This is a Japanese translation of R. W. Chambers' 'The Street of the First Shell' from "The King in Yellow".
R. W. チェンバース『黄衣の王』より「初弾の街」です。1870から1871年にかけ、パリは普仏戦争におけるフランス政府のプロイセンへの降伏、パリ・コミューンの成立と壊滅に揺れました。本作はその期間の中で、プロイセンによるパリ包囲を扱っています。そのため、若干の残虐表現と、現在では放送できない類の単語が現れます。その種の表現を見たくない方はご留意ください。
R. W. チェンバース作
The Creative CAT訳
「よろこばしきものたれ、すねた月は死に、
やがて若い月が私たちに報復するだろう;
見よ、いかに古きものが、貧相な、へこんだものが
歳と断食によって弱り、空から消えて行くかを。」
その部屋は既に暗かった。わずかに残った十二月の陽の光も向かいの高い屋根に全て遮られた。娘は椅子を窓の側によせ、太い針を選び、糸を通し、指で玉結びした。乳児服を膝の上で延ばし、屈み、糸を歯で切り、裾の所に止めておいた小さめの針を取り出した。糸くずやレースの欠片をブラシで払ってしまうと、彼女は愛おしむように再び服を膝の上に広げた。次に、身頃から糸を付けた針を抜き取り、ボタンに通した。だが、ボタンに針が引っかかったため手許が狂い、ぷつんと糸が切れ、ボタンが床に落ちて転がった。彼女は頭を上げた。彼女の目は煙突の上に薄れ行く光の帯に留まった。市内のどこからか、遠くで太鼓を叩くような音が聞こえ、その向こう、ずっと向こうから、はっきりしないつぶやきが聞こえた。つぶやきは次第に大きくなり、遠くの岩に寄せる波のようにごろごろする音となり、同じく波と似てひとたび遠ざかり、ごろごろいい、脅してきた。寒さが厳しくなった。鋭く突き刺すような寒さが、根太に、梁に、張り付きまた砕け、融けかけた昨日の雪を石のように固くした。下の街から聞こえる音は全て鋭く弾け、金属的だった──木靴のコツコツする音、鎧戸がガタガタする音、ごくたまに聞こえる人声。空気は重かった。棺覆いで覆われたかのように黒く冷たく重かった。息をするのは苦痛で、動くには努力が必要だった。
荒涼とした空には何かしら疲れ果てたものがあり、たれ込める雲には何かしら悲しみに包まれたものがあった。それは凍えた市を貫いた。凍った川によって分割され、塔とドームで華麗に飾られ、波止場と橋と千の尖塔を持つ市を。広場(*1)に入り、大通りと宮殿を襲い、橋を忍び渡り、十二月の灰色の空の下、灰色と化したラテン区(*2)の細い通りを這っていった。悲しみ、絶対的な悲しみ。石畳の道を小さな結晶の粉で覆いながら、細かな霙が降っていた。それは窓板を通り抜け、窓框に沿って積もった。窓の所でもほとんど明かるさが失われ、娘は低く屈んで仕事を続けた。やがて、彼女は頭を上げ、目から巻き毛を払った。
「ジャック(*3)?」
「なんだい?」
「パレットを綺麗にするのを忘れないで。」
彼は「判ったよ」と言ってパレットを取り、暖炉の前の床に腰を下ろした。肩から上は影になっていたが、彼の膝には炎の明かりが落ち、パレットナイフの刃に赤く映った。彼の横には絵具箱が炎に全体を照らされて立っていた。その蓋にはこう彫ってあった、
J. トレント。
エコール・デ・ボザール、
1870年(*4)
その銘にはアメリカ国旗とフランス国旗の飾りが一つずつあった。
霙は窓板に吹き付け、それらを星とダイヤモンドで覆ったかと思うと、部屋の暖気に触れて融け、垂れ落ちてはまた凍り、シダのような狭間飾りをなしていった。
犬が哀れな声でクンクンと泣き、小さな足が暖炉の後ろのトタン板の上でパタパタと音を立てた。
「ジャック、あなた、ヘラクレス(*5)はお腹が空いているんだと思う?」
暖炉の後ろで、再びパタパタと足音がした。
「犬が泣いてる、」彼女はいらいらして続けた「もしお腹が空いているんじゃないとすると、犬が泣いているわけは──」
彼女の声は力を失った。低く大きな音が空気を満たし、窓が震えた。
「おお、ジャック」彼女は叫んだ「またくるわ──」だが、声は頭上の雲を切り裂き落下する砲弾の叫びにかき消された。
「これまでで一番近いわ」彼女は呟いた。
「おお、違う、」彼は上機嫌な様子で答えた「多分モンマルトル(*6)の方に落ちた。」彼女が答えなかったので、いかにも無関心な見かけで、「彼らはラテン区を狙うような面倒を冒さないだろう; いずれにせよ、ラテン区を傷つけられる程の火器は持っていない。」
しばらくして彼女は明るく率直に話し始めた。「ジャック、あなた、ムシュー・ウェスト(*7)の彫像を見に連れて行ってくれるのはいつ?」
「間違いないと思うけど、」パレットを投げ出し、彼女の側の窓に向かって歩きながら彼は言った「今日ここにコレット(*8)が来ていたんだな。」
「どうして?」彼女は目を大きく見開いて聞いた。「おお、ひどい──本当にひどい! 男の人って全部わかった気になると退屈するのね。いっときますけど、もしうぬぼれたムシュー・ウェストが想像も逞しく、コレットが──」
北から別の一弾が、笛のような音とともに空をふるわせて飛来し、彼らの頭上を長々とした悲鳴を上げ、窓をびりびり言わせながら通り過ぎていった。
「これは」彼は口走った「近すぎる。危ないぞ。」
彼らはしばし沈黙したが、彼は再び陽気そうに話し始めた; 「続けてくれ、シルヴィア(*9)、哀れなウェストをへこませてやるんだ。」だが彼女はため息をつくだけだった。「おお、あなた、私、弾(たま)には馴れることができなさそう。」
彼は彼女のわきの椅子の肘掛けに腰かけた。
彼女のハサミが音を立てて床に落ちた。まだ仕上がっていない幼児服を後ろに押しやると、彼の首に両腕をまわし、膝の上に彼の頭を引き寄せた。
「今夜は外に出ないで、ジャック。」
彼は彼女の昂揚した顔にキスした; 「わかってるだろう、行かなければ。つらくさせないでくれ。」
「でも弾の音がする時に──あなたが市内にいるのもわかっているって──」
「でも全部モンマルトルに落ちる──」
「ボザールに落ちるかもしれないでしょう、あなた自分でオルセー河岸(*10)に当ったって言ってた──」
「まぐれだよ──」
「ジャック、私を哀れと思って! 一緒に連れて行って!」
「そこでは誰が夕食を食べようとするのかな?」
彼女は立ち上がり、ベッドに飛び込んだ。
「おお、私はそれに馴れることができないし、あなたが行かなければならないのもわかる。でも、お願いだから、夕食には間に合うように帰ってきてね。私が何に苦しんでいるかわかるなら。私は──私は我慢できない。あなたも私のこと辛抱してね。」
彼は言った、「そこでも我が家と同じ位安全だ。」
彼女は、彼が彼女のためにアルコールランプを一杯にするのを見守った。彼がそれに火をともし、帽子を取って出て行こうとした時、彼女は声もなく飛び上がって彼にすがった。しばしの後彼は言った: 「ねえシルヴィア、思い出してくれ、私の勇気は君あればこそだと。さあ、行かないと!」彼女は動かず、彼は繰り返した。「行かないと。」彼女が後ずさったので、何か言うことがあるのだろうと彼は待ったが、彼女は彼を見たままだった。少しじれったい様子で彼は彼女に再びキスし、言った: 「心配ないよ、最愛のきみ。」
街に下りる階段の最後の部分に着いた時、家政婦の小屋から一人の女が足を引きずって彼の所にやってきた。手紙を振って呼んでいる: 「ムシュー・ジャック! ムシュー・ジャック! ムシュー・ファロービー(*11)の置き手紙です!」
彼は手紙を取り、小屋の敷居に凭れて読んだ:
「親愛なるジャック、
ブレイス(*12)は素寒貧だと思うし、ファロービーは間違いなくそうだ。ブレイスは違うと断言し、ファロービーはそうだと断言している。だから、君は自分で判断してくれ。私は夕食を企画したので、うまくいくなら、君を仲間にしたい。
君の忠実なる、
ウェスト。」
「追伸──ファロービーはハートマン(*13)とその一味を震撼させた。神のご加護だ! 何かしら腐ったものがあるのか、──さもなければ彼は単なる守銭奴ということだろう。
「追追伸──私はこれまでに増してめちゃくちゃに愛している、が、彼女は藁蕊一本程の気も遣ってくれないに違いない。」
「わかった、」トレントは微笑んで管理人に言った; 「だが、パパ・コタール(*14)の具合はどう?」
年老いた女は首を振り、小屋にあるカーテンで仕切られたベッドを指した。
「ペレ・コタール!」彼は元気に言った、「今日はお怪我の具合はどうですか。」
彼はベッドの所に歩いて行き、カーテンを開けた。乱れたシーツの上に老人が横たわっていた。
「良くなってきましたか」トレントは微笑んだ。
「良くなってきた、」力なく老人は繰り返した。一息ついて; 「新しいニュースはあるかね、ムシュー・ジャック。」
「今日は外出しませんでした。耳にした噂は全て知らせますが、十分多くの噂を得られるかは神様だけがご存知です」と自分に向けて呟いた。次いで大きな声で:「元気を出して下さい; 良くなっているように見えますよ。」
「突撃は?」
「おお、突撃ですね、今週です。トローチュ将軍(*15)が昨夜指令をお出しになりました。」
「恐ろしいことになる。」
「胸が悪くなるほどに、」街路に出、セーヌ通り(*16)に向かって角を曲がった時、トレントは思った; 「殺戮、殺戮、ヒュー! 行かなくてすんで良かった。」
街にはほとんど人通りがなかった。ぼろぼろになった軍用ケープを巻いた女がいくたりか、凍った舗道を忍び行き、大通りの角では、哀れなボロを着た浮浪児が下水の穴の周りをうろついていた。ボロ切れがばらばらにならないのは、腰の周りに巻いたロープのおかげだった。ロープからはドブネズミがぶら下がり、いまだ温かく、血を流していた。
「そこにもう一匹いたんだ、」彼はトレントに声をかけた; 「俺、そいつを叩いたんだけど逃げちまった。」
トレントは街路を横切り聞いた: 「いくらだ?」
「太った奴の四分の一で二フランだ; サン・ジェルマン(*17)市場じゃその値段で買ってくれる。」
激しい咳の発作で、彼の言葉は途切れたが、顔を手のひらで拭うと、トレントにずるそうな目を向けた。
「先週なら六フランで一匹買えたけど、」ここで彼は口汚く罵った「セーヌ通りじゃドブネズミはいなくなっちまった。いまじゃネズミ取りは新しい病院でやってるんだ。あんたには七フランで売るよ; サン・ルイ島(*18)なら十フランで売れるところだ。
「嘘だ、」トレントは言った「いいか、お前がこの区で詐欺を働こうとするなら、区のものはお前とお前のドブネズミをさっさと片付けてしまうだろう。」
彼はしばしすすり泣く振りをしている浮浪児を見つめた。そして、笑いながら一フランを彼に放った。子供はそれを受け取ると、急いで口の中に仕舞って下水の穴の方に振り向いた。一瞬彼はかがみ込み、じっとして、排水溝のところにある棒を見つめた。前に跳ねながら石をドブの中に投げ込み、灰色の獰猛なドブネズミをしとめた。トレントは、ドブネズミを食べる子供を放っておいた。
「ブレイスもこうなるのだろう、」彼は思った; 「可哀想な坊主だ;」足を速めてボザールの汚れた小径に向かい、左から三番目の家に入った。
「ムシューはご在宅です。」老いた管理人が声を震わせた。
在「宅」だって? 隅にあるベッドの鉄枠と床にある鉄の洗面器と水差し以外何もない屋根裏部屋が。
ウェストが扉の所に現れた。とても神秘的にウィンクすると、トレントを部屋の中へいざなった。暖をとるためベッドの中で絵を描いているブレイスが目を上げ、笑い、手を振った。
「何かニュースは?」
おざなりな質問には、いつもこんな答えがあった: 「何も。砲声だけ。」
トレントはベッドに腰を下ろした。
「一体どこでそれを手に入れたんだ?」彼は詰問した。指差す先には半分食べ終えてある若鶏が洗面器に入っていた。
ウェストはにやりとした。
「君等は二人とも百万長者か? え、どうなんだ。」
ブレイスは少し恥じた感じで言い始めた。「おお、それはウェストのお手柄の一つだ、」だが、ウェストはその先を言わせず、自分で語り始めた。
「なあ、包囲される前、俺はある『タイプ』への紹介状を持っていた。それは太った銀行員で、ゲルマン-アメリカン変種だ。この種は知ってるだろ。うん、もちろんそんな手紙のことは忘れていたんだが、朝になって、ちょうど良い機会だと判断し、彼を訪問したんだ。
「その悪党は快適に暮らしていてな、──火だぞ、おい、──火が控えの間にあるんだ。金ボタンのボーイが上から目線で俺の手紙と名刺をお受け取りになって、俺はいけすかない玄関ホールに立ちっぱなしにされた。最初の部屋に入った時失神するかと思ったね。暖炉の脇のテーブルの上にはごちそうがあるじゃないか。ボーイはなんとも横柄な感じでおりて来た。違う、違う、奴の主人は『いま家にいないし、実際、忙しすぎて紹介状なんて受け取れない; 包囲や仕事上の問題がたくさん──』
「俺はボーイに蹴りを入れ、このチキンをテーブルから取り上げ、空になった皿に自分の名刺を置いて、ボーイにお前はプロシアの豚の一種だと宣言してやりながら、敵に栄誉ある降伏を許して堂々と外に出たのさ。」
トレントは首を振った。
「いい忘れていたが、そこではハートマンがよく夕食をとる、で俺は自分なりの結論を得た訳だ。」ウェストは続けた。「このチキンだが、半分はブレイスと俺ので、残りの半分がコレットのためだ。でももちろん俺の分を君も食べてくれてもいいぞ。腹が減っていないから。」
「僕も減ってない」ブレイスが切り出したが、トレントはやつれた二つの顔に向かって微笑み、首を振って言った、「なんて馬鹿な! なあ、私は決して腹を減らさない!」
ウェストはためらい、赤くなり、ブレイスの分を切り落とし、だが自分では食べずに、お休みと言い、セルポント通り(*19)470番地に急いだ。そこにはコレットという名の素敵な少女が住んでいた。彼女はセダン(*20)の孤児で、頬をバラ色に染めることができるのはいったいどこでなのか、神様だけがご存知だった。包囲攻撃は貧乏人にとって苛酷なものとなったからだ。
「彼女はチキンに喜ぶだろうが、私は彼女がウェストを愛していると本当に信じている」とトレントは言った。ベッドのところに歩いていきながら; 「なあ、坊主、言い逃れはなしだ。お前にはどれだけ残ってる?」
相手はためらい、赤面した。
「来い、坊主」トレントは強いた。
ブレイスは長枕の下から財布を引き出し、友人に渡した。その飾り気なさにトレントは心を動かされた。
「七スーか、」彼は数えた; 「お前には愛想が尽きるぞ! いったいどうして私のところにこない? 私は──気を悪くするぞ、ブレイス! 何度同じことをして説明しなければならないんだ? 私には金(かね、以下同じ)があり、それを分ける義務がある。お前も、アメリカ人全てが私と金を分けあう義務があるんだと。お前は一セントも稼げない、この市内で一文無しだ、で、アメリカの大臣はゲルマンの屑どものことで手一杯だ。ああ主よ! どうしてお前は分別よくしない?」
「そ──そうするよ、トレント、でも一部だって絶対返せないと思うと気が重くて。僕は貧乏で──」
「もちろん、いつか払ってもらうさ! 高利貸しなら君の才能を担保にとるところだね。君が金持ちになり、有名になったら──」
「やめてくれ、トレント──」
「わかった、金の話はここまでにしよう。」
彼は金貨を一ダース財布に入れ、マットレスの下に再び捩じ込んでブレイスに微笑んだ。
「何歳だ?」彼は問いただした。
「十六。」
トレントは手を軽く友人の肩に置いた。「私は二十二だ。君のことでは祖父さんと同じ権利がある。二十二になるまでは私の言う通りにするんだ。
「それまでに包囲が終わっているといいな、」ブレイスはこう言って笑おうとしたが、心の中では二人して祈った: 「いつまで、ああ神様、いつまで続くんだ!」この質問に答えるものは、十二月のある夜の嵐雲をいきなり切り裂く弾の叫び声だった。
ウェストはセルポント通りにある家の戸口に立って、怒りを込めて話していた。彼が言うには、ハートマンが気に入ろうが入るまいが彼には関係ない; 自分は彼に語っているのであって、議論しているのではない、というのだ。
「お前は自分がアメリカ人だというのか!」彼は冷笑した; 「ベルリンや地獄はそんな手合いのアメリカ人だらけだ。お前は碌に仕事もしないでポケットを白パンと牛肉、おまけに三十フランもするワインの壜とで一杯にして、コレットの所に来ただろう。それが米国救急救援隊(*1)に一ドルも払うことができないだと、ブレイスはそれを支払ったおかげで半ば餓死している!」
ハートマンは縁石まで退却したが、ウェストは雷雲のような形相でそれを追った。「どの面下げて我らが同胞などと言えるんだ、」彼は怒鳴った、「いや、──芸術家ですらない! 芸術家だったら救援隊のような活動に取り入るものか、することといったら、人々の食糧としてドブネズミみたいなものを供給することだけなのに! で、お前に話してやろうと思う事がある、」ハートマンが何かにさされたかのような素早い動きを見せたので、彼は声を落として続けた「例のアルザス・ブラッスリー(*2)やそこに屯している気取った泥棒どもには近寄らない方がいいかもな。彼らが容疑者をどうするか知っているだろう!」
「お前のようにな、犬め!」ハートマンは金切り声を上げ、手に持った壜をウェストの顔にまっすぐ投げつけた。ウェストは彼の喉を押さえ、一瞬後に壁に押し付け乱暴に揺すった。
「いいか良く聞け、」彼は食いしばった歯の間から呟いた。「お前は既に疑われている。そして──断言するが──お前は金で買われたスパイだと俺は信じている。そんなウジ虫を掘り出すのは俺の仕事じゃないし、お前を糾弾したいとも思わん。だが、分かっていろ。コレットはお前が好きじゃないし、俺はお前に我慢がならない。もしもう一度この通りでお前を捕まえたら、俺はいささか不愉快なことをすることになるぞ。出て行け、このプロシアの豚野郎!」
ハートマンはやっとのことでポケットからナイフを取り出した。だが、ウェストはそれを奪い取り彼をドブに叩き込んだ。これを見た浮浪児が、静かな街路一帯に響き渡るような大声で笑い出した。するとあちこちで窓が開き、げっそりした顔の列が現れた。飢えたこの街で何を一体笑うようなことがあったのか問いただすかように。
「勝ったのか?」一人が呟いた。
「あれを見ろ、」ハートマンが自力で舗道に登ってくると、ウェストは叫んだ「見ろ、この業突野郎、見ろ、あの人たちの顔を!」だが、ハートマンはウェストに一生忘れられないような視線を送り、何も言わずに歩いて行った。角に突然現れたトレントは興味ありげにちらっとウェストを見たが、彼は扉に向かってうなずくだけでこう言った「来い; ファロービーの上の階だ。」
「ナイフで何をしているんだ?」彼とトレントがアトリエに入ると、ファロービーが詰問した。
ウェストは自分の負傷した手を見た。まだナイフを握ったままだったが、こう言った: 「うっかり自分で切ったんだ」それを隅の方に放り投げ、指の血を洗った。
太って怠惰そうなファロービーは、なにも言わずに彼を見ていたが、何が起きていたのかに半ば思い至ったトレントは、微笑を浮かべてファロービーの所に歩いて行った。
「お前と一緒に拾う骨を持ってきた」彼は言った.
「どこにあるんだ。僕はお腹がすいた。」ファロービーは見せかけの熱情を込めて応えたが、トレントは渋い表情で自分の話を聞くようにと言った。
「お前に先週いくら前貸しした?」
「三百八十フラン」悔いてもじもじしながら相手が応えた。
「どこにある?」
ファロービーはごたごたと言い訳を繰り広げたが、トレントはすぐやめさせた。
「わかってる; 無駄遣いだ;──いつもそうだ。包囲前にお前がやった馬鹿をどうこういう気はない; お前が金持ちで、自分の金を好きに捨てる権利があるのは判っている。一般的に言ってこれは私の仕事じゃないことも判っている。でも、今は私の仕事だ。私はお前がもっと稼げるようになるまで支援しなければならないが、結果がどっちに転ぶにせよ、包囲が終わるまでそれだけの金はお前には稼げない。私は自分の持ち物を共有したいと思っているが、それを窓から投げ捨てるのを見たくはない。おお、そうだよ、お前が返してくれるのは判っている。だがそれが問題なんじゃない; 兎に角、お前の友人も言っているぞ。肉へ欲望(*3)をちょっと節制すればお前の暮らし向きは悪くならないだろうってな。お前はこの飢えた──呪われた骸骨だらけの街では、りっぱな変人だ!」
「僕は恰幅がいい方だから。」彼は認めた。
「金がないというのは本当だな?」トレントが詰問した。
「本当です」相手はため息をついた。
「例のサン・トノレ通り(*4)の子豚のローストは、──まだそこにあるのか?」トレントは続けた
「な、なんだって?」弱気な相手はどもった。
「ああ、──そうだと思ったぞ。子豚の前に、俺はお前を最低でも十二回ばかりは法悦境に連れて行ってやったな!」
そこで笑いながら、彼はファロービーに二十フラン札の束を見せて言った: 「もし贅沢のために使うんだったら、自分の肉を売れ。」次はたらいの横で手を縛ろうとしているウェストの手助けに行った。
ウェストは彼が結び目を作るのをこらえて言った:「昨日、お前とブレイスを置いてコレットにチキンを持って行ったときのことを覚えているな。」
「チキン! おお、神よ!」ファロービーは嘆いた。
「チキンだ、」ファロービーの嘆きを楽しみながらウェストは繰り返した;──「俺は、──つまり、俺は事情が変わったことを説明しなきゃならん。コレットと結婚することになった──」
「チ──チキンはどうなった?」ファロービーはうめいた。
「黙れ!」トレントは笑い、ウェストの腕に自分の腕を回して階段の方に歩いた。
「可哀想な子だよ、」ウェストは言った「考えても見ろ、一週間というもの薪の棘さえなく、そんな事も俺に言おうとしなかった。彼女は俺が必要なのは粘土像のためだと思っていたからな。それを聞いた時、俺はあの気取ったニンフの粘土像を粉々にしてやった。他のは凍らせて首を吊るしてやってもいい。」一瞬置いておずおずと加えた:──「下に行って bon soir?(今晩は)って呼んでもらえないかい、十七番だ。」
「ああ、」トレントは言い、扉を優しく閉じて外に出た。
彼は三番目の踊り場で立ち止まり、マッチを摺って薄汚れた扉の列に書かれた番号を探し、十七番をノックした。
「C'est toi George(ジョルジュ、あなたなの)?」扉が開いた。
「おお、ごめんなさい、ムシュー・ジャック、ムシュー・ウェストだと思って;」こう言って激しく赤面した:「ああ、お聞きになったのね! 気にかけて下さって本当にありがとうございました。二人は本当に愛し合っています、──そして私はシルヴィアに会いたくてたまらないの、会って話をして、そして──」
「そして何です?」トレントは笑った。
「とても幸せなんです。」彼女はため息をついた。
「あいつは金無垢だ」、トレントは返した、次いで陽気に: 「今夜、あなたとジョージにうちに夕食を食べにきて欲しいんだ。少しばかりごちそうがある──明日はシルヴィアの誕生日なんだよ。十九歳になる。ソーン(*5)には招待状を出してある。ゲナレック夫妻もいとこのオディールを連れてくるよ。ファロービーには誰も連れずに一人だけでくると約束してもらった。」
娘は恥ずかしそうにそれを了承し、シルビアに愛のメッセージを伝えるように頼んだ。彼はおやすみと言った。
彼は街路を上って歩き始めた。寒さがつらかったので、リュンヌ通り(*6)を足早に横切り、セーヌ通りに入った。ほとんど予告なしに冬の夜はとっぷりと暮れ、澄んだ空には満天の星々が瞬いていた。砲撃は苛烈さを加え、プロシアの加農砲の雷鳴が絶え間なく続き、それが一息つくのは、モン・ヴァレリアン(*7)から激しい衝撃音が発せられる時だけだった。
砲弾は金切り声をあげ、流星のような尾を引きながら空を飛び交い、振り返ってみれば、イッシー(*8)要塞から放たれたロケット弾の青と赤が水平線にフレアを残し、北要塞(*9)はかがり火となって燃えていた。
「いいニュースだ!」男が一人、サン・ジェルマン大通りで叫んだ。魔法のように街路には人があふれた、──震えながら、萎びた目をしてしゃべりながら。
「ジャック(*10)!」男は叫んだ、──「ロワール(*11)軍だ!」
「おお! mon vieux,(あんた)、やっと来た! 我は汝に語る! 我は汝に語る! 明日か──今夜か──誰か知っているか?」
「本当? 部隊が?」
誰かが言った: 「おお、神様──部隊と──うちの息子も?」別の誰かが叫んだ: 「セーヌに来るのか? ポン・ヌフ(*12)からロワール軍の合図が見えるというが。」
一人の子供がトレントのそばに立ったままいつまでも繰り返していた: 「マンマ、マンマ、それじゃ明日になったら白いパンが食べられるの?」彼の隣には年寄りがいて、よろめき、ふらつきながらしなびた両手を胸に押しあて、気が触れたかのように呟いた。
「あり得るんじゃろか? 誰がニュースを聞いたんじゃ。ビュシ通り(*13)の靴職人は機動隊員から聞いたというし、隊員は自由狙撃兵(*14)国防軍の大尉に復唱するのを聞いたというのじゃ。」
トレントはセーヌ通りを通って河に押し寄せる群衆の後をたどった。
ロケット弾に次ぐロケット弾が空を切り裂き、今まさに、モンマルトルからひときわ高い砲声が聞こえたかと思うと、モンパルナスの軍勢が衝突に参加した。橋は人々でいっぱいになった。
トレントは聞いた: 「誰がロワール軍の合図を見たんだ?」
「俺たちは待っている、」というのが返事だった。
彼は北の方を見た。突然の砲火が巨大な凱旋門の影を黒いレリーフのように浮かび上がらせた。岸壁に沿って重砲が轟き、古い橋は身震いした。
再び、ポワン・ドゥ・ジュ(*15)の方に閃光と大爆発が起こり、橋は震えた。そして砦の東の稜堡全体からぱちぱちと出火し、赤い炎を空に吹き上げた。
「誰でもいいから合図を見たのか?」再び聞いた。
「俺たちは待っている、」というのが返事だった。
「そうだ、待っている。」後の男が呟いた。「待っている。病み、飢え、凍り、ただ待っている。部隊か? そうなら嬉しい。飢えか? ならば飢える。彼らには降伏を考える時間がない。彼ら──このパリジャン達は英雄か? 答えろ、トレント!」
米国救急隊の外科医は振り向き、橋の欄干を探った。
「何かニュースは、先生?」トレントは機械的に聞いた。
「ニュースだと?」医師は言った; 「何も知らん──ニュースを聞く時間もない。この人たちはどうしたんだ?」
「ロワール軍がモン・ヴァレリアンで合図を出したと言っている。」
「可哀想に。」医師は彼をちらりと見て: 「私はあまりに手一杯で、どうしていいか判らない。最後の突撃の後、五十五回、哀れな小部隊の救護を行った。明日はまた突撃がある。君等が作戦本部に来てくれたらと思う。志願者が必要になるだろう。奥さんの具合はどうだ?」と、不意に加えた。
「まあいい、」トレントは答えた「だが、日増しに神経質になっていくようだ。私は一緒にいなきゃならん。今は。」
「大事にしてやってくれ」医師は言い、鋭い目で人々を見: 「ここに立ち止まってる場合じゃない──お休み!」彼は急ぎ足で去りながら呟いた「可哀想に!」
トレントは欄干から身を乗り出してみて、アーチの下を滔々と流れる黒い川にたじろいた。川の中央部の急な流れに乗って黒い物体が運ばれていき、石造の橋桁にぶつかってはしばしぐるぐると渦を巻き、こするような裂けるような騒音を出したかと思うと、闇に吸い込まれていった。マルヌ(*16)からの氷だ。
彼が川面を眺めて立ち尽くしていたとき、肩に誰かが手を置いた。「ハロー、サウスウォーク(*17)!」彼は振り向いて叫んだ; 「おかしな所にいますね!」
「トレント、話を聞け。ここに留まるな、──ロワール軍がいると信じるな;」アメリカ大使館員(*18)がトレントの腕をとり、ルーブルの方に連れて行った。
「すると、これもまた嘘か!」トレントは辛そうに言った。
「もっと悪い──我々大使館では──このことは話せない。が、ここで話さなければならないのは別のことだ。午後、ある事件が起きた。アルザス・ブラッスリーに手入れがあり、ハートマンという名のアメリカ人が逮捕された。彼を知っているか?」
「私が知っているのはアメリカ人を自称しているゲルマン人です;──そいつの名前はハートマン。」
「よろしい、彼は二時間前に連行された。銃殺されるだろう。」
「何!」
「もちろん、我々大使館は彼を勝手に銃殺することは認めない。しかし証拠は決定的に見える。」
「スパイですか?」
「そう、部屋で押収したくそったれた書類から証明された。他にも、彼は公共食糧委員会(*19)に対する詐欺を行ったと言われている。五十人分の食料をくすねた。方法はわからないが。彼はここでアメリカ人芸術家を自称していたので、我々大使館では注目を余儀なくされた。汚らしい事件だ。」
「こんなときに民衆を騙してものを巻き上げるのは、慈善箱からパクるよりたちが悪い」トレントは怒りの叫びをあげた。「そいつを銃殺にしろ!」
「彼はアメリカ市民だ。」
「そうだ、ああそうですよ、」もう一人が苦々しく言った。「こんな時アメリカ市民であることは貴重な特権ですね、こんな、目をぎょろつかせたゲルマン人どもが──」彼は怒りに喉を詰まらせた。
サウスウォークは彼の手を温かく握った。「仕方がないさ。汚物は自分でなんとかしなければならない。申し訳ないが、彼がアメリカ人芸術家と同一人物であると確認するために、君に来てもらわなければならないかも知れない。」深く皺が刻まれた顔に、抜け殻のような微笑みを浮かべて言い、ラ・レーヌ広場(*20)の中に去っていった。
トレントはしばし心の中で毒づいた後、時計を取り出した。七時。「シルヴィアが心配しているぞ」と考えた彼は河に急いで戻った。群衆はいまだに震えながら橋にぎっしりと集まっていた。哀れな暗鬱な会衆はロワール軍の合図がないかと夜の中をのぞいていた: 彼らの心臓は砲声と共に打ち、目は砲火の一閃一閃と共に光り、希望はよろめくロケット弾と共に昇った。
砦には黒雲が垂れ込めていた。水平線の端から端まで大砲の煙が帯となって広がり、いまや尖塔を、ドームを、覆い隠したかと思えば、流れ星のように噴出しては街路に散らばり、家々の屋根から降り岸壁を、橋を、河を硫黄の霧で覆っていた。煙の棺衣を通して砲火が走り、頭上では時折、星々の穹窿の底知れない暗黒が垣間見られた。
彼は再びセーヌ通りに向かった。そこは寂しく荒廃した街で、閉じたシャッターと消えたままのランプの列が惨めに並んでいた。彼は神経を少し尖らせ、リボルバーがあればと思ったことも一、二度はあったが、通りすがりのこそこそ動く影は、飢餓のため、彼に危害を加えるにはあまりにも弱っているように思え、邪魔されることなく玄関に向かった。だが、そのとき何者かが首を狙って飛びかかってきた。彼は首にかかった縄を裂きつつ、賊と共に何度も何度も凍った石畳の上を転げ、急に体をねじると賊は彼の足下に飛び退いた。
「起きろ、」彼は相手に叫んだ。
ゆっくりと、極めて慎重に、小さな浮浪児がドブから起き上がり、反感を込めた目でトレントを検分した。
「その歳にしては、」トレントは言った; 「なかなか上等じゃないか、小僧! 壁にぶちあてられてそれで最後になるぞ。紐をよこせ!」
腕白小僧は言葉なく縛り首の縄を彼に渡した。
トレントはマッチを擦り襲撃者の顔を見た。先日のネズミ殺しだった。
「ふん! 思った通りだ」彼はつぶやいた。
「Tiens, cest toi? (おや、あんたか)」浮浪児は静かに言った。
浮浪児の厚かましさ、己の力をわきまえない大胆さにトレントは息もできなかった。
「若いよそ者よ、知っているか、」彼は喘いだ「ここの住人は泥棒を撃つ。お前の歳でも。」
子供は感情のない顔をトレントに向けた。
「撃つから何だよ。」
もうごめんだ、彼は踵を返すと宿に入った。
灯火のない階段を手探りで上り、ついに自分の階にたどり着いた彼は、闇の中で扉を探った。彼のアトリエからは人の声がした、ウェストの温かい笑い、ファロービーのくすくす笑い、やっとのことでノブを探り当て、扉を開き、光に一瞬眩惑されて立ち尽くした。
「ハロー、ジャック」ウェストが叫んだ「人を夕食に呼んどいて待たせるとは愉快な奴だ。ファロービーなんて飢えてすすり泣きだぜ──」
「黙れってば、」ファロービーが言った「七面鳥の買い出しだったんだろ。」
「首縛強盗だぜ、あの縄を見ろよ!」ゲナレックが笑った。
「あんたの金の出所がこれでわかったぞ!」ウェストが加えた; 「vive le coup du Père François!(<フランスの父>の愛万歳!)」
トレントは皆と握手し、シルヴィアの青い顔を見て笑った。
「遅くなるつもりじゃなかった; 橋で少しの間、砲撃の様子を見ていたんだ。心配だったかい、シルヴィア?」
彼女は微笑んで呟いた「いいえ!」だが、その手は衝動的に彼の手に伸び、固く握った。
「テーブルに!」ファロービーが叫んで嬉しそうに閧の声を上げた。
「まあまあ、」礼儀の残骸を失っていなかったソーンがそれを見て言った; 「おまえはホストじゃないんだし。」
コレットとおしゃべりしていたマリー・ゲナレックは飛び上がってソーンの腕をとり、ムシュー・ゲナレックはオディールを引き寄せ腕をとった。
トレントは、重々しく挨拶しつつコレットに腕を捧げ、ウェストはシルヴィアの腕をとった。ファロービーはその後ろでいらついていた。
「マルセイエーズを歌いながらテーブルの周りを三回回るの」シルヴィアが説明した「ムシュー・ファロービーはテーブルを叩いてテンポをとって。」
ファロービーは食べてからでも歌えるだろうと提案したが、そんな抵抗は歌声の輪の中にかき消された;(*21)
「Aux armes! (武器を取れ!)
Formez vos bataillons!(隊伍を組め!)」
彼らは歌いながら部屋の中をぐるぐる行進した。
「Marchons! Marchons!(進め! 進め!)」
彼らは声の限り歌い、ファロービーはしぶしぶ(*22)テーブルを叩き、こういう運動をすると食欲が増すかもしれないというちょっとした希望で自分自身を鼓舞していた。ベッドの下に逃げ込んでいた黒と褐色のヘラクレスは、その待避壕からキャンキャン鳴いてはくんくん泣いた。ゲナレックが犬を引っ張りだし、オディールの膝の上に乗せてやった。
「さて、」全員が着席した時、トレントが重々しく言った「聞きたまえ!」そして彼はメニューを読み上げた(*23)。
パリ包囲戦風ビーフスープ。魚。
ペール・ラシェーズ風イワシ。
(白ワイン)ロティ(赤ワイン)。
突撃隊風フレッシュ・ビーフ。野菜。
シャスポー銃風缶入り豆、
グラヴェロットの缶入りエンドウ、
アイルランドのポテト、
その他。
ティエ風冷製コーンビーフ、
ガリバルディ風プルーンのシチュー。デザート。
乾燥プルーン; 白パン
スグリのゼリー
お茶──コーヒー、
リキュール、
パイプと煙草。
ファロービーは熱狂的に手を叩き、シルヴィアはスープを配った。「おいしくない?」オディールはため息をついた。
マリー・ゲナレックは狂喜してスープをすすり込んだ。
「全然馬じゃないみたいね、誰が何と言おうと、馬は牛みたいな味がしないわ」コレットはウェストに囁いた。食べ終わったファロービーは顎を愛撫し始め、給仕用の蓋つき鉢を見た。
「なあ、おかわりは?」トレントが質問した。
「ムシュー・ファロービーにはもうありませんわ」シルヴィアが皆に告げた; 「家政婦にお裾分けしてきます」 ファロービーは目を魚に移した。
グリルから下ろしたての熱々としたイワシは大人気だった。他の人々が食べている間に、シルヴィアは階段を駆け下り、老家政婦とその夫にスープを持って行き、急いで戻って来た。ほてった顔は息も絶え絶えで、椅子に滑り込んだ彼女が自分に向けた幸せそうな微笑みを見て、トレントは立ち上がった。テーブルに静寂が降りた。しばし彼はシルヴィアをみつめ、これほど美しかったことはなかったと思った。
「知っての通り、」彼は切り出した「今日は妻の十九歳の誕生日だ──」
熱狂のあまりファロービーがぶつぶついいながらグラスを頭の周りでぐるぐるまわしたので、隣に座っているオディールとコレットは冷や汗をかいた。シルヴィアのために乾杯しようという拍手の嵐が巻き起こり、静まった時には既にソーン、ウェスト、ゲナレックはグラスを三杯空けていた。
シルヴィアのために、三回グラスが満たされ、飲み干された。トレントのために乾杯しようという段になって、彼は抵抗した。
「これは型通りではないが、」彼は叫んだ「次は双子の共和国に乾杯する。フランスとアメリカだ!」
「二つの共和国に、二つの共和国に」彼らは叫んだ。杯を乾しつつ、大声で叫んだ「Vive la France! Vive l'Amerique! Vive la Nation!(フランス万歳! アメリカ万歳! 祖国万歳!)」
次いでトレントは、ウェストに笑顔を向けて乾杯を捧げた「幸福な二人に!」皆、何が起きたかを理解し、シルヴィアはコレットの上に凭れてキスし、トレントはウェストに頭を下げた。
牛肉を食べるときは比較的落ち着いた雰囲気だったが、下の老夫婦の分を残して食べ終わった時、トレントが叫んだ: 「パリのために飲もう! 彼女が廃墟から立ち上がり侵略者を粉砕しますように!」歓呼の声が沸き上がり、一瞬、間断なく続くプロシアの砲声をかき消した。
パイプと煙草に火がともされた。トレントの周りでは活発に雑談する声が聞こえ、それを中断させるのは時折起こる娘達の笑い声と、ファロービーの柔らかなくすくす笑いだった。トレントはこれらをしばらく聞いていたが、ウェストの方を向いた。
「今夜突撃がある予定だ、」彼は言った。「ここに帰る直前、米国救急隊の外科医に会って、君等に伝えてくれと頼まれた。どんなことでも彼の助けになるだろう。」
ここで声を低め、英語に切り替えて話した、「私としては、明日の朝救急隊と一緒に出ることになる。もちろん危険はないが、シルヴィアには知らせない方がいいな。」
ウェストはうなずいた。それを聞いていたソーンとゲナレックも話に加わり、援助を申し出、ファロービーは低くうめいて志願した。
「よし、」トレントは素早く言った──「続きは後だ。救急隊本部で明日朝八時に。」
英語での会話に当惑したシルヴィアとコレットは、何の話をしているのか問いただした。
「彫刻家が日頃何の話をしてる?」ウェストが笑い声をあげて叫んだ。
オディールは、fiancé(婚約者)のソーンをとがめるような目で見た。
「あなたはフランス人じゃないの、ね、あなたはこの戦争と関係がないのよ」オディールは厳粛に言った。
ソーンは従順そうに見えたが、ウェストは怒りの空気を感じ取った。
「なんだか、」彼はファロービーに言った「こいつはギリシャ彫刻の美を母国語で論議するだけで、皆から疑われるようだな。」
コレットは彼の口を手で塞いでシルヴィアの方を向いて呟いた「ひどい嘘つきだわ、この男達は。」
「救急って単語はどっちの言葉でも同じでしょ」マリー・ゲナレックが生意気な口をきいた: 「シルヴイア、ムシュー・トレントを信じちゃ駄目よ。」
「ジャック、」シルヴィアは囁いた「約束して──」
アトリエの扉を叩くノックの音に、彼女の言葉は途切れた。
「どうぞ!」ファロービーが叫んだが、トレントは急いで立ち上がり、扉を開け、外を見た。せわしなく周りの許しを得ると、玄関ホールに進みでて、扉を閉じた。
彼はぶつぶつ言いながら戻ってきた。
「どうした、ジャック?」ウェストが叫んだ。
「どうしたって?」トレントは酷く怒った声で繰り返した; 「話してやる。私はアメリカの公使からすぐに来いという呼び出しを受けた。同国人であり芸術家兄弟であると確認し声明しろというんだ、やくざな泥棒でありゲルマン人スパイである奴をだ!」
「行かないでよ、」ファロービーが提言した。
「私が行かないと、そいつは直ぐに銃殺になる。」
「放っておけ」ソーンがうめいた。
「君らはそいつが誰か判るか?」
「ハートマン!」ウェストが気付き、叫んだ。
シルヴィアは死人のように白くなって飛び上がり、オディールが彼女に腕を回して支え、椅子に座らせ、静かに言った「シルヴィアは失神したわ、──部屋が暑いせいね──水を少し持ってきて。」
トレントはすぐそれを取ってきた。
シルヴィアは目を開け、少しして顔色が戻った。マリー・ゲナレックとトレントに支えられながら寝室に入った。
これがお開きの合図となり、客が全員トレントのところにやってきた。一人一人がトレントと握手して、シルヴィアがよく眠り、起きた時は何事もなかったかのようであればいいと言った。
彼にさよならを言うとき、マリー・ゲナレックは目をそらしたが、彼は彼女の誠意と手助けに感謝した。
「何かできることはあるか、ジャック?」ウェストはぐずぐずと訊ねた。そして他の人々に追いつこうと急ぎ足で階段を下っていった。
トレントは手すりに凭れて、足音としゃべり声を聞いていた。下の方で扉がバタンと閉まると、家は沈黙した。彼はぐずぐずと、唇を噛みながら階下の闇を見つめた; 次いで「俺は気違いだ!」と呟き、もどかしげな動作でろうそくに灯をともすと寝室に入った。シルヴィアはベッドに横になっていた。彼はその上にかがみ込んで、額の巻き毛を撫でてのばした。
「具合は良くなったかい、シルヴィア?」
彼女は答えず、目をあげて彼を見た。一瞬目が合った時、彼はそこから自分の心臓に冷気を送り込む何物かを読み取り、両手で顔を覆いながら座った。
やっとのことで彼女は話しだしたが、緊張した声は彼がこれまでに聞いたこともないものに変わっていた。彼は両手を落とし、椅子の上でまっすぐ背を伸ばして聞いた。
「ジャック、この時が来てしまった。震えるほど怖かった、──ああ、このことを考えて、幾夜眠れずに過ごしたことでしょう。あなたが知ってしまう前に私を死なせてくださいと祈ったわ。あなたを愛しているから、ジャック、あなたがいないと生きていけないから。私はあなたを騙してきたの; ──あなたと知り合う前の出来事よ。でもあなたと会った最初の日、リュクサンブール(*24)公園ですすり泣いている私を見つけたあなたが声をかけてくれたあの日から、私は何一つ隠しも騙しもしなかった。最初からあなたを愛したから、とても話せなかった──あなたが行ってしまうだろうと思うと怖くて。ああ! 苦しんだわ! ──でも話せなかった。今はあなたは知っている。でも、最悪な部分は知らないの。彼の、──今──彼のことなんて何を気にしているんだろう? あんな酷い──ああ、酷い人を。」
彼女は顔を両腕の中に隠した。
「続けないといけないかしら? あなたが──思いもよらないことを話さないといけないかしら、ねえ! ジャック──」
彼は身じろぎもしなかった; その目は死者のようだった。
「私は──私は若くて、何も判らなかった、彼は言ったの──言ったの、私を愛していると──」
トレントは立ち上がり、握った拳でろうそくを殴った。部屋は暗くなった。
サン・シュルピス(*25)の鐘が時を告げ、彼女は突然起き上がり、熱病にかかったかのように急いて話した、──「最後まで言わなければ! あなたが私を愛すると言ってくれた時、──あなたは──あなたは何も聞かなかったわね。でもその時もう遅かったのよ。私と彼とをつなぐ別のいのちが、あなたと私との間に永久に立ちはだかるの! 彼はその別のものの権利を主張して、良くしてくれている。彼は死んではいけない、──銃殺になってはいけない、その別のもののために!」
トレントは身動きもできずに座っていたが、頭の中ではいつまでも一つの思いが渦巻いていた。
シルヴィア、哀れなシルヴィア、学生生活を分かち合い──包囲戦がもたらす絶望的な孤独を文句一つこぼさずに共に耐えている、──このほっそりとした青い目の女の子、彼がしみじみと気に入っていた女の子、気分のままに時にからかい時に愛撫してきた女の子、時にはその情熱的な献身ぶりにほんの少しだけいらついた女の子、──これがその同じシルヴィアでありうるのか? 闇の中ですすり泣いている人物が。
彼は歯を食いしばった。「奴を死なせてしまえ! 奴を死なせてしまえ!」──だがその時、──シルヴィアのために、また、──その別のもののために、──そうだ、彼は行くだろう、──彼は行かねばならない、──彼の義務は目の前にはっきりしていた。だがシルヴィアについては、──彼はこれまでとは同じではいられなかった。なおもある空漠とした恐怖が彼に取り付いているというのに、今や全ては語られた。震えながら、彼は明かりを点した。
彼女はそこに横になったままだった。巻き毛を顔の周りでほつれさせ、小さな白い両手を胸に押し当てて。
彼は彼女を捨てることも、留まることもできなかった。彼はこれまで自分が彼女を愛していると判っていなかった。自分の妻であるこの娘は単なる同志(*26)だったのだ。ああ、彼は全身全霊を込めて彼女を愛しており、手遅れになってしまった今やっと、彼にもそれが判ったのだ。手遅れ? 何故? 彼はその別のもののことを考えた。彼女を、死の瀬戸際にいるある人物と永久に結びつけているもののことを。罵声をあげてかれは扉に飛びついた、が、扉は開かないだろう、──そうではなく、彼はそれを押しもどし、施錠し、ベッドの脇に跪いた。自分の一生をかけて、彼の全てであるものを見捨てては行けないと知りながら。
彼がアメリカ公使館の秘書と共に死刑囚の監獄の外まで来たのは、朝四時だった。人々が束になって監獄の前に止まっているアメリカ公使の馬車の周りに集まった。馬が足踏みをしたり凍った街路を蹴ったりし、毛皮に包まった御者は箱の中に縮こまっていいた。サウスウォークは秘書が馬車に乗るのを手伝ってやり、トレントと握手し、彼が出向いてきたことに感謝した。
「どんなに悪党めが睨みつけていたか」彼は言った; 「君が持って来た証拠は実に良くないものだったが、そのお陰で少なくともいまのところ、彼は首の皮一枚で繋がっているし、──厄介事が避けられた。」
秘書はため息をついた; 「私たちの側は終わりです。今度は彼らに奴がスパイであることを証明させ、私たちはそれに反論する番です。乗って下さい、長官! 一緒にくるんだ、トレント!」
「一言言わせてください、サウスウォーク長官、私は奴を拘留して欲しくないのです」トレントは慌てて言った、声を落とし、「サウスウォーク、今私を助けて下さい。奴の部屋にはこ──子供がいますね。その子を私のアパルトマンに連れて来てください。もし奴が撃たれたら、私がひきとります。」
「了解した。」長官は荘重に言った。
「すぐにやっていただけますか?」
「すぐに。」彼は答えた。
二人は温かく手を握り、サウスウォーク長官は馬車に乗って、トレントについてくるよう身振りで示した; だが彼は首を振って言った「さようなら」。馬車はがたがたと遠ざかって行った。
彼は馬車が通りの終わりまで行くのを目で追って、自分自身の居住区に向かって歩き出した。が、一・二歩歩いた所で、逡巡し、立ち止まり、結局反対向きに進んで行った。何かが──おそらくはついさっき対面したあの囚人の姿が、彼に吐き気を催させたのだ。彼は一人静かに考えをまとめたかった。昨夜の出来事は彼をひどく動揺させた。しかし歩いていればそれを忘れ、全てを埋められるだろう、そうしてからシルヴィアの許にもどろう。彼は速い足で歩き始め、しばらくの間は辛い思いは薄れたかに見えた。だが、ついに凱旋門の下、息切れした彼が一息ついた時、物事全体の辛さと悲惨さが──そう、誤って過ごした彼の人生が全て激痛となって蘇った。あの囚人の顔が、恐怖にねじくれ曲がった顔が、影となって彼の目に浮かんだ。
吐き気を覚えたまま、彼は巨大な門の下を彷徨した。彫刻されたコーニスを見上げ、そこに刻まれた彼も知る英雄や戦の名前を読み、そのことで心を埋め尽くしてしまおうと努めながら。だが、後をつきまとうのは恐怖に歯を剥き出したハートマンの灰色の顔だった! ── 恐怖? ── それとも勝利の喜びではないのか?── こう考えた時、彼はナイフを首に押し当てられた男のように跳ね上がった。ひとしきり荒々しい足取りで広場を歩き回った後で、再び門の下に戻り、自分の惨めさと格闘するために腰を下ろした。
空気は冷たかったが、彼の頬は面目なさへの怒りに燃えた。不面目? 何故だ? よんどころなく母となってしまっていた娘と結婚したからか? 彼は彼女を愛していたのか? こんな惨めなボヘミアン的存在が彼の人生の終わりであり目標だったのか? 彼は自分の心の中にある秘密に目を向け、ある邪悪な物語を読んだ、──過去の物語を。彼は恥じて両手に顔を埋めた。その間、頭の芯に鈍い痛みを刻みながら、彼の心臓は未来の物語をどくどくと送り出していた。不面目と不名誉の物語を。
辛い思いに麻痺し始め気力を失っていた彼は、やっとのことで力を奮い起こし、頭を持ち上げて周囲を見回した。霧が急に現れ、街路を覆い、門の拱路を埋めていた。家に帰らねば。一人でいることの恐怖が激しく彼を襲った。だが、彼は一人ではなかったのだ。霧の中にはたくさんの亡霊がいた。彼の周りの靄じゅう、彼らはよろめき、引き延ばされては線のようになって拱路をくぐり、消えていった。そのそばから、別の亡霊が霧の中に起き上がり、ゆらゆらと通り過ぎ、吸い込まれていった。彼は一人ではなかった。靄の中を、亡霊は前に横に後ろに彼を押し掴み引きずっていった。薄暗い大通りを下り、小路から小路へ白い霧とともに彼らは動いた。もし彼らに声があれば、彼らをおおう靄の経帷子のように重かったろう。とうとう目の前に石積みと土地を仕切る門が現れた。門には太い鉄の柵があり、その上部は霧の中に隠れていた。滑るような彼らの動きは次第に遅くなっていった。肩を並べ、足並み揃えて。そして全ての動きが止まった。突然吹いた微風が霧をかき回した。波うち渦を巻いた。ものがはっきりと見えるようになってきた。棺覆いは湿った雲の端に触れつつ水平線の上へと這っていき、一千丁の銃剣から放たれる鈍い閃光が近づいてきた。銃剣──それはそこかしこにあった。あるいは霧を裂きあるいは鉄の川となってその下を流れていた。石と土で築かれた壁の上高くに、一門の重砲が吠え、周囲に人影たちがシルエットとなって動いていた。下の方では銃剣の奔流が鉄のしきりのある門を通り、影深い平原に流れ込んでいた。あたりは次第に明るくなってきた。行軍する集団の中の顔がさらにはっきり見えるようになり、彼は知った顔を一人見つけた。
「おい、フィリップ(*1)!」
人影は首を向けた。
トレントは叫んだ、──「私の入れる場所はあるか?」が、相手は何やら「さよなら」というように腕を振るだけで、他の皆と一緒に行ってしまった。今度は騎兵隊が通り過ぎる所だった。一隊、また一隊と、闇の中に押し出されて行った。次は何門もの加農砲、救急隊、また果てしない銃剣の隊列。彼の横では装甲騎兵が馬を進め、目の前では乗馬した多くの将校の一群の中に彼は将軍を見た。アストラハン毛皮製ドルマンの襟章の中に色を失った顔があった。
彼の側では何人もの女がすすり泣き、その一人は兵士の雑嚢の中に一切れの黒パンをなんとかして押し込もうとしていた。兵士は手伝おうとしたが、雑嚢は口が閉まっており、ライフルが邪魔だった。そこでトレントは女が雑嚢のボタンを外しパンを押し込む間、銃を持ってあげた。パンは彼女の涙で湿りきっていた。ライフルは重くなく、素晴らしく扱いやすいことがわかった。銃剣は鋭いか? 彼は試してみた。その時、突如として願望が、熱望が、耐えられない程の切望が彼を支配した。
「Chouette!(すげえ)」門に張り付いている浮浪児が叫んだ;
「encore toi mon vieux? (またあんたかよ?)」
トレントが目を上げると、ネズミ殺しが彼の顔に笑いかけていた。だが、兵士が再びライフルを手に取り、彼にありがとうと言い、隊列に戻るべく疾走して行くと、浮浪児は門のまわりの群衆の中にとびこんだ。
「君も行くのか?」彼はドブの中に座って足に包帯を巻いている水兵に叫んだ。
「はい。」
すると少女が、──ほんの小さな女の子が彼の手を取って門の向かいのカフェに連れて行った。その部屋は兵士で一杯で、あるものは血の気を失い声もなく床に座り、他のものは革装の長椅子の上で呻いていた。空気は饐え、息が詰まった。
「選んで!」ちょっと哀れむような仕草で、少女は言った; 「この人たちは行けないから!」
衣類の山の中から、彼はフード付きの軍用コートとケピ帽(*2)を見つけた。
彼女は彼がナップザックを背負い弾薬箱を止めるのを助け、どうやってシャスポー銃を装填するか、銃を自分の膝の上においてやって見せた.
彼が感謝した時、彼女は驚いて立ち上がった。
「あなた外人じゃない!」
「アメリカ人だ、」彼は扉に向かって歩きながら言った。しかし女の子は彼を通せんぼした。
「あたしはブレトン人。父さんは上の海軍砲の所にいる。あなたがスパイなら父さんは撃つわよ。」
二人はしばらくの間顔を突き合わせた。彼はため息をつくと、女の子の上にかがんでキスした。「フランスのために祈ってくれ、おちびちゃん。」彼は呟き、彼女は青ざめた微笑とともに言った: 「フランスとあなたのために、beau Monsieur(素敵な紳士)」
彼は街路を走って渡り、門を駆け抜けた。外に出てから、隊列にじわじわ近づき、道に沿って肩から割り込んだ。伍長が通り過ぎ、彼を見て、再び通り過ぎ、ついに将校に声をかけた。「お前は六十番隊だ、」彼のケピ帽の番号を見て伍長が大声で叫んだ。
「自由狙撃兵は要らん。」彼の黒ズボンを目にして将軍が加えた。
「わたくしを志願兵として同志と共に戦わせて下さい。」トレントが言うと、将軍は肩をすくめて許可した。
一人・二人が彼のズボンをちらっと見ただけで、誰もが彼に大して興味を払わなかった。道は融けかかった雪と泥で深く埋まり、車馬が深く轍と蹄の跡を刻んでいった。彼の前方の兵士は凍った轍にとられて捻挫した足を、呻きながら盛り土の端まで引きずって行った。彼らの脇にある平地は、右も左も雪解けで灰色だった。解体された防護柵の後のあちらこちらでに停まった荷馬車には、白に赤い十字を付けた旗が掲げられていた。荷馬車の御者は色あせた帽子と外套の僧侶であったり、手足が不具の機動隊員であったりした。一度など、修道女会の尼僧が御者をしている荷馬車が通った。がらんとした窓の、壁に大きな亀裂の入った空き屋が、静かに身を寄せ合うように道に沿って並んでいた。更に進んで危険な地域に入ると、人の住んでいた痕跡と言えば、そこここに積まれた凍った煉瓦と、雪に閉ざされた暗い地下室だけだった。
時折トレントは直後をつきまとう男にいらつかされた。ついにそれが意図的なものだと確信した彼は振り返って抗議しようとしたが、なんと、ボザール時代の学友と顔を突き合わす事になった。トレントは目を見開いた。
「君は病院だと思っていた!」
相手は包帯で巻かれた顎を指して首を振った。
「そうか、しゃべれないんだな。私になにかできるか?」
傷痍者は雑嚢の中を引っ掻き回し、黒パンの皮を取り出した。
「こいつは食えないんだ、顎をやられちまった。それであんたにそれを噛み潰して欲しいんだ。」隣の兵士が言った。
トレントはパンの皮をとり、歯で小さな欠片にして、飢えた男に一切れ一切れ渡した。
時折、馬に乗った看護兵が雪解けのぬかるみに覆われた前線に急行していった。それは渦巻く霧に湿った草原を横切る、冷たく静かな行軍だった。水路を渡る鉄道の築堤に沿って、別の一列が彼らと並行して動いていた。トレントはそれをじっと見た。陰鬱な集団が、明瞭にまたぼんやりと見え、今また霧の中に見えなくなった。半時間ほど見失った後、それが再び視界に入ってきた時、彼はその細い線が脇腹から二つに分かれ、中央部を膨らませ、西に向かって急速に向きを変えるのに気付いた。その瞬間、長く続く炸裂音が霧に包まれた前線から突発した。例の線は一列縦隊を解き始め、東西に急速に分かれていき、炸裂音は絶え間なくなっていった。全速で馬を走らす一団が通り過ぎ、彼は同志とともに邪魔にならないように脇に避けた。戦闘は彼の大隊の少し右方から始まった。靄を通して最初のライフル弾が轟き、砦から加農砲が力強い咆哮を上げ始めた。騎乗将校が一人、何かを叫びながら駆け、それが何かトレントには聞き取れなかったが、前方で隊列が分かれ、彼の属する隊列以外は薄明に消えて行った。馬に乗った沢山の将校達が現れ、彼の隣で霧の中を伺った。物憂い待機だった。トレントはパンをいくたりか噛んで後の男に渡し、後の男はそれを飲み込もうとしたが、やがて首を振り、トレントに残りは自分で食べてくれという仕草をした。伍長が彼にブランデーを少し分けてくれ、彼はそれを飲んだ。だが、コップを返そうと振り向いた所、伍長は地に倒れていた。ハッとして彼は隣の兵士をみたが、肩をすくめ話をしようと口を開いた兵士は何かに打たれ、下の水路に転がり落ちた。その瞬間、将校の馬の一頭が跳ね上がり、蹄で辺りを蹴りながら隊列の中に戻ってきた。一人は踏みつけられ、一人は胸を蹴られて隊列の中に放り込まれた。将校は拍車を沈め馬を前に向かせ、そこで震えていた。砲声は近づいてくるようだった。ゆっくりと軍勢の周りを行ったりきたりしていた騎乗の幹部将校が突然鞍の上で体勢を崩し、馬のたてがみにすがりついた。ブーツの片足がぶらぶらと垂れ、鐙から赤いものが滴っていた。そして前方の靄の中から男達が走ってきた。彼らは道に、野に、水路に溢れ、その多くが倒れていった。一瞬彼は騎手達が背後の蒸気に潜む亡霊のように走り回っているのだと想像し、後の男は恐ろしい呪いの言葉を吐いた。彼も奴らを見たことがあり、奴らは槍騎兵であるというのだ。だが、大隊は応戦せず靄が再び野を覆った。
連隊長は馬の上に重そうに座り、砲弾型の頭はアストラハン毛皮でできたドルマンの襟章に埋もれ、太った両足は鐙にまっすぐ伸びていた。
彼の周りにはラッパを持ったラッパ手が塊をつくり、彼の後には青白いジャケットを着た幹部将校が、シガレットを吹かしながら騎兵の大尉としゃべっていた。前方の道から猛烈なギャロップが聞こえ、看護兵が連隊長の横で手綱を引いた。連隊長は振り向きもせず、背をむけたままだった。その時、左方から混乱したざわめきが聞こえ、それは絶叫となって終わった。騎士が一人、風のように駆けて行き、何騎もが後を追った。ついで、彼らの脇を中隊が続々と渦巻く靄の広がりの中に消えて行った。その瞬間、連隊長が馬上にすっくと立ち、ラッパが鳴り、全軍が盛り土から下へ向かって突入した。あっという間にトレントは帽子をなくしてしまった。何かに頭からひったくられ、彼は木の枝に引っかかったのだろうと思った。彼の同志のかなりの部分が融けかけた雪と氷の中に倒れ込み、彼は仲間が足を滑らせたのだろうと思った。一人の男が彼の前に倒れ込んできたので、立ち止まって救い起こそうとしたが、彼が手を触れると男は金切り声をあげだし、将校が「前進せよ、前進せよ!」と叫んだので、彼はまた走った。靄の中を長い間走りつづけたので、彼は何度もライフルを持ち替えざるを得なかった。はあはあと息を切らしながらやっとのことで彼らが鉄道の築堤の後に駆け込むと、彼は周りを見回した。何かをしないではいられなかった。何か自暴自棄な肉体的な闘争を、殺しと破壊を。大軍の中に飛び込み、二つに切り裂きたくてたまらなかった。彼は発砲を欲した、シャスポー銃の薄く鋭い銃剣を用いる事を。こんなはずではなかった。疲れ切って腕を挙げられなくなるまで戦い、斬りつけたかったのだ。そして家に帰ろうと。この突撃で大隊の半数が倒れたとある男が言うのが聞こえ、もう一人が築堤の下の死体を改めているのが見えた。その身体はいまだに温かく、変わった制服を着ていた。だが、彼が十センチほど(*3)先に転がった穴の開いたヘルメットに気付いたとしても、その時にはもう何が起きたのかわからなくなっていただろう。
一メートル程(*4)左にいる、馬に乗った連隊長は、鋭い目を真っ赤なケピ帽に落としていた。トレントは、彼が将校にこう答えるのを聞いた: 「わたくしは耐えられますが、再突撃となりますと、ラッパ手一人残すことすらできないであろうと考えるのであります。」
「プロシア人がここに?」トレントは座って髪の毛の血を拭っている兵士に聞いた。
「ああ、騎兵が奴らを片付けた。俺たちは奴らの十字砲火を食らった。」
「俺らは築堤の上の火器を援護しているところだ」別の男が言った。
次いで、軍勢は築堤を這うように越え、ねじれたレールに沿って進んだ。トレントはズボンの裾を上げ、毛の靴下の下に入れて留めた: が、彼らは再び止まった。そこには破壊された鉄道線路の上に何人かの男が座っていた。トレントは負傷した学友の姿を探した。彼は真っ青になって持ち場に立っていた。砲撃は恐るべきものになっていた。つかの間靄が晴れた。前方の線路の上でじっとしている第一大隊がちらりと見えた。両翼の連隊が見え、霧が再び降りたかと見るや、はるか左方で太鼓が鳴り、ラッパの音楽が始まった。軍隊全体にじれったそうな動きが広がり、連隊長が腕を上げ、太鼓がロールし、軍勢は霧の中を進んだ。進むに連れ第一大隊が銃口を開いたことからみて、彼らは今、前線の近くにいた。救急隊が築堤の基部と後方とを駆け足で通い、騎士は亡霊のように行き来した。彼らはついに前線に出た。周囲の全ては動き、混乱していたからだ。霧の中から、手で触れるほど近くから、叫び声と呻き、殺到する一斉射撃の音が聞こえた。そこら中に弾の雨が降り、築堤に沿って炸裂し、凍った雪解け水を跳ねかけた。トレントは戦いた。彼は薄暗がりの中破裂し、炎を上げる未知のものを恐れ始めた。彼は大地が雷鳴に震えると同時に霧がオレンジ色に鈍く光るのも見ることができた。もう近い、彼は確かに感じた、連隊長が「前進せよ!」と叫び、第一大隊が駆け込んで行ったからだ。彼はその息吹を感じることができ、震え上がったが、駆け続けた。彼を怖がらせる恐怖の破裂音が前方に起きた。霧の中のどこかで男達が歓声をあげ、連隊長の馬は煙に向かって血を噴き出していた。
目の前右方で再び爆発と衝撃が起こり、彼はほとんど気を失ってよろめいた。右側にいた男達は皆倒れた。彼の頭はぐらぐらし; 霧と煙に呆然とした。体を支えようと手を出したら、なにかに触れた。それは砲を運ぶ車輪で、男が一人跳ね降りてきた。彼の頭を突き棒で狙ってきたのだが、悲鳴を上げてよろめいた。銃剣が首を貫通していた。トレントは自分が人を殺したことを知った。機械的にかがんでライフルを拾ったが、銃剣は、朱に染まった両手で芝を打ちながら倒れた男に刺さったままだった。彼は気分が悪くなり、砲の上に凭れた。その周り至る所で男達が戦っており、空気は煙と汗で饐えていた。誰か二人が彼を前後から押さえ込み、それをまた誰かが押さえ込んだり固い武器で殴ろうとしたりした。カッ! カッ! カッ! 銃剣の突きに激昂した彼は突き棒を握って棒が粉々になるまで盲滅法突き返した。
男が彼の首に腕を回し、地面に押し付けようとしたが、彼は相手の首を絞め、その膝の上に乗った。彼は砲を奪取した同志の一人が、その上に倒れ、頭を砕くのを見た; 彼は連隊長が鞍から泥の中にばったり落ちるのを見た。ここで彼は意識を失った。
我に返った時、彼は築堤の上、ねじれたレールの間に倒れていた。どちら側にも泣き叫び呪いの言葉を吐きつつ霧の中に逃げ込もうとする男達が一杯だった。彼はよろよろと立ち上がり、彼らの後を追った。一度、顎に包帯を巻いた同志を救おうと立ち止まった。口をきけない同志は彼の腕に一度はすがり、やがて凍てついた泥沼の中に死んでいった; 彼は再び人を助けた。その男は繰り返し呻いていた: 「トレント、c'est moi(これは私だ)──フィリップだ」。突然霧が辺りを覆い、彼を義務から解放した。
凍った風が高みから吹き下ろし、霧を千々にした。いっとき、太陽が邪悪な流し目をくれながらヴァンセンヌ(*5)の裸の森を覗き込み、血のかたまりのように、砲煙の中を低く、低く、血染めの平原に沈んで行った。
サン・シュルピスの鐘楼が真夜中を告げた時、パリの門は、かつては軍隊だったものの成れの果てで塞がっていた。
彼ら陰気な大群は夜とともに入った。泥にまみれ、飢えと衰弱にふらふらになって。はじめはほとんど障害がなかった。門の所の群衆は、軍団が凍った街路を重い足取りで進む間におとなしく離れていった。混乱が生じたのは数時間後だった。急に、さらに急に、雑然とした中隊に次ぐ中隊が、火器に次ぐ火器が、突っ込んでくる馬が、ガタガタ揺れる弾薬が、前線からの退却者が、一気に門を通ろうとした。カオスと化した騎兵隊と砲兵が自分たちを先に通せと争った。そこに歩兵隊がよろめきながら接近した; 骸骨のようになった連隊がやけくそな命令のもと進軍してきた。機動隊員の騒々しい群衆が街路を押し合いへし合いしながら我先に進み、動揺した騎士が、ついで砲が、将校を失った兵士達が、兵士を失った将校が、また再び救急隊の列が、大地を呻かせて進む車輪の列が。
惨めな馬鹿面達を群衆が見ていた。
その一日の間、ひっきりなしに救急隊がやって来て、ボロきれのような群衆は火器のおかげで泣き言をいい、震えていた。昼には、群衆は十倍にもふくれあがった。門の周りの広場が一杯になり、砦の内部にまで群がった。
午後四時に、ゲルマンの火器どもは彼ら自身を砲煙で飾り、すぐさまモンパルナスに弾が落ちた。四時二十分に、二発の投射体がバック通りに落下し、次の瞬間ラテン区に最初の弾が落ちた。
酷く驚いたウェストが入って来た時、ブレイスはベッドの中で絵を描いているところだった。
「下に来てくれないか; 俺たちの家はぶん殴られた三角帽みたいに滅茶滅茶だ。今夜あたり物盗りがお出ましになって、それに頭を突っ込んでくるかもしれない。」
ブレイスはベッドから飛び起き、かつてはオーヴァーコートだったものを体に纏った。
「誰かやられた人は?」彼は裏地がぼろぼろになった袖に手こずりながら彼は聞いた。
「いない。コレットは地下室のバリケードの中だ。管理人は砦の方に逃げた。この調子で砲撃が続くなら、荒っぽいギャングが出てくるだろう。手伝ってくれるな?」
「もちろん」ブレイスが言った; だが、ウェストが叫んだのは、セルパント通りに着き、ウェストの地下室に通じる小径に足を向けた時だった: 「お前は今日ジャック・トレントに会ったか?」
「いや、」ブレイスはとまどったように返事をした「救急隊本部にはいなかったよ。」
「家でシルヴィアの世話をしているんだろう、多分。」
爆弾が路地の突き当たりの家の屋根を突き破って基礎で炸裂し、街路中にスレートと漆喰の雨を降らせた。第二弾は煙突を砕いて庭にまき散らし、雪崩のように煉瓦が崩れ、第三弾は隣の街路で耳をつんざくような大音響とともに爆発した。
彼らは地下室に続く階段まで小径を急いだ。ここで再びブレイスが立ち止まった。
「僕が走っていって、ジャックとシルヴィアがちゃんと身を隠しているか見てきた方がいいと思わない? 暗くなる前には帰れるから。」
「いや、中に入ってコレットを探せ。俺が行く。」
「駄目駄目、僕が行くよ、何も危険なことはないよ。」
「わかってるさ」ウェストは静かに答え; ブレイスを引きずって小径に押し込み、地下室への階段を示した。鉄の扉にはかんぬきがかかっていた。
「コレット! コレット!」彼は叫んだ。扉が内側に開き、娘が彼らに会おうと階段を飛び上がってきた。その瞬間彼の背後をちらっと見たブレイスが驚いた叫びをあげ、前にいる二人を地下室の中に突き飛ばし、自分も後をついて中に飛び込み鉄の扉を荒っぽく閉じた。数秒後、外から重い衝撃が加えられ、蝶番がきしんだ。
「あいつらがいる、」真っ青になってウェストが呟いた。
「あの扉は、」コレットが静かに観察して言った「いつまでも保つわ。」
ブレイスは下の方の鉄でできた構造を調べた。今や外側から加えられる打撃に震えている。ウェストは心配そうにコレットの方をちらりとみたが、彼女に動揺する様子がなかったので満足した。
「奴らがここでそんなに時間をかけるとは思えないなあ、」ブレイスが言った; 酒を手に入れたいだけじゃないかと思うんだけど。」
「何かお宝が埋めてあると耳にしてなきゃな。」
「でも本当に、なにも埋まってないだろ?」落ち着きを失ったブレイスが叫んだ。
「不幸な事に、ある。」ウェストが呻いた。「しみったれた我らが大家様だ──」
外から聞こえた怒鳴り声と衝撃音のため、彼の言葉は途中で途切れた; 打撃に次ぐ打撃が加えられ、鋭い音を立てて金属が折れ曲がり、三角形の鉄製部品が内側に落ち、穴があき、そこから外光がもがいた。
すぐさまウェストはひざまずき、リボルバーを握って穴から全弾を発射した。いっとき、リボルバーの轟音が路地に谺し、何の物音もしなくなった。
しばらくして、何かをうかがうかのような一撃がドアに加えられ、すぐさま、次から次へと続き、鉄板に突然ジグザグのひび割れが生じた。
「こっちだ、」コレットを手首で制しながらウェストが言った、「ついてこい、ブレイス!」そして彼は地下室の奥にある丸い光の輪に向かって素早く走った。その光の輪は頭上のマンホールから射していた。ウェストはブレイスを肩車した。
「押して空けろ、絶対にやるんだ!」
ブレイスは容易に樽の蓋を持ち上げ、身を屈めて外に出ると、ウェストの肩からコレットを楽々と引き上げた。
「速く、旧友よ!」ウェストが叫んだ。
ブレイスは金網に足をからめて、再び体を沈めた。地下室には黄色い光があふれ、石油トーチの悪臭で一杯だった。鉄の扉はいまだに保っていたが、鉄板は全て失われており、彼らが見ている前でトーチを持つ人影が這ってきた。
「急いで、」ブレイスは囁いた「跳んで!」ぶら下がったウェストの襟をコレットが掴み、引っ張りあげた。そこで彼女の神経はギブアップしてしまい、ヒステリックに泣き出したが、ウェストは彼女の腕を取って庭を横切り、隣の街路にまで連れて行った。ブレイスはマンホールの蓋を元に戻し、壁の石板をいくたりかその上に積んで、二人と合流した。外はすっかり暗くなっていた。明かりといえば燃える建物と弾の閃光だけになってしまった街路を、彼らは急いで抜けた。炎からは離れるようにしていたが、そんな距離から、瓦礫の中を飛び回る略奪者の姿が見えた。ある時は、酒を飲んで狂ったようにこの世を呪う金切り声を上げる女が通り過ぎて行った。またある時は前屈みの若い無骨者どもが通り過ぎて行った。彼らの顔と手は黒ずんで、街の破壊に一役買っていることを暴露していた。ついに彼らはセーヌ河にたどり着き、橋を渡った。その時ブレイスは言った: 「僕は戻らないと。ジャックとシルヴィアがどうしているかわからない。」そういいながら彼は、オルセー兵舎の横を通り足を踏み鳴らして橋を渡ってくる群衆のために道をあけた。その中に、ウェストは整然と行進する小隊を見つけた。ランタンが通り、銃剣の縦隊が通り、またランタンが通り、それは背後の死人のような顔を鈍く照らした。コレットは息をのんだ「ハートマンよ!」そして彼は行ってしまった。彼らは息をひそめて、おそるおそる堤ごしに覗いた。岸壁の上に一人が足を引きずる音がして、兵舎の門が音を立てて閉まった。ちょっとの間ランタンが裏口を照らし、群衆が格子に詰めかけ、遊歩道から投石する音が聞こえた。
堤に沿って一つ一つ石油トーチが燃え上がり、今や広場中がざわめいていた。シャンゼリゼから下りコンコルド広場を横切り、小競り合いがあり、ここには分隊が、あちらには暴徒がいた。彼らはあらゆる通りから注ぎ込まれ、女子供がその後に続いた。つぶやきは一つにまとまり、凍った風に乗り、凱旋門を潜り、暗い並木道の大通りを切り倒した、──「Perdus! perdus! (失ってしまった、失ってしまった)」
大隊の見窄らしい最後の姿は、潰滅という名の亡霊であった。ウェストは呻いた。すると、陰深い隊列から一つの人影が飛び出し、ウェストの名を呼んだ。それがトレントであることを見るや、彼は大声で呼んだ。トレントは恐怖に青ざめ、彼につかみかかった。
「シルヴィアは?」
ウェストは声もなく目を見開いたが、コレットがうめき声を上げた「ああ、シルヴィア! シルヴィア!──ラテン区が攻撃されているの!」
「トレント!」ブレイスが叫んだ; だが、彼はいなかった。彼らは追いつけなかった。
砲撃はトレントがサン・ジェルマン大通りを横切った頃に止んだが、セーヌ通りの入口は煙る煉瓦の山で塞がっていた。弾が舗道のそこら中に大きな穴をあけていた。カフェは崩壊し、木と硝子のかけらだらけだった。書店は屋根から基礎まで引き裂かれ傾いでいた。閉店してだいぶ経つ小さなパン屋はスレートとブリキの上に放り投げられていた。
彼は湯気を上げる煉瓦を乗り越え、トゥルノン通り(*6)に駆け込んだ。角の炎が彼の住む通りを、何もない壁を照らしていた。覆いをつけたガス灯の下に子供が一人、燃え殻の欠片を使って書いていた。
「ここに最初の弾が落ちた」
それらの文字が彼の目前にあった。ネズミ殺しは書き終えると後ずさって作品を眺めていたが、トレントの銃剣を視野にとらえると、叫び、逃げ出した。トレントがシャッターの下りた街路をふらふらと歩くと、獰猛な女どもが彼を呪いながら、廃墟の穴や裂け目に置いた略奪品から逃げ出した。
最初、彼は自分の家が分からなかった。涙で目が曇ったからだ。だが、手で壁を探り、扉に行き着いた。家政婦の小屋にはランタンが灯り、その横で老人が息絶えていた。恐怖に気を失いそうになって、彼は一瞬ライフルにもたれかかった。そしてランタンを取ると階段を飛び登った。彼は声を出して呼ぼうとしたが、舌が動かなかった。二階に上がると、階段の上に漆喰が落ち、三階に上がると床が引き裂かれ、踊り場の血だまりの中に家政婦が倒れていた。次が彼の、彼らの階だった。外れた扉が蝶番でぶら下がり、壁には大穴があった。彼は這い込むとベッドの下の方に潜って行った。二本の腕が彼の首に巻き付き、涙で汚れた顔が彼の顔を探した。
「シルヴィア!」
「ああ、ジャック! ジャック! ジャック!」
二人の横のしわくちゃになった枕には小さな子が泣き叫んでいた。
「連れて来てくれたの; 私の子よ」彼女はすすり泣いた。
「私たちの、だ。」彼は二人に腕を回し囁いた。
そのとき階下からブレイスの心配そうな声がした。
「トレント! みんな無事かい?」
完
"Be of Good Cheer, the Sullen Month will die,いい加減に訳しておきましたが、元は Edward Fitzgerald訳 ルバイヤート の#110ないし112です。 青空文庫の小川亮作訳の何番にあたるか不明です。
And a young Moon requite us by and by;
Look how the Old one, meagre, bent, and wan
With age and Fast, is fainting from the sky."
Beef Soup à la Siège de Paris.Fish.
Sardines à la père Lachaise. ペール・ラシェーズには墓地がある
White WineRôti (Red Wine).ロティは肉料理の一つ
Fresh Beef à la sortie. sortieは ソテー sauté とひっかてある?Vegetables.
Canned Beans à la chasse-pot, シャスポーは当時のフランスの主力ライフル銃
Canned Pease Gravelotte,グラヴェロットは普仏戦争の戦場の一つ
Potatoes Irlandaises,
Miscellaneous.
Cold Corned Beef à la Thieis, ティエも普仏戦争の戦場の一つ。墓地がある
Stewed Prunes à la Garibaldi. ガリバルディはイタリアを統一した軍事家でフランスの第三共和制に協力したDessert.
Dried prunes—White bread,
Currant Jelly,
Tea—Café,
Liqueurs,
Pipes and Cigarettes.
先にもありましたが、正式な訳語がわからないので、次のように訳しておきました。