「いつか見た蒼い月」(1995/05/30執筆)
気がつけば海岸にいた。
誰もいない海岸。

風もなく、波もない。
鏡のような水面はこのことをいうのだろう。

月。
満月。

月ってこんなに大きかったろうか。
いままで見たどんな月より大きい。
手の届きそうなところに月がある。

吸い込まれそう・・・
いや、そうではないな、目の前がすべて月なのだ。
吸い込まれるまでもなく、そこは月なのだ。
月の前に立っている。

月は鏡の水面に光を映し、
いっそう輝きを増している。
その光の道を歩いていけば、月までたどり着けそうな気もする。 
幻想の世界。
目の中、心の中、いっぱいの月。

子供のころに見た風景。
でも今も脳裏にはっきりと焼き付いている。
余りにも美しい風景。

        ・・・

そう、それは7月末のことであった。

お盆のころはおよそ新月に近い。
このため美しい月は見られない。
太陰暦での盆、即ち、今の旧盆である9月には仲秋の名月という
美しい月が見られる。
だから、それより2ターン(月の1周期である23日*2)前の7月の末ごろにも
きれいな月が見られるというわけだ。

しかも、8月の満月のころは、日本海側ではお盆直後の天候の荒れで
夜に雲が出ることが多い。
(日本海は、お盆の後、一時的に急に海が荒れることが多い。不思議だ。)
しかも、風がきつく、波も立つので水面に光の帯がきれいに出ない。
そういうことで、7月末の月が一番きれいに見えるのだ。

そういえば、いまでこそお盆は8月にするが、
古来、日本は太陰暦であったわけだから、そもそもは今の旧盆の時期、
9月にお盆の行事をしていたはずだ。

お盆の時期には御先祖様が家に帰ってくるという。
霊界が太陽暦に合わせてくれていたならよいが、
そうでないとしたら、もともとも太陰暦のままだとしたら、
お盆と思って帰ってきてみれば、家ではだれも迎えてくれていない。
そんなことになりはしまいか。

もっとも、御先祖を思う人の心がお盆という行事を大切にし、それを
続けていくのなら、たとえそれがいつになろうとも、やはり御先祖様は、
そういう人の意志のある時期に帰ってきてくれるのであろう。
まあ、つね日頃から、御先祖を敬う気持ちを持つのが一番いいことであるが。

神道の考えでは、我々現世に生きるものに手助けしてくれるのが御先祖様で、
その後先祖様に光を与え、後押ししてくださるのが神様だそうだ。

なれば、わたしたちは、日頃の助けてくれている御先祖様に感謝の念を現し、
神様に感謝し、その力添えに報いるべく生きるのが勤めであろう。
頼るのではない。生きて行動するのは私たちであり、
そえれを示さない限り、手助けもしてくれない。
決して命を粗末にすること勿れ。

御先祖様、神様はなにも報酬を求めず、ただひたすらに助けていてくれる。
だから、我々もお願いをするのではなく、ただひたすら「ありがとう」の
心を持たなければならないのだ。

それでも、なにか嫌なことがあれば「あんなにお祈りしていおのに」
と思うかも知れない。しかし、それは違う。
そのお蔭でもっとひどくなるところが軽度で済んだのかも知れない。
「きっと、もっとひどくなるところを、これ位のことで済ませてくれた。
これはわたしに対する忠告である。」そうとらえ、注意を心するのである。

        ・・・

美しい月を見られたこと。
その喜びは、ほかに例えようのない感動である。

それに出会えたこと、それが一番の幸せであり、
それに出会わせてくれた好運に、助けてくれた多くの目に見えに者たちに、
大自然、大宇宙に感謝するのである。

合掌。
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