「We want more realizm!?」(1997/12/17〜12/24号)
タイトルの綴があっているかどうかの細かい突っ込みはこの際却下、である。
英語は感性で読まなければ。

        ・・・いきなり脱線してしまった・・・

世の中、映像がリアルになっている。

ここで言う「映像」とは「人工映像」のことである。
今で言うなら「CG=コンピューターグラフィックス」と思っても良い。
(昔は写真や写実主義の絵だったけど。)

映画内で実写とみまごうばかりのCGというものは、もはや常識である。
トロン(ディズニー)の頃はCGがいかにもCGではっきりしていたが、
ジュラシックパーク以降のスピルバーグの映画なぞ、ほとんどわからない
レベルである。先頃公開されたSTAR WARSの特別編でも
CGの力がいかんなく発揮されている。

テレビでもその利用は進んでいる。
かつての「ウゴウゴ・ルーガ」のように、CGと言っても子供だましのもの
(あれはあれで良い効果ではあるが)もあったが、
どこにCGが使われているのかわからないものもある。

        ・・・

ここまで単に「CG」と言ってきたが、CGにもいろいろな種類がある。
それは主に3つに分かれる。

一番簡単なレベルは、ペイントブラシで書いたような絵を出すだけのもので、
あるいはそのいくつかの絵を連続で表示してアニメ的に見せる方法である。
「ウゴウゴ・ルーガ」などはこれにあたる。
(将来のアニメはセル画からこの方法に変わる可能性もある。)

        ・・・

「ジュラシック・パーク」などに使われているものは「レイ・トレーシング」
という手法で、日本語に訳せば「光線走査法」とでもいうのだろうか。
なんか難しそうだが、原理は簡単でありそれは人が物体を「見る」ことを
まねただけである。

「物が見える」ということは、物体に当たった光がその表面などで反射して、
その反射光が人の目に届くということである。
(一口に「反射」と言ったが、光の動きには反射、屈折、散乱などいろいろある。)

レイ・トレーシングは、コンピューター内の仮想空間内に物体を計算で作りだし、
それに仮想的な光線を当て、それがどう反射するかを計算して、その結果を画面上に
表示するのである。

ここで「計算」という言葉を多用したように、レイ・トレーシングは
算術演算の塊である。そのため、ちょっと前までは1つの映像を作り出すのに
余りに時間がかかりすぎて実用的でなかった(非常に高価であった)が、
最近のコンピューターの高速化のおかげで多用できるようになったのである。
(コンピューターと言えども、実は小数点を含む実数演算は苦手分野なのだ。
小数点のない正数演算は得意なのだが。)

最後のCGは、実はそのものでは意味をなさないものである。
実写(もしくはアニメ)映像をコンピュータ内に取り込んで「修正」するものである。
(「スキャナー」は取り込みに使う機械である。スキャナー以外にも取り込む装置は
たくさんある。)
有り得ない風景を合成で創ったりするのもこれである。
もののけ姫の中でもさりげなくCGとアニメのセル画画像が合成されている。
(パンフレットを読むとわかるぞ。)

ILMとかシリコングラフィックス(SGI)とか言う言葉をどこかで
聞いたことがないだろうか。これらはCGの世界では超有名な会社である。

        ・・・

最初の方法ははずすとして、後の2つの方法は、それまでの「実際にあるものを
撮影する」という映像作成手法に「現実には有り得ないものを仮想的に
作成して撮影する」というを加える画期的なものである。

それは、いわば人の頭の中にある「想像」を映像化出来る方法と言っても良い。
CGには映画やゲームでのリアルさ追求だけではなく、
普段は絶対に絵像化できないものを映像化するという効能もある。
CGとはそれだけ革新的なのである。
(アニメもその一種ではあるが、そのリアルさにおいては引けをとる。
しかし、それは良い悪いの問題ではない。)

        ・・・

が、このような「リアル」な映像の台頭は、1つの恐ろしさも含んでいる。
それは、「見ているものが本物かどうか分からない」ということである。
生で見ているものはともかくも、テレビや雑誌でみる映像が果たして本物かどうか。

今はまだCGで創られた画像には少し不自然さが残っているが、
これもそのうち解消されるだろう。そうなると、本当に区別が付かなくなる。
それを「娯楽」としているうちはいいが、「策略」として使われたら
どうなるだろうか。

映像情報の多くがテレビを通じてしか情報を得られなくなった未来において、
制作者の意図によって作り替えられた映像が民衆を扇動する材料にされる、
ということを描いた「バトルランナー」という映画もあった。
この話にはCGは使われていなかったが、理屈は同じである。
あれが単なる作り話だとは言えない時代はもうそこまできている。

第2次大戦当時、ラジオや新聞などの情報伝達メディアを抑えることが政略的な
勝利を納めると言われた。また、国民にうその情報を伝えることにより
扇動も行った。当時は映像よりも、まだ活字が中心だったので、うそを創ることは
楽であった。

今は映像の時代であるから、活字上のうそは真実の画像によってすぐに見破られる。
が、CGによって画像すら「うそ」になってしまったら、それを見破るのは
容易なことではない。「百聞は一見にしかず」であっても、「一見」がうそな
場合もあるわけだ。

        ・・・

昨今の雑誌のグラビアを飾るモデルの写真などは、多くがコンピューター上で修正
されているという。それはプロレベルでもそうだが、今やマッキントッシュ上の
ソフトを使えば静止画なら、素人でもある程度のことは出来る。
現代の「美人」は必ずしも実在ではないわけだ。

動画ではいまだプロの機材が必要だが、シリコングラフィックス社のIndigo
というマシン(の最高位機種)を使えば、リアルタイムで実写さながらのCG画像が
動くのである(家一軒買えるほどの値段だとはいうが)。
いや、今のゲーム機における3D映像を見てもそのリアルさは数年前とは
かなりの違いだ。

CGの発達は、そもそもは見る者を満足させる映像の追求という欲求から生まれたが、
ここまで発達すると、裏腹の危険性も高めているということだ。
人は百聞には疑いをはさめるかも知れないが、果たして一見も疑うことが出来るか。
テレビから見えるリアルな映像を偽物と見破ることが出来るだろうか。

それには、日頃から、情報を総合的に収拾、判断するという訓練が必要である。
メディアの情報は所詮他人の作ったものである。
自分の情報は自分でしか作れないし、それしか信用は出来ない。

程度の差こそあれ、扇動は日常的に行われている。
資本主義における「物を購入させる」ということは、その多くが
扇動によって起こされているのだ。
人は、自分が思っている以上に情報によって動かされやすいものなのだ。

その事実を肝に命じて「よく見て」よく考えなければならない。
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