「誤解の表現」(1997/03/19〜03/21号)
我々の身の回りには、いろいろと誤解の表現がある。
誤解を招く表現というか、科学的にみれば間違っている表現などだ。

それは単なる個人的な思い違いによるものもあれば、
多くの人が、ずっと前から、場合によっては何世代も使い続けているものもある。

「日が登る」「日が沈む」等はその最たる表現である。
我々はすでに常識として、地球が太陽の回りを廻っていることを知っている。
ガリレオの時代ならともかく、今の世に天動説を信じているとするなら、
それは単なるバカである。

しかし、言葉の上では、相変わらず動いているのは太陽なのである。
21世紀も間近なこの時代でも。
おかしなもんである。

たしかに、地球が動いているといっても、それを体感できるわけではない。
見た目上は太陽が動いているように見える。
だから、「動いているのは太陽だ」と言ってしまうのも無理はない。

もう1つ誤った表現をあげてみよう。
「風を切って走る」と言う。バイク野郎どもがよく言うかも知れない。

しかし、これもおかしな表現である。
実は動いているのは人間の方であり、空気は、風が吹いてない限り動いていない。
時速60キロで動いているバイクに乗っている人間がうける風は、
時速60キロの風で吹いているのではない。

止まっている空気に人間が速度をもって「ぶつかって」いくので、ただの空気が
「風」として感じられるだけ。それは本来は風ではない。

私たちは移動物体に乗っている時には、その速度を感じるという。
しかし、これは正しくない。私たちが速度を感じるのは、実は相対速度であり、
常に動いている場合には、その速度は感じない。

加速している時に感じる加速感(=力学的負荷)が速度を感じさせるのであり、
外の景色が動くから移動しているように「思い込む」のである。

まったく窓のない空間の中にいて、その空間が一定のスピードで動いているなら、
私たちにはその速度を体感できる術がない。エレベーターの中でその上昇/落下感を
思う浮かべればよい。
そしてそれは「実は地球は動いている」ということを実感できないということにも
つながる。

        ・・・

余談であるが、私たちの計ることのできる速度のほとんどは相対速度である。
地表面が止まっているとした場合の相対速度である。

地球は太陽の回りをまわっている。その太陽も銀河系の中で移動しており、
銀河系も宇宙の中で移動している。

仮に太陽が止まっている=速度0であるとした時、地球上の停止=時速0キロの
スピードの真の速度を計算する。(計算を単純化するために細かい物理的天文学的
問題はこの際無視する。)

太陽の光は8分かかって地球まで到達する。光の速度は秒速30万キロだから、
太陽から地球までの距離=太陽を中心とする地球の公転半径は、次の通りである。
        8分*60秒*30万キロ/秒=14400万キロ≒1億4千万キロ

その円の円周距離は、算数の知識によると円の円周は直径×円周率(π)だから、
        14400万キロ*2(直径)*π≒90432万キロ

である。
これを1年=365日かかって移動するのだから、その速度は、
        90432万キロ/365日≒248万キロ/日

であり、時速等にすると次のようになる。
        248万キロ/24(時間/日)≒10万キロ/時
                                   ≒1720キロ/分
                                   ≒29キロ/秒

なんと、毎秒29キロも我々は移動しているのである。すごい。

ついで言えば、地球は一日で1回転しているのだから、仮に今赤道上にいるとする
なら、地球の赤道円周4万キロだから、
        4万キロ/24時間≒1667キロ/時
                         ≒28キロ/分
                         ≒463メートル/秒

で、時速1667キロで移動していることになる。秒速でも463メートルである。
カール・ルイスも真っ青の高速移動である。
(ちなみに、エイトマンはマッハ8、即ち音速の8倍のスピードが出るはずだから、
360メートル/秒*8=2880メートル/秒であり、これには負けている。)

にもかかわらず、私たちには止まっているようにしか感じられない。
人間の速度感覚など、いかにあてにならないものか。

        ・・・

人間は残念ながら、最初は、直感(体感)で物事を判断する。
多くの人はそれだけで済ましてしまうので、誤った認識をもつ。
実は、科学的に考察すれば、間違っている場合もあるのにだ。

誤った判断であっても、実生活に何の影響もない場合もある。
「だったらそれでいいではないか?」と言われるかもしれないが、
一見正しく見える過ちをもって騙されてしまうこともある、ということだ。

直感はそれはそれで大切だが、それでとどめずに、真実を求める。
正しい認識をもつための努力をする。
真実を知ることで、直感や感性を裏付けるのだ。
それが正しくてもそうでなくても。
誤った判断ばかりをする直感ではいけない。

人は科学をして生きなければならない。
人類は発生から今日まで、直感の裏に潜む「真実」を求めて来た。
逆に言えば、それが人が人である証であるとも言える。
某局の「特命リサーチ200X」等が高視聴率なのも、
人が元来持っている「真実を知りたい」という願望をかなえてくれるからであろう。

表現上の誤解というものは、今回あげた2例に留まらず、世の中にいくつもあると
思う。見の回りのいろいろな表現を、科学的に正しいかどうか、
もう一度見直してみるというのも、楽しいことではないだろうか。
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