「夢は枯れ野を駆けめぐる」(1995/05/26執筆)
人はだれしも夢見て生きる。

たとえちっぽけな夢でも、夢なくしては生きてはいけない。
夢がないまま過ごすとすれば、それは人生の消化に過ぎない。
単なる、寿命の消化。

子供のころ。
子供のころには多くの夢をみるといい。
大きくなったらなんになる。
パイロット、宇宙飛行士に、総理大臣。
看護婦に、先生に、お嫁さん。
甲子園に出ること。
プリマになること。
なんでもいい。
多くの夢は、現実の前に達成できないとしても、
そこに向かう努力こそが美しい。

野望。
大それた夢。
多くの場合、それは空想のまま終わるが、
成し遂げるものもいる。
野望とは、決して悪いものとは限らない。

結婚。
幸せな家庭を築くこと。
いい奥さん(旦那さん)とめぐり逢い、恋をし、
子をもうけ、暖かく育む。
そこには夢だけではなく、現実という苦労もある。
しかし、どのような苦労も、
その子が「私も両親のようになりたい」という言葉で、すべて消化される。
「あなたは、その感謝の心を私に対して返すのではなく、
あなたの子供に与えなさい。それが私への一番の恩返しである。」

老後。
お年寄りが孫をかわいいと思うのは、
どんなに苦労していても、やはり子供と一緒にいたということが
いい思い出になるからであろう。
現実に追われていて、忙しくて、その時は気づかなくても、
後になって気づく夢もあるのだ。
「あのころは、子供をちゃんと育てていこうというのが夢だった。」と。

ふたり。
一人でいるより、2人や多くでいる方が楽しい。
そのことに気づくのかもしれない。
特に、家族というものを暖かいと思う者には、1人でいることのさびしさ、
孤独の悲しさが身にしみよう。
でも、1人でいることが寂しいのではない。
1人だけだと思うことが寂しく、悲しいのだ。

いろいろな夢が通り過ぎた。
些細な夢。
のんびりと暮らしたい。
私には会社勤めは似合わない。
自然の中で、自然とともにありたい。

コンクリートジャングルの中では、たとえ回りがどんなにやかましくても、
1人なのだ。
なにをしても1人。
悲しい時に1人でいることより、うれしい時に1人なこと、
感動した時に1人でいることの方が寂しい。
だれかと感動を分かち会えること、それが一番うれしい。
それが一番の夢。

        ・・・

理解されないことは、それ自体あまり大きな問題ではない。
多くの場合は理解できない側の問題であるから。
しかし、不理解が行動を自制させる要因にはなる。
反応しないものにかける情熱はない。

気力があっても、それを1人で維持することは難しい。
反応がなければ情熱は徐々に減衰する。
そして、気力を使いすぎることは、
多くの肉体に負担をかける。

人の寿命は(病気でない場合)心臓の鼓動の回数によるという説がある。
確かにすぐにあがるような人間より、心臓に毛の生えたような奴の方が長く生きる。
が、これは必ずしも正しくない、そう思う。
人が一生に使える精神力、それには限りがあると思う。
精神力を使うものは早く消耗し、
使わないものは長生きする。
理不尽なほどに。

しかし、ここでいう精神力とは忍耐力ではない。
精神を自由に操る力、自分と回りの関係に腐心し、
それに配慮する力だ。
そして、それは単なる気遣いとは違う。
今の世の中で言われる「人づきあいの良さ」ではない。
今の世の中では、おそらくほとんどの人が理解できない
もっと深い互いの人のつながり方である。
地球上のすべての人間が、実は一体であるという
概念に基づくもの。

「憎まれ者、世にはばかる」
これはある意味で真実である。
人に対する遠慮を知らんものほど長く生き残る。
仏教思想でいうなら、この世は修行の場だから、
人に対する配慮ができない=修行が足りんものほど長く生きる。
そうも理解できる。
もっと根本的な配慮、同一体であることを意識した、
有機的結合性に基づく行動・思考分担。
その中では、一部の過ちはやがて全体を破壊する。

        ・・・

なぜか、自然の中では1人でないような気がする。
風の音、海の音、鳥のさえずり、太陽の光。
すべてがともにある。
語りかけは、身近に存在する。

その小さな「夢」かなえられないこと。
かなえられなかったと思う心。
なんにも思い残すことはなくても、
もはや何も求めることはないと思っても、
それだけが残る。

心の中には何もない。
枯れ野のような心。
その中で、夢という名の風が吹き荒ぶ。
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