「PL法に思う」(1996/08/19号)
最近はPL法なんていうものが出来て、製造物の欠陥や間違った使用による
問題が発生したときに製造元の責任を問えるようになった。

日本のPL法はまだいいが、アメリカのそれは非常にきびしくて、
明らかにユーザーの使い方ミスであっても、それが説明書に書いていない限り、
製造者の責任になる。

このためアメリカ製品の説明書はだらだらと非常に長いのだが、
それ以上の問題は、そのためアメリカの製造業が危機にひんしているというのである。
何を作っても問題が起こされるからだ。
アメリカがソフトに熱をあげているのはそのためではないか、と思うのだが、
製造業の弱い国はやがて滅びる、というのが私の考えなので、
アメリカもそう長くはないかも知れない。

さて、PL法に限らず、問題が起こったときに最近は何でもかんでも他人の
責任にしようとする傾向がある。
責任の所在を明らかにすると言うのはいいことなのだが、
どうもそれが「責任の擦り付け会い」になっているようだ。

そういう裁判を見ていると、「本当に運が悪いだけではないか」
「裁判をおこしている方にも大いに問題があるのではないか」と思えることも多い。
裁判の詳細に関わらず、注意を喚起するという意味では意味があるのだろうが。

裁判沙汰まで行かないことでも、自分が非難されたとき、
単に非難した相手を非難し返すのではなく、
まず自分を見つめなおし、非難される点が妥当かどうかを考え、
もし妥当であり、非難されてもしかたないなら、素直に修正すべきである。
それは、相手が誰であろうとも、である。

昔のように「何がなんでも我慢する」と言うのも良いとは言えないけど、
「何でも相手のせい」というのも、それが筋が通っているかどうかは別として、
自分の責任を考えない人間が増えるようで、
「自由」と「我が間々」と履き違えている人間が増えている現代、
非常に危ない傾向だと思うのである。

本当に、人の責任ばかり追求する人間は、やがて誰からも相手にされなくなる、
と思う。

        ・・・あぁ、話に一貫性のないネタだこと・・・
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