「役に立つこと」(2001/09/03〜09/19号)
会社でコンピュータープログラムの勉強会を開いている。

先日のこと、あるプログラムに付いて説明しようとしたところ
こういう質問が出た。

        「これは何の役に立つのですか?」

その時は、それなりの理由を述べておいたが、
後でふと思った。

        「役に立たないものを作ることはいけないのだろうか?」

私の教えられること何ぞ、今の人(会社)にとっては、
確かに直接的に役に立つように思えることはないのかも知れない。
とすると、そんなこと(だけ)を知っている、「私」もまた
役に立たないと言っていいのかもしれない。

勉強会が不要であればいつ止めてもいいのだし、
教えていることは私にとっては有用なので
別にそれはそれでいいのだが、そういうものの考え方については、
少し整理しておかなくてはなるまい。

        ・・・

とかく最近の世相は、役に立つ「もの」だけを重宝する。
ここで言うところの「もの」は「物」でも「者」でも良い。
しかも「今すぐに役に立つ」である。
そこには「役に立てよう」という発想がない。

思い起こしてみれば、昔は「役に立てよう」が基本思想であった。
学校や社会がそうであったこと言うまでもなく、
どこにおいても、人の才能を見いだす人がいたし、
会社ではそういう人が新人を育て会社を継続させてきた。
また一般生活の上では、物の再利用=リサイクルが自然と出来ていて
ゴミも少なかった。

それが今はどうだ。
役に立たなければ棄てる。

家庭においては使えない・食べられない物はすぐ棄てる。
「使えない」と言うレベルでなくても「―寸不便」位ででもだ。
マスコミではそれを美徳と言わんばかりの宣伝。
当然ゴミは増える。
家電リサイクル法なんて焼け石に水だし、リサイクルショップも
考え方は悪くないが、個人でのリサイクル概念がない以上、
結局全体で見ればゴミは増えるのだから同じだ。

会社でも即戦力だけしか求めず、結果、会社の人を育てる力がなくなる。
中途採用が多い会社と言うのは、裏をかえせば会社に人を育てる力がないのであって、
長い目で見れば、それは非常に危険なことである。
即ち、入る人がいなくなれば自然に衰えるからである。

        ・・・

技術で見れば、今使っている技術に対する深い造詣は持とうとせず、
次から次へと新しいものを追う。
今もしくは今後近い範囲での技術の動向しか捕らえず、
しかもその捕らえ方も非常に狭い洞察に依ってるため(どの会社が提唱しているとか
どの分野が今盛りかなど)、世間の動向によってすぐにふらふらする。

教育もまたしかり。
即役に立つのは入試で点数を稼ぐための暗記だけとして
詰め込みが今の「はやり」である。
が、それらは入試後はほとんど役に立たない。
そのため、大学に入ってから目的を失って堕落する。

本当に必要な教育は、基本的ものの考え方やらその応用力であって、
本を読めば解るような暗記力は必要ない。

本来は仮に学校が馬鹿教育していても、親がそれを把握し、
家では正しい教育をしていくのが家庭の在り方である。

金銭的裕福感では子供は正しく育たない。
それは今の世の中を見ていればよく解る。
問題を起こす子供の親は、社会的には御立派で、金銭的には全く苦労のない
家庭がほとんどだ。
が、こういう親は金を得ること、社会的地位を得ることを
自分の目標とし、さらには子供の目標にしたて上げているので、
本質的なことを何も教えない。

そういった教育を受けている今の若者はある意味被害者であるが、
18近くにもなって、その事実に気が付けないと言うのは情けなくも思える。
食生活が駄目なので、きっと能味噌の発達が未熟で、
総合的な判断が出来ないのだろう。
だから後先考えず、思い付き1つだけで行動する。
また、なんとなくそれに気づいた結果、その行動が社会に対する暴力行為
と言うのもまた、考え違いも甚だしい。

        ・・・

結局、「本質」を捉えないまま、捉えようとしないまま行動するから
おかしくなるのである。本質さえ押さえていれば、押さえようとしていれば、
「何の役に立つのですか?」と言う問いは出てこないはずだ。
「何の役に立てようか」と考えるはずである。

良く考えても役に立たないと判断した時はどうするか。
そういう時は棄ててもいいし、今は役に立たないかも知れないが、
将来のために知っておく。そういう長い目で見ることも時には必要だろう。

新技術といえども、現行の技術から一足飛びに出来上がっているものは少ない。
ゆえに現行技術の習得は有効である。
1つ完全に知りつくせば、その応用は考え付くし、
結構それが今はやりの新技術だったりするのだ。

今役に立つことだけを追い求める生活、本当はそれはとても苦しいはずだ。
次から次へと涌いてくる要求に答え続けるのは並みの体力では出来ない。
いや、本質的にはそれは必要ないのだ。
そんなことに無駄な力を使うなら、今あるものをもっと有効に
使うことを考えた方が良い。
自分がそこに意味を見いだせるなら、世間的な評価では役に立たない
とされることでも、役に立ててみせる。
その力こそ重要なのではないか。

        ・・・

私はプログラムを組むことが好きだ。
買えば出来ることを、時間をかけて自分で出来るようにしているという姿は
理解されにくく、時に滑稽に見えるそうだ。

同じ事を実現するとして、すでにそういう物が買えば手に入るとしても
自分で作りたい。
買って使っている人にその本質を問うても、大凡理解はしていない。
使えるが、中身は知らない。知っているように話しているが、よくよく聞くと
雑誌に載っている程度のコピーで、細かいところの突っ込みにはとても耐ええない。
そんなもんだ。

ブラックボックスは嫌いなのだ。
中身を知りたい。
それが科学の初歩ではないか。

いくら無駄だと言われても、その姿勢は変えたくないし、変えない。
ブラックボックスを使うことに慣れると、
今どういうものを使っているか、とりあえず役に立っているから
その中身はどうでもいい、なんて事をしていたら
いつか、飛んでもない目に会う気がする。

また、作り上げた時の喜びは大きいが、それ以上にそこから発展的に解ることも多く、
1の開発から1しか得られないということはないのだ。

結局、

        「これは何の役に立つのですか?」
        「何かの役に立ててください!
         そこにこそ、あなたの価値があるから。」

である。
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