「今日の哲学」(1997/02/18号)
残念ながら、我々には神が存在することを、
明らかに認識することは出来ない。
それは、「信じること」であり、「信仰」である。

しかし、ここに、完全なものとして「神」の存在を信じた場合、1つの仮定をすることができる。
「我々は、神の見ている夢ではないのか。」

「完全」である神は、完全であるが故に「不完全」なものの夢見た。
その不完全な夢が我々の現実である。
「我々が夢だなんて、そんなのくだらない妄想である」。
果たしてそう言い切れるだろうか。
夢というものは、概して、自分の果たし得ぬ願望を描くものである。

現在の人間の状態は、さしずめ、非常なる悪夢だといえるのかも知れない。
「戦争で多くの人が死ぬことの方が悪夢だ」と、人間ならそういうかも知れない。
今の世の中は、見た目上の戦争は少なく、病で死ぬ確率も低くなった。
しかし、ずっと全ての人の生き死にを夢に見たきた「神」にとっては、
その数の一時的な増大など、悪夢ではないかも知れない。

現在は、表面上は争いがなくても、精神面では、常に争いが続いており、
人の繋がりが希薄になり、その人の間での争いが絶えない。
自由と履き違えた自分勝手が罷り通る。
一時的な感情によるものではなく、本当の意味で、人の繋がりが薄くなった。
そういう状態を、戦争と比べて、果たして悪夢でないといえるだろうか。

我々が神の見ている夢であるとし、現在が悪夢であるとしても、
我々には自虐的ではあるが、この悪夢状態から脱却する術がある。
それは、「神を起こす」ことである。

人は時として、夢からはっと目覚めることがある。
あまりの悪夢のひどさに飛び起きたことはないだろうか。
それを、神に期待する、いや、おこさせるのだ。

神が目覚めるということは、我々の存在を夢として忘却させることであり、
それはとりもなおさず、夢である我々の存在を消し去ることである。
我々は、みずからの献身的方法によって、神を悪夢から解放出来るのである。

いわば、神によって想像されたものが、想像主であるものに
一矢報いることが出来るわけだ。有る意味、それは恩返しかも知れない。
人類をここまで育ててくれたものへの恩返し。
それが夢の中の話であったとしても。

ノストラダムスだけでなく、何人もの予言者が、近い将来の世紀末に
人類の滅亡を言っている。
「たわいの無い戯れごとだ」と無視するのはたやすいが、
現在、人類が滅亡の危機に貧していないと言い切れる人も又、いないはずである。
言い切れる人がいるとしたら、彼はあまりに現状を知らな過ぎる。

悪夢として破滅するか、神の目を覚まさせもう一度やり直してもらうか、
それとも、夢の中の力で破滅の危機を回避するか。
何れにしても、今、人類は選択の時期に到っているのである。
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