「自然がいっぱい/自然がいっぱい?」
(1997/07/02、07/10〜07/14号)
先日の事である。
余りに気持ち良く晴れているので、男山は岩清水八幡宮まで行く事にした。
京阪に乗ってなら八幡市で降りて歩くのが普通であるが、
2駅前の楠葉で降りて歩いていくことにする。
そこで降りるのは、京阪楠葉と橋本の間、電車からも見える田圃にも
寄ってみたいからである。
京阪の楠葉から橋本までの間は、田園風景が残っている。
しかもこのあたり、住宅地のそばにあるためか、農薬を余り使わない。
出荷用と言うより、自分の家用につくっているような感じだ。
そういうこともあって、ここにはおたまじゃくしやザリガニがいるのだが、
その中に、何やら妙なものを見つけた。
最初めだかと思ったが、おなかの部分が緑色なのもいる。
そう、それは豊年海老である。
以前、投稿特報王国で紹介していた事もあるので、覚えている人もいるだろう。
海老とは言うが、普通の海老とは形がたいぶ違う。
アミに近いような気もするが、変わっている。
泳ぎというか、目玉の位置などは目だかに似ている。
おなかが緑のものと透明なものがいるのは、
食べ物の関係だろう。
さらによく見ると、カブトエビもいた。
カブトガニを非常に小さくしたようなものだが、
動きは活発である。
これらは、少なくではなく、たくさんいた。
これは珍しいかも知れない。
楠葉近辺にはまだ自然が残っている場所もあるのである。
暖かい(もう暑いと言うべきか)一日、ゆっくり回りを散歩してみると、
意外な発見に出会えるかも知れない。
・・・
>某月某日
先日豊年海老と甲海老を見つけた田圃へ出かけてみる。
・・・いない。
なんと1匹もいないではないか。
あれほどたくさんいたのに。
代わりにちっちゃなザリガニとミジンコらしきものがたくさんいる。
ザリガニに食べられたとは思わないが、どうしたのだろうか。
先日との違いといえば、日差しがきついことと稲がだいぶ成長していることだろうか。
あれから水が入れ換えられてしまったとか、一度干上がったとか、
今は田圃喉真ん中付近にだけいて端にはいないとか。
それとも農薬か。
いずれにせよ、余りの違いに驚いたのであった。
その後よく探してみると、別の田圃に豊年海老だけはいた。
しかしそれも3匹だけ。
豊年海老というのは、6月頃の、ほんの一時期しか見られないのかも知れない。
それにしても魚に似ているなぁ。
田圃をよく見ると、水すましもいる。
脇の水路にはゲンゴロウがいるではないか。
最近はトンと見かけなくなったので、ひさしぶりだ。
>某月某日
買い物帰りにふと壁を見ると、何やら動いている。
カナブン(のたぐい)か?と思ったら、なんと蝉の幼虫だった。
そう、羽化のために地上に出てきたのだ。
思わず手に採って、家まで持って帰り、ベランダに干してあったタオルに付けた。
が、どうも蝉は安定したところで羽化をしたいらしく、
タオルのように揺れる場所では落ちつかないらしい。
そこで、今度は網戸に付けてみると、しばらく動いた後止まった。
それから先2時間は、ほぼ蝉の前にいて羽化を見届けた。
こんな経験は滅多にできない(私自信は実は2度目)。
この蝉、熊蝉だったが、その後丸1日半ほどその網戸に捕まったままでいてくれた。
ということで、身近なところにも感動する自然があるというお話である。
・・・「自然はいっぱい?」・・・
ということで、豊年海老も甲海老も、ザリガニ、ゲンゴロウ、蝉の羽化も
見ることの出来たわけであるが、ということは、果たして最近は
少しは自然環境が改善されてきている、と考えられるのであろうか。
たとえば、ゲンゴロウなんて、以前はどこにでも居たものだ。
道路脇の溝の水たまりにでも幾らでも。
(それでよく溝に入って採っていたものだ。)
ミズスマシ、マツモ虫いずれもどこにでも居たような気がする。
しかし、最近で箱のような一種特殊な場所でしか見ることが出来ない。
衛生面云々の話はあるが、やはり子供はいろんな動植物とふれあうことで
命の大切さを知り、自然の造形の美しさを実感するわけである。
テレビゲームの中の世界は、幾ら色がきれいになって音が良くなっても
所詮つくりものであり、魔法が使えたり、いろいろな場所へ行けたり、
一見広そうに見えるその世界は、本物の自然に比べれば
その小ささはいうまでもない。
ゲームしかやらない子供に、想像力をたくましくしろだとか、
命の大切さを知れなどと言っても、それは無理なことなのだ。
ゲームの中ではいったいどれだけの「敵」を倒すことだろうか。
そういう世代が凶悪な犯罪を起こすことは、ある意味当然と言えば当然の
結果だとも言える。
たとえば、O−157などに感染したときの抵抗力の違いというものも、
自然とふれあっているかどうかで違うと思う。
日頃から草むらで走ったり土をいじったりしていれば、雑菌も入ってくるだろう。
それを何度も繰り返すうちに抵抗力が付くわけだ。
衛生面で考えるのはいいことだが、それが過剰になりすぎると、
かえって抵抗力を落としてしまう危険があるのだ。
・・・
蝉の羽化などは、昔だってそうそう見られた訳ではない。
抜け殻を見るのがやっとだろう。
最近は蝉そのものも減ったと思うし、事実抜け殻も余り見なくなった。
蝉は7年間土の中で暮らし、地上に出てきたら1週間の命である。
今年の蝉は7年前に生まれた蝉である。
最近の自然の破壊のペースは一時期に比べて落ちているかも知れないが、
ひどいことはひどい。7年前とはだいぶ異なるだろう。
昔の破壊は山を切り崩すような大規模だったが、最近は川の護岸をコンクリートで
固めたり、道路を舗装したり、そういう見た目小規模なものが多い。
でも、小動物にとってみれば、どちらでもかわるものではない。
蝉がいる地面を固めてしまったらどうなるだろうか。
7年地中にいた蝉は、地面に出られなくなってしまう。
「土」でなければ意味がないことも多いのだ。
人間のこざかしい知恵で作った「自然と共存」なんて、
絵に描いた餅の場合もあるのだ。
昔の人なら自然をよく見ていただろうから、それも作れるだろうが、
自然を見たことのない人間が頭で考えて作ったものなど、なおさらである。
直接的自然破壊がなくても、大気汚染、水質汚染は年々ひどくなる。
ゲンゴロウが住めなくなったのは、そのせいである。
蝉の羽化の瞬間を見れば、あの一生懸命殻を抜け出し、
体が少しづつ堅くなり、色づいていく過程を見れば、感動せずにはいられない。
小さな虫と言えども、その命を大切に考えられないはずはない。
今の世の中に一番必要なのは、教科書の上での頭だけの知識ではなく、
「ふれあい」による「感動」である。
「百聞は一見にしかず」と言うのは、こういうところでも当てはまるのだ。
今の世の中の腐っているのを直すために何が必要だなどと
言っている「評論家」はたくさんいるが、実に簡単なことである、
このことを言っているのを聞いたことがない。
核心をつかまないものに真の改革は出来ないのである。