☆オタ教の部屋
オタ教とは、仏教の精神に則り、世の中の真実を喝破していく教えである。
真実を知れば悩みも自ずから消えていくのである。
ここでは、過去にオタクラで述べられた各種教えを再度まとめたり、
新しい教えを掲載している。ゆえに、思いついた(思い出した)時に随時追加・更新していく。
ここを読む人に何らかの生きる道筋を示せれば幸いである。
ここは、基本的に隠しコーナーであるので、扱いもそれに準じて頂きたい。
言いふらすなんてもってのほかである。
- 仏教の教えとは、本来生きている人間の心がけることを教えたものである。
死者を弔うのが仏教の仕事ではない。生きている人間がその教えに沿うべきである。
同様に、念仏を唱えれば楽に成仏出来るなどと思ってはいけない。大切なのはその心を知り実践すること。
念仏が暗唱出来ることには何の意味もない(単に記憶力のひけらかし)。
- 「日々是好日」とは、毎日がよい日でありますようにという消極的祈りではなく、
毎日は全て良い日であると思う積極的思考である。
- 人は自らの真実(実体)を指摘されると怒る
馬鹿と言われて怒る人は、実は自らが馬鹿であることを認識しているのだ。
その相手の真実を理解すれば、無用な衝突を避けることが出来る。
また、自らの真実をありのままに受け入れられるようになってこそ、人は
他人にも優しくなれる。
- 自分がして欲しいことを他人に施せ
ここで1つ勘違いしてはいけないのは、「施し」は無償でなくてはならないと言うこと。
金銭的に無料という意味ではなく、その見返りを要求してはいけない、と言うことである。
「布施」とは捨てさせて頂くことである。その捨てたものを相手がどのように使おうとも
かまわない気持ちが必要なのである。
「情けは他人のためならず」であり、めぐりめぐって必ず自分の所にかえってくる。
- 愚かな人間ほど群れたがり、その長に登りたがる。
真に出来る者ほど孤立する。
だから周りから相手にされないと言って悲観してはいけない。
それは自分が出来る証拠だと思い、さらに精進するべきである。
- 誠の統べる者は、出来る者を従え、自分以外の者の利益を優先に考え、
その能力を遺憾なく発揮させると同時の彼らの要求を満足させる。
愚かな統治欲者は、出来ない者を従え、「民主主義」「多数決」という名で
出来る者を遠ざけ、自らの欲求だけを満足させる。
- 差別とは、差別する相手に対する本質的おそれの裏返しである。
差別する人間は本質的弱虫なのだ。
恐れを持たない人は他人を馬鹿にすることも差別することもない。
女性を差別する者は、女性の本質的強さを恐れているのだ。
- 自分より弱いと思う相手を意識しないと入られない人間は、本当の意味での弱虫である
これも差別と同じであるが、誰かを、意識的に自分より弱い、下だと思わないことには
自分の意識的立場を保てない人間は、実は一番の弱虫なのである。
本当の強者は他人との関係においての自分ではなく、自分によって自分を
保てるのである。
-
愚か者ほど自分にないものを持っている人間に嫉妬する
自分にないものを持っている人は、自分とは違う人である。
人の多様性を認められない人間は、所詮烏合の衆でありその中で
同様性を持ってしか自分を保てない者である。
他の誰とも違う自分を確立出来ていない未熟者とも言える。
自分と違うものを持っている他人がいれば結構である。
お互い持っていないものど押しを補完し合うことで社会、家族、男女間は
成り立つのである。
- 差別は必要ないが区別は必要である
本来差別をする者こそ区別されなければならない。
また、男女平等とは同じ仕事に就ければ良いと言うことではない。
おのおのの特質を活かした職業に就くのは当然であるが、
その特質を超えたところに壁があってはいけないと言うことである。
人種の区別も又しかり。
- 人がもう少しずつ、他人への思いやりを持って行動すれば世の中は良くなる
自己の利益だけを追求するアメリカ型生き方は、やがて世界を破滅させる。
- 悩みの実体はどこにも存在しない
悩みを悩みたらしめているのは全て自分である。だから本質的には
他人にはそれは解決出来ない。自分が変わるしかない。
全て自らの心がけ1つである。だから、悩んでいる時間があったら行動した方がためになる。
- 悩むだけで解決されることは何もない
これも上記とほぼ同様だが、ただ単に頭を抱えて悩んでいるだけでは何も解決しない。
悩むだけ時間の無駄である。
そんな時間があったら別の行動をしてみた方がよい。
- 命を奪うのがいやだから動物を食べず植物だけ食べるなどという奴らは偽善者である
植物の命も動物の命も同じ。人は生きるために他の物の命を奪っていかなくてはならない。
それが食物連鎖の長たる物の背負うべき原罪である。食べることよりも罪が深いのは、
作られたものを食べない(もしくは食べられなくしてしまう)ことである。
自らの糧となる物の命に感謝して「いただく」事こそ大切である。
- 喫煙はマスターベーションである
喫煙は、自分さえ気持ちよければ他人がどう思っていようとかまわない象徴的行為である。
他者への被害は健康被害だけでなく、匂いがこびりつくこと、ヤニで部屋を汚すこと、
空気を汚すこと(二酸化炭素を増産する)、地面を汚す(しかも毒をまき散らす)こと
ほか、枚挙にいとまがない。喫煙している本人以外に百害あって一利無しとはまさにこのことである。
それでも己自身の部屋でなら文句は言わない。しかし、それを他人に見せびらかす、
他人にも押しつけるのは許せない。
自分がスッキリするためには他人を殴っても良い、それと同じである。
もっと極端な言い方をすれば、他人の(精神面も含む)健康を奪って自分の快楽を得る行為は強姦と同じである。
まして、ポイ捨てする野郎は万死に値する。自分の家の中でそんなことをするか。
下水口へ投げ込めばいいと思っているなら、なおさら罪は深い。
隠せばよいと思っているからだ。
自分の家でしないことは他の場所も行うな。
- 夜、自転車を無灯火で走らせる奴は人間のくずである
これも上記奴らと同じで自分勝手の象徴だ。自分が見えていれば他人も見えていると思いこんでいるのだ。
勘違いも甚だしい。自転車のライトは他人が気づくためにあるのだ。
それが、車やバイクのように前を確認するためのライトとの大きな違いだ。
自転車といえども、ぶつかれば怪我をするし、下手をすればもっとひどいことになる。
行動基準を「自分がどうだから」という所にしか置けない奴らが
こういう無灯火運転をする。自分さえよければいいなんて奴は人間じゃない。くずだ。
世の中は人のつながりで成り立っている。自分の行動が他人に必ず影響を与える。
それを認識しなければならないし、出来ないなら社会に出てはいけない。
- 絶対に自殺してはいけない。自殺したら、最低でも本来生きるべき寿命まで成仏出来ずさまようことになる。
生きるよりつらい責め苦を負うことになる。
生きていたらつらいときはある。でも死んだら解放されるなどと思ってはいけない。
それは勝手な思いこみである。
- ご先祖様を敬いなさい。
生きている人はご先祖様のご加護を受けている。だから、その加護に感謝する必要がある。
せめて年1回のお墓参りは欠かさないように。必ず良いことがある。
また、神様はご先祖様を支えてくれる存在。だから、その庇護にも感謝が大切。
お寺は神社で手を合わせる時は、何かをしてもらうことを祈るのだけではなく、
日頃の庇護に感謝する気持ちが大切である。
- 世に「無用」であることは良いことである。
世の中に役に立っていないと思う・言われるなら、それは幸いである。
世の中には有害であるくせにのさばっている奴らがごまんといる。
そんな奴らに比べれば、「無用・無益」であることはむしろ
良いくらいなのだ。
- 「価値がない」なら幸いである。
これは上記と全く同じこと。
世の中には「有害」な連中が少なからずいる。
それに比べれば、「価値がない」ことはむしろ良いことなのである。
しかし本来は、人間は生きているだけで価値があるのではなく、
生きる中で価値を作るのである。今価値がないならこれから作ればよい。
生きていると言うことは、そのチャンスがあると言うことである。
チャンスを自ら捨てる人間はもっとも愚かである(当然成仏なんぞ出来ない)。
人生は損得勘定ではないが、結果として価値がないと思えても、
先に書いたとおり「有害」よりかはよほどましなのである。
- この世に偶然はない
全ては必然である。
でもそれは未来が全て決定されているという意味ではない。
それは、未来には多くの選択肢があるからであるが、そのうちの1つを選んだ時に
得られる結果は必然である。
出会うべき人にはいつかは出会う。必要な時に必要な人と出会い、
用が済めば別れることもある。
経験すべき事は経験する。
人の期待を裏切る選択をすれば、己もまた裏切られる。
気持ちがふさいでいる時には悪いことが続くが、明るい気持ちの時は良いことが続く。
全ては必然である。
- 最も簡単な答えこそ真理である
これは科学での「オッカムのカミソリ」という定理というか教訓。
全ての複雑なものをそぎ落として最後に残った物こそが真理であるという、
一種の経験則でもある。科学だけでなく、社会においてもそう。
なにやら複雑な言い訳をする奴が居るが、真実は実に些細なのである。
自分の利益を守りたいとか。
ある事象に遭遇した時、本当のところそれが意味するところは何なのか。
それを見極め理解することが大切である。真理さえ理解すれば、
対処は自ずと解ることが多い。
- 「正義」を語るに神の存在は必要なし
世の中には「何が正義かなんて神にしかわからない」などという奴が居る。
とんでもないことである。
正義は個人の心の中にある。心の底からわき上がる思いこそが「正義」だ。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」は悪である。
赤信号、みんなが渡っていても止まっているが正義である。
他人の判断に寄らず自分の正義に従うのが正義なのである。
- 「老人」は若者に席を譲れ
ここで言う「老人」とはお年寄りのことではない。
精神的年老人、自己の利益を守ることしか考えない、
過去を継承することしか考えない愚か者のことである。
年齢を重ねているだけの人は違う。
お年寄りはその年齢分の知恵を持っている。又その知恵を
次代に伝える努力をしている。同時に、早々に若者に責務を譲り、それを
陰から支え、成長させようとする。
しかし、「老人」はその逆である。過去に得た利権の維持に奔走する。
だから若者に権利や地位を譲らない。過去に習った事柄だけから判断し、
新しい発想をしない。こんな連中は無用だ。
いるだけ無駄な国会議員、所かまわず煙を吐き出す連中、
徒党を組んで観光地を練り歩く団体。こんな老人連中はさっさと若者に席を譲れ。
- 成功は一時の喜びだけだが、失敗は人生の糧となる。
多くの失敗をした人間の方が他人を導くことが出来る。
成功しか知らない人間の話なんぞ聞くに値しない。
- 反省はしても良いが後悔はするだけ無駄である。
生きていれば何度も失敗をするが、そこでくどくどと後悔してはいけない。
後悔はするだけ時間の無駄である。
何が行けなかったかの解析=反省は十分必要であるが、
起きてしまった結果は結果なので、それについていくら考えても事実は変わらない。
反省を経験として次へ進むしかないのである。
- 真の上を目指さなくてはならない。下に向かっている者にとっては下こそが上である。
「向上」という言葉がある。上に向かうと言うことであり、人間的改善といえるのであろうが、
この時の目標の据え方をよく考えなくてはならない。周りの人と同じではだめなのだ。
人間は相対的な感覚で上下を決めやすい。下を向いている者にとっては下こそが
上に思えているのだ。そんな似非上を目標にしてはいけない。
視点をもっと高い所に据えれば、本当の上がどちらであるかが解る。
真の上を目指す必要がある。
ついでに言えば、「社会的名声を得る」ことが必ずしも「上」とは限らない。
国会議員を見ればよくわかる。権力による名声は偽物だ。
真に上を向いている人の回りには自然と人が寄り、名声となるのだ。
- 人の魂は「堕楽」に引かれやすい。
人はついつい楽な方楽な方へと向かいやすい。
「楽」が全て悪ではないが、「悪しき楽」が存在するのも確かである。
悪しき楽=堕楽である。
携帯電話は「楽」であるが、堕楽を生みやすい。
自分勝手な都合を押しつけやすい道具だからだ。
自分の楽のために誰かを犠牲にしてはいけない。
- 「世の中に混じらず」
これは良寛禅師の残した言葉。
これは「世の中から離れて生きる」という意味ではなく、
身は世間と共にあっても、世間の評判や判断からは離れて生きるという意味だと解釈している。
普通の人が一番恐れるのは、実は他人からの評価なのである。
他人からどう見られるかなど、本当は自分の価値とは無関係である。
自分の価値は他人から与えられる物ではなく、自分で作り上げるものだと
分かれば、何も怖い物はない。
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