「鳶が鷹を生む話」(1996年03月06日〜03月07日号)
「とんびがたかをうむはなしである」。一応読み仮名を打っておくのである。

鳶が鷹を生むと言うのは、「平凡なものから非凡なものが生まれる」という
たとえである。
鳶と鷹は見た目は似ているが、実際のイメージ(行動や繁殖範囲などもだが)は
かなり違うためにこういうふうに言われるのであろう。
実際の所は、鳶も近くでみると結構迫力がある。
そんなに馬鹿にするようなものではないと思うが。
さて、実際に世の中を見てみると、「鳶が鷹を生む」という状況はあるのだろうか。

「鷹が鷹を生む」、非凡な親から非凡な子が生まれるということは多いようだ。
遺伝という先天性のものに、親からの教育という後天的な要素を加えると
非常に強力である。

「鳶が鳶を生む」とか「鷹が鳶を生む」という状況はそこら中にあるようである。
ただ、ときどき子供が「自分が才能がないのは親の性だ」ということがあるが、
これは30%位は正しくて70%位は正しくない。

人間の才能というものはどちらかと言うと後天的要素の方が大きく影響する。
また、親と同じ所に才能があるとは限らないのだ。まったく違い才能がある
かもしれない。いや、人には必ずなにかの才能があるといえる。
それが社会の役にたつとかどうかはどうでもいいことで(ただし有害な才能は
いかんが)、「普通より良く出来る」という事実を重要視したい。
(私にとってこの文章が書ける、ということは才能といえるのだろうか?)

親は、子供に自分の延長上での才能だけを求める、探すのではなく、
まったく違うところにあるかも知れない才能を探し出して引き出してやる
必要がある。それを延ばす手助けを親がするのであるが、
実際にそれを伸ばすのは自分自身である。

        ・・・

歴史的事実を見ると、意外なところに「鳶が鷹を生んでいる」状況がある。
しかもそれは意外にすごいことである。

たとえば今の「化学」。この産みの親は「錬金術」である。

昔は化学というものは、多くの場合宮廷での「金」の作成の為に発達したものである。
王が金を望み、宮廷お抱えの錬金術士たちはいろいろな実験をしてそれを実現しよう
としたのである。

もちろん、他の物質の合成から金を作り出すことは不可能である。
錬金術というものは夢にすぎないわけだが、その課程で産まれた物質、
わかった事実は現代社会にとって不可欠なものであり、
そういう意味では現代において「金」に匹敵する物質ともいえる。
錬金術という「鳶」が鷹を産んだのである。
(金以外のものだとして生成物を捨てなかったり、実験成果をちゃんと
残しておいたという点では、昔の錬金術士は立派な化学者だったわけだ。
現代の「ちょいとそこの兄さん、いい儲け話ありまっせ」という錬金術士
のような奴らはただのカスだけどね。)

同じようなことがもう1つある。それは天文学である。

昔は星の動きが自然の動きだけでなく、人間の動きや運命を決定するものとして
考えられていた。そのため、その動きを正確に予測することは、
自分の将来を知ることであり、きわめて重要視されていたのである。

宮廷以外でも星の動きを知ることは季節を知ることであり、
農作物の収穫や狩猟において重要だったが、宮廷での星の動きを知ることの
重要性には違った意味があったのだ。

このため、宮廷では錬金術士と同じように「占星術」士がいたわけだが、
彼らは星の動きを研究し、その動向を正確に把握していた。
この彼らの観測の結果を理論に当てはめたのがケプラーであり、
彼以降、占星術は天文学となっていくわけである。
(もっとも、ケプラーにとっても天体の動きを知ることは、神の作った天球の
動きを知ろうとしたことであり、そういう意味では占星術に近かったのかも
知れないが。)

ある意味で、現代社会は「鳶」の子孫によって成り立っているとも言える。
「鳶」といえでも馬鹿にできないのだ。そこから将来の「鷹」が
産まれることがあるのだから。

自分が「鳶」であっても悲観することはない。
ただ、「鷹」を産むための努力、そのための足跡だけは残す必要があろう。
<戻る>