「大人の世界」(1995/07/01執筆)
人類の歴史の中で、ここ100年の技術的進歩というものは、めざましいものがある。
    しかし、技術進歩を強引に押し進めた結果、精神的発達が遅れた。
        いや、精神的にはむしろ劣化したと見て良い。

強引なまでの競争、その中では人間らしさというものは意味のないものとされ、
    機械的に、とにかく利益を生み出すことを第一義として
        突き進みすぎた。
    その結果が自然破壊と精神破壊である。

    ・・・

そんなちっぽけな世の中に、
    そんな些細な納得になんの意味がある。

お前たちは、今のこの世の中に満足している。
    若干の不満を言いながらも、結局は世の中に甘え、
        そういう世の中で生きていける自分を「偉い」と思っているのだ。

世の中でうまく適応できない者。
    世に満足する者は彼らを落伍者とあざけるが、
        彼らこそが「真実」でない証拠がどこにある。

確かに、今の世の中を基準とするなら、
    彼らははみ出し者であり、異端者だ。

しかし、それをそう思う大多数のいるこの社会を、何をもって「正義」と言うのか。
    もっと大きな目でみれば、実はそれの方が「不適切」かもしれない。
        より大きな理解する世界にとって。

「大人」とは、今の社会に甘んじ、その構造の中で渡り歩いていける人間の総称である。
    彼らはその海の中では確かにうまく行動出来、
        それを正しいとする。

それはある一面で非常に正しい。
    なにはともあれ生きることを第一義とするなら、
        その道は正解以外の何物でもない。

だが、社会の構造を、もっと高い境地から眺め、その構造を理解した時、
    それが実はまだまだ不完全で、その中でうまく生きることなど
        意味のないことだ、そう思うとすれば、それは当然なのだ。

理解してしまった者には、すでにこの世に適合して生きることなど無意味である。
    「大人」には成れない、いやならない。
        なる必要はない。

井の中の蛙はその社会がすべてであり、その中だけが正義であり、真実であり、
    その中で生きることをもってよしとする。
        でもそれは、結局は自己満足に過ぎない。
    自己満足が悪いのではない。しかし、その満足のレベルが問われる。

高い境地に登る努力をやめ、現実=一番楽な生き方を選ぶ「大人」たち。
    それがいいというならそれもよかろう。
        それでも生きていくことはできる。
            きっと「幸せ」にもなれる。
        現実との妥協の中に生まれた幸せには。

上にある幸せ、理解を越えた幸せとはどのようなものか。
    それは今考えられるどんな幸せよりも、
        大きく、深く、普遍的であろう。

高見からすべてを悟った者を、表面上馬鹿にすることは出来ても、
    結局は、そういった者たちを越えることはできない。

下向きのベクトルを持った者には、上向きのベクトルを持った者は、
    落ちぶれた者に見える。しかしそれは相対的な見方にすぎない。
        もっと広い視野で見たとき、初めてその方向が
    「逆」であることがわかる。

人はあなたを馬鹿にするかもしれないが、
    誰1人として、あなたを越えることはできない。
        現状に甘んじるものには、実は誰も越えられない。

「理解者」、「気づきし者」「悟りをもった者」は多くの場合、
    「大人」には理解されない。
        だが、それはむしろ好運だ。
理解されるということは、あなたはすでに見尽くされているということだからだ。

その理解がはたして正しいかどうか。
    それは今はまだわからないかもしれない。
だが、世の中というものは、不思議なもので、
    ゆっくりではあるが、いつも階段を上り続けている。
    時には転げ落ちることもあるが。

そして、いつかやがて、その理解が真実となる時が来る。

・・・「異なるもの」を知らない地球の民は、まだまだ幼児なのだ。
        だから、語りかけをわからず、その意味を理解できない。
      理解できるの早いか、破滅するのが早いか・・・
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