「本物の食べ物」(1997/05/23〜05/28号)
最近は食べ物を粗末にすることが多いといわれる。
確かに、外食をすれば、残された食べ物をたくさん見ることとなる。
中にはまったく口をつけずに捨てられるものもあろう。
実にもったいない。
私なんぞはお弁当の蓋についたご飯粒でさえも残せないたちであるから、
そういうものを見ると、思わず「ください」と言ってしまうそうになる。
こんな光景を、食料不足で困っている国の人が見たら
怒り出すことであろう。

食べ物を粗末にする原因は、1つにその生産現場が目に見えないことにある。
自分で稼いだお金の使い道はしっかりと計算するように、
自分で作った食料なら、決して無駄にはしないはずだ。
食品ではなく、原材料としての食料だ。
たとえば、家庭菜園で作った野菜を簡単に捨てるだろうか。
若干まずくても食べるのではないのだろうか。

「自分で作ったものでないから捨てやすい」というものの考え方自体が
きわめて浅はかでいけないことである。そもそもそういう考えを持たないように
学校や家庭で教育すべきではある。
が、都市近郊での農地が少なくなり、原材料の多くを輸入に頼っている現在では、
作っている現場を見ることは少なくなり、やはり食料に対する愛着が
薄らいでいるのであろう。
(「なすが蔓になっている」と言った学生を見たときには、日本の教育は
いったい何を教えているのだ?と思ったものだ。)

しかし、この「食べ物を捨てる」という現象は、
一概に食べる側だけを責めることはできない。
捨てさせる原因は、それを作った側にもある。
それは、「まずいから食べるに値しない」ということだ。

最近、私は食べ物において「本物」を集めている。
醤油、味噌などはすでに良いものを見つけた。

        ・・・

ここで言う本物とは、昔ながらの製法で作られたものであり、
化学調味料、着色料、保存料などは(ほとんど)使っていないものである。
こういうものは、煮ても焼いてもおいしい。
実は、人工調味料などで味付けされたものは、そのままではわからないが、
煮たり焼いたりして人工分が破壊されると、途端にまずくなることがある。
本物にはそういうことががない。
良い醤油の見分け方は、お餅につけて焼いたときにすぐわかる。

こういう本物は勿論おいしい。
そして、おいしいものは、その一滴、一粒までも棄てられずにおれなくなるのである。
さらに残った醤油を思わずなめてしまうほどである。
人は本来、おいしいものは残さないものなのだ。
結局、棄てるのは本人の心がけだけではなく、そのものがまずい故でもあるのだ。

現在の日本はまがいものだらけの世の中と言っていい。
それは食料に限らず、いろいろなものや、人間もそうである。
(「自分は仕事をしている」などと言って威張っている連中は、みな見せかけだけの
やつらだ。)

食料を見てみれば、見た目は本物と変わらないが、味はだめ。
それをごまかすためにさらにいろいろ加えるから、
舌がしびれるほどの化学調味料となってくる。
味にあきがくるから味を変更する必要が出てくる。
そこに新たな見た目の誤魔化しの技術革新を必要とし、コストがかかる。
結局、偽物づくりは行くつく先がなく、永久に抜けられない
ぬかるみのようなものなのだ。

        ・・・

安易なコストダウンは味の低下をもたらし、
それは長い目で見た時に客に飽きさせることとなり、
かえって「常連」客を離してしまう。

しかし、本物は飽きない。
本物はある程度人件費などはかかっても、それ以上は必要ない。
本物には誇大な宣伝も不要なのである。

ただ、残念なことに、最近は本物に出会える機会が極端に少ないので、
本物を知らずに騙されている人たちが多いのだ。
もちろん騙している連中も多いではあるが。
(ダイエーなんぞ極悪非道だし、百貨店のものでもたまに偽物がある。)
そのために本物に目が行かず、本物が窮地にたたされているのだ。

本物を探そう。それは今の世の中容易ではないが、
探せば出てくるものである。
幸い、最近はそういう本物ブームというか、
ようやく騙されていた人が真実に目覚め始めたので、
見つけやすくはなっている。
そしてそういう本物を作る人たちを助けるのである。
みんなで買えば本物もよみがえる。

まずいものは体にも悪い。
誤魔化しで食べていることは、舌や脳は騙せても、体そのものは騙せない。
やがてつけは来る。
食をけちったものは、将来必ずその分を払わされる羽目になる。
医療費というくだらないものに。

偽物だけの世の中に未来などあるものか。
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