「達観」(1997/05/20〜05/21号)
今までいろんな人を見てきたが、いやな仕事と思いながら続けていく上で、
特徴的な2人の達観し方があった。
(仕事をいやだと思わない人については語らない。)

仮に1つをU型、1つをT型とする。

U型は、あきらめきることにある。
仕事はいやである。精神的には「辞職」している。
しかし、とりあえず(お金のために)いる。
進んでやりはしないが、ほされるほどなまけはしない。
仕事中の「私」は本来のあるべき「私」ではない、ということだ。

T型はかなり積極型である。
うまく表現できないが、「もっといやなこともあるが、
この程度ですんでいるならまだ良いと思ってやる」というところだろうか。
乗り越えるのが好きとも言われている。
このタイプは、仕事のやり方に対して、自己流を「完全」に守れる。
仕事中の「私」はやはり「私」なのである。

どちらのタイプにも共通しているのは、
どんなところでもやっていける強さである。
方向は違えども、悟っているからだ。

残念ながら、私はどちらのタイプでもない。
悟り切れていない。私は余りに細かいことに左右されすぎる。
T型には近いが、そこにおいて「自己」を否定する存在を否定するのである。
T型は自己を否定する存在を包括できるか完全に無視できる。
その差が私の弱さである。

仕事の上での孤立感が、私を自ら追い込んでいるようにも思うが。
共に苦労を語れるものがいないと言うのはつらい。
(まったく同じでなくても、似たような仕事をしている人がいないということは、
つらい。このように、話をできる相手、というものとはちょっと違うのだ。
話をできる相手がいるだけでもありがたいことなのだが。)

私のようなタイプはいいところに巡り会えれば最大限力を発揮するだろうが、
それまではうろうろしてしまうだろう。
理想の場所などどこにもないかも知れないのに。
U型やT型の人は、どこでもそこそこのことは(失礼!)やれるだろう。

        ・・・

それぞれのタイプの人の登った高見はすばらしい。
「そこに早くおいで」と言われるかもしれない。
しかし、残念ながら、それは私の望む高見ではない。

私はある意味悟れていないし達観していないが、
また別の面で、遥かに理解し、その克服の方法も知っている。
私の登っている山は、それらの人のものとは違えども、
私には、それは見劣りするところではない。
まわりの人がどう見ようとも、である。

今の「大人」の社会は子供の夢をかなえる場所ではない。
むしろそれを「現実」と言うおもしで潰してしまう場所である。
多くの人はそれが当たり前であり、それでいいと思っている。

しかし、そうは思わない人がいてもいいのではないだろうか。
理想をつっきる人が、少なくともそれを掲げ続ける人がいても
いいのではないだろうか。
そして、誰がそれを馬鹿にしようとも、私はそれを評価し、
それを誉め称える。それが私の登るところである。

私にとっては、どれがいい悪いではなく、すべて違った価値観における
すばらしい高見なのである。
少なくとも、何も考えず、ただ流されるだけの「浮遊物」に比べれば、
価値あることである。

私は「普通」の人にはなれそうもない。
なれば、朽ち果てるまで、その道を突き進むのも、
また一興である。

そもそも私は一般社会に対して適合できない「不適格者」であり、
自然淘汰がすべてであれば消えゆく運命であろう。
それが、そうでも「ある」には、それなりの意味があろうから、
こうしてくだらないことを考えながらも生きるのである。

考えることは多けれど、少なくとも「ここにいてはいけない」というのは、
そういうものであろうと感じている。
それは理論ではなく、信仰である。
長年の経験による自分にとっての「真実」から推測される未来である。

自分でもなんだかよくわからないけど、とある文章に出会って、
突然思いついた文章であった。

しかし、世の中、似たような(考え方をする)人っているもんだ。
思わず「その人か?」と思ってしまった。
<戻る>