「旅の感動を語る」(1995/04/20執筆)
さて、旅行に行けば、それはもういろいろなものを見ることになる。
自然、建物、食べ物、雰囲気、人の営み、歴史。
それはもう多種多用で、また、それらが調和していて、
それがどうれでと切り分けすることは出来ない。

旅行には非常につらかったものもある。
とても寒かった・暑かった、
列車の時刻に間に合わせるため何キロも走った、
吹雪の山の中を歩いた、体力不足で諦めたこと、
帰り着けないかと思ったこともあった。
まあ、後になれば全ていい思い出だが。

見ること。
何かを直に見ること。確かに百聞は一見にしかず。
実物は想像よりもすばらしいか、そうではないか。
言葉では伝えきれない重みがあったりする。
そこであった歴史。

見ること。
自然の見せるほんの瞬間の芸術。
目の離せない緊迫感。
海に沈む夕日が見せる最後の緑の輝き。
流れ星。天の川。
月の水面。
春の海の輝き、夏の海の暖かさ、冬の海の荒々しさ。

聞くこと。
現地の人の話を聞く。ガイドブックにはない非常に貴重な話を聞く機会も多かった。
特に現地にいるお年寄りの話には、大いに聞くべきものがある。
旅の恥はかき捨て。どんどん聞けばよい。

聞くこと。
自然の発する音を聞く。
小鳥のさえずり、川のささやき、海の叫び、風の歌。
自然はいつも私たちに語り掛けていてくれることを実感する。

感じること。
花の匂い、暑さ寒さ。
感性に身を任せ動く。何かに引き寄せられるような感じがすることもある。
ここに来るべき運命であった。
以前、来たことがあるような気がする。初めての場所なのに、何か懐かしい。

体験。
そこでしか出来ないこと。
海に向かって叫ぶこと。
魚と共に泳ぐこと。

食べること。
その地特有のものを食べる。
駅弁はその点なかなか手ごろだ。
車窓から見える風景とあわせれば、味も引き立つ。

ガイドブックは、その編集者の主観によって書かれているし、
多くの場合、お土産など経済活動や見目のいいものを中心に書いてある。
そして、どこでもそこが行くに十分な場所であるということを強調している。
ここでは細かいことには触れていないことが実に多い。
実際に現場に行ってみて、ガイドで仕入れた情報とは随分と違った感じの場合も多い。
だから、必ず現地の観光案内で再度チェックする。
そしてYHでの情報や、YH新聞などをもとに、変更を加える。

最終的な旅行の計画というものは、実は行った現地で決まるものなのだ。
いわば、即興のものである。

        ・・・

見聞きし、体験する中で、何度か感動することがあった。
いや、知らない所に行けば全てが感動ではあるが、
中でも特にすばらしかったことがある。

言い忘れていたが、私が1人旅をするもう1つの理由、
それは「行き着くべき場所を探すため」である。
私の本来すべきことは何なのか、何のためになにをするべきなのか。
それを探す。
私は、今の職業に、必ずしも向いているとは思っていない。
職業というより、都会での生活、下らない人のしがらみの中での生活というものに
うんざりしているといってもいい。
私は何のために今を生きているのか、何をするべきなのか。
それを探そうとしている。

いくつかの感動が私のそういった「追求」「探索」の答えを、
その全てではなく、断片で教えてくれる。

私の感動したもののほとんどは自然か古い建造物だ。
最近の人工物で感動したことはほとんどない。
大自然の偉大さの前では人間というものは本当に非力だ。
もっとも、何億年とかけられて作られたもに、高々数百年そこらの
ものが太刀打ち出来るはずもない。

しかし、それ以前の問題もある。
最近の建造物は確かにアートとしてはいいものもあるが、
その作者がどう思っていようと、そこに思い入れを感じないことが多いのだ。
ただ作ってみただけ、そのようにしか感じない。
きれいなだけ、有名人が作っただけ、そんなものでは感動出来ない。

過去の有名人の偉業にすがるだけ。
最近の記念館ブームはその現れだ。
確かのその偉業を称えることはいいことだ。
しかし、それを今にどう伝えていくか、歴史ではなく、その偉業の精神そのものを。
それを表現出来ていない。

        ・・・

富山県の立山にある称名滝。日本1の滝である。
夏の風景もいいらしいが、ここはぜひ雪解けすぐに時期に行くといい。
除雪が済んで間もないころ、ちょうどゴールデンウイークになるはずだ。

このころの称名滝は非常に水量が多い。
このため、本来の滝の他に、いろんなところに滝が出来ている。
地図にない無数の滝だ。

この大きさ、この水量、轟音には圧倒される。
寒い。しかも滝の飛沫がかかるので冷たい。
しかし、しばらくそこにたたずまずにはいられない。
圧倒的な威圧、そういうものがここにはある。
人間の小ささを認識するにはちょうどいい。
人間は思い上がってはいけない。


高知の山中にある福寿草の里。
春になると黄色い小さな花を咲かせる福寿草。

以前はどこの山肌でも見られたそうだが、
今は乱獲のため、極限られたところでしか見られない。
雪割草もそのような運命にあるらしい。非常に残念だ。

花はそこにあるから美しいのであって、
人が町中に持って帰っても美しいものではない。
それに、そのような場所では決して美しく咲くことはない。
花は咲くべき場所を知っている。
人の浅はかな欲望が自然を破壊する。

雪の中で咲く黄色い花。
可憐である。
自然が惜しげもなく見せてくれる、生命力のすばらしさ。
麓から小一時間書けて歩いて登った苦労のかいがある。
ただただ美しい。

        ・・・

自然の森MGユースホステル。
そこで食べた夕食、その後のデザート。
これほどおいしいものはなかった。
感動を受け継ぐものが作り出すもの。
それが新たな感動の和を広げる。
ここでは自分の行うべきことが少し見えたような気がする。
私が人間に感動したのはこの時が始めてかも知れない。

海にいる自然のタコが実は半透明であったことを知った時。
イカも半透明であることの事実。
その捕食する様。
自然の見せる真実の姿は、実に驚きがいっぱいだ。
図鑑ではわからない、テレビでもわからない。
まさに百聞は一見にしかず。

ハワイはダイヤモンドヘッドの山頂から見た360度の景色。
蒼い海。
ワイキキビーチで泳いだり、免税店で買い物をするだけがハワイではない。
ここに登るだけでもハワイに来たかいはある。
(登る場合は、服装や服はTシャツ1枚、スニーカーで十分だが、
かならず懐中電灯を持っていくこと。途中で真っ暗なトンネルを通るから。)

夏の日本海、天には大きな満月。
水面に移る光の帯は幻想の世界である。
まるで現実ではないような美しい風景。
たった一度見ただけなのに、目を閉じればいまだにその風景が思い起こせる。
いつも思うのは、このイメージを絵にしたいこと。
しかし、今の私の能力ではそれはまかりならない。
これほど悔しいことはない。

これらはほんの一例だ。他にも多くの感動があった。
特に1人旅をするようになって感動が増えたように思う。
やはり、他力本願ではなく、自分の力でまわった旅行ほど印象に残る。

人生、感動しなくなったらおしまいだ。
しかし、なかなか日頃住む町中では感動に出会いにくい。
だからこそ、知らない町へ出かけてそれを探す。
求める「答え」の断片を探す。

旅とは、感動の宝箱なのである。
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