「戦後50年に思う」(1995/07/18 執筆)
今年は第2次世界大戦が終結してから50年目の年である。
50年と言えば半世紀、すでに戦争を直接体験している人の多くが
かなりの高齢になっている。
50年と言えば「はんせいき」、そう反省期でもある。
これを期に戦争について、直接体験していない我々も十分に考えてみる必要がある。
今はまだ直接語ってくれる人がいるのだから、今の内に多くの真実を
聞いておくべきである。

    ・・・

第2次世界大戦は、どの国が正義でどの国が悪と言うことがいちがいには言えない。
どの国も人を殺し、建物を壊した。自然も破壊し、多くの動物も巻き添えになった。
戦争を始めたものは加害者であったが、同時に被害者にもなった。
逆もまたしかり。

過去2回の世界大戦は、一般市民も巻き込むということで、
全員が被害者であり加害者でもあるという構図を作ったのだ。
確かに、先にしかけた方が悪い。これは当然だ。
しかし「加害」したのであれば、多かれ少ななかれ、その罪は背負わねばない。
そして、その罪を購うにはどうすればいいのか。

    ・・・

人は過去を振り替えるのをためらうことがある。
それは、その過去がその人にとって、表面上はどう言っているのであれ、
はずかしい、もしくは心の傷となっているからだ。
そこを突かれた時、人は過剰に反応してしまう。

過去に罪を犯したことを認めたくないという気持ちは良くわかる。
まして、それが自分の意志というよりか、全体主義の狂気の中で動かされた
というのであれば、なおさらである。

戦争というものは、人を人でなくしてしまう。
そこで動いている兵士は人ではない。
人間の持つ正常な判断力や感情を奪われた戦う兵器に過ぎない。

だから、当時の自分の行為を必要以上にせめてもしかたない。
しかし、正常な意識の持った人間に戻れた時、そこで行われた行為を、
少なくとも「2度と起こしてはならない行為である」として
認識する必要はある。認知する必要がある。
「認知」なくして、反対は出来ない。
2度と起こしてはならないとは言えない。

自民党の老年議員は戦後50年決議や日本の戦争責任について、
ずっと以前から反対している。これは遺族会からの働きかけによるものだが、
これほどバカげたものはない。
彼らは、戦争責任を認めれば、自分達は「悪人」になる、そういうことを
恐れているのだ。

だがそれは違う。

戦争時には、誰もが人間ではないのだ。だから、兵士として行った者には
罪はないのだ。そういうことと、国としての戦争責任という問題は全く
別の次元なのだ。なぜそれがわからないのだ。
いい歳をこいたじじいどもがなにを言っているのだ。
「年の功」とは何のためにある?

これは日本だけではない。アメリカでも同じことがある。
アメリカ退役軍人会はスミソニアン博物館での原爆展を中止させた。
「原爆は戦争を早期に終結させ、アメリカ人の死傷者を減らした」という点が
反映されていないからだ、ということだ。(アメリカの偉大な「エノラ・ゲイ:
広島に原爆を投下したB29の名前」が広島で見つかった黒焦げの弁当箱に
負けるということを嫌がったとも言われるが。)
そうではない。原爆展は「原爆の恐ろしさを知らしめる」為のものなのだ。
戦争記念展とは意味が違う。目的を見誤った故のおろかな行為である。

この件に関しては、アメリカ議会、クリントンも同罪だ。
そして何より許せないのは、「これはアメリカ国民の大多数の意志である」と
いけしゃあしゃあと言い切る点である。本当にそうであるという世論調査は
どこにもない。アメリカの正義の正当性を世界に示そうとする戦略だ。

過去の事実はどのようであれ、「原爆は恐ろしい」ということをなぜ認めないのだ。
恐ろしいとわかっているからこそ核軍縮をしているのではないか。
核実験を使用とするフランスをアメリカは責めているのではないか。
やることが一貫していないではないか。こんな国の大統領に何の威厳があろうか。

    ・・・

私は別に日本が戦争をしかけたことを正当化するつもりはない。
原爆を落とされたからといって日本が被害者だとは思わない。
日本はそれまでに多くの「加害」をしているから。
アメリカが原爆を落としたこと、それが戦争を早期に終結させたということに
異論をはさむつもりもない。確かにそうかも知れないからだ。
(原爆投下にはいろいろな思惑が有ったようだが、それは全く別の次元の話だ。)

だが、事実はそこにある。原爆は投下され、多くの人が死んだ。
これはまぎれもない「事実」なのだ。
核兵器とは究極の無差別殺人「平気」もとい、兵器なのだ。
その恐ろしさだけは後世に伝えなければならない。
(日本人である以上、せめて広島の原爆資料館には行っていただきたい。
そこで見るものに、何かこみ上げるものを感じるなら、あなたはまともな
人間である。)

核兵器が落とされた経緯、アメリカ側の言い分、日本側の立場の表明については、
それとは全く違うレベルで論じられるべきなのだ。
それは過去の事実を検証するだけのことであって、あまり大きな意味はない。
少なくとも、今から未来に生きる我々にとっては。
意味があるのは、すべて未来に影響することであって、
それは、
    「戦争は恐ろしい。だから二度と起こしてはならない。
     核は恐ろしい。だから廃棄しなければならない。」
という事実と決意のみである。

    ・・・

過ちが行われたことは事実だ。
これを否定することは出来ない。
しかし、それは当時の人間でない兵器が行ったことであり、
それを実際にそこにいた人であれ、その個人個人を責めることは出来ない。
国自身が狂気の沙汰にあったのだから、国のために行ったということは
正当化されても、やはり現在から過去を見つめた時、それは過ちなのだ。

ただ、その時点では過ちかどうかを判断出来ないことはある。
狂気のもとでは判断出来ないということもあるし、
法というもの、人の正義感の判断というものは時とともに変わるからだ。

当時は戦争はかつて必ずしも悪ではなかったのだ。
ちゃんと使者を立て、口上を述べて宣戦布告すれば戦争を始めてもよいと
されていたのだ。今となっては、完全な悪だが。
かつて奴隷制は正義であったが、今や完全に悪だ。
かつて武士が人を殺すことは構わないことであったが、明治以降それは悪となった。
そういうものだ。戦争の時には敵を殺すことすら正当化されてしまった。だから、当時にその悪性を裁くことは出来ない。

だが、現在から見た時、それは悪なのだ。
だから、今行うことは、過去の過ちを素直に認め、
それを二度と起こさないようにするという決意なのだ。

しかし、この行為を責められた、その行為を蛮行だといわれた時、
その事実は国のせいだとか実際にはなかったとか、
事実を無視するようなことだけはしてはいけない。
それを未来に伝える努力を惜しんではいけないし、
ましてやそれを妨げてはいけない。
妨げるとするならば、それは蛮行であり非難されるべきである。
忘却は自己忘却、忘却強制ともに最大の罪である。

    ・・・

もう一度言う。
戦争とは狂気である。
そこで狂わされた「人」はもはや「人間」ではない。
自分で考え判断する「人間」ではないのだ。
獣でもなく、それ以下の戦うマシンなのだ。
だから、そこで行われたことは、後で見てみれば余りにも恐ろしく、
常軌を逸しているのだ。

現在から過去のそのような行為を考える時、それは悪であるが、
その中の1人1人を責めるのは無理であり、無意味だ。
そこに加わっていたものは、そこにいることを過剰に思い悩む必要もなく、
そこで被害を受けた者も、個人を恨んでもしょうがない。
問われるべきは、事実として起こったことであり、その事実を起こすに至った
経緯なのである。

事実を正確に見つめ、なぜ起こったかを判断し、
2度と起こさないようにすること。
そしてその術を未来に伝えることこそが、戦争に立ち会ってしまった者の
定めなのである。それは加害者であれ被害者であれ、共通の課題なのだ。

人間を常に人間たらしめるにはどうしたらよいか。
狂気を防ぐにはどうすればよいのか。
その答えを出さなければならない。
それが過去の「戦争」という大きな過ちが残す、
唯一の遺産である。
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