「長良川の野望」(1995/05/26執筆)
長良川河口堰の正式な運用が決まった。
つい5/22のことだ。(運用は23日から。)
長い時間かけ計画・建設された河口堰が、ようやく使われるのである。

そもそもは、よく反乱する長良川の水をコントロールするためといわれる。
長良川流域には、水面とほぼ同じかそれ以下の土地が多い。
そのため、いったん氾濫すると、その被害は非常に大きい。

さらに、その時には海水が逆流し、土地に海水が入るため、
土地が台無しになるということもあった。
土地に塩が入るとなぜいけないか。
作物は育たなくなるし、建物も、金属部分が錆びやすくなるからだ。
河口堰が出来ると、特にこの海水の逆流が防げるというのだ。

このように聞けば、確かにこの河口堰には重要な意味があるように思える。
なにも反対することはないではないか、そう思える。
ところがそれは、物事を1面からしか見ていないための誤りである。
河口堰の別の面を見てみよう。

まず、現在においてこの河口堰がそれほど重要かどうか。
実はあまり重要ではないらしい。
上流域にダムが出来、堤防などが出来ている今、
河口堰の威力は必要とは言えない。

さらに、自然環境破壊という面もある。
河口堰にはそじょうする魚のために水路が作ってある。
実際にここを通りどのくらいの魚がそじょう出来るかという調査結果があり、
70%が可能である、とあった。
70%もあれば十分ではないか、そう思うかもしれない。
しかし、毎年70%ということは、最初の年に70%、
次の年は70%の70%で、結局最初の年の49%となる。
そう、毎年減っていくわけだ。ということは、やがて0になる。

さらに、海水と真水が混じってできる「汽水」域も生態系には重要だが、
これがなくなると、当然そこにしか住めないものは絶滅する。
それらを食料としていたものも同じだ。

それに、堰があるということは、水が澱むということにもなる。
長良川の水の浄化作用を妨げる。
川が汚くなる。
これも自然破壊を伴う。

一度破壊された環境は、二度とは元に戻らない。
「もう一度河口堰を開け放てば戻る」ものではないのだ。

・・・

次に、この河口堰が出来る時の政治的汚い面を紹介する。
河口堰を作ることが決定された時、
地元には反対賛成の2派があった。
そして多くの政治家、特に地元出身の中央政界政治家の多く(全員か?)
推進派であった。
今の政治家というものは、そのほとんどが自分の利益のために物事を決定する。
河口堰の建設を反対するのと賛成するのではどちらがより儲かるか。
答えは「賛成する」方だ。

なぜか、それは、賛成すれば、建設業者から、それなりの報酬(賄賂)を
もらえるからである。反対しても、反対の中心にある自然保護者からは
1円のお金ももらえない。

賛成派にはこのように政治家がついている。出資者もある。
ということで次に出てくるのが「買収」と「扇動」であった。

反対派にお金とを渡す。
もちろん直接ではない。「もし賛成すればここに投資する」というわけだ。
中央政界が、地方自治体に対して発するこういう言葉の威力は、
想像以上に絶大なのだ。
これで自治体は丸め込める。

個人や団体はどうするか。
これは「村八」作戦を使う。
「あそこのだれだれは反対派である。つき合っているといいことはない。」
こういうことをそれとなく言い触らすのである。

こういう、実に汚い方法で反対派の勢力を押えようとしたのである。
もちろん、それで反対派が0になったのではないが、
勢いを押えられたのは言うまでもない。

政府は、あまり効果もなく、自然環境破壊をする河口堰の運用を決めてしまった。
同様の事件は、実は以前に島根の宍道湖の堰でもあった。
しかし、この時は反対派の粘り強い活動のおかげで、運用は見送られた。
これによって宍道湖の生態系は守られた。

宍道湖では負けた政治屋は、長良川では是が非でも勝とうとしている。
もはやそれは、良い悪いの問題ではなく、プライドの問題にも見える。
実に愚かしいプライドの。

もし長良川が悲鳴を上げた時、彼らは何か対策を講じるだろうか。
責任をとるだろうか。
いや、おそらく、間違いなく、なにもするまい。
「運用はお前たちに任せたはずだ」、そう言って逃げるに決まっている。

もう一度言う。
一度破壊された自然は二度とは元に戻らない。
かけがいのない自然を、政治屋の汚いエゴで壊してはいけない。
今なら、まだ間に合う。
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