「最近思うこと(コンピューター編)」(1993/7/21)
最近思うことがある。
それはコンピューターに関することだ。

この世界は今急激に変わろうとしている。

コンピューターが個人のおもちゃから仕事に使える実用的なものになり、
多くの企業が参入した。
金儲けになる多くのしかし似たりよったりのハードが市場を占める。
ソフトもでかくなる一方で、GUIで使いやすくなると言いつつ実は複雑怪奇で
訳がわからない。

ユーザーは操作された情報によって扇動され、
より早いマシンを買い、分かりやすいと思ってこういうでかいソフトを買う。
そしてわからないと言って本を買う。

実に見事な金回りの世界。
仕掛人の思うつぼ。
踊らされている。

私は昔からコンピューターを見てきた。
かつてはそこには自由があり、多くの者がそこで自由な発想によって
小粒でもおもしろいものを生みだした。
ソフト的にもハード的にも。
そこには選択の余地があり、また自分で選択枝を加えることもできた。

だが今は違う。
「標準化」「統一」こういう言葉によって固められ、
その枠の中でしか動けない。
ハードもつまらない画一的なもので、どれを選ぶという選択枝は
広いようで実はすべて同じ方向を向いている。

金儲け、仕事という面ではこの方向はこれでいいのだろうし、
このまま進むだろう。その先には今では夢のようなことが実現され、
見事なコンピューターを中心とした情報システムができるのだろう。

それは一見すばらしい世界かも知れない。
いや、使うだけならこれ以上ないいい世界だろう。

でもそれでいいのだろうか。

少なくとも私はそういう方向にはついて行きたくない気がする。
お前の頭ではついて行けないだけだろうといわれればそれかも知れないが。

ちまちまとやっているように見えても、自分の速度で、
自分で理解して自分のものを想像していく。
はたからみれば「なんだそんなもの。これでやればとっくの昔に、
簡単に出来る」と言われても、隅から隅まですべてを知っている自分の
つくったものでやったほうがいい。

すべてお手伝いさんが身の回りを世話し、隅から隅まで見ることの出来ない
大きな屋敷より、小さくてもすべてに自分の気配りが出来る家。
どちらがいいか。
私は後者を選ぶわけである。

技術の進歩というものは本来歓迎すべきものだ。
しかし、技術だけ進歩してもそれを使う者の知識や知恵がついて行かなければ
それはむなしい。

ついて行くための努力をしない者、もしくはついて行かない者がこのようなことを
言うのはただの負け犬の遠吠えに聞こえるかも知れない。
落後者のあがきかも知れない。

しかし、今の世の中の進みは大量の落後者を出し、それを省みることなく進んで
行っているような気がする。
そしてついて行けない者がその最新に文明にふれて、
使っているだけのうちならいいが、なにかがあったときには対処できなくて
パニックに陥り潰れてしまう。
ばかなおばはんドライバーもいわばこのような落とし子なのかも知れない。

話がそれたが、ことコンピューターの世界の進み方は使う人のことを
考える以上に進んでいる。
それはそれでいいとして、私はそれとは違った進み方をしていこうと思う。

こういう私にも、デザインがださいと馬鹿にしつつもWindowsには興味はある。
AT互換機を買って使ってみようかなという気もある。
MACにも同じような気がある。

しかしそれらはあくまで使うためだけのマシンなのだ。
もはや個人が手を出していじるものではない。

いじれるものをさわりたい。
常に作り出す喜びを持っていたい。
そのためにあえてX68というマイナーマシンを使って行く。

動かすことの喜び、それは常に新しいものへの置き換えを必要とするが
作り出す喜びは同じものを使ってでもいつも新鮮なものだ。

それを大切にしていきたい。
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