「宗教一考」(1999/12/03号)
何やら最近、新興宗教がらみの事件が多い。

人は何かしら不安が続いた時に何かに救いを求めようとするものだ。
その心の動きは自然なものであるが、一番危ない時でもある。
そういう時に少しそれらしいことを言われるとふらふらと付いていってしまうらしい。
端から見れば言っていることがおかしいし、容易にそれらが「邪教」であることが
解ろうものを、冷静でない時はその判断が出来なくなるらしい。
しかし、なぜその先が多くの場合「新興宗教」なのだろうか。

おそらくはこうだ。
そのようにふらふらしてしまう人はそもそも信仰心がない。
だから信仰宗教に走る前にこういう場面が容易に想像される。

    神社にお参りして賽銭はずんだけど御利益がなかった。
     お寺でお祓いしてもらったけど効果が出てこない
    →神社やお寺は古い宗教の象徴だ
    →古来の宗教は「救い」をもたらさない

ということで、それらを否定してしまうのだ。ろくにそれらを知りもしないで。
この時点ですでにこの人は「信仰」や「宗教」というものを勘違いしている。

救いは与えられるものではない。
宗教は救いを与えるものではないし、信仰は救いを求める行為ではない。
救いは与えられるのではなく、自らの中から沸き起こってくるものである。

病気では直すのは医者でも薬でもなく自分自身の体だ。
医者や薬はその手助けをするだけ。
宗教も同じ。それは自分の心を癒す手助けと言うかその方法を示すだけ。
信仰はその手法を学ぶ行為。

このところを全く逆に捉えていると、「救い」を標榜する「悪」に騙されて
しまうのだ。

古来の宗教はあまりに身近にありすぎてその意味に気づいていないのかもしれない。
たとえば般若心経は決して死者を弔うだけの文言ではない。
その内容は実に、生きる人間に対しての苦しみからの解脱に付いて書かれているのだ。

具体的内容はここでは書かないが「ひろさちやの般若心経88講」(新潮文庫)
などに詳しく書かれているので読むとよいだろう。
「なんと、般若心経はそんなことを伝えていたのか」と驚くことだろう。

古来の宗教はだてに数千年の歴史があるわけではない。
やはりなにかしら伝えるもの、こころの支えになるものがあるからこそ続くのだ。
その事実を知り、その中にある「救い」への道をさがしていれば、
いま被害者になっている人も被害者にはならなかったろうに。

でも、「新興宗教=悪」ではないことは注意しなければならない。
今事件を起こしているのは宗教に名を借りた破壊集団もしくは詐欺集団だ。

考えてみれば、今から2000年前にはキリスト教だって「新興」だったのだ。
だから新しいもの=悪ではない。
単に年数を重ねていないだけ。それが良いものかどうかは続くかどうかで決まると
見ていいだろう。

いずれにしても、他人のふり見てわがふり治せではないが、
くれぐれも気をつけなければならない。
特に現代は不安が多い出来事が多いから。

Q.オタクラは宗教ではないのですか?
A.近いような部分もあったりしますが、でも違うつもりです。
  でもでも、読者が増えたらそれを「信者」にして、宗教法人にしたら
  税制優遇が得られていいのかな?どう?
  ・・・って、こうしてお金の道に走るから「宗教」が腐るんだって(^_^)。

    「癒しの友 オタクラ」

ほっほっほ。
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