「オタクラの心」(1995/04/12執筆)
        ・・・「オタクラ心得の条」・・・

人におもねらず、
人に惑わされず、
虚栄を捨て、
自らの真実を持つこと。

人の評価を気にせず、
人の判断を当てにせず、
自らの判断で考え行動する。

1つのものへのこだわりを捨て、
広く視野を持つこと。

すれば答えは自ずから見えてくる。
必ず答えはそばにある。
答えを見えなくしているのは、自らの心の曇、こだわり。

答え、即ち真実を知るものこそ生きるべき人間。
過去の継承ではなく、未来を創り出せる人間。

創造出来る未来の「人」として生きるもよし、
継承しか出来ない過去の「遺物」として生きるもよし。

しかし、オタクラである以上、
「人」であるを持ってよしとするべし。

        ・・・「哀れなるものへの導き」・・・

何かちょっと変わったことをすると、「おたくみたいなことをして」等と
言うやからがいるらしい。
実に嘆かわしい。

「おたく」=「変」=「悪」というイメージで凝り固まっている、
そのイメージにこだわっているのだ。
それと同時に、そう判断する「おたくでない」自分に惚れ込んでいるのだ。
実におぞましい。

逆だよ。
嘆かわしく、おぞましい、自分こそが「変」だ。

そして、こういう人間が「いじめ」を作りだすんだよ。
口では「いじめを解決しよう!」などと言いながら。
真実の自分に気付けない者が、そうしてその根源を見極められよう。
見極められない人間にどうして「結果」を解決出来よう。
無理だよ。

気付きな。

        ・・・

自らの理解出来ないものを馬鹿にする心ほど愚かなものはない。
知らないものを知ろうとする努力もせず、その真実を知ろうとせず、
表面だけを見、こだわりを持った曇ガラスで相手を判断する。
これほど愚かなることはない。

その全てはこだわりのなせる技。

愚かな者ほど自分の愚かさにか気付けない。
それに気づく術もないほど愚かなのだ。

いや、愚かと言うよりも哀れだ。
そのように創られてしまった、そのものは哀れだ。
そうなるまで、誰からも真実を指摘されなかったものは哀れだ。

しかし、遅くはない。
人は生きている以上、それは肉体的ではなく、精神的に
生きている部分があるならば、哀れから解脱することは出来る。

こだわり、今までの常識的固定観念を捨てる。
真に広い視野を持って物事を他人の作った判断基準でなく、
自分自身の基準で判断する。
それだけでいい。

今まで気付かなかったことに気付くはず。
自分が馬鹿にしてきたものが実は真実で、
それを馬鹿にしてきたかこの自分こそ愚かであったということに気付くはず。

今の世は真実を見極める力に乏しい。
その中で普通に生きている人間には自ら考える力が少ない。
自分は考えているつもりでも、それは過去に作られただれかの
判断の写しに過ぎない場合が多い。

自分で判断し、考えることは想像以上に難しい。
しかし、それが出来るものこそ人間である。

今、こだわりを捨て、自らで考え「人」となれ。
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