「さくら」(1995/05/26執筆)
さくら さくら 何見てはねる 15夜お月さん 見てはねる
・・・違う。

日本人は桜をこよなく愛する民族である。
咲いている花はもちろん、散る様、その花びらまでもを愛する。
桜への思いは、遠く万葉の世界から続いている。
日本では、まさに風流の代名詞となっている桜。

しかし、ヨーロッパ人は花びらが散るのを「後始末に困る」と良く思わない。
花びらが散って、道路にたまっては汚いではないか。
そういうのだ。
日本人でそんなことをいう人はほとんどいないだろう。
国民性の違いといえばそれまでだが、
ここまで評価の分かれる花もめずらしいだろう。

日本人がなぜこの桜にここまで心引かれるのか。
その要因は、おそらくは日本人の心に根ざしている日本仏教思想によるものだろう。
日本仏教は、他の国のそれとはまた少し違う。
タイや、中国のそれとは異なる。

そもそも、日本に仏教が広まった理由は、
そもそもそれが受け入れられやすい精神的土壌があったからだ。

「輪廻転生」などの思想は、四季折々の中で自然が見せるうつろい、
春に芽ぶき、夏に謳歌し、秋に葉を落とし、冬に枯れる。
しかし、次の春にはまた蘇る。
このような風景を見てきた日本人にとって、それはよくわかることだったのだ。

自然が多く、その中での多くの現象を「神」も技とした
多神的信仰も、多くの仏様がいるという仏教に通じるところだろう。
日本の仏教は、このような「自然神」の思想とも調和し、
他の国とは違う独特の発達をしたのだ。

「日本人は自分の宗教に対して真剣でなく、無宗教に近い」と言われることがある。
しかし、これは違う。
日本人にとって、宗教とは束縛するものではなく、
心の一部なのだ。
ものに感動する基準と言ってもいい。
そして、思っているより結構、人の行動を支配しているものだ。
お寺にいけばなんとなく心改まるし、仏を見れば手を合わせ、
神社では柏手を打つのだ。
祈る心を大切と思うなら、日本人は他のどの民族よりよく祈ると思う。
もっとも、その祈りの「質」について問われると「?」であるが。

        ・・・

余談であるが、キリスト教というのは、基本的に人間と中心とし、
上から見た宗教である。仏教は自然と同化する宗教である。
だからキリスト教では人間以外のものを拝むことがない。
自然を守る場合にも、「人間の手で人間のために」と考える。
その人間よりも偉いのは「神」しかいない、というわけだ。
仏教の場合、「人の命も、自然界のすべての命も同じ。大切にしなければならない。」
と考える。場合によっては自然の方が上にある。
(「三界」理念の中では、若干の上下関係思想があるのだが。)

だから、神の威光を妨げるもの、考えに対する批判が根強い。
「地道説」しかり、「進化論」しかりである。
アメリカでは、進化論を教えることが「正しい」となったのは、
実に1960年代以降である。また、ローマ協会が「地道説」に関する
宗教裁判が間違っていたとしたのは1980年代なのだ。
日本では、当の昔に「正しい」とされたいたことが、
宗教のおかげで、大きく遅れたのだ。
宗教が文明の進化を妨げることもある、そういう一例である。
(キリスト教での進化論の今の解釈は、「確かに人は猿から進化した。
しかし、その進化をおこしたのは神の御心である」としている。
まあ、どうでもいいが、一種のわるあがきのようにも思える。)

「自分はキリスト教信者だから、仏教には関係無い」という日本人がいるだろう。
しかし、そういう人も、おそらくは花見を楽しむだろう。
仏教であるかどうかは別にして、その根本的心の働きとでもいうものは、
日本人の血の中に脈脈と流れ続けているのだ。

さて、さくらにみる考え方の違いは、もっと他のものにも当てはまる。
それは日本人と他民族ということだけでなく、同じ日本人同士の中にもある。

自分の好みとするものが、他人にとってもそうであると思うのは
大きな間違いである。
自分の常識が他人の非常識である場合もある。
これは同じ日本人であっても、同じ会社であっても、同じ部課であってもそうだ。

        ・・・

「『真実』というもは、それに有効期限がある」、と言った人がいる。
さらに、それには有効範囲もあると思う。
例えば、「三角形の内角の和は180度である」という「真実」は
今のところ、永遠の真実のように思える。
「太陽は地球の回りをまわっている」ということがらは、中世ヨーロッパでは
「真実」であったが、今となっては「嘘」である。
「私はあなたが好きだ」ということの「真実性」は、長い場合であったり、
短い場合であったり、人によって大きく異なる。
しかし、その人たちにとって、ある時期おいては、それは「真実」である。

自分にとっての「真実」が、必ずしも他人にとってそうであるとは限らない。
また、過去の自分にとっての「真実」が、今の私にとって「真実」であるとは
限らない。
そして、それは仕方ない。

人は、たとえ社会の中で生きていようと、それぞれ異なった「真実」をもつ。
だから、自分が真実だと思わないこと。
自分の考えがだれにでも通用すると思わないこと。
共通する真実を持ちたいなら、お互いのそれを出し、互いのそれをよく理解する
必要がある。

「正義」もまたしかり。
正義も時間的、空間的有効性をもつ。
時間的有効性。
かつては奴隷制は正義であった。武士が町民を切り捨てることもそうだ。
空間的有効性。
日本では言論自由があるが、ロシアや中国ではそれはない。
しかし、いずれもそこにおいて正義である。

時間も空間も違うものに対し、「正義」を唱えることには無理がある。
後日の反省、他人の判断というものはあれど、
それは実効性をもたない。

        ・・・

多くの場合、同じ社会に生きるものの中では、真実は正義は共通である場合が多い。
しかし、万事がそうではない。
特に人の価値観、判断基準に関しては十人十色である。

そうであるにもかかわらず、自分の判断を社会の「正義」「真実」とし、
それに合わないものを、そこに至る背景(環境)を考慮せずに、
「悪」「おかしい」と決めつける者が多い。非常に多い。

実は、そういう判断こそが「悪」であり、「おかしい」のであり、
「正義でない」のだ。
その過ちに陥ってはいけない。
これは、人がもっとも陥りやすい「愚かさ」だ。

「自分は理解している」、そう思い込んでいる人間はさらに厄介だ。
そのような人間は往々にして相手を馬鹿にする。
もしくはわかったようなふうを言って「説教」する。
彼らはおそらくこの過ちに溺れている。
こういう人間は救い難い。

人間が真実を理解する時、
説教は、実は多くの場合、問題解決にはならない。
説教はその栄養とはなっても身とはならない。
気づかせること、悟らせることが重要だ。
指摘はその第一歩である。

それらは現世人間の精神における、根本的欠陥といってもいい。
アメリカの日本への貿易圧力、世界のすべての宗教戦争、
すべてはそれに起因する。
もっとミクロ範囲、町や会社の中にも例は数え切れないほどあろう。

相手のことがよく理解できるかどうか、それが問題解決の大きな糸口になる。
その理解は、簡単でないかもしれない。
それは表面上に現れていることより、もっと深い、精神的根幹に由来すること
かもしれない。例えば、日本人が桜を愛するが如く。
しかし、そのための努力を忘れてはならない。
新たな真実を理解する時、自らの真実にもまた、広がりがもてるのである。
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