年始にかけて訳したものです。この作品も以前恐らく平井呈一訳(「白魔」)で読んだものです。当時はさほど感心しませんでしたが、原文を再読すると味わい深いものがあります。ある程度おさーんになって読んだ方がいいのかもしれませんし、私がH.P.L.らの暗黒世界に少し近付いたためかも知れません。例えばvoorという単語など、C.O.D.程度の辞書では歯が立たない部分も多く、いささか不完全な訳ですが、H.P.L.による言及を楽しむ向きもあるかとは思います。拙訳「パンの大神」もお読み下さると、マッケンの世界がより理解できるかと思います。余談ですが、この物語で悲劇的な最期を迎える少女のイメージとして、名作映画The Corse of the Cat Peopleに出てくる女の子が浮かんでなりません。おかげで、Nurseが猫顔のフランス系美人--Simone Simon--に思えてならないのです。

固有名詞他

Ambrose、Cotgrave


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