年甲斐もなく心がほくほくして「忍足グッズ」を集めてしまいました。どうもねえ、ソプラノ歌手の五十嵐郊味先生や、バイクの免許をとるきっかけ(の一つ)になったアルバイトのおねいさんにどことなく顔立ちが似ていて、サブリミナルな効果があったんですよ。簡単に言えば、忍足さんのようなちょっと丸顔系の美人には弱いのです。さて、そちら方面にも関係がある商売をしてもいますし、いくらなんでも「聾唖者の変な声のサンプル」という扱いでは失礼ですので、忍足さんの映画を見た感想を少し書いてみようかと思う次第です。主に『旅の途中で-FARDA-』を扱います。

アイ・ラヴ・ユー、アイ・ラヴ・フレンズ

ストーリーは特に説明する必要がないでしょう。とにかく見てください。

アイ・ラヴ・ユー

「アイ・ラヴ・ユー」に出てくる手話を用いた雑談場面は衝撃的でした。カルチャーショックといってもいいくらいの衝撃を受けました。手話でそこまでできる、とは想像していなかったからです。聾唖役の方が皆聾唖者だというのも驚きでしたし、忍足さんが撮影時29歳というのも何か騙された感じがする程(とてもそうは見えない。二十代前半でも通る)だったのですが、何より、忍足亜希子さんが映画初体験だったというのが驚きでした。NHKのテレビ番組にアシスタントとして出演した経験はあっても、演技経験は全くなかったというんです。とても信じられない。それほど表情が豊かなんですよ。忍足さん以外の聾唖者も表情豊かです。

この方達は音声言語に頼らない分、身体言語に長じていているのではないかと想像した訳です。本質的に舞台や映画に向いている人たちなのではないかと。

さて、この映画で印象的だった場面ですが、夫婦喧嘩の時に聾唖者である奥さん(これが忍足さん)が何をするかというと、明かりを消し、聴者である(耳が聞こえる)ご主人から目を背けるのです。相手の姿が見えないようにして、「変な声」で叫びます(忍足さんは声を出して話すことができます。日本の聾学校では聴者に合わせたそういう訓練を厳しく行うのだそうです。実際、忍足さんの言葉に慣れているご家族の前では口で話すのが普通だそうですね。また、よく考えてみれば手話は独立した言語です。ですから現在の日本の聾唖者は厳密には単なる「聾者」です。忍足さんは自分で「ろう者」だと明言しています。聴覚障害者というより、こちらの方が中立的な表現なのだと)。あえてコミュニケーションを断絶しようとする態度で、悲しみや怒りをぶつけるのです。

アイ・ラヴ・フレンズ

第二作ですが、かなり意欲的ですね。ここでも忍足さんは主役ということになっていますが、実際には脇役に近い立場にいます。本人にはそれほど大きな葛藤や危機はなく、行動力と写真を通して人々の心を繋ぐ接着剤のような役目を果たしています。実のところ聾唖である必要もあまりありません。ヒロインの立ち位置に第一作程のインパクトはありませんから、直接訴える力は弱いのですが、その分女優としての個性が見えてきます。カメラを構えると結構強引でアブナいおねーさんになってますからね。「普通の女優」へ一歩を進んだ、という点で忍足さんには嬉しい役だったのではないかと思います。本当に「普通の女優」になるためには、沢山の後進が現れる必要があると思うのですが…

この映画の真の主役は男の子、影の主役はおとーさんの幽霊でしょう。脇役に近いヒロインですが、その活躍で、(ヒロイン自身を含む)人々の心の再生がはじまり、さあドラマがこれから起こる、という瞬間に映画は幕を下ろします。心憎いテクニックです。

この映画を撮っている時のメイキング写真集が出版されています。中に一つの文章も出てこない、写真=視覚だけで世界を読み取ってくれというこれまた意欲的な写真集です。カメラがコンタックスのN1だというのもわかります(そういう所を見ているのかお前は)。文章による、というか文章だらけのメイキングも出版されていて、主に監督の視点による前作の反省点(やっぱりあれは問題になったのか、と思いました)と、いろんな背景が説明されています。

DVDには字幕、副音声が用意されています。家族に聞こえない人、見えない人の両方がいる場合もこれ一枚で楽しめるという工夫ですね。

FARDA

衛星劇場の「アイ・ラヴ・ピース」を見損なったので(再放送、DVD化待ってます orz)、FARDAに行きます。ここでは忍足さん完全に脇役です。ひたむき前向きな性格でもありません。ますます「普通の女優」してます。念願の初脇役、初独身役(良かったねえ忍足さん)。

この作品では、聾唖者が登場するストーリー上の必要性はありません。ですが、あえて聾唖者を設定することで、言語によるコミュニケーションの不全性という点を浮き彫りにしています。忍足さんの身体言語がなければ、この映画は成立しなかったのではないでしょうか。

ストーリーはこれもまたDVDをご覧いただくとして、「善良だが無神経な」主人公が、忍足さん扮する元恋人の懇願と自責の念から、イランに渡って、以前日本の町工場で働いていたイラン人青年を探すというのがまあ、大筋です。

この主人公は、好きだった絵画を諦めて就職したが、企業戦士になりきれず、負け犬化しそうになっています。何らかの理由で元恋人との間がこじれていることも、微妙な筆致で描き出されます。それは、元恋人の親父が経営する町工場で働いていたイラン人青年を罵倒したことがきっかけであることが後に仄めかされます。

彼女のために手話まで覚えた主人公ですが、その本質的な部分にある他者への無理解が牙を剥く瞬間。それを見てしまった元恋人の気持ちは察するにあまりあるもので、青年を罵倒する主人公の姿を見る元恋人の目は、怒りと悲しみと諦めをたたえています。時間にすればわずか1000ms程度なのでしょうが、その表情は到底忘れることのできない印象を残します。忍足さん自身、そういう諦めを何度か経験してきたのでしょう。この時の表情が、それこそ何日も、ちょっと気を抜くと目の前に浮かんで困りました。音楽が頭の中で鳴り止まないことは時々ありますが、映像でそれがおきることはめったになかったのに。

そういう主人公が言葉の通じないイランの地に投げ出されます。そこで主人公がとるちぐはぐな態度はかなり目を覆いたくなるものです。自動車が故障すると時計を眺めてカップ麺を取り出す。好意で同乗させてくれたトラックの運転手に日本語で勝手に話しかけ、相手の応答を見ようともせず、手元のPDAをいじる。折角運転手が買ってきたブドウに目もくれない…

主人公が失ったもの、その象徴が砂に描いた元恋人の絵です。主人公の会社の下請けをしていて、切り捨てられた元恋人の家族。その暖かい団欒の中で見た彼女の横顔。砂に描いた絵は風に飛ばされていきます。このころからPDAや時計が登場しなくなる一方、元恋人の絵を見た運転手の態度が変わります(このあたりはオスマンさんの名演です。もともと音楽家なので、作中披露される演奏も見事)。主人公は街角で絵を描くようになり、ここで漸くコミュニケーションが少し復活しました。

ですが、依然としてコミュニケーションが不全状態なのだという点を、監督は冷酷に告げます。元恋人の家に国際電話をかけ、よりをもどそうとする主人公を、彼女はまだ信じることができません(この演技も凄い)。ここで用いられているメディアが音声電話だ、というのがまたツボでして、彼女は電話に出られないわけですよ(実際には聾唖者も電話で話すそうですが、それを考えると拒絶の厳しさが更にひしひしと…)。ディスコミュニケーション。「アイ・ラヴ・ユー」での夫婦喧嘩の場面に相当しますが、ここではもっと厳しい隔絶状態があります(これの逆が2002年のCM「最後のメール」ですね。忍足さんの本を読むと、携帯メールが聾唖者の生活を変えたことが書かれています。テクノロジーの進歩が人間の幸福に直接役立った好例です。)

トラック運転手になだめられながら、問題の青年との面会を試みる主人公。元恋人との関係と青年との気まずさが鏡のように作用して、孫請け、女性であること、身体障害者(ここではあえてこの表現を使わせてください)、出向社員、出稼ぎ、外国人、人情、仕事への誇り、ゆったりとした時間、芸術、音楽、絵画といった「切り捨てられたもの」への責任を問うてきます。それらを切り捨てる瞬間、どんなに「言葉」は通じていても、コミュニケーションは失われるのだと。

この主人公にとっての希望は、自分には失ったものがあることを思い出したこと。問題の青年が「会ってくれないかも知れない」と思えるようになったことです。

さて、これで終わればこの映画はある種の予定調和で済むのですが、監督は最後に爆弾を用意しています。コミュニケーションがどれほど損なわれているかをメタフィクショナルな技法で暴き立てます。まあ、ご覧くださいとしか言えません。DVDにはメイキングも入っていて、セットでの忍足さんのすてきな姿も楽しめますから(とここで本当の主題が…w)

黄泉がえり、嵐になるまで待って

キャラメルボックスの『嵐になるまで待って』は幸いDVDが出ていますから、いつでも鑑賞することができます。ネタバレは避けますが、この作品では多層的な意味で「聾唖であること」が本質になっています。DVDには妹尾さんの大活躍シーンや、対談が収められています。これを見る/読むと、妹尾さんの存在の大きさがわかりますね。妹尾さんの演劇人としてのキャリアが忍足さんをどれほど支えたか。キャラメルボックスの他の役者さんと比べると動きが固いのが見て取れますが、忍足さんとても嬉しそうです。ダンスまでやっちゃうし!

忍足さんのメジャー初登場が『黄泉がえり』。これもネットでは叩かれてますけど、そんなに悪いかなあ… 原作のSF的ネタの根っこの部分をカットしてるから、原作ファンには辛いのはわかりますが。ただ、あれをそのまま映像化するのは難しそうですし、日本ではあの手のネタを出すと見てもらえなくなる可能性が高いと思うんですよ。SFとか宇宙とか特撮とか… SFは売れない、ガメラゴジラ惑星型宇宙船とかそういったでかいものは売れないってのが現状でして。そうでなければ山田正紀はバカ売れでしょうし、満身創痍でそれでも懸命にイオンロケットを吹かして地球への帰還を目指している小惑星探査機「はやぶさ」や宇宙研のクルーなんて国民的ヒーローになるでしょうに。

ですから映画が人情ネタに絞ったのは正解だったと思います。その人情ネタが竹内結子、石田ゆり子、忍足亜希子(登場順)と邦画界きっての美女軍団を繰り出して描かれるのですから豪華絢爛、幸福の極みです。おまけにいつまでも元気で上手い北林谷栄おばあさま! その中で忍足さんのパートは原作にはありません。本筋には絡みません。聾唖である必要も全くありません。演技力一本で一つの挿話を作り上げています。「独身社会人映画ファンメーリングリスト」さんの「黄泉がえり/癒し系SFファンタジー脚本の書き方」に詳細かつ鋭い解析がありますので、そちらをご覧ください。

ただ、最後のプロモーション映画化はいただけなかったなあ。まあ、その種の音楽が好みではないというのはあります。それでも言いたい。黄泉がえりの中で流れるべきは、私にとっては山田恭子(藤本恭子)さんの音楽なんですよ。「聞こゆるや」を聞いたことがある方ならわかっていただけるでしょう。その点「アイ・ラヴ・ユー」「アイ・ラヴ・フレンズ」のアコースティックな音楽はとても良かった。サントラ買って何度も聞いています。これを作曲した佐藤慶子さんのMedia Worksって、「ムーン・ガーデン」のあのMedia Worksではありませんか。忍足さんもついに米内山さん、妹尾さんたちと一緒に手話演劇に参加したんだな。感慨深いだろうなあ。

まとめ

結局、忍足さんて聴者にとって「努力してコミュニケートすべき対象」なんですね。「努力すべき」ってのには二つの意味があって。

  1. 努力して日本手話を覚えないとなかなか会話できない
  2. 努力して会話したくなるほど魅力的
という。この二つがうまくかぶるので、「周囲の人が手話を習う」という、よく考えてみればそうありそうもない状況がとても自然に描けるんです。かくいう私も写真見たさの一念で買った「忍足亜希子と覚えるはじめての手話」をちらちら眺めているうちに、少しづつですが、映画の中の手話が分かるようになってきたくらいですから(自爆)。

光原百合さーん

聾者の有名人というと、ベートーヴェンという名前がまず浮かびますが、小説の中ではなんといってもドルリー・レーンですね(決めつけ)。忍足さん、87分署はもうやっていますから、今度は刑事のかみさんから出世して探偵になりましょう。もともと俳優なのですからぴったりです。ただ、ドルリー・レーンの姿は今の聾者には受け入れられないかも知れない。ネタは割れませんが、レーンはアレな人でもありますし… となると、ペィシェンス嬢の立場が合っているのか… そこで推理作家の中でも名うての演劇マニアである光原さんの出番ですよ、光原さんと忍足さんのコラボなんて夢のようだ… なにとぞホンだけでも書いてください>yuri先生 orz

伏して願い奉ります

「アイ・ラブ・ピース」DVD出してください→こぶしプロダクション御中。スカパーで87分署放映してください→テレ東御中。