「禁句シリーズ1:悲しい愛物語」(1993年日付不詳)
あるところにとても愛し合った2人の男女がいました。
2人は結婚を誓いあっていましたが、
直前になってここに大きな障害が現れました。
結局2人はこの障害には打ち勝てずその前に別れ別れになってしまいました。

        ・・・

この障害とは、徳川時代の亡霊、「同和部落差別」です。

これは、現在は余り表だって言われることはなくなってはいますが、
やはり結婚とかで戸籍というものが表に出てくると問題になります。
そしてそれは本人達はどう思っていても、周りがそれを問題にし、
たとえば家族の内誰かがそれを無視して結婚すれば、他の人の結婚
まで駄目になる場合もあると言います。
日本では世間で言われているほど「家」「族」というものがなくなっておらず、
結婚は個人の自由な意志による・・・ではなく、家や一族のつながりという目で
見られてしまうのです。

現在は就職におけるその差別はなくなりつつあり、
しかも、そういった所出身の人でも大きく成功する人もあって
もう職業や収入、学歴などではわからなくなりつつあります。
(少なくともそれを知っている人以外には。)
ちょっと前までは某布団メーカーがそういった所には売らないようにと
その本を持って売っていたというのが有名になりたたかれたこともありました。
(今もそのメーカーはその業界では大手メーカーですが。)

戸籍というものはせいぜい数世代前(普通は祖父/祖母まで)までのものなので、
それ以前の情報をわからなくなりつつあり、
それを取り立ててあげつらおうという者がない限り、
やがては消えていくと言われています。
しかし、それですら完全に消えるには後100年はかかるだろうと言われています。

徳川の世が農民の不満を和らげるために作ったと言われる
悪しき亡霊「同和部落差別」。
300年たった今をもってしてもその亡霊の陰が人々の幸せを
むしばんでいるのです。

なんと悲しいことか。

いっそこんなばかかものに足を引っ張られている日本など飛び出して
どこか外国で暮らせばいい、そう思うこと、言うことは簡単だけど、
実際にはそんなことはなかなか出来ないもの。
それに外国にも差別はあるし。
駆け落ちと言うのもまたしかり。

人が人を差別してなんになるのか。
さらに、いまだにそれを食い物にしている愚か者、いや、人でなしも存在している
ということが日本のの悲しさだと思う。

その人の資質というものはその人の生まれた場所によるものではないし、
ましてや親やその祖先の出身地や生い立ちなどまったく関係ない。
にもかかわらず、そういったことをネタにして、他人を差別することでしか
自分の優位性を保てないと思う心貧しき者がいまだにいるというのが、
幾ら物質的に豊かになったといわれても、日本人が精神的に貧乏であるということの
証明だと思う。

もはや現代において過去にとらわれた者、その亡霊に魂を売った者に
生きている資格を与える必要はない。
これから生きていくは未来を創りゆく者でなくてはならず、決して過去を継承
する者であってはならない。

出来るだけ早い時期にすべての過去が消え去り、
新しい未来に向かって人が歩み出す日が来ることを、
二度とこのような悲しい2人が現れないことを
望みながらこの禁句を終わることにする。

本来、こんなことが禁句になることすら今の日本はおかしいのである。
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