This is a Japanese translation of "The Shunned House" by H.P.Lovecraft.

以下は、"The Shunned House" by H. P. Lovecraft の全訳です。精神障害、身体障害、人種/民族差別に関係する放送できない用語が含まれます。何ぶん古い作品ですのでご了承ください。


忌まれた家

作: H.P.ラヴクラフト、訳: The Creative CAT

A novelette written 16-19 October 1924. Printed, but not sold, in The Shunned House, Athol, MA: The Recluse Press, 1928, p. 9-59. First published in Weird Tales (October 1937).

I.

最も恐ろしいものの中にすら、皮肉が含まれないことは稀である。時としてそれは出来事の構成に直接内在することもあるし、また時として人物や場所の間の偶発的な位置にのみ関係することもある。1840年代終わり、エドガー・アラン・ポオが天性の詩人ホイットマン夫人(*1-1)に甲斐なき求愛を行っていた頃しばしば滞在した街プロヴィデンス。この古都で起きたある事件こそ、後者の申し分ない例だ。ポオはいつもベネフィット街のマンション・ハウス — ワシントン、ジェファーソン、ラファイエットが宿泊したゴールデン・ボール・インの後の名 — に泊まり、この街を北に向かってホイットマン夫人の家と聖ヨハネ教会の墓地を散歩するのがお気に入りだった(*1-2)。この教会に隠された数多くの十八世紀の墓石はポオにとって独特の魅力を持っていた。

さて、皮肉というのはこうだ。この恐怖と怪奇における世界最大の巨匠は、散歩を繰り返すその道すがら、幾度となく街の東側に位置する一つの特異な家の前を通らざるを得なかった; みすぼらしい時代遅れの建物が、急に立ち上がる丘の斜面に止まっていて、その地所が半ば公用地だった頃まで遡る広い庭は荒れ放題になっていた。彼がそれについて書いたり語ったりしたことはないようで、それに注目したという証拠も一切ない。それでもなお、ある情報を所持している二人の人間にとって、その家は、何も知らずに何度も通り過ぎたかの天才の最も放縦な幻想と比べても、恐怖という点において勝るとも劣らず、また言語を絶する醜悪さの象徴として悪意の眼差しを投げかけているのだ。

その家には — ついでに言えば現在もそうなのだが — 好事家の興味を惹くものがあった。元は農家ないしそれに準ずる建物で、平均的な十八世紀ニューイングランドのコロニアル様式の線に沿って建てられた — 豊かな尖り屋根、二階建て構造に屋根窓突出部を欠く屋根裏、当時の流行に乗ったジョージ王朝風の戸口と内部の羽目板。家は南向きで、片方の破風は下の窓に対応する所まで東の丘の中にめり込んでおり、反対側は基礎の深さまで街路に露出していた。一世紀半前にこの家が建設された後、この近所では道路を真っすぐ平らにする改良工事が行われた; ベネフィット街 — はじめバック街と呼ばれた — についていうと、最初の入植者たちの墓地を通る曲がりくねった小路として作られ、彼らの遺骨を北共同墓地に移すことで古い家族の区画を切り通せるようになって初めてこれを直線化することができたのだ。

はじめ、西の壁は道路から六メートル程(*1-2)も切り立った芝地の上にあったが; 独立戦争の頃に道を拡幅した際、道路と建物との間の空間がほとんど削られ、基礎まで露になったので、煉瓦作りの地下室の壁を作らざるをえなくなった。この壁には地面より高い所に扉と二つの窓を設けてあり、深い地下室と、多くの人々が往来するようになった街路との間で手軽に行き来ができた。一世紀経って歩道が新設されたとき、最後の「間の空間」は取り払われ; 散歩の途中でポオが見たのは、もっぱら歩道と同じ高さにある暗灰色の煉瓦と、その三メートル上にある古風なこけらをもった大きな家本体だけだったはずだ。

家の裏手は農園風の敷地で、丘の斜面の奥まで伸び、ほとんどウィートン街(*1-3)に達していた。ベネフィット街に接する南側の敷地は、当然、歩道の高さよりよりもだいぶ高い所に広がっており、湿って苔むした高い石垣で区切られた一つの台地を形作っていた。狭苦しく急な階段がこの石垣を貫いていて、谷底のような道から上の世界へ登って行けた。見窄らしい芝生と、加答児でも起こしたような煉瓦の壁と、剥げた落ちたセメント製の瓶のある打ち捨てられた庭と、瘤だらけの棒で作った脚から落ちた錆びた鼎の世界へと。そしてまた似たような日常用品が、風雨に傷んだ表扉を、その上の割れた扇形窓を、崩れたイオニア式片蓋柱を、虫に食われた三角形の切妻を引き立てていた。

この忌まれた家について子供の頃耳にしたのは、そこでびっくりするほど多くの人が死んだ、ということだけだった。そのため、元の所有者は家を建てた後二十年ほどで出て行ったのだという。明らかに不健康な所だった。多分、地下室が湿っぽく菌類が繁殖していたからだろう。あるいはむかつくような臭い、玄関の通気、井戸水の水質などによるのかもしれない。これだけで十分酷く、私の知人が信じているものといえばこれで全てだった。好古家である私の伯父、エリフ・ウィップル医師のノートのみが、私により暗い、より漠然とした憶測を明らかにしてくれた。このような憶測は昔日の従者と卑民の間に囁かれた伝承の底流をなすことはあっても; 遠くにまでは出回らず、プロヴィデンスが発展し、近代人がせわしなく行き交う大都市となった時には大半が忘れ去られてしまったのだ。

一般的な事実として、その家は、地域の中核になる人々の間で真の意味における「幽霊屋敷」と見なされていたわけではなかった。鎖がガチャガチャ鳴ったり、ひんやりとした風が吹いたり、明かりが消えたり、窓に顔が映ったりといった良くある話はなかったのだ。極端な見方をする人々は時々それを「不吉な家」と呼んだが、彼らにはそれが精々といったところだった。反論の余地のない事実というのはこうだ。そこではぞっとするような比率で人が死んだ; あるいはより正確には、これまでに死んだことがあった。というのも六十年前のある特異な出来事の後、その建物は到底貸し出せるようなものではなくなり、荒れるに任されていたからだ。これらの人々は単一の原因で突然命を失ったのではなく; 生気を知らず知らずの間に吸い取られ、それぞれの弱点によって起きる自然な死が早められたように見えたのだ。命を奪われなかった者も、種々の程度の貧血や消耗状態を、また場合によっては知能の低下をみせ、建物の健康への悪影響を証拠立てていた。近隣の家ではこのような有害な性質が皆無だったことも付け加える必要があるだろう。

結局私たち二人を忌まわしい調査に引きずり込むことになるノートを見せてくれと伯父にしつこく頼み込む前に、これだけのことを私は知っていた。私が子供の頃、その忌まれた家は空き家だった。そこには瘤だらけで実を結ばぬ嫌らしい古木や、長く延び変に青ざめた草があり、高台になった庭には鳥が寄りつかず、悪夢のようにおかしな形の雑草が生えていた。私たち男の子はいつもそこに侵入したもので、今でも自分の子供時代の恐怖が、病的で異様なこの悪意のある植生からだけではなく、不気味な雰囲気と荒れ果てた家の臭気からもきたのを覚えている。施錠されていない表の扉から怖いもの見たさによく入ってみたものだった。小さなガラスの入った窓の多くは割れて、落ちかかった羽目板にはなんともいえない荒廃した空気が漂い、がたついた内側の鎧戸、めくれ上がった壁紙、剥げた漆喰、軋む階段、壊れた家具の破片がそのまま残っていた。埃と蜘蛛の巣のせいでますます怖さが募り; 自分の意志で屋根裏への階段を上る男の子がいたとすれば、彼は本当に勇敢だったのだ。長い垂木をもつ広い屋根裏で、入ってくる光といえば、両端の破風にあるパタパタと開いたり閉じたりする小さな窓からのものしかなかった。その中には、箪笥、椅子、紡ぎ車といったものの膨大な残骸が、果てしない年月の間に沈殿した埃の経帷子と花綵に飾られおぞましい地獄のような形を呈していた。

だが結局、屋根裏は家の中で最も怖い場所ではなかった。どういうわけか私たちが一番嫌に思ったのは、じめじめした地下室だった。街路側は完全に地面から上になっていて、賑やかな歩道との間には薄い扉一枚と窓のついた煉瓦壁があるだけだったのにも拘らず。私たちはその亡霊に魅せられて入り浸ったものか魂と正気のために避けたものかよく判らなかった。一つには、家の悪臭がそこで最も強かったし; もう一つには夏の雨の日に堅い地面から時折生えてくる白い菌類が好きではなかったからだ。これらの菌類は外の庭の草木に似てグロテスクで、それらの輪郭は本当に恐ろしかった; ひどくいやな毒キノコや銀竜草モドキの風刺画で、他の状況では全く見たことがないようなものだった。それらはすぐに腐ったが、その途中で微かに燐光を発することがあった; だから時々、悪臭を放つ窓の脇を夜中に通った人が、割れた窓ガラスの陰に魔女の火を見たなどという話になったのだ。

私たちは — ハロウィーンで浮かれきっている時ですら — 夜間この地下室を訪れたことはなかった。だが、日中であっても燐光が見える時があり、暗く湿った天気の日には特にそうだった。しばしば私たちは、そこでもっとはっきりしないものを見つけたと思った — しかしそれはとても奇妙なもので、なんとなくそうなんだろうなと思うのが精々だった。私が謂わんとしているのは、汚れた床の上の白っぽいもやっとした形のことで; 地下の台所の大きな暖炉近くにまばらに生える菌類の間に、ぼんやりした移ろう黴ないし硝石の堆積物があり、時折私たちは何かの形を辿れる気がしたのだ。折に触れてその斑は不気味にも体を二つ折りにした人間の形に似て見えることがあった。多くの場合このような類似性はなく、白っぽい堆積物がないこともしばしばだったのだが。ある雨の午後のこと、この幻覚が一際強く感じられ、そればかりか硝石がつくる形状から一種の薄く黄色っぽい蒸気が明滅しながら立ちのぼり、口をあけた暖炉へと流れ込んでいくような気がして、私は伯父にそのことを話した。彼はこの奇妙な妄想を聞いて微笑んだが、その微笑には昔を思い出すような感じが漂っていた。後になって聞いたのだが、平民の間の粗野な昔話の中に、似た考えが取り込まれているのだそうだ — 大煙突が吐いた煙が同様に悪鬼じみた狼を暗示する姿をとったとか、木々の根が礎石の緩んだ所から地下室に入り込んでいるのだが、それらの根が特定の形でうねっていることから奇妙なものの輪郭を見て取れるとかいう認識である。

II.

私が成人するまで、伯父は忌まれた家に関して集めたノートと資料を見せてくれなかった。昔気質のウィップル医師は分別ある保守派で、自分がその場所に興味を持っているのにも拘らず、若い者の考えを異常な方向に向かわせてしまおうとは思わなかった。彼自身の考えでは、単に建物と土地が特に不衛生な状況にあるとみなしていて、異常性とは何らの関係もなかった; が、自分の興味をそそる原因となった絵でも見るかのような異様さが、少年の空想的な心に、あらゆる様態の不気味な想像上の連想を持ち込むであろうと判っていたのだ。

医師は独身だった; 白髪で、綺麗に髭を剃った昔風の紳士で、郷土史家として名高く、しばしばシドニー・S・ライダーやトーマス・W・ビクネル(*2-1)といった保守派論客と干戈を交えた。ノッカーと鉄の柵のある階段を備えたジョージ王朝風の家屋敷に一人の召使いの男と住んでいた。この屋敷はノース・コート街の急な上り勾配に危なげに乗っており、脇には昔のブリック・コートとコロニー・ハウスがあった(*2-2)。1776年五月四日、この議会で彼の祖父 — 1772年に英国海軍武装スクーナー船ギャスピー号を焼き払った著名な私掠船船長、ウィップル船長の従兄弟 — は、ロード・アイランド植民地の独立のため一票を投じたのだ。じめついた低い天井、黴臭い白い羽目板、彫刻のある重厚なオーバーマントル、蔦の絡まる小さなガラス窓、こんな図書室の中で彼は先祖代々の記念物と記録に取り囲まれており、その中にはベネフィット街の忌まれた家に関する怪しげな仄めかしが数多く含まれていた。問題の汚染地点は目と鼻の先だった — ベネフィット街はコート・ハウスの軒先を切り立った丘に沿って走っていた。最初の入植者たちはこの丘を登るように街を作ってきたのだ。

成人になり、またねだり倒した結果、とうとう私は自分が探していた秘蔵の伝承を伯父から引き出すことに成功し、なんとも異様な年代記を目の当りにすることができた。その一部は長たらしい統計学と退屈な系図学で、薄気味悪い粘着質の恐怖と並々ならぬ悪意の連綿たる糸が一筋通っており、私は善良な医師以上に印象づけられた。ばらばらな出来事同士が不可思議にもぴったり嵌り合い、一見関係なさそうな細部におぞましい可能性の鉱脈が潜んでいた。私の中に新たな好奇心が燃え上がった。これに比べたら少年時代の好奇心などひ弱なねんねに過ぎなかった。最初の驚きはやがて徹底的な研究となり、最後は背筋が震え上がるような探検となって私自身と私の肉親に不幸な結果をもたらしたのである。というのも、結局伯父は私が着手した探索に合流させてくれとせがみ、問題の家において私とある一夜を過ごした後、帰宅することが叶わなかったからだ。伯父の長い一生は名誉、徳行、良識、博愛および学問のみから成り立っていたのであり、この親切な人を失った私はひとりぼっちになってしまった。私は彼の想い出として聖ヨハネ教会の墓地 — ポオが愛した場所だ — に大理石の壺を建立した。そこには大きな柳の木立が隠れていて、灰色の大伽藍とベネフィット街の家々および土手の壁の間に墓と碑がひっそりと蝟集している。

時の迷宮のただ中に始まったこの家の歴史だが、建築にあたっても、それを建てた富裕で名誉ある家族についても不吉な点は何一つとして無かった。だが最初から一つの小さな汚点があったのは明らかで、それがすぐに凶兆へとふくれあがっていったのだ。注意深く集められた伯父の記録は1763年の建築から始まり、建物の歴史を事細かに追って、とんでもない量になっていた。忌まれた家の最初の住人はウィリアム・ハリスとその妻ロビー・デクスター、および二人の子供であるエルカーナー、1755年生、アビゲイル、1757年生、ウィリアム・ジュニア、1759年生、ルース、1761年生まれだった。ハリスは有力な商人でありまた西インド貿易に従事する船乗りで、オバデヤ・ブラウンと甥たちによる合資会社と取引があった。1761年にブラウンが亡くなった後、新しいニコラス・ブラウン商会は彼をプロヴィデンスで建造された120トンのブリッグ船プルーデンス号の船主にした。それで彼は結婚以来の願いだった新居を構えることができるようになったのだ。

彼が選んだ土地は、ごみごみしたチープサイドの上、丘の側面に沿って延びる新しくファッショナブルなバック街の中で、近年道を真っすぐにする改良工事が行われた部分 — 彼が望む全てを備えた場所であり、その地に相応しい建物だった。ほどほどの資産家が購いうる最高の物件で、ハリスは家族が心待ちにしている五人目の子供が生まれる前に大急ぎで引っ越した。この子は十二月に生まれたが; 死産だった。これから一世紀半の間、かの家で生きて生まれた子供は一人もいなかった。

次の四月、子供達の間で病が起こり、その月が終わる前にアビゲイルとルースが死んだ。ジョブ・アイヴス医師はこの災難を幼児の熱病だと診断したが、それはむしろ単なる枯槁憔悴ないし衰弱に過ぎないという者もいた。それがなんであったにせよ、伝染性とみえて; 続く六月に二人の召使いの一人ハンナ・ボーエンが同じ病で死んだ。もう一人の召使い、エリ・リッディソンはいつも力が入らないとこぼしていて; メヒタベル・ピアスが突然ハンナの後を継いで雇われなければ、父親の住むレホボトの農園に帰るつもりだった。この彼も翌年死んだ — それは確かに悲しい年だった。ウィリアム・ハリスその人も死んでしまったからだ。彼はこの十年というもの仕事のために度々マルティニークに留まっていたが、そこの気候が体を傷めたとでもいうかのように。

寡婦となったロビー・ハリスは夫の死の衝撃から立ち直ることができず、二年後に最初の子エルカーナーが逝くと、これが彼女の理性に対する最後の打撃になった。1768年、彼女は軽い狂気の犠牲となり、その後家の上階に幽閉され; 未婚の姉であるマーシー・デクスターがやってきて一家の面倒を見ることとなった。マーシーは朴訥とし、痩せて骨張った体格で、力が大変強かったが; この家に到着して以来目に見えて健康を損なっていった。彼女は不運な妹に大変よく尽くし、たった一人生き残った甥のウィリアムに特別の同情を寄せていた。この甥は生まれた時はがっしりした赤ん坊だったのに、病気がちでもやしのような少年になっていた。この年、召使いのメヒタベルが死に、もう一人の召使い、プリザーブド・スミスは筋の通った説明もなしに — もっぱら突飛な話をしたり、ここの臭いが嫌いだとか苦情を言ったりした挙げ句、いなくなってしまった。こうなると、マーシーは地元の召使いを雇えなかった。それというのも、七つの死と一件の発狂事件が五年の間に起きた件が炉端の噂になって、後には堪らない怪談へと拡大していったからだ。しかしながら、結局彼女は街の外から新しい召使いを得ることができた; ノース・キングスタウンの一部、今のエクセターの町になっている所から来たアン・ホワイトという陰気な女と、有能なボストン出身者でジーナス・ローという名の男である。

不吉な無駄話に初めてはっきりした形を与えたのがこのアン・ホワイトであった。ヌーセニック・ヒルの田舎者を雇うとはマーシーもおよそ馬鹿なことを考えたものだ。この辺境じみた土地には当時も今も、最も不愉快な迷信が居座っているというのに。1892年という近年にあっても、エクセターの社会では死体を掘り返して心臓を焼く儀式を行っており、これで公衆の健康と平安を損ねるある種の天罰を防ぐのだと言っていたのであるから、1768年の段階でどうだったかは推して知るべしである。アンの舌は致命的な程よく動き、数ヶ月でマーシーは彼女をクビにして、ニューポートから来た忠実かつ親切なアマゾン、マリア・ロビンスを代わりに据えた。

その間に、哀れなロビー・ハリスは最も忌まわしい種類の夢や想像の産物のことを声に出すようになった。時々彼女の叫びは耐えられないものとなり、長時間恐怖の悲鳴を上げるようになったので、息子を、大学新校舎のそばのプレスビテリアン小路に住む彼の従兄弟、ペレグ・ハリスの所に一時的に預けざるを得なくなった。お人好しであるのと同程度にマーシーの頭が働いたなら、彼をいつまでもペレグの所に置いておいただろうに。ハリス夫人が暴力的な発作に見舞われている時に何を叫んだかを、言い伝えは語ろうとしない; あるいはむしろ、馬鹿げてい過ぎて意味を失う程に途方もない話を提示している。フランス語の初歩しか勉強したことのない女性がしばしば何時間も俗語まじりの荒っぽいフランス語で叫ぶとか、また同じ女性が、守られた場所に一人でいるのに、何かがあたしをじろじろ見て噛み付くと大声で文句を言うとか、確かに馬鹿げた話にしか聞こえない。1772年に召使いのジーナスが死に、それを聞いたハリス夫人は笑い声を上げてこれまでに見せたことのないショッキングな喜びを示した。翌年その彼女も死んで北共同墓地の夫の墓の隣に憩うこととなった。

1775年にグレート・ブリテンとの紛争が勃発すると、弱冠十六歳のウィリアム・ハリスは虚弱な体格にも拘らずグリーン将軍麾下の陸軍観測隊に志願し; この時から着実に健康と武功を伸ばしていった。彼はニュージャージーにあったエインジェル大佐麾下のロードアイランド軍の大尉として、1780年にエリザベスタウンのフィーブ・ヘットフィールドと出逢い結婚した。その翌年彼は名誉のうちに退役し、二人してプロヴィデンスに帰った。

青年軍人の帰郷は、混じりけのない幸福という訳にはいかなかった。家はなお、確かに良好な状態にあり、街路は改良されてバック街からベネフィット街へと名前を変えていた。だが、マーシー・デクスターは往年のがっしりした骨格を失って、悲しく奇妙にも衰弱していた。腰が曲がった痛ましい体になり、声は虚ろ、顔は青白く — 一人残っていた召使いのマリアもそっくりだった。1782年秋、フィーブ・ハリスは娘を生んだが死産で、翌年五月十五日、マーシー・デクスターが有益、謹厳、有徳の一生を終えた。

ついにウィリアム・ハリスは自らの住居が根本的に不健康な性質を持っていると確信し、これを永遠に閉鎖するための行動を開始した。新規開業したゴールデン・ボール・インに自分と妻のための仮住まいを確保しておいて、グレート・ブリッジの向こうにある発展中のウェストミンスター街により美しい家を新築するよう手配した。そこで1785年に息子のデュティーが生まれ; やがて商業地域が蚕食してくると再度河を渡って丘を登り、エインジェル街のイーストサイド住宅地に落ち着いた。1876年に故アーチャー・ハリスが贅沢だが酷く醜いフランス屋根の邸宅を建てたのがこの場所である。ウィリアムとフィーブの二人は1797年の黄熱病の流行によって命を落としたが、デュティーはペレグの息子である従兄弟のラスボーン・ハリスによって育て上げられた。

ラスボーンは現実的な男で、空き家にしておいて欲しいというウィリアムの願いも空しくベネフィット街の家を貸し出した。デュティー少年の財産になるのだから、後見人として当然の義務だと考え、死と病によって何度も借り主が代わり、その家を拒絶する雰囲気が一般市民の間で次第に育っていってもお構いなしだった。彼はいらだちを感じただけだったに違いないが、1804年、四人の住人の死亡が広く話題になり、死因として当時下火になっていた伝染性の熱病が考えられた際、町議会は硫黄、タール、及び樟脳でその土地を消毒せよと命じた。彼らはその場所に熱病の臭いがすると言っていたのだ。

デュティー自身は家のことをほとんど顧みなかった。というのも彼は成長して私掠船船員となり、1812年の戦争ではキャホーニ船長指揮するヴィジラント号の乗組員として参加するの栄誉に浴したからだ。彼は無事復員し、1814年に結婚、記念すべき1815年九月二十三日の夜に父親となった。この日、大嵐が巻き上げた湾の水が街の半分を浸し、ウェストミンスター街にまで背の高いスループ船が押し流され、マストがハリス家の窓を叩きそうになった。これは新しく生まれた少年ウェルカムが海の男の息子であることを肯う象徴的な事件だった。

ウェルカムは父親より早く、1862年、フレデリクスバーグの役(*2-3)において栄えある散華を遂げた。彼も、彼の息子のアーチャーも、忌まれた家について知っているのは、貸家にできない厄介者だということだけだった — 時代遅れでありまた手入れの行き届かぬ古家らしい胸の悪くなるような臭いがするからだろう。確かに、戦争の動揺のためあまり気づかれなかったのだが、1861年に打ち続く住人の死が猖獗を極めて後、その家は貸し出されることがなかった。父系の最後の人物であるキャリントン・ハリスは私が自分の体験を語るまで、その家のことを寂れてちょっとばかり美しい、伝説の中心地としか知らなかった。彼はその家を取り壊して新しい共同住宅に建て替えるつもりだったのだが、私の説明を聞いてその建物を残すことに決め、水道を引いて貸し出した。以来、借り手を見つけるのに困難はなかった。恐怖は去ったのである。

III.

私がハリス一家の年代記にどれほど影響されたかは十分想像できるだろう。この途切れのない記録の中に、私の知る自然とはかけ離れた何らかの邪悪が住み着いているように思われた; 明らかにその邪悪は家族ではなく家に結びついていた。伯父が集めた他のデータ — 召使いの噂から書き起こした言い伝え、新聞の切り抜き、専門医が提出した死亡診断書等 — はここまで組織だっていなかったが、先の印象を堅固にするものだった。伯父は疲れを知らぬ好古家でありまた忌まれた家に深い関心を持っていたので、それらの材料全てをここに記すことは望むべくもない; しかし若干の重要な点については触れておこう。多くのばらばらな情報源から得られた報告の中で、共通して何度も現れるため注意を惹いたものである。例えばその家の黴臭い地下室が邪悪な影響の主たる源であるとする点で、召使いたちの噂話はきれいに一致していた。召使いの中には — 特にアン・ホワイトがそうだったが — 地下の台所を決して使おうとしなかった者がおり、少なくとも三種類のはっきりした言い伝えが、木の根や黴の斑点の形から見て取れる、奇妙な人間もどきのあるいは悪魔めいた輪郭と関連していた。後者の話は少年時代に自分が見たものを説明しており特に興味深かったが、いずれの場合も、地元の幽霊伝説からの付け足しが多過ぎて重要性が埋もれてしまっていると感じた。

エクセターの迷信のせいで、アン・ホワイトは最も突飛な、と同時に最も一貫性のある話を触れ歩いた; 家の下に吸血鬼 — 死後も身体の形を保っている死者で、生き物の血液ないし生命力によって生き、夜になればそれらの大群が捕食者の姿または霊となって外を出歩く — が埋葬されているに違いないと言い張ったのだ。祖母のいうには、吸血鬼を滅ぼすにはそいつを掘り出して心臓を焼くか、少なくともその臓器に杭を打ち込まなければならない; アンが馘首された主な理由は、なんといっても地下室の下を調べろとしつこく要求したことだったのだ。

彼女の話は、しかしながら、広い聴衆の注意を惹き、その家の敷地がかつての埋葬地だったことからよりたやすく受容された。私からすると、彼らの興味はこの状況よりもむしろ他の物事と奇妙によく符合している点によっていた — たとえば出て行った召使いプリザーブド・スミスの不平である。彼が働いていたのはアン以前であり、彼女の話を聞いたことはなかったが、夜間何かが彼の「息」を啜ると言っていた; また1804年にチャド・ホプキンス医師が交付した熱病患者たちの死亡診断書によると、死亡した四人はいずれも説明不能な血液不足状態にあった; さらに、哀れなロビー・ハリスの不明瞭な囈言がある。その中で尖った歯とガラスのような目をした半可視の存在が来ると文句を言っていたのだ。

迷信に捕われていない私ですらこれらの事柄によって妙に興奮させられ、それは忌まれた家で起きた死についての大きく時を隔てた一対の切り抜きによって強められた — 一つは1815年四月十二日付プロヴィデンス・ガゼット・アンド・カントリージャーナル紙、もう一つは1845年十月二十七日付日々新報紙(*3-1) — それぞれの酸鼻を極める状況が良く一致していたのだ。両件において、死者 — 1815年の件ではスタフォードという名の老淑女、1845年の件ではエリエイザー・ダーフィという名の中年教師 — の容貌がむごたらしく変化した; ガラス玉のような目で睨み、付き添う医師の喉を狙って噛み付こうとしたのだ。しかし、更に不可解なのはこの家の貸出しを止める契機となった最後の事件だった — 患者たちは貧血による死に先立って次第に気が狂っていき、ずる賢く親戚の頚や手首に切り付け命を奪おうとしたのである。

伯父が多くの話を年長の同僚医師から聞いたのは1860年と1861年のことで、医学実習を始めた直後から前線(*3-2)に向かう前までの間だった。本当に説明できなかったのは、犠牲者たち — 無学な人たちだった。嫌な臭いがして広く忌み嫌われた家はこういう相手に貸すしかなかったからだ — が一切習ったことがないはずのフランス語で呪いの言葉を漏らしたことだ。一世紀近く前の哀れなロビー・ハリスのことを考えさせる話で、これを聞いた伯父は歴史的な資料の収集に乗り出し、復員後のいつ頃かチェイス及びホワイトマーシュの両医師に直接問い合わせた。確かに伯父がこの件について熟考していることが私にはわかった。また、私自身のこの件に関する興味を喜んでいることも — 他人なら笑い飛ばしてしまうような事柄について私が偏見のない好意的な興味を持っていたおかげで、伯父はこの件を議論する気になったのだ。彼の想像は私のものを超えることはなかったが、その地が想像力を刺激する類い稀な能力を秘めており、怪奇と恐怖の領域における霊感の素として注目に値すると思っていた。

私はといえば、この件全体を大変シリアスに捉えたい気がして、早速、証拠を検討するだけではなく集められるものを自分でも集め始めた。1916年に亡くなるまでの間、当時家の所有者であった初老のアーチャー・ハリスと何度も話し; いまだ存命の未婚の妹アリスと共に、私の伯父が集めた一家の資料を一通り確認してもらった。しかしながら私がフランスないしフランス語とその家との間にどんな関係があったのだろうと聞いても、二人は率直に私同様よく知らないと当惑顔で打ち明けた。アーチャーは何も知らず、ハリス女史が言うには、祖父デュティ・ハリスが何か古い仄めかしを聞いたということだけは覚えていて、その仄めかしによっていささかの光明がみいだされるかも知れないという。老いた船乗りは息子ウェルカムが戦死した後二年生きたが、彼自身は言い伝えを知らなかった; だが、最初の乳母である老マリア・ロビンスについて思い出すことがあった。その乳母は、ロビー・ハリスがフランス語で囈言を話すのを、不幸な女性の最期の日々の間何度も耳にしており、それを重視するに足る妙な何かをそれとなく意識していたようなのだ。マリアは1769年から1783年に家族が引っ越すまで忌まれた家にいて、マーシー・デクスターの死に立ち会った。彼女はある時子供だったデュティーに幾分特殊だったマーシーの末期の状況について何かを仄めかしたのだが、すぐに彼は何かが変だったということ以外は全部忘れてしまった。孫娘にしてもこれを思い出すのがやっとだった。彼女も兄もアーチャーの息子キャリントン以上にその家には興味を持っていなかったのだ。このキャリントンが私が自分の経験を伝えた現在の所有者である。

ハリス家の人たちから聞き出せるだけの情報を聞き出したので、初期の町の記録と証書類に目を転じ、伯父が時折示した以上の深さまでそれらを徹底的に考究した。私が得たかったのは、1636年の建築当初 — あるいはナラガンセット・インディアンの伝説を掘り起こせるならばそれ以前 — にまで遡る、問題の土地の包括的な歴史だった。最初に見つけたのは、この地が本来ジョン・トロックモートンに与えられた細長い地所の一部だということだった; 川沿いのタウン街から始まり丘を登っておおむね現代のホープ街に当る線まで広がったもので、多くの類似した帯状の地所の一つだった。トロックモートンの地所はもちろん、後日細かく分割され; 私はバック街ないし後のベネフィット街が通ることになる区画をせっせと追跡した。確かにある噂によるとそこはトロックモートンの墓地だったというが; 記録を注意深く調べると、墓はすべて早いうちにポータケット・ウェスト・ロード沿いの北共同墓地に移されていたことがわかった。

そのとき突然、ある物に気づき — 記録本体ではない。見逃しがちな部分にあったため、これを見つけられたのは本当に偶然の僥倖だった — それは事件の最も奇妙な諸側面のいくつかにぴったり符合し、何としてでも知りたいと思わせるものだった。1697年に発行された、エティエンヌ・ルーレとその妻に土地の小部分を貸すという証書である。ついにフランスの要素(*3-3)が現れた — それと、濫読してきた奇怪な書物の最奥からその名前が呼び起こしたある深い恐怖の要素と — そして私は、1747年から1758年の間に切り通しによってバック街の一部が直線化される前の地割りを図面にしようと、熱狂的に研究した。発見したのは半ば期待していたことで、現在忌まれた家が立っている場所は、ルーレ家がかつて建てていた屋根裏付平屋建てコテージの裏側に広がる一家の墓地に当っているという事実及びその墓地を移した記録が一切存在しないという点だった。実際、文書の最後の部分は大変に混乱していて; ロードアイランド歴史協会およびシェプリー図書館を隈無く探しまわって、やっとのことで当地に於けるエティエンヌ・ルーレという名前が解錠するであろう扉を見いだしたのだ。その終点で私はあるものを発見した; 曖昧ながら醜怪な重要性を持つもので、私は直ちに忌まれた家の地下室自体を綿密に調査するべく興奮を新たにしたのだ。

ルーレ家は1696年にナラガンセット湾を下った西岸にあるイースト・グリニッジ(*3-4)からやってきたらしかった。彼らはコード出身のユグノーで、行政委員がプロヴィデンスでの居住許可を与えるまでに随分反対があった。ナントの勅令が撤回された後彼らがイースト・グリニッジに移ってきたのは1686年のことであり、不人望のせいでそこから追い立てを食ったのだ。噂がいうには、反感の原因となったのは単なる人種や出身国による偏見や、他のフランス人入植者とイギリス人入植者との間に起こり、アンドロス総督(*3-5)すら鎮められなかった土地争いを超えた何かだった。だが、彼らの熱心な — 熱心過ぎるという囁きもあったが — プロテスタンティズムと、湾の南方の家から追い出されてきた時の見るからに困窮した様子によって町の長老たちの同情を集めることとなった。この町は他所から来た人たちに避難所を授けていた; そして浅黒いエティエンヌ・ルーレは野良仕事より妙な本を読んだり変な図形を描いたりするのが得意だったのだが、タウン街のずっと南の方にあったパードン・ティリンガストの波止場の倉庫で事務の仕事を貰った。しかし、後に — おそらく四十年程後、老ルーレの死後 — 何かの騒動が持ち上がり、それ以降一家の消息を聞く者はいなかったらしい。

一世紀以上の間ルーレ家はニューイングランドの単調な生活の中における強烈な事件として記憶され続け、しばしば話題になってきたようだ。エティエンヌの息子ポールは無愛想な奴で、この人物の常軌を逸した振る舞いがその一家を消し去ることになる騒動を引き起こしたのだろうし、また憶測の源ともなったのだろう; そしてプロヴィデンスは隣町の清教徒が起こした魔女狩り騒ぎに組しなかったものの、歳とった主婦たちは、彼の祈りは適切な時に上げられておらず適切な対象に向けられてもいないと好き勝手に仄めかしていた。疑いなく、こういったものの全てがマリア・ロビンスが知っていた言い伝えの基盤となったのだ。ロビー・ハリスや他の忌まれた家の住人が口にしたフランス語の囈言とそれとの関係が何だったかは、想像するかあるいは今後の発見に待つしかない。私は、その言い伝えを知っている者のうち一体何人が、私が広範な読書から知っていたある恐怖との間に存在する付随的な関係を判っているのだろうかと思った; 身の毛のよだつ恐怖の年代記が物語るコードのジャック・ルーレなる存在のことである。このものは1598年に悪魔憑きとして死刑を宣告されたが、後にパリの高等法院によって火刑を免れ、癲狂院に閉じ込められた。彼は、一人の少年が二頭の狼に食い殺され引き裂かれた直後に、森の中で血と肉片に塗れているところを発見された。狼の一頭は無傷で逃げ去ったのを見られていた。なかなか結構な炉端の怪談であり、名前と土地に関して奇妙な重要性を持っている; だが、私は、プロヴィデンスで噂を立てていた人たちは総じてこれを知らなかったはずだと判断した。もし知っていたなら、この名前の一致が彼らを過激かつおびえた行動に走らせただろうし — 狭い範囲で噂が囁かれた途端に最後の騒動が持ち上がりルーレ家を町から消し去るようなこともなかったのではないか?

今や私は、その呪われた場所をこれまでにも増して度々訪れるようになった; 庭の病的な草木を研究し、建物の全ての壁を調べ上げ、地下室の土の床を数センチごとに(*3-6)凝視した。ついに、キャリントン・ハリスの許可を貰って、使われることのなくなっていた地下室の扉に鍵を差し込んだ。それはベネフィット街に直接開いている方の扉で、暗い階段や一階のホールや表扉を通るよりも、即座に外界に出られるこちらを好んだからだ。私は、病的な感じが最も濃厚に潜んでいるこの場所を、陽の光が地面より上になっている蜘蛛の巣だらけの窓越しに差し込む午後の間じゅう探しまわった。静穏な表の歩道から一メートル位しか(*3-7)離れておらず、私との間には解錠したままの扉があるだけだということが、ある種の安心感を与えてくれた。努力は報われず、新しいものは見つからなかった — 同じような気を塞がせる黴臭さと、微かに感じる有害な臭い、及び床に描かれた硝石の輪郭だけがあった — たくさんの歩行者が割れ窓からこちらを見ていたに違いないと思う。

とうとう、伯父の提案で私はその地点を夜間当ってみることにし; ある嵐の深夜、変わった形が見え歪んだ半燐光性の菌類が生える黴臭い床に懐中電灯の光を向けた。問題の場所はその夜私を奇妙にぐったりさせ、白っぽい堆積物の中に少年時代から感づいていた「二つ折り」の形がはっきり見えた — あるいは見えたと思った — 時には、ほぼ心の準備ができていた。その明瞭性はこれまでに見たことのない驚くべきもので — 監視している内に、何年も昔のあの雨の日、私を驚かせた薄く黄色っぽい明滅する蒸気を再び見たと思った。

暖炉の脇にある人形をした黴の斑点の上に、それは立ち昇っていた; 微かな、病的な、ほとんど発光せんばかりの蒸気が、湿気の中うち震えながら垂れていくと、曖昧な、衝撃的な形を暗示し、次第に崩れ漠然とした雲のようになって、激しい悪臭と共に大煙突の闇の中へと流れ込んでいくのだ。本当に恐ろしかった。その地点のことを知ってるだけになおさらのこと。逃げようとする心を抑え、私はそれが薄れて行くのを監視した — すると、それを見ている私のことをそれ自体が、外見上というより想像上の目で貪欲に見つめ返しているような気がした。このことを伯父に話すと、彼は大いに刺激され; 一時間の緊張した熟考の後に、明解にして断固たる決断に至った。彼は事件の重要性及び我々とそれとの関係の重大性とに鑑み、我々は二人してかの黴臭く菌類に呪われた地下室に一夜または連夜張り込んでみるべきであり、さらに可能ならばその家に根付く恐怖を打破すべきであると主張したのだ。

IV.

1919年六月二十五日水曜日、何を見つけるつもりか伝えないままキャリントン・ハリスに話を通してしまうと、伯父と私は、携帯用ベッドを二つ、重量のある複雑な科学機器と共に忌まれた家に運び込んだ。私たちは昼間のうちにこれらを設置した。窓を紙で覆って、夕方に戻ってきて最初の不寝番に当る予定だった。地下室から一階への扉を施錠し; 街路側の扉の鍵を持ち、不寝番が続く間必要に応じて何日でもその高価で繊細な装置 — 大金をはずんでこっそり入手したものだ — を置いておけるように準備を整えた。夜更けまで二人で起きていて、その後は夜明けまで二時間ごとに交代で一人ずつ番をする計画だった。私が最初の番、次は伯父で; 自分の番が済むと、簡易ベッドで休息を取る。

それらの機器類をブラウン大学の実験室やクランストン街造兵厰から入手し、冒険の方向を直感的に決定づけるに当って伯父が発揮した天性のリーダーシップは、八十一歳の老人が持つ潜在的な生命力と回復力の驚くべき証だった。エリフ・ウィップルは自ら医師として唱導してきた衛生学の法則に従って生きてきた。後の出来事さえなければ今でも元気一杯でここにいたことだろう。何が起きたかに気づいているのはたった二人の人間だけ — キャリントン・ハリスと私自身である。ハリスには話さざるを得なかった。彼はその家の所有者であり、そこから何が退治されたかを知るにふさわしかったからだ。その時もまた、自分たちの調査のことを事前に説明しておく必要があった; そして伯父が逝った後思ったのだが、避けて通れない公式の弁明をする際、彼はよく判ってくれ支えてくれたのだった。彼は青ざめながらも私を助けると言ってくれ、もう家を貸しても大丈夫だと決意してくれた。

その雨の夜の見張りが心配でなかったと言えば、酷く馬鹿げた誇張になるだろう。前述の通り、私たちは子供じみた迷信に惑わさせたりはしなかったが、科学を研究し熟考してきた結果、既知の三次元宇宙は物質とエネルギーからなる全宇宙の一部に過ぎないことを知っていた。この件では、数多くの信頼できるソースから得られた圧倒的な量の証拠が、強力かつ人間の視点からすれば格別に有害な特定の力が執拗に存在し続けていることを示していた。といって、私たちが実際に吸血鬼や狼男の存在を信じていたと総括するのはあまりに不注意に過ぎるだろう。むしろ、私たちは、生命力と菲薄化した物質がよく知られていない未分類の変容を起こす可能性を否定するものではなかった、と言うべきであろう; そのような変容は、他の宇宙の構成物との関係をより密接に持つためこの三次元宇宙では滅多に起きないが、それでもなお我々の宇宙の境界から十分近いところにあるため、時折顕現しては、適切な視点を欠く我々には理解すべくもない姿を見せるのだ。

簡単に言えば、疑うべくもない一連の事実から、伯父と私は忌まれた家では何らかの影響力が遷延していると考えた; 二世紀前、最初に家を建てた不快なフランス人の誰かしらに端を発し、原子及び電子の運動における未知かつ稀な法則を通じて尚も働いている。ルーレの一家は外側にある実在の世界 — 普通人なら反発と恐怖以外のものを抱かないような暗黒界 — と親和性を持っていることが歴史の記録から証明されるようだった。そこで、過ぎにし1730年代の騒動が彼らの一人かそれ以上の — 特に邪悪なるポール・ルーレ — 病的な頭脳の中で、暴徒によって殺され埋められた肉体を生き延びさせるようなある種の運動パターンを促進し、何らかの多次元空間の中で、自分を侵害した社会に対する憎悪によって方向付けられた本来の力の線に沿ってこのパターンが動作し続けたりはしなかったのだろうか?

かような存在は、相対論と原子内過程を含む新たな科学の光の下では物理的・生化学的に不可能ではない。不定形・定形を問わず、異質な物質ないしエネルギーよりなる一つの核が、生の力、または問題の核が浸透し時として完全に同化できるより物質的な別の生命体の身体組織から、感知不能ないし非物質的に引き抜かれ、生命を保つ状況を容易に想像できよう(*4-1)。それは敵意を持つかもしれず、あるいは単に盲目的な自己保存の本能によって動かされるかもしれない。いずれにせよ、この手の怪物は私たちの世界の構成の中では異常な侵略者でなければならず、その撲滅は、世界の生命・健康・正気に仇なす輩を除く万人の義務というべきものである。

私たちをまごつかせていたのは、その存在のどの側面と対決することになるのか全く判らない点だった。正気な人間でそれを目にした者はなく、かつてはっきりと触れた者も僅かしかいない。純粋なエネルギー — 物質の領域外のエーテル体 — でも部分的に物質的でもあり得た; 固体、液体、気体の三相に亘ってある程度近似できるのみならず、希薄な非粒子的状態にも意のままに変化しうる、未知の可塑的かつ多義的な物質である。人形をした床上の黴の斑、黄色っぽい蒸気、昔話に出てくる木の根の曲がり具合、これらは人間の形との間に、少なくとも遠いつながりを持っていることを証拠立てているが; その類似性がどの程度代表的ないし永続的かは、誰にも明言できないのだ。

私たちはそれと戦うにあたって二つの武器を用意した; まず、強力な蓄電池によって駆動され珍しい形のスクリーンと反射器を備えた特製のクルックス管。これは触知することができず破壊的なエーテル放射のみが有効だと判明した場合に用いる。もう一つは一対の軍用火炎放射器で世界大戦(*4-2)で用いられた種類のものである。これは部分的に物質よりなり、機械的な破壊を用いうると判明した場合のためで — エクセターの素朴な迷信の顰みに倣って、もしそいつに火で焼けるような心臓があるなら焼いてしまおうというわけだ。この攻撃装置を黴が異様な形をとる暖炉の前に向け、その周りに置いた簡易ベッドと椅子の位置を念入りに調整した。ついでに言えば、その斑っぽいものはそれらの家具や機器を設置するときも、不寝番のために戻ってきたときも、うっすらと見えるだけだった。本当にそんなものを絵のようにはっきりした姿で見たことがあったのだろうかと一瞬疑いかけたが、そのとき言い伝えのことを思い出した。

夏時間午後十時に始まった地下室での不寝番は、はかばかしい進展をみないまま続いた。外からは雨にけぶった街灯の光が弱々しく漏れ来たり、内側では嫌ったらしい菌類が微かな燐光を発していた; 漆喰の痕をとどめぬ滴に濡れた石壁; じめつき白黴に汚れぞっとするような菌類が生えた悪臭紛々たる固い土の床; かつてスツールや椅子やテーブルやその他無様な家具だったものの崩れ行く痕跡; 頭上を這う一階を支える厚板と図太い梁; 家の他の部分の床下にある物置や小部屋に通じるくたびれ切った厚い扉; 荒廃した木の手すりのあるぼろぼろの石段; 大きく凹んだ粗雑な暖炉の煉瓦は黒く汚れ、錆びた鉄の断端があった。昔は留め金やまき載せ台や串や自在鍵や肉焼き器(*4-3)があったのだろう — 加えて私たちが持ち込んだ質素な簡易ベッド、キャンプチェアおよび大掛かりで複雑な破壊装置。室内で照らし出されていたのはこういったものどもだった。

前に私自身が説明したように、街路への扉は解錠したままにしておいた; 事態が私たちの扱える力を超えていた場合に、直接逃げ出せる経路を開けておく必要があったからだ。私たちの考えでは、夜の不寝番を続けていれば、その辺をうろつく何かしら悪意を持った存在を呼び寄せることになる。それを十分に認識・観測し次第即座に、手持ちの道具で始末することができるよう準備をしているのだ。そのものを呼び起こし排除するまでにどれだけの時間を要するかについては、私たちはいかなる予断ももっていなかった。また、この企てが安全からほど遠いことも承知していた; そのものの強さがまるで判らなかったからだ。だが私たちはこのゲームを危険を冒すだけの価値があるものだと考えており、躊躇なく単独での着手を選んだのだ; 外部に援助を求めても嘲笑の的になるだけで、目的を全く達成できずに終わることになるだろうという意識があった。その夜遅くまで交わしていたのはこんな話題だった — やがて伯父は眠そうな様子を見せるようになり、私は彼が二時間の仮眠に就くべき時間になったのだと気づいた。

深夜に一人きりで座っていると、恐怖のような何ものかが私の背筋を震わせた — 一人きりで、と言おう。眠ってしまった人の傍らに座る者は一人ぼっちなのだから; 多分、自分でわかる以上に一人なのだ。伯父は苦しそうに息をしていた。深々とした呼気と吸気に外の雨音が伴奏をつけ、家の中のどこか遠くで滴り落ちる苛立たしげな水音がそれを貫いた — この家は晴れた日ですら胸を悪くするほどじめついているのに、こんな嵐の中ではまるで泥沼だった。私は菌の発する光と覆いを付けた窓を通して街から忍び込む弱々しい光の中で、緩んだ壁の古い石組みをじっと見ていた; この場所の不快な雰囲気のせいで気分が悪くなった私は、一度扉を開けて街路を見渡し、見馴れた光景と健全な空気で目と鼻を休めた。それでも私の監視に応えるものは何も起こらず; 私は繰り返しあくびをした。疲れが不安に勝ったのだ。

その時、眠っている伯父の動きが気になった。眠りについた後三十分程したころから、彼は簡易ベッドの上でせわしなく寝返りを打っていたのだが、今やその呼吸はいつになく不規則になっていて、時折ため息のような、もっと言えば息を詰まらせながら呻くような声を漏らしていた。懐中電灯をつけてみると、伯父は簡易ベッドの上で横向きになり、顔を反対側に向けていた。何か痛みでもあるのかと再度懐中電灯をつけた。とても驚いたことに、そこで見たものは比較的大したことではなかったのにも拘らず私を狼狽させた。単に、何かの奇妙な状況が場所と任務のもつ不吉な性質と組み合わされたからに違いない。状況それ自体は恐ろしくも不自然でもなかったのだから。それは伯父の表情に過ぎなかった。疑いなく私たちの置かれた状況が見せる夢によって乱され、動揺をさらけ出し、彼のものとも思えない性格の。通常の彼の表情は親切で上品で穏やかなのに、今は様々な情動が彼の中でせめぎあっているようだった。総じて言えば、私を戸惑わせたのは主にその多様性だったのだと思う。伯父は大きくなっていく動揺に喘ぎ悶え、今では目さえ見開き、一人の人間ではなく多くの人々、奇妙なことに彼自身ではない他人たちのように見えた。

突然伯父は呟き始め、話をする口と歯の様子が私には気に食わなかった。はじめのうちどんな言葉を呟いているのか聞き取れなかったが、その後 いくつか聞き取れるようになると、私は— いきなり — 恐怖に身も凍る思いがした。その時私は伯父の教養の広さと、 両世界評論(*4-4)から長大な人類学および好古趣味の記事を翻訳してきた経歴を思い出してほっとした。尊敬すべきエリフ・ウィップルはフランス語で呟いており、私に聞き取れたいくつかのフレーズは、彼がこの有名なパリの雑誌に載っていた最暗黒の神話を脚色しているように見えたからだ。

額からどっと汗を吹き出して、半ば目覚めた伯父は出し抜けに跳ね起きた。混乱したフランス語が英語の叫びに変わり、しわがれ声でどなった「私の息が、息が!」 すっかり目が覚めいつもの落ち着いた表情に戻った伯父は、私の手を取って夢の話を始めたのだが、その中核部分は畏怖なしには推測できないものだった。

彼がいうには、ごく普通の夢の景色から、これまで本で読んだものとは全く脈絡のない奇妙な光景へと漂っていった。それはこの世界であると同時にそうでなかった — 暗い幾何学的な混乱があり、その中で見慣れた事物の諸要素が、まるで見慣れぬ、不安をかき鳴らす組み合わせとして見えるようになったのだ。歪んだ光景が互いに重畳し; その配列の中で、空間のみならず時間における不可欠な諸要素がこの上なく非論理的なやり方で溶融していた。この万華鏡のごとき悪夢の奔流の中で、時折奇妙にはっきりした、しかし説明不能な程異質な、いってみればスナップショットのようなものが現れたのだ。

一度、ぞんざいに掘られた窖が口を開く中に横たわっている気がした。周囲から三つの角(かど)のある帽子をかぶった沢山の怒った顔が髪を振り乱しながら顰め面でこちらを見下ろしていた。再び、彼は家の中にいるようだった — 古い家だ、みるからに — が、細部と住人が常に変化していくので、顔も家具もはっきりとはわからなかった。それどころか部屋そのものも。というのも、扉も窓も、あたかも動体であるかのように流動的だったからだ。奇妙なことに — 嫌らしいほど奇妙なことに — 伯父が半分信じてもらえないだろうという様子でおずおずと語るには、それらの奇妙な顔の多くが間違いなくハリス家の表情を帯びていたというのだ。また、伯父自身については、浸透性を持つ何らかの存在が自分の生命のプロセスを奪おうと身体中に広がって探っているような、息詰まる感じがしたという。この生命のプロセスという言葉に私は震えた。八十一年の間働き続け疲弊したそれらのプロセスが、最も若く力強いシステムをすら恐れさせるような未知の力と戦っているのかと考えたのだ; しかし、次の瞬間には思い直した。夢は夢に過ぎず、これらの不愉快なヴィジョンは精々、このところ私たちの心を完全に占拠してきた調査と期待に対する伯父の反応以上のものではありえない。

また、話をしているとすぐに奇妙な感じはなくなっていき; 私はあくびをしいしい仮眠の番についた。受け持ちの二時間の仮眠が終わるだいぶ前に悪夢に起こされてしまったにもかかわらず、伯父ははっきり目覚めたようにみえ、見張り番に就くのを歓迎していた。私はすぐ眠りにおち、早速酷く胸騒ぎを起こすような夢にうなされた。私は幻影のうちに宇宙的な深淵の孤独を感じた; 独房内に倒れた私に向けてあらゆる方向から敵意が放たれている。縛り上げられ猿轡をはめられているようで、渇いた群衆が遠巻きに私の血を狙って叫びをあげる声が、谺となって私を嘲笑していた。伯父の顔は起きていた時に比べ不愉快な連想を与えるようになり、私は何度も空しく抗い叫びをあげようとしたのを覚えている。快眠ではなかった。響き渡る叫び声が夢の壁を破り、戦く私を叩き起こしても、残念だとは思わなかった。そのとき、一つ一つの現実の物が普通よりはっきりとリアルに見えたのだ。

V.

私は伯父の椅子に背中を向けて寝ていたので、突然目覚めたそのとき目にしたのは街路に出る扉、更に北側の窓、壁、部屋の北側の天井だけだったが、これらの光景は菌類の発光よりも街路からの光よりも、もっと明るい感じに私の脳内に写し取られた。光が強かったわけではなく、そこそこ強かったわけですらない; 普通の本を読むには足りなかったろう。だがそれは私と簡易ベッドの影を床に投げかけ、黄色っぽい突き通るような力が光度以上の強さを暗示していた。これを不健全な程はっきりと認識しているその時、私の他の二つの感覚は暴力的に蹂躙されていた。耳はショッキングな叫び声でわんわんと鳴り、鼻はこの場の悪臭にむかむかしていたのだ。感覚同様に私の精神も機敏に異常事態を認識し; ほとんど自動的に跳ね起きると、振り向いて、予め暖炉の前の黴びた斑に向けておいた破壊装置を手に取った。振り向くとき私は自分が目にしようとしているものに戦いた; 叫んでいるのは伯父の声であり、どんな脅威から伯父と私自身を守るべきか不明だったからだ。

だが結局、その光景は私の恐れていたものよりも更に悪かった。恐怖を超えた恐怖、おぞましい夢幻の核の一つであり、大宇宙は極少数の呪われし薄倖者だけにその戦慄を味わわせるのだ。菌類を浮かべた土から蒸気のような屍光が立ち上り、黄色く病的にぶくぶくと沸き上がっては巨体となって、曖昧模糊たる半人半怪の輪郭をとり、その背後に煙突と炉床が透けて見えた。そこにあるのは眼 — あざ笑う狼の眼 — 昆虫のような皺だらけの頭、その頂部は薄い霧となって腐肉のように渦巻き煙突に吸い込まれて消えて行った。そういうものを見たと言うのは、それがいまいましくもどんな形に近づいていったかを後から振り返って、意識的に辿ってみた結果である。その時に見たのは、胸のむかつくような薄く燐光を放つ菌類の雲が泡立ち、ある物体を包み込み溶解していく姿だけだった。私の全注意力をひきつけていたその物体こそ私の伯父 — 尊敬すべきエリフ・ウィップル — だった。その顔は黒く朽ち、私に気味の悪い流し目をくれながら早口でしゃべりかけてきた。そして恐怖の齎した凶暴性をもって私にびしょ濡れの鉤爪を伸ばしてきたのだ。

私を狂気から救ったものこそは定型作業の感覚だった。決定的瞬間のためにこれまで自分を鍛え準備してきた、その盲目的な訓練の賜物だったのだ。泡立つ邪悪を物質的なあるいは化学的な手段では到達し得ないもの(*5-1)と見たので、左側に突っ立つ火炎放射器には構わず、クルックス管装置に電流を投じ、不死の瀆神現象に向けて、人間の技術が自然の空間と薬液から作り出せる最強のエーテル放射の焦点を合わせた。青白い靄と激しいスパッタリング(*5-2)が起こり、私の眼には黄色い燐光が弱まっていくように見えた。だがそれは対照の上でのことに過ぎず(*5-3)、機械が発する波動は何の効果ももたらさなかった。

そのとき、悪魔的な惨状のただ中で私は新たな恐怖を目にし、叫び声を上げながら鍵が開いたままの扉に向かってよろめき外に出た。静かな街路は、私が世界に向けて解き放った異常な怪異にも、それによって人々が私に下すであろう判断や裁きにも無関心だった。その暗い青と黄の混色光の中で、伯父は記述し難い吐き気のする液状化を開始しており、消え行くその顔から狂気のみが信じられるような同一性(*5-4)の遷移が起きていた。ひとたびは悪魔であり、群衆であり、死体安置所であり、野外劇であった。気まぐれな混合光線に照らされ、膠質の顔が十重の — 二十重の — 百重の — 表情(*5-5)にみえた; 歯を剥きながら、獣脂のように床に溶け落ちた胴体の上に沈んで行った。異質でありながら同時に異質でない大勢のカリカチュアを示しつつ。

私はハリス家の顔を見た、男も女も、大人も子供も。他の顔も見た、老いも若きも、荒っぽいのも洗練されたのも、気さくなのも気難しいのも。一秒の間、造形学校博物館(*5-6)で見た哀れな狂女ロビー・ハリスのミニアチュールの堕落した偽物がちらりと見えた。次の瞬間、キャリントン・ハリスの家で絵を見て記憶していた通りのマーシー・デクスターの骨張った姿を捉えたと思った。それは想像も及ばぬ恐怖だった; 終わり頃、緑っぽい獣脂が広がる菌類だらけの床近くに召使いと赤ん坊の幻がちらついた時、いくつもの移ろう姿が互いに戦うかのように見え、一所懸命に伯父の優しい顔の形を取ろうとしているように見えた。伯父はその瞬間存在したのだと考えたい。私に別れを告げようとしたのだと。私は乾いた喉からしゃっくりのようにさようならを言って街路によろめき出たらしい; 薄い獣脂の流れが私を追い、扉を通して雨の歩道まで延びていた。

それからのことは暗く曖昧で醜怪だ。雨に打たれた街には誰もいず、話をしようと思う相手は世界中のどこにもいなかった。私はあてどなく南に歩き、カレッジ・ヒルを、図書館を過ぎ、ホプキンス街を下り、橋を渡って商業地域へ出た。そこに立ち並ぶ高層ビル(*5-7)が私を守ってくれるようだった。丁度、現代の物質的なあれこれが古代の不健全な謎から世界を守っているように。東の空から灰色の夜明けが徐々に広がり、古い丘と神々しい尖塔のシルエットを描き出した。私はこれを見て、恐怖の仕事を残してきたあの場所のことを考えることになったのだ。ようよう私は歩き出した。濡れそぼち、帽子を冠らず、朝の光に目を眩ませながら、半開きにしてきたベネフィット街の恐怖の扉の中へと入った。その扉は早起きの家主たちの目の前で尚も謎めいて揺れていたが、彼らと声を交わす気にはなれなかった。

黴の生えた床は多孔質だったので、獣脂はなくなっていた。暖炉の前にあった硝石の二つ折れ巨人斑も跡形がなかった。私は簡易ベッドを、椅子を、機器を、放り投げた帽子を、黄変した伯父の麦わら帽子を見た。当惑感はこの上なく、どこまでが夢でどこまでが現実なのかほとんど思い出すことができなかった。そのとき思考が甦ってきて、夢に見たものよりも恐ろしい現実をこの目で見たのだと気づいた。私は何が起きたのかを狂気に落ち込む一歩手前まで推測しようと試み、同時に確かにあの恐怖が現実だったとしたら、それを終わらせる方法を考えようとした。物質には見えなかったが、エーテルでもなく、死すべき人間の想像に敵う何物でもなさそうだ。とすれば、何らかの異質な発散物; エクセターの怪談が教会墓地を彷徨うと称するような、吸血鬼めいた一種の蒸気はどうだろう? この考えには脈があるという気がして、もう一度、黴と硝石が異体な姿を呈していた暖炉の前の床を見た。十分間で私の心は決まり、帽子を取って家に向かい、風呂を浴び、食事を摂り、電話を掛けて鶴嘴と鋤と軍用ガスマスクと硫酸のカルボイ(*5-8)を六箱、明日の朝ベネフィット街の忌まれた家の地下室の扉に届けるよう手配した。それが済むと私は寝ようとした; 無駄だったので、自分の気分を中和しようと読書や馬鹿げた作文で何時間も潰した。

翌日午前十一時、私は掘削に取りかかった。さんさんと注ぐ陽光が嬉しかった。ここでも私は一人だった。探索中の未知なる怪異を恐れてはいたが、誰かに話すのはもっと怖かったからだ。後になってハリスに話したのは純然たる必要性に駆られたためであり、また彼が老人たちからとても信じる気にもなれない変な話を聞いてきたせいだった。暖炉の前の悪臭を放つ黒い土を掘り起こしていくと、鋤が切り刻んだ白い菌糸から粘着性のある黄色い膿汁(*5-9)が沁み出し、私は自分が暴こうとしているのがどんなものなのだろうかと考えて震え戦いた。大地の奥底に潜む秘密には人類のためにならないものがあり、思うにこれがその一つであろう。

私の手はそれと判るほど震えたが、それでも尚掘り続け; しばらくすると、私は自分の掘った穴の中に立っていた。穴の大きさは一間四方くらい(*5-10)で、深く掘る程に邪悪な臭いが強くなった; そのため私は、そのものからの発散物が一世紀半に亘ってこの家を呪ってきた地獄の存在と接触するばかりになっていることを一切疑わなくなった。それは一体どう見えるのだろうか — いかなる形態でいかなる物質から成っているのか、幾時代にも亘って生命を啜り続けてきたそれがいかほどの大きさに育っているのか。ついに私は穴から這い上がると、積み上がった汚土を何ヶ所かに振り分けて、大きなカルボイを穴の縁に沿って手許の二辺に配置した。こうしておけば、必要に応じてそれら全部を切れ目なく急速に開口部目がけて流し込めるだろう。その後、反対側の二辺に沿って土を盛った; 臭いがきつくなるにつれ、作業をゆっくりとし、ガスマスクをつけて。私は窖の底にいる名状し難いものに近づいたことで気力を失いかけていた。

矢庭に鋤が何か土よりも柔らかいものに突き当たった。私は身震いして、今や頚までの深さになっている穴から這い逃げかけた。やがて勇気を取り戻した私は、用意しておいた懐中電灯を点けて汚土を更にそぎ落として行った。掘り当てたものの表面は魚のようなガラスのような感じで — なにかしら透明性を持ち半ば腐敗した一種のゼリー状凝固物だった。私は更に汚土を取りのけていき、それが形を持っているのを知った。その物質が折れ曲がった箇所に亀裂が走っていた。露出させた面は大まかにいって巨大な円筒状だった; 青白く、ストーブの煙突(*5-11)を二倍にしたようで、直径は一番太い所で六十センチほど(*5-11)だった。更に汚土を取りのけた所で、私は穴から飛び出して汚らしいものから遠ざかった; 気も狂わんばかりに重いカルボイの栓を開けて傾け、その腐食性の内容物を次から次に、深淵なす死体安置所の中へ、想像の及ばぬ異常性の上へと投入して行った。そのを見たばかりの異常性の上へと。

酸性液が穴を流れ落ちるに連れ、そこから嵐の如く黄緑色の蒸気が吹き出し、大渦巻となって私の目を眩ませた。私はこのことを決して忘れることがないだろう。丘の住民たちは、プロヴィデンス河に大量投棄された工業廃棄物から恐るべき毒霧が立ち上った黄色い日のことを語りぐさにするのだが、私は彼らがその出所についていかに誤っているかを知っている。また彼らは同時に発生した埋設水道管ないしガス本管の不具合に起因するおぞましい咆哮についても語っている — だが、言わせてもらえば、私はそれについても訂正することができるのだ。それは筆舌に尽くしがたいほどショッキングで、どうしてそれを生き延びられたのか自分でもわからない。四番目のカルボイを空にしたとき私は意識を失った。それを扱っていた時点で毒煙がガスマスクを透過しはじめていたのだ; だが、意識を取り戻したときには穴から新しい蒸気は上がってこなかった。

私は特段の結果もないまま残りの二つのカルボイを空け、暫しの後には穴を埋め戻しても大丈夫だと感じた。それを終える前に日が暮れていたが、その場所には恐怖が戻ることはなかった。湿気から悪臭が薄れ、奇怪な菌類は枯れて無害な灰色っぽい粉となり灰のように床の上で吹かれていた。大地の持つ最下級の恐怖は永遠に消え果て; もし地獄があるとしたら、ついにそれはある不浄なるものの悪魔の魂を受け取ったのだ。最後の一鋤を置いたとき、私は、最愛の伯父の想い出に何度も捧げることになった心からの涙、その最初の一滴をこぼしたのである。

次の春、忌まれた家の庭にはもう青白い草も奇怪な雑草も生えず、時を置かずキャリントン・ハリスはそこを貸家に出した。そこはいまだに亡霊じみているが、私にとってその異質さは魅惑的であり、それが取り壊されてけばけばしい店屋や下品な共同住宅に建て替えられる時には、解放感と共に奇妙な落胆を覚えることだろう。石女だった庭の老木が小さな甘い林檎を実らせ始めた、そのねじけた枝に昨年鳥が巣ごもった。


翻訳について

チャールズ・ウォード闇をさまようものに続いて、もう一つのプロヴィデンスものを訳しました。H.P.L.の中で最初に出版された作品ではなかったかと思います。この作の時点ですでに歴史趣味全開ですね。底本はWikisource版で、適宜The H.P. Lovecraft Archive版を参照しました。前者はH.P.L.の没後ウィアード・テールズに収載されたものの電子版で、前後作品を追えたり、編集者からの弔辞があったり、挿絵があったりします。この翻訳は独自に行ったもので、題名を除き、先行する訳と類似する部分があっても偶然によるものです。

この訳文は他の拙訳同様 Creative Commons CC-BY 3.0 の下で公開します。TPPに伴う著作権保護期間の延長が必至となった現状で、ほとんど自由に使える訳文を投げることには多少の意味があるでしょう。

Lovecraft’s College Hill Walking Tour

Lovecraft’s College Hill Walking Tourによると、忌まれた家のモデルはベネフィット街135番地の Stephen Harris House だそうです。図の6番ですね。主人公の伯父の家は9番の辺りにあったことになっています。ポオの泊まった宿は12番にありました。ポオが度々訪れ、伯父の記念碑?を建てた教会は2番、ポオが愛したサラ・ヘレン・ホイットマン夫人の家は3番になります。チャールズ・ウォードに出てくるプロスペクト台地は32番、「闇をさまようもの」の主人公の家は30番にあったことになるようです。

固有名詞


1, Mar., 2015 : First Run-through
9, Mar., 2015 : 脱字修正
16, 20, Mar., 2015 : 誤字修正
25, Mar., 2015 : 誤字修正、IIの最初のパラグラフ最後を微修正、(*1-3)に追記
22, Apr., 2015 : ダブり修正、最後から四番目のパラグラフ冒頭を微修正。
14, Oct., 2015 : IIの第七パラグラフ中頃を微修正。
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