「ネット心中」(2003/06/02号)
最近、見知らぬ人間同士がネットで出会って一緒に命を絶つという事件が
何度か報道されている。ネット心中というらしい。

「将来を悲観して」ということのようだが、50も60にもなって借金抱えて
会社が倒産、等という状況ならいざ知らず(だから死んで良いと言うことでは
ないが)、まだ社会にも出てないような、いわば「何も知らない若造」が
ホイホイと死んでいくのを見ると、やるせないを通り越して情けない。

確かに今の世の中は先が見えにくいし、明るい展望もない。
自分の保身だけを計るような政治家や、自国の利益のためだけに戦争を起こすような
国家を見ていれば将来に悲観もしたくなる気も全く解らんではないが、
でも死にに急ぐことを肯定する理由にもなり得ない。

以前私がいたとあるネットで「親の期待に添えないから」とかいろいろ書いて
「死にたい」と書いてくる奴が居た(その他いろいろと、何度も書いて来やがった)。
この時も言い分があまりに情けないのでいろいろと書いたのだが、
一番わけがわからんのがこの言葉だった。
私には全く理解出来ないのだが、なぜ親の期待に添おうと
するのであろうか。親が子供に期待するのは勝手だが、子供がそれに添う義務はない。
義務化する親がいるなら捨てればよい。

「世の中の役に立てない」というのもおかしな理由だ。
なぜ世の中の役に立つ必要があるのか。
役に立たないくらい別にかまわないではないか。人畜無害、大いに結構。
世の中には有害なくせにのほほんと生きてやがるクズどももたくさんいるのだ。
だいたい、誰が役に立つとか立たないとか決めるのだ。
そもそも、生きていると言うことはそれだけで誰かの役に立っていると
知るべきである。
飲み食いするだけでそれを作っている人の生活を支えているのだ。

どうやら、世の中に対して過剰な価値を自分に求める余り、
それに到達出来ない焦りから安易な道を選んでいるのではないかと思われる。
それが「情けない」と言う理由である。
安易な道を選ぶのも「情けない」が、他人や社会が勝手に決めた価値に
自分を当てはめようとする、その判断基準も「情けない」のだ。
オタクラが口を酸っぱくして言っている「自分で価値を決める」という
さえできれば、焦る必要も怖いものはないのだ。

いざとなれば、捨て去るべきは自分ではなく、世の名を捨てればよい。
世が言う自分の名を捨ててしまえば良いのだ。
他人の決めた価値にあてはまる必要はない。
良寛さん曰く「世の中に混じらず」。
実によい言葉である。

たまにどうしようもない虚脱感や失望感に襲われることは、そりゃ生きていれば
幾度と無くある。失敗だって何度だってある。
でも、死ぬ気なら、全てを捨てて生きる選択肢だってあるのだ。
安易に自己の生きている意味を捨ててはいけない。
安易に死ぬ奴は一番の卑怯者だし、死んでも絶対に成仏出来ないので
本来死ぬべき歳までさまよい苦しみ続けることになると知るべきである。

最近の若い者には心のよりどころとなるものがないので、いともあっさりと
希望を捨ててしまうのであろう。
こういう時のよりどころとして、本来宗教や神話があるのだ。
今もう一度それらを価値を見直すべきでは無かろうか。

神話を知るならSTARWARSは実にわかりやすいし(STARWARSは昔の神話を現代風に
アレンジした作品であるともいえるし、監督自身そう語っている)、
日本なら千と千尋の神隠しもそうだ。
だからこそ両方ともヒットしたとも言える。
両方ともあまり表面的ではないが、神話的示唆を感じながら見れば、
違った解釈と感動があるだろう。

本なら、悩んだ時に読むべきものとして、私はひろさちやさんの「般若心経88講」を勧めている。
新潮社から文庫で出ているはずだが、般若心経の、いや仏教の真意を簡潔に教えてくれる。
これを読んでからでも遅くはない。
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