「幻想シリーズ1:植物の話」(1993/04/16)
とある場所でのこと。
「その山椒の木はもう26年も生きてるんですよ」
という話が出た。
この時、私はふと考えた。
「植物って長生きなんだよなあ。」
草はともかく、木というものは外部要因がない限りかなり長生きする。
いや、条件さえ整えばほぼ永遠に生きるのかもしれない。
今はまだ誰もそれに答えを出せないでいるような長生きの木も事実存在する。
人間がたまに、「この木は何年生きてる老木で・・・」などと言うが、
それは人間がその年に対する概念によって勝手に決めていることであって、
植物にしてみればまだまだ若いのかもしれない。
成長は止まっているかもしれないが。
(理論的に、植物組成では極端に大きな木というものは存在し得ないようだ。
それは動物でも同じだが、あまりに大きいと自重によって崩れてしまうからだ。)
さらに考えた。
ひょっとすると、木というものは「動く」という条件と引き替えに
永遠の命を手に入れたものなのかもしれない。
そして動物は動けるかわりに永遠の命を放棄した。
動けて長く生きられればいいというのは今現在は夢物語だ。
かつて永遠の命を望んだもの達は今どこかの木に転生しているかもしれない。
動けないものは、かわりにその場所で長い間周りの変化を眺めることができる。
動けるものは、いろんな場所に行っていろいろなものを見られる。
はたしてどちらがいいのか。
私は動物だし、動物的時間の尺度でしか時間を計れない。
そういう見方でいけば、木の持つ時間はあまりにも長くて退屈のようにも思える。
しかし、植物的尺度では人間の生きている期間等はほんの少しの時間なのかもしれない
から、逆に短い時間でせせこましく動く動物は哀れに思えるかもしれない。
尺度が違うもの、共通する意識ベースを持たないもの同志がお互いを判断する時、
はどちらが正しいということは言えない。
それはどちらもそれにあった生き方なのだから。
知識で考えれば、狭く深くか、広く浅くか。
どちらがいいとはいえない。
どちらにも一長一短がある。
長く生きていればそれだけ嫌なことを知ることにもなる。
逆にうれしいこともたくさん知ることができるだろう。
どちらを優先して考えればいいのか。
深く考えれば考えるほどわからなくなる命題だ。